こんにちは、ピッコです。
「ニセモノ皇女の居場所はない」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
129話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 嫉妬
同じ日の夜。
二人は再びワイバーンに乗ってしばらく移動したあと、地上に降り立った。
周囲には民家もなく、人の気配もない。
そこで野営することに決めた。
夕食は、持ってきた材料を使ってナサールがシチューを煮込んでくれた。
「実力も素材も足りないなりに作った料理ですが……」
そんなふうに、どこか照れくさそうに言うナサールの言葉をよそに、フィロメルはスープの入った器をきれいに空にした。
ナサールが作った料理というだけで、十分すぎるほどおいしかった。
――お腹がすいていたせいかもしれないけれど、それでも本当においしかった。
朝は軽く済ませたうえに、巨人との戦いで体を酷使したからか、いつもより食が進んだのだ。
食後、近くの湧き水を見つけて体を洗い流す。
昼にはようやく、巨人の体液を拭うだけだった自分を、しっかりと清めることができて、心の底から安堵した。
『……ちょっと恥ずかしかったのを除けば、ね。』
入浴の時間は、人間にとってもっとも無防備になるひとときのひとつだ。
武器を身体から離し、もし敵の奇襲を受けでもしたら一巻の終わりである。
だからフィロメルとナサールは、片方が入浴している間はもう一方が周囲の見張りをする、という約束を交わしていた。
「……ナサール、そこにいますか?」
「はい、おります。どうかなさいましたか?」
「いえ、何でも……。ただ、周りが暗くなってきて……ちょっと怖くなっちゃって。」
「そうでしたか。それでは……面白い話でもして、気を紛らわせて差し上げましょうか?」
ぎこちない会話だった。
気まずさを和らげようとするナサールの努力が、かえって場の空気をさらに気まずくしてしまう。
フィロメルはナサールがいる木の裏で、意識を集中させながらそっと体を洗い、素早く湯浴みを終えた。
彼と役割を交代すれば、少しは気持ちが落ち着くと思っていた。
――けれど、全然違った。
ざああっ。
ナサールが水を浴びる音が聞こえた瞬間、フィロメルの心臓は跳ね上がった。
音がやけに大きく響いて、どうしようもなく恥ずかしくなる。
(ぜ、絶対に変な想像なんてしてない……してないから!)
そう心の中で必死に言い訳しながら、フィロメルは耳をふさいだ。
そして、夜の休息の時間がやってきた。
フィロメルは寝具を広げ、天幕の中に身を横たえた。
「ぐぅるるる……ぐぅるるる……」
ワイバーンのいびきが低く響き、まるで天幕が揺れるかのようだった。
昼食の休憩を除けば、一日中飛び続けていたワイバーンは、地面に頭を預けるなりあっという間に眠りに落ちていた。
『……お風呂のときも、素直にワイバーンを連れてくればよかったのに。』
どうしてこんな単純なことに気づかなかったのか――自分でも不思議だった。
「……」
フィロメルは寝返りを打った。
けれど、なかなか眠気は訪れなかった。
彼女は上体を起こして、天幕の中を見回した。
思ったより狭い。
「私、よくもまああんな大胆なこと言えたわね……」
以前、ナサールに「同じ天幕で休んでください」と頼んだ時のことを思い出し、顔が熱くなる。
風呂のときでさえ気まずくて仕方なかったのに、すぐ隣で落ち着いて眠れるわけがない。
「はぁ……」
地面が沈むほど深いため息が漏れる。
勢いで彼を引き留めたのはいいけれど、夜が更けるにつれて心配が押し寄せてくる。
まだルグィーンの脅威が完全に去ったわけでもない。
あの恐怖の記憶も、生々しく胸に残っていた。
――これからも、うまくやっていけるのだろうか。
高い確率で難しいだろう。
実は、昼食時にポーラン伯爵へ連絡を入れてみたのだ。
もしかすると、皇帝暗殺の可能性に備えて警備を強化するよう、さりげなく伝えておけば察してくれるかもしれない――そんな目論見だった。
だが、なぜか伯爵からの返答は一切なかった。
問題は、フィロメルが彼を除けば皇帝の側近の誰とも通信石で連絡を取ったことがないという点だ。
皇帝陛下ですらそうだった。
『話があるなら直接会いに行くか、人をやれば済む話だからな。通信石なんて必要なかったんだ。』
加えて、ポーラン伯爵以外には暗殺のようなデリケートな話題を打ち明けられるような相手もいない。
『皇帝陛下の御食事にはいつも以上に気を配り、周囲には常に親衛騎士たちが控えているし……』
