こんにちは、ピッコです。
「ニセモノ皇女の居場所はない」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
127話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 脱出
「……これは一体……」
走っていたフィロメルが、不意に立ち止まる。
彼女の顔には、驚きと戸惑いが入り混じった表情が浮かんでいた。
「ジェレミアが言うには、真っ直ぐ走れば出口に出られるって……。」
しかし、到底真っ直ぐ進める状況ではなかった。
通路を曲がった途端、広い回廊の中には迷路が広がっていたのだ。
彼女は迷路の壁に触れてみた。
「苔が生えてる……。」
長い間、管理されていなかった証拠だった。
魔塔の他の場所の壁とは明らかに違う。
つまり、この迷路は突然出現した構造物ということだ。
『いや、もともと存在していたのではなく、この場所にあったわけじゃない……。』
魔塔での生活初日、レクシオンはフィロメルに塔を案内しながら、こう言っていた。
――妙なボタンを見つけても、絶対に押しちゃダメですよ。何が飛び出すかわかりませんから。
かつてそう説明を受けたことがある。
魔塔には外部からの侵入を防ぐため、数々の仕掛けが張り巡らされているのだという。
――壁から刃が飛び出したり、床が抜けたり。
戦乱が日常だった時代に築かれた防衛装置の名残。
今、目の前に広がる迷路のような構造もまた、その一つなのだろう。
「……レクシオンが、あっさり私を行かせるはずないよね……」
フィロメルは唇を噛みしめ、宮殿内部へと続く入口を見据えた。
出口は確かに存在するはずだ。
彼女にとってはそこが出口でも、外部から侵入しようとする者たちにとっては入口。
つまり、これは出口でもあり入口でもある。
『私にとっての出口は、彼らにとっての入口。』
常識的に考えれば、侵入者を閉じ込めるために作られた迷宮に入口を設けるわけがない。
『しかも、中に危険な罠が仕掛けられている心配もない。』
もしフィロメルを足止めする作戦なら、もっと簡単で単純な方法はいくらでもある。
『それでも、わざわざ迷宮を選んだ理由は、私を傷つけたくなかったから……。』
彼女は入口を見つめた。
自分の手の中の水晶が、この迷宮の抜け道を示してくれることを願いながら。
頼れる道具なんてなかった。
「……正攻法で行くしかないわね。」
フィロメルは入口から一歩踏み込み、右手を壁に当てた。
そして、その手を離さず壁伝いに進み始める。
――右手法。迷宮を脱出するための最も単純な方法。
壁は必ずどこかで出口へと繋がっている。
だから右手を壁に沿わせて歩き続ければ、いつかは必ず出口に辿り着ける。
(……問題は、それが“いつ”なのかってことだけど。)
右手法なら袋小路に迷い込むことはない。
だが、迷宮の全ての区画を踏破することになるため、膨大な時間がかかるのだ。
(ジェレミアが命を懸けて作ってくれた時間……無駄にはできない。)
フィロメルは唇を噛みしめ、さらに奥へと足を踏み入れた。
自然と歩みが早まる。
フィロメルはほとんど駆け出すように歩いた。
カビ臭さすら感じないほど慣れきった暗闇の中を進み、ついに出口へとたどり着いた。
「着いた!」
迷路を抜け出すと、北東側の4番門が目に入った。
時間をあまりにも浪費してしまった。
フィロメルは門へ向かって走った。
ゴゴゴゴゴゴ――。
その時、先ほどのように轟音と共に地面が揺れた。
迷路が揺れ動き、やがて徐々に地下へと沈み込み始めたのだ。
ほどなくして迷路は完全に姿を消し、ただの平坦な床だけが残った。
「……床の下だったのね。」
迷宮は、床板の下からせり上がる仕組みになっていたらしい。
レクシオンと初めて対峙したときに感じた大地の揺れ――それも、この迷宮が動き出したせいだったのだ。
フィロメルは思わず息を呑む。
次の瞬間、彼女の耳に駆け寄る足音が響いてきた。
――レクシオン。
恐ろしいほどの速さで、こちらに向かって来ている。
「フィル!どこだ!」
怒号が響き渡る。
幸い、ベールの効果で彼の目には姿が映っていない。
フィロメルは岩陰に身を潜め、必死に息を殺した。
(……レクシオンがここを通り過ぎるまで、じっとしていなきゃ……!)
フィロメルの姿が見えなければ、疑念を抱かれるに違いない。
「もうすでに門の外へ出たのではないか?」と。
そして当然、外を確認したくなるはずだ。
『レクシオンは〈無知のヴェール〉の存在を知っている。だが、焦れば焦るほど視野が狭まるものだ。』
今は、彼が誤った判断を下すよう仕向けるのが最善だ。
「……遅かったか?」
レクシオンは彼女の予想どおり誤解を口にし、門へと向かった。
しかし――
「まだ出てはいないな。」
門を探っていたレクシオンが動きを止めた。
その手には、ごく小さな紙片が握られていた。
フィロメルはすぐに、その仕掛けの正体に気づいた。
(――あれ、扉の枠に仕込まれてたのね!)
扉を誰かが開けたかどうかを確認するための装置。
一度でも開けば、天井の仕掛けが作動し、目印のように床へ落ちる。
――レクシオンの用意周到さに、背筋が寒くなる。
「フィル。まだここにいるのはわかっています。頼むから……姿を見せてください。」
懇願のような声。
だが、彼の言葉に従うつもりは毛頭なかった。
(残念だけど……別の出口を探すしかないわね。)
レクシオンの動きを注意深く観察しながら、フィロメルはそっと目線をずらした。
彼の額から血が流れていた。
髪の毛が赤く染まっており、遠目には誰なのか判別できなかった。
『一体、兄弟喧嘩をどれほど激しくしたというの……!』
急いで戻ってきたジェレミアの様子にフィロメルは胸を痛めた。
勝者の姿がこの程度なら、敗者はいったいどうなっているのか。
「一緒に戻りましょう。あなたが出て行かなくても、悪神を防ぐ方法はきっと……くっ。」
レクシオンがふらつき、よろめいた。
フィロメルは、彼が隠していた道と曲がり角を確認した。
そして唇を固く結ぶと、〈無知のヴェール〉を解いた。
視線が交わる。
「フィル……」
「傷を見せてください。」
フィロメルは鞄をひっくり返しながら、治療用の絆創膏を探した。
星明かり商店で手に入れたもので、どんな傷でも瞬時に治してくれる便利アイテムだ。
――そのとき、カサリと何かが床に落ちた。
「あっ……」
取り出そうとした絆創膏の陰から転がり出てきたのは、小さな紙袋。
中身は、手作りクッキー。
旅の途中で食べようと忍ばせていたものだった。
レクシオンの視線が一瞬それに向けられ、フィロメルは慌てて絆創膏を取り出す。
「どうしたらこんなに傷だらけになるの……?」
彼の額に絆創膏を貼りながら、思わず口をついて出る。
「ジェレミアが……僕の頭を狙って剣を振り下ろしてきたんだ。」
レクシオンの低い告白に、空気が張り詰めた。
「私は片脚を折る程度で済ませてあげたのに……」
兄弟の戦いは本当に残酷だった。
「それでもレクシオンが勝ったんですね。」
「僕を倒すには2年は早い。」
物置から淡い光が溢れ出した。
レクシオンは弟を励ました。
「目を見てみると、私の説得で心を変えたわけではないのですね。」
「はい。私は行きます。」
「それなら、なぜ私の前に姿を現して治療してくれたのですか?そうしない方が合理的だったはずなのに。」
「さあ……理由は分かりません。」
なぜだか――このまま彼を置いて行ったら、きっと後悔する。
そんな胸騒ぎだけが残った。
しかも、別の扉から出ようとすれば、レクシオンの青銅兵たちの前を通らなければならない。
ここで彼を説得するのが最善だ。
「私は結局、あなたをだましてきた“悪い奴”なんでしょう?」
「……あれは、正直ショックでしたよ。でもまあ……よく考えてみれば、最初から私だって純粋な気持ちであなたたちと関わっていたわけじゃないですしね。」
――真実を知るためには、彼らの助けが必要だった。だからこそ、一定の距離を保つつもりだったのに。
(気づけば、楽しくて……忘れてたんだよね、そんなこと。)
そう思いながら、フィロメルは静かに髪飾りを外した。
レクシオンの額には、傷ひとつなく整った皺が寄っていた。
「それに……私は、レクシオンが私をただ利用していたなんて思っていません。」
「……どうして?」
「だって、今こうして私を止めようとしてくれているじゃないですか。私の安全を心配して。」
「……」
「もし本当に“悪”の研究のためだけなら、私を行かせる方がずっと得策なはずです。
私を囮にして、イエリスを引きずり出すことだってできたでしょう?」
「……いくら僕でも、そこまで卑劣な真似はしませんよ。」
レクシオンは大きく息を吐くと、額を押さえ、深く考え込むように呟いた。
「……なんというか、今さらだけど……自分の生き方に、少し疑問を感じてきましたよ。……情けないですね。穏やかに暮らすのが目的だったのに、気づけば喧嘩ばかりで、弟とまで言い争って……。」