そんな話をするだけでも、十分に怪しまれる可能性があった。
ルグィーンが本当に退いたのか確信が持てず、フィローメルは自分の言葉を信じ切れなかった。
「ああ、ややこしい。ほんとにややこしい。」
頭を抱えて悩んでいた彼女は、気分転換でもしようと天幕の入口を開けた。
焚き火の前に座っていたナサールが、こちらを見て微笑む。
「眠れませんか?」
その顔を見た瞬間、胸の中にあった心配や迷いがすっと消えていく。
――きっとうまくいく。
根拠なんてないけれど、フィローメルはそう確信した。
「途中で私のことも起こしてくださいね。見張り番、交代しますから。」
「僕ひとりで十分ですよ。」
「だめです。ナサールもちゃんと目を閉じて休まないと。」
「勉強や訓練で徹夜なんて慣れてますけど……」
「ふふん。今日、ナサールを助けて岩の巨人を倒したのは誰でしたっけ?」
「もちろん、フィロメル様です。」
「なら、私にもできるってことですよ。」
ワイバーンがすぐそばでどっしりと構えているおかげで、そうそう魔物が近づいてくることもないだろう。
それに、彼女には自動防御魔法もかけられている。
しばらくして夜が更けてくると、フィロメルの口から大きなあくびが漏れた。
「ふぁああ……。」
「そろそろ中に入って休みましょう。」
ナサールと少し言葉を交わしているうちに、フィローメルの中の不安も緊張も少しずつほどけていった。
彼女は天幕へと向かいながら言った。
「必ず起こしてくださいね。」
「わかりました。おやすみなさい。」
ナサールは世界で一番穏やかな笑顔を浮かべて彼女を見送った。
なぜだか――その日は、どうしても彼が約束を守る気がしなかった。
フィローメルは微かな不安を抱えたまま横になった。
眠ろうとしたが、まぶたの裏にナサールの笑顔が焼きついて、なかなか眠れない。
どれほどの時間が経っただろう。
「……っ!」
フィローメルはハッと目を見開いた。
外はまだ薄暗いのに、体がやけにスッキリしている。
ぐっすり眠った証拠だ。
「ナサール、今……何時くらいですか……?」
棒を片手に天幕の外へと出たフィロメルは、思わず息をのんだ。
天幕のすぐそばは昨夜と同じように静かだったが、少し離れた場所は――そうではなかった。
「お、起きたんですか?もう少し寝ていてもいいのに。」
ナサールがこちらを振り返る。
地面には無数の魔物の死骸が転がっており、その中の一体にナサールは無造作に刃を突き立てていた。
天幕から一定の距離を離れたあたりは、まるで屠殺場のように魔物の残骸で埋め尽くされている。
うっすらとした光に照らされ、夜明けが近いことがわかった。
夜明け、彼らを襲ったモンスターたちは――まるで悪神の手先のようだった。
『前にルグィーンが見せてくれた、あの蜂型のモンスターに似てる……』
日が昇るとともに、身体が再び再生するという点も同じだ。
イエリスが彼らの居場所を突き止めたに違いない。
胸がざわつく。
早く大神殿へ行かなければ。
少なくとも、神聖力に守られたあの場所なら、悪神の眷属も容易には近づけないはず――。
フィロメルとナサールは、昨夜の残り物のシチューをたっぷり詰めた革袋を携え、ワイバーン・キュキュの背にまたがった。
「キュッ!」
ワイバーンは力強く羽ばたき、勢いよく空へ舞い上がる。
近くの魔物を狩って腹を満たした後、ぐっすり眠ったおかげか、その飛翔はフィロメルの予想を上回るほど快調だった。
「……あれ?」
飛び立ってしばらくした頃、フィロメルはキュキュの尾のあたりに妙なものを見つけ、目を見開いた。
それは、かすかに光を残した魔法陣のような模様だった。
白とも銀ともつかない微妙な色合いで、目を凝らさなければ見落としそうなほどだ。
『こんなもの……最初からあったっけ?』
昨日の飛行中、この尾の辺りを何度も目にしていたはずなのに、記憶にはない。
しかし見つからなかった。
ナサールにも尋ねてみたが、彼もまた記憶にないと答えた。
彼の話によると、キュキュは夜のあいだ一時的に姿を消していたという。
すぐに戻ってきたため、特に気にも留めなかったそうだ。
――もしや……。
フィロメルはある仮説を思い浮かべたが、すぐに頭の中から追い払った。
軽々しい推測は禁物だ。
もともとそこにいたのに、ただ自分たちが見逃していただけかもしれない。
それでも、なぜだか唇の端がかすかに上がった。
「ほんと、息子みたいに素直じゃないんだから。」
ナサールだけが、その呟きのような声をはっきりと聞き取った。
敵は空にもいた。
「グルルルル……」