彼はその場に、力が抜けたように座り込んだ。
「私は――ここで、何も見ていません。」
「え?」
「私がここに来たとき、フィルはすでに――去ったあとだった、ということにしておきましょう。」
「レクシオン……!」
「少し待ってください。これを、持って行ってください。」
そう言って、彼は胸元から小さなペンダントを取り出し、フィロメルに差し出した。
それはジェレミアの変身の首飾りだった。
「外出を禁じられたジェレミアに預けられていた品です。きっと、これからあなたの助けになるでしょう。……彼も、あなたが持っていることを望むはずです。」
フィロメルは首飾りをぎゅっと握りしめ、悲しそうに問いかけた。
「でも……どうして、急に気が変わったんですか?」
「僕は、やりたいことを好きなようにやって生きているのに……君にだけそれを我慢しろなんて、ずるいじゃないですか。」
「……“悪”の研究を、ですか?」
「ええ、そうです。」
「そこまでして、その研究を続けたい理由があるんですか?」
「うーん……特に明確な理由はないですね。ただ、やりたいからやる――それだけです。昔から、気になったことがあると夜も眠れない性格でして。それに、“やるな”って言われると、余計にやりたくなるのが人間の性でしょう?」
カエルみたいににやりと笑うレクシオンの顔を見て、フィロメルもまた微笑んだ。
やっぱり、彼もルグィーンの息子なのだ。
あのどうしようもなく不器用なところまで、そっくりだ。
「残りの話は……あとでゆっくりしましょう!」
フィロメルはそう言って、力強く扉を押し開け、外へと踏み出した。
(そうだ、“あとで”を覚えておこう。)
ルグィーンとレクシオン――二人の本当の姿を知った今、彼女の中で何かがはっきりした。
彼らとは、あまりにも早く打ち解けすぎたのだ。
本当の家族になるための“段階”を、きちんと踏んでこなかった。
(ルグィーンもレクシオンも、私を気遣ってくれた。だから私も、いいところばかり見せようとしてたんだ。)
――寂しかったんだ。
家族が、ほしかった。
たとえそれが、偽りの王族の中での“絆”だったとしても。
……彼女は、彼らを本当の“家族”として感じることができなかったのだ。
ある意味、今のこの状況は必然だったのかもしれない。
十数年という長い年月を共に過ごしてきた皇帝ですら、互いの胸の内を完全に読み切れたわけではないのだから。
――出会ってまだ数ヶ月の私たちが、お互いを完全に理解しているはずがない。
だが、それはこれまで築き上げてきた絆や信頼が、嘘や幻想だったという意味でもない。
そのとき、フィロメルの視界に、結界の周囲を警戒しながら歩く魔法使いたちの姿が映った。
「そっちは、もう異常はなかったか?」
「ああ。」
「じゃあ、反対側も見回ってくれ。」
――結界のベールに遮られて、彼女の声は彼らには届かない。
森の入り口を抜けた。
レクシオンに教えられたとおり、フィロメルは木々の間の細い道を進んでいく。
アンヘリウムへと続く獣道だ。
「きゃっ!」
次の瞬間――足を踏み出した途端、体がふわりと浮いた。
地面が、消えた。
ぬるりとした感触。
次に意識したときには、足元がうねっていた。
そこは“地面”なんかじゃなかった。
淡い光をまとって姿を現したのは――巨大な蛇。
「バ、バジリスク!?」
ルグィーンが“最上級モンスター”と呼んでいた存在――そのバジリスクだった。
蛇はフィロメルの体をするすると巻き取り、舌をひらめかせながら彼女の存在を確かめるように蠢いた。
「……レクシオン、こんな話、一言もしてなかったのに!」
もしレクシオンが、バジリスクがこの場所にいることを知っていたなら――彼がフィロメルをここへ向かわせるはずがない。
つまり……。
「……ルグィーン……」
バジリスクの主――ルグィーンが、独自に下した“指示”ということか。
フィロメルは震える腕をどうにか動かそうとした。
腰には、モンスターと対抗するためのアイテムがいくつか装備されている。
だが、蛇のような束縛は息ができなくなるほどではないものの、身体を自由に動かせるほど緩くもなく、じわじわと締め付けていた。
自動防護魔法も……発動しない。
まるで、この“蛇”がそれすらも封じ込めているかのように――。
バジリスクは――どうやら、彼女を襲うつもりはなかった。
「うっ……!」
それでも、その巨大な体はゆっくりと動き、フィロメルを巻き取ったまま森の奥へと引きずっていく。
このままでは、完全に連れて行かれてしまう。
(いや……絶対に嫌!)
ジェレミアが命を懸けてくれたチャンスなのに!
レクシオンだって、あの時ようやく心を開いてくれたのに!
ここで引き返すなんて、絶対にできない!
けれど、力では到底敵わない。体が鉛のように重い。
フィロメルは――その瞬間、心の底から願った。
今、一番会いたい人の名を。
「ナサール!」
ここにいないことくらい、分かってる。
それでも、どうしようもなく――呼ばずにはいられなかった。
なぜだか――その名前を、呼びたくなった。
ドォンッ!!
轟音とともに、蛇の巨体が大きく弾き飛ばされた。
その衝撃で拘束が解け、フィロメルの体は空中へと放り出される。
……けれど、地面に叩きつけられる痛みは来なかった。
代わりに、彼女を包んだのは――温かな腕の中。
フィロメルはぎゅっと閉じていた目をゆっくりと開けた。
そこにいたのは――ナサールだった。
「はい、ご命令どおり。ナサール、ただいま到着しました。」
彼はフィロメルを抱きかかえたまま、バジリスクの背の上に立っていた。
思いもよらぬ姿に、フィロメルは思わず声をあげる。
「ナサール……!?」
「はい、ナサールです。」
「ナサール!?なんであなたがここに!?」
「フィロメル様が、私を呼ばれたので。」
「そういう意味じゃなくて……!どうしてこの森にいるの!?」
ナサールは気まずそうに後頭部をかいた。
「実は、このあたりで野営してたんです。」
「野営?」
そういえば――以前、一緒に市場へ行ったとき、彼がこっそりキャンプ用品を選んでいたのを思い出す。
「まさか、まだあの趣味を続けてたの?」
「はいっ!」
「こんな危険な森の中で……」
呆れたように呟きながらも、フィロメルの声には少しだけ安堵が混じっていた。
「本当は、魔塔のすぐそばで任務をしていたんですが……妨害に遭いましてね。それでこの森まで移動してきたんです。」
「あなたと連絡を取ったときは、確かアンゲリウムの宿舎に戻ったって言ってませんでした?」
「ええ、そのときは確かに戻ったんです。でも……フィロメル様と連絡も取れず、日が経つにつれていてもたってもいられなくなって……」
「……また抜け出してきたってわけですか?」
「たとえ遠く離れていても、あなたのお顔を拝見せずにはいられませんので。」
「まったく……ナサールったら……」
そう言いながらも、フィロメルはナサールをぎゅっと抱きしめた。
「本当に……あなたって、いつも私がピンチのときに現れるんですね。」
「フィロメル様……」
頬を赤らめたナサールの耳があまりにも可愛らしくて、フィロメルは思わずくすっと笑った。
「ふふっ……」
――その時。
「シィィィッ!」
バジリスクが再び甲高い音を立て、巨大な体をのたうたせた。
ナサールは素早くその背から飛び降り、フィロメルを地面に下ろすと、剣を抜いて構えた。
「討伐しますか?」
「できれば、殺さないで……!」
以前、ルグィーンの紹介でこの森の魔獣たちと時間を共にしたことがある。
そのとき――少しだけ、情が移ってしまっていたのだ。
最初は怖かった。
けれど、自分が投げたエサを素直に受け取って食べる様子を見ているうちに、――なんだか普通の動物みたいだな、と思ってしまったのだ。
(……別に、また襲ってくる気配もないし)
ナサールがくすっと笑う。
「ご安心ください。」
そう言って彼は、剣を鞘に収めたまま蛇に向かって歩み寄った。
結局、バジリスクは完全に戦意を失ったのだ。
フィロメルの存在があったからこそ、蛇も本気で攻撃できなかったのだろう。
最初から分の悪い戦いだったに違いない。
フィロメルは、地面に横たわる蛇の“義眼”と視線を交わした。
かつてなら、見ただけで命を奪われるほどの眼光だったはずなのに――今、その瞳はただ、穏やかに彼女を見つめ返していた。
「戻って、ルグィーンに伝えて。」
頭に大きな角を生やしたバジリスクが、ぐるりと首をもたげた。
「――最近の私は、反抗期なの。止めたいなら、もう少し慎重に来なさいってね。」
「シィィィ……」
「それと、“手紙を置いてきたから読んでおいて”って伝えて。」