巨大なハゲワシのような姿をした魔物が、翼を広げながら二人に襲いかかってきた。
「僕が片付けます。」
ナサールが静かに剣を抜いたかと思うと、次の瞬間、黒い猛禽は空中で切り裂かれたように悲鳴を上げ、そのまま遥か下の山肌へと墜ちていった。
フィロメルはその鮮やかな剣技に感嘆しつつ、ふとこんな考えがよぎる。
『……私のプンマンチで、あんなのは到底ムリよね……』
プン、プン、プン──。
いくら威勢よく撃っても、彼の剣速と比べたらまだまだ子どもの遊びのようなものだ。
幸いにも、悪神に取り憑かれた飛行型モンスターはそれほど多くなかった。
やがて、敵の一団が姿を現す。
彼らはナサールの詠唱に巻き込まれ、あるいはワイバーンの吐く炎に包まれて次々と焼き尽くされた。
「目的地が近いようです。」
目的地が見えてくると、ワイバーンは高度を下げ、地上へと舞い降りた。
まずキュキュを安全な場所に残し、二人はナサールの友人が住むという家まで歩いて向かった。
フィロメルは無地のヴェールをかぶり、ナサールもまた極力気配を消す。
近くに潜むかもしれない悪神の眷属を刺激するわけにはいかない。
とはいえ、彼らの警戒心がいくら薄れても、目的地はしっかりと結界で守られていた。
魔法による防御も、慎重に張り巡らされているようだった。
数歩進んだところで──
「えっ、誰かと思ったら……坊ちゃまじゃないですか!」
ローブを羽織った魔法使いが、家の前にいた二人を見つけて驚いたように声を上げた。
薬草でも採ってきたのだろうか。
草がぎっしり詰まったバスケットを抱えたまま、魔法使いは駆け寄ってくる。
「坊ちゃま、お久しぶりです!」
その顔を見たフィロメルは、思わず目を丸くした。
『え……友人って……女の人だったの!?』
そんな話、一言も聞いてなかったんですけど!?
自らを「ルディア」と名乗った魔法使いは、にこやかに笑った。
「まさか坊ちゃまが彼女を作るなんてね。氷の貴公子が溶ける日が来るとは思わなかったよ。」
「うるさいですよ。」
「いつもそっけないくせに、壁を作るのが上手だから一生恋愛しないタイプかと思ってたのに。」
「それは誤解です。」
「修行してた頃、坊ちゃまのところに女の子がどれだけ押しかけてきたか知ってる?数え切れないくらいだったんだよ。」
ルディアは、フィロメルとナサールが座る食卓に茶を置きながら、穏やかな口調で続けた。
「まあ、通りがかりの旅人が喉を潤しに寄るだけでも構わないさ。ここは山の奥でもないし、水も湧き水が豊富だからね。」
フィロメルは薬草の香りが濃いお茶を口に含みながら、淡々と答えた。
「そんなことがあったんですね。ナサールの剣術修行の話はあまり聞けなかったので……もっと聞きたいです」
「大した話でもないですよ」
ナサールの控えめな言葉に、ルディアは声を上げて朗らかに笑った。
「大したことないだなんて!上半身裸で修練する坊ちゃまを見ようと、毎日塀の向こうに女の子たちが……」
「えっ、まさか……上着も着ずに稽古してたんですか?」
「……とても暑い夏の日に、数回だけです。いつもそうだったわけじゃありません」
ナサールは曖昧な笑みを浮かべながら、わずかに眉をひそめた。
「……ここに来たのは、少し後悔しているかもしれません。」
「どうして?私は来てよかったと思いますよ。今まで知らなかったナサールの一面を知ることができたから。」
ともあれ、会話は穏やかに終わった。
ルディアは、彼らを大神殿まで送るという依頼を快く引き受けた。
細かい事情を尋ねることもなく、ただ静かに頷いただけだった。
軽口を叩く姿とは裏腹に、ナサールへの信頼は確かなものだ。
彼らはその日のうちに準備を整え、翌日、大神殿のある聖地へと旅立つことを決めた。
すべてが順調に進んでいた。
それにつられて、フィロメルの気分も自然と良くなる……はずだった。
――なのに、胸の奥にふと、重たい靄がかかったような感覚が広がる。
フィロメルは会話の流れに合わせて適当に相槌を打ち、二人の話に加わっていたが……その途中で、はっと気づいた。
『……あれ、もしかして私、嫉妬してる?』
場所はルディアの家の裏庭。
「……私、最低だ」
フィロメルは階段の端に腰を下ろし、頭を抱えた。
ナサールとルディアの間には、男女の間柄を思わせる空気など微塵もない。
二人はただ、気の合う旧友にすぎない。
「ちょっと見ただけで分かることじゃないの。」
それなのに、なぜ嫉妬などしているのか。
一度芽生えた感情は、やがて自己嫌悪へと変わっていった。
――私は、ナサールの人間関係にまで口を出したいの?