そう言うと、バジリスクは低く唸りながら体を翻し、森の奥――魔塔の方角へとゆっくり進み出した。
フィロメルは、その巨大な背中を見送りながら目を細める。
理由は分からない。
けれど、まるでバジリスクの向かう先に“彼”がいるような気がした。
闇の奥で、じっとこちらを見つめているような――そんな感覚。
(ルグィーン……あなたは、やっぱり私には理解できない人。……傷ついたけど、理解できなかったのは当然のことよね)
家族といえど、血がつながっているからといって、自然に心が通じ合うわけじゃない。
人と人とが理解し合うには、時間が必要だ。
顔を合わせ、言葉を交わし、心をぶつけ合って初めて――本当の理解が生まれるのだから。
「……フィロメル様。」
そして今、フィロメルには向き合わなければならない相手がもう一人いた。
少し緊張した面持ちで、彼女はナサールを見つめる。
「どこへ行かれるおつもりですか?」
「ナサール、私は……」
――彼女は、正直に打ち明ける決心をした。
ナサールは黙って、じっとその言葉を受け止めていた。
(ナサールなら……きっと黙って見過ごしたりしない。でも、止めてもくれないだろうな。)
そう思いながらも、内心では彼が心配で仕方なかった。
彼は優しい――自分のことより他人の心配をしてしまう人だから。
一通り事情を聞き終えたナサールは、少し考え込んだあと静かに口を開いた。
「……その件、フィロメル様が直接やらなければいけない理由って、ありますか?」
「もし……私が何もしないで、エレンシアが死んだら――きっと後悔します。」
それが彼女の本音だった。
自分にできることがあるなら、やってみたい。
「それに……なんとなくですが、“私にしかできないこと”がある気がするんです。」
フィロメルには、プレイヤーとしての力が残っていた。
単にこの世界の“登場人物”として存在しているのではなく――その枠を、どこか越えた存在としての自覚が、確かにあった。
きっと、今の自分にもできることがあるはずだ。
ナサールは地面に落ちていたフィロメルの鞄を拾い上げた。
「それでは、今すぐ大神殿へ向かいましょう。」
「えっ?」
「そんなに急がなきゃいけないことなんですか?」
「……反対しないんですか?」
「反対、ですか? 私が?」
ナサールがぱちぱちと目を丸くした。
「フィロメル様がご自身で決められたことに、僕が口を挟むなんて――あり得ません。最初から、他人が反対するような話じゃないと思いますよ。」
思いもよらない返答に、フィロメルは一瞬ぽかんとした顔になった。
ナサールが一緒に来てくれるとは思っていた。
けれど、こんなにも迷いなく「行く」と言うとは思わなかった。
胸の奥がぎゅっと熱くなる。
「……本当に、いいんですか?」
「何が、ですか?」
「私と、一緒に行くことですよ。」
「“一緒に”じゃないと、逆に落ち着きません。」
「でも、私と一緒にいたら……悪神に狙われるかもしれませんよ?」
「なら、余計に俺がついていくべきですね。」
「魔塔の魔法使いたちが、私たちを追ってくるかもしれません。」
「構いません。」
その言葉に、フィロメルは息をのんだ。
ナサールの瞳は、炎のようにまっすぐで――迷いがひとつもなかった。
ナサールの声には、揺るぎない決意が込められていた。
「たとえどんな敵を前にしようとも……たとえその目的地が、この世の果てであろうとも……私は、あなたと共に歩みます。いつまでも。」
フィロメルは反射的に、ナサールの頭上に目をやった。
――『99%』
しばらく姿を見せていなかった好感度の表示が、こんなときに限って顔を出すなんて……運命の悪戯だろうか。
真っ赤に染まったゲージが煌めき、まぶしいほどの光を放っていた。
フィロメルは思わず、その愛おしい男をぎゅっと抱きしめた。
「ひ、フィロメル様っ!? い、いきなりどうされたんですかっ!?」
「いいから……何も言わないで。このまま、ほんの少しだけ……」
しばらくして、緊張していたナサールの体から力が抜けた。
彼はおそるおそる、しかし優しくフィロメルの腰に腕を回した。
二人はフィロメルの言葉どおり、ほんの一瞬だけそのまま動かずにいた。
互いのぬくもりを感じながら。
込み上げる感情に時間を忘れそうになったが――状況が切迫していることも、忘れるわけにはいかなかった。
『ルグィーンがいつ動くかわからない……!』
今のうちにこの場所を離れたほうがいい。
フィロメルとナサールは並んで、ナサールの天幕がある方へと向かった。
「これ……必要になりそうですか?」
ナサールは天幕を片付けながら、手際よくさまざまな野営道具をまとめていった。
フィロメルはその様子を見て、軽く肩をすくめる。
「……一応、持っていった方がいいですよね。大神殿に着くまでの道中、何が起こるかわかりませんし。」
ナサールは何も言わず、素早く天幕をたたみ、道具を集め始めた。
すべてを背負っていく必要はない。
必要なものだけで十分だ。
フィロメルは自分の鞄を取り出した。
商店で購入したこの鞄には、“インベントリ拡張機能”がついていて、商品だけでなく一般の物資も収納できる優れものだ。
「こんなに全部入るなんて……不思議ですね。」
ナサールは感心したように呟きながら、次々と道具を鞄に詰め込んでいった。
容量を超えない限り、重さの心配はないのだ。
量なんて、どれほどでも構わなかった。
「……簡単なものでもいい。転移魔法が使える魔法師を探さないと。」
フィロメルがそう言うと、ナサールはすぐに理解して頷いた。
「移動のためですね。」
「ええ。大神殿まで急いで向かうには、転移魔法が必要です。」
ルグィーンの件で、魔塔の魔法師たちは協力を渋るだろう。
だが三兄弟のうちの誰かなら、まだフィロメルに協力してくれる可能性がある。
『ジェレミアとレクシオンは、互いに争って力を消耗しているはず。……カーディンなら、転移魔法が使える。』
彼女の視線は静かに遠くを見つめた。
行くべき場所と、頼るべき人を心の中で定めながら。
『……あそこは特に問題ないって話だったけどな。』
フィロメルは軽く舌打ちしながら思案に沈んだ。
彼女が綿密に立てた脱出計画の中でも、この部分だけはどうしても不安が残っていたのだ。
転移魔法――それは自分の身体を完全に他人に委ねるということ。
信頼できる魔法使いを探す必要がある。
『まして命が懸かってる状況なら、なおさらね……。』
レクシオンの話では、イエリス神の強大な力や終末論に心酔し、密かに邪神を崇めている者たちが少なくないという。
「特に魔法使いたちの中では、イエリス神を信仰する割合が高いんですよ。僕も信者ってほどじゃないですけど、興味はありますしね。」
魔塔の規律を気にしながらも、複数の魔法使いたちが悪神の研究を進めているのだろうか――。
フィロメルはそんなことを考えつつ、隣を歩くナサールに目を向けた。
『本当なら、エイブリデン家の魔法師を紹介してもらうつもりだったのに……』
最近、フィロメルとエイブリデン公爵家の関係はぎくしゃくしており、頼みにくい状況だった。
どう切り出そうかと迷っていると、ナサールが先に口を開いた。
「よく知っている魔法師がいます。信頼できます。」
「誰ですか?」
「同じ師匠のもとで修行していた友人がいるんです。しかも、転移魔法にもかなり詳しいとか。」
「ちょうどいいじゃない!その人、今どこに住んでるの?」
友人の居場所を聞いたフィロメルは、思わず顔をしかめた。
「……かなり遠いんですよ。」
最速の交通手段を使っても、そこへ辿り着くには四日はかかるという。
しかも勇者の出立式までは、残り三日しかなかった。
「申し訳ないけど……その人に、こちらまで来てもらうことはできないの?」
「……通信手段もなく、俗世との繋がりを絶って生きている友なので……」
――詰んだ。
四日もかけて向かうしかないなんて、時間的に完全にアウトだ。
レクシオンやジェレミアの魔力が回復するのを待つのが得策かもしれない。
だが――この近くをうろついていてルグィーンに見つかったら……。