フィロメルは頭をぶんぶんと振った。
「しっかりしろ、フィロメル!」
たとえ恋人だとしても、そんな権利はない。
もしナサールがこの心の乱れを知ったら、どれほど落胆するだろう。
彼の友情を、こんな形で歪んで見てしまうなんて――。
『……よし。このやっかいな感情は、心の奥底にしっかり沈めておこう。』
ナサールには、絶対に気づかれてはいけない。
見せるのは、いつも堂々とした「いい顔」だけ。
そう自分に言い聞かせ、フィロメルは揺れ動く気持ちを押し殺そうとした――そのとき。
「……あの、フィロメル様……」
まさにその本人が現れた。
「えっ、えっ!?な、なんですか!?」
「どこか……具合でも悪いのですか?」
ナサールが心配そうな声をかけてくる。
「い、いえ!全然大丈夫ですっ!」
……なぜだか、顔が熱くなった。
「さっきから顔色があまり良くないようですが……」
「はは、そう見えましたか?」
――勘が鋭い人だ。なるべく顔に出さないようにしていたのに、どうして気づいたのだろう。
胸の奥がほんのり温かくなった。
それは、彼がいつも自分のことを気にかけて見てくれている証のように思えたからだ。
「明日の朝の出発式のことを考えると、緊張しているんでしょう。」
フィロメルは慌てて笑顔を作った。
ナサールはその言葉を素直に信じたらしく、安心したように微笑んだ。
「深呼吸してください。フィロメルさんほど勇者にふさわしい人はいません。」
「どうしてそんなふうに言い切れるんですか……?」
勇者になると決めた――けれど、彼女自身、その決意にまだ確信は持てていなかった。
「……私を、助けてくださったじゃないですか」
「岩の巨人のときの話なら……あれはナサールが機転を利かせただけよ」
「それだけじゃありません」
ナサールの紅い瞳が、揺るぎない光を宿してフィロメルを見つめる。
「幼い頃、フィロメル様は……“自分の望むままに生きろ”とおっしゃったんです」
フィロメルは、その言葉を思い出した。
幼い彼を父親の支配から、ほんの少しでも自由にしてやりたくて――何気なくかけた一言だった。
「……あのときは、ただ……」
彼の言葉は、単なる礼儀ではなく、まっすぐな敬意から出たものだった。
それを誤って好意と勘違いしないようにしなければならない――そう、自分に言い聞かせるしかなかった。
「あんなふうに言ってくれたのは、あなたが初めてです。他の人たちはみんな、“親の言うことをよく聞く立派な貴族になりなさい”としか言わなかったのに。」
ナサールは静かに胸に手を当てた。
「幼い頃の僕の目には、あなたがまるで勇者のように見えたんです。」
「……ナサールったら。そんなふうに持ち上げないでよ。」
「本気ですよ。」
フィロメルは少し照れくさそうに笑った。
「わかったわ。じゃあ――出発の儀式を始めましょう。どう立ち回るか、一緒に考えて備えましょうか?」
頼もしい声とともに並び立つナサールの姿に、フィロメルは心強くうなずいた。
『……ナサールがこんなにも私のことを考えてくれているのに。くだらない嫉妬なんかしてる場合じゃない』
――今は儀式に集中しよう。
ナサールの期待に応え、必ず勇者になるのだと、彼女は強く心に誓う。
……もっとも、その決意は長くは続かなかったのだが。
しばらくして迎えた夕食の席。
フィロメルとナサールの向かい側に座ったルディアが、口を開いた。
「坊ちゃま、師匠のお体の具合はいかがですか?私が旅立つ時までには、少しでも良くなっていてほしいのですが……」
「もうお元気になられましたよ。ああ、数か月前に腰をひどく痛められたのを除けばですが。」
「年寄りさ。もう引退しろって言われるくらいだからな、全部歳のせいだよ。」
「師匠に対してそんな言い方を……」
「おや?一緒に修行してたときはもっと馴れ馴れしかったくせに、今さら礼儀正しくしてどうした?」
ルディアは、フィロメルが座っている方をちらりと見やり、ナサールに意味ありげな視線を送った。
「なるほど、そういうことか。恋のライバルってわけだな。」
カチリ――ナサールのフォークが音を立てた。
「そ、そんなことじゃ……」
そのやり取りを見ていた魔法使いは、空気を読んで静かに食事に集中した。
フィロメルは、無意識のうちにスプーンでスープをすくい、口に運んでいた。
ナサールの師匠の話題が出てからというもの、彼女の思考は別の方向へと逸れてしまい、会話にはまったく集中できなかった。
『……私の知らない話、か』
ソードマスターの師のもとで剣術を学んでいたナサール。
女性の同門たちと共に過ごした日々――彼には、フィロメルが知らない一面があるのだ。
理屈で考えれば当然のこと。
フィロメルとナサールは幼い頃からずっと一緒に過ごしてきたとはいえ、四六時中一緒だったわけではない。
『当然……うん、当然のことなんだけど……』
――けれど、その「当然」が、フィロメルの胸に小さくない衝撃を与えていた。
正直、嫌だった。
自分の知らないナサールの一面を、別の誰か――それも女――の口から聞くのが。
『……はっ、私は今いったい何を考えて……。』
スープ皿にスプーンを運んでいた手が止まる。
ルディアは良い人だ。
フィロメルとナサールの頼みを快く引き受け、泊まる場所や食事まで用意してくれた。
ナサールとの会話の内容も、師匠との思い出話ばかり。
嫉妬する理由なんてどこにもない――そう思おうとしても、うまくいかない。
またしても、淡い自己嫌悪が胸の奥からじわりと込み上げてきた。
「ごちそうさまでした」
フィロメルがスプーンを置くと、ナサールがすぐに声をかけてきた。
「もう食べ終わったのですか?」
「はい。なんだか、あまり食欲がなくて……」
「まさか……私の作った料理が、お口に合わなかったとか……?」
「とんでもないです!本当においしかったです。ごちそうさまでした」
ルディアの気遣うような視線に、フィロメルはきちんと礼を返して席を立った。
「……はぁ」
午前中と同じように、家の裏手にある石段に腰を下ろし、ひとつ深く息を吐いた。
自分がこんなにも嫉妬深い人間だったなんて、今日初めて知った。
「モレが決戦の日だっていうのに、こんなことしてる場合かって……」
準備に集中しなければならないのに、どうしても意識が別の方へ向いてしまう。
気づけば外はすっかり暗くなっていた。
話が長引いたせいで、夕食の時間が遅れてしまったようだ。
「隣に座ってもよろしいですか?」
そのとき、盆を持ったナサールが後ろから現れた。
立ちのぼる湯気とともに、彼は茶器をフィロメルの前に置いた。
「お茶菓子もあります。」
盆の上には茶器のほかに、果実の入った小皿も添えられている。
淡いハーブの香りが、ふわりと広がった。
「最近、食べても食べてもお腹が空いちゃうんです」
――嘘だ。
『私に食べさせるために持ってきたくせに』
フィロメルはそのことを口には出さず、黙ってクッキーをひと口かじった。
「……なんというか、すごく健康的な味ですね」
「でしょう?あの子、最近は薬草学に興味があるみたいで。だからずっと山の岩場にこもってるんですよ」
楽しげに語る顔。
そして、気づけばフィロメルの口から不意に本音がこぼれていた。
「その……ナサールとルディアさんの関係って……ちょっと、嫉妬しちゃうんです」
午前中、あれほど気持ちを押し込めようと決意したのに――。
決意が揺らいでしまうほどに。
「ぷっ。」
その言葉に、ナサールは口に含んでいた茶を吹き出した。
「だ、大丈夫ですか?」
フィロメルはむせる彼の背を軽く叩きながら、自分のハンカチを差し出した。
「ありがとうございます。」
彼は慌ててハンカチで口元を拭い、咳を整えた。
「ところで、さっき……なんとおっしゃいましたか?」
「ナサールとルディアさんがあまりにも仲良さそうで、ちょっと嫉妬しちゃって……。」
「そ、それは誤解です!誓って、その人とはそんな関係じゃありません!」
ナサールは大きく腕を振った。
「たまたま同じ師匠のもとで修行して、たまたま性別が女だっただけの……友人です。いや、友人ってほどでも……そう、ちょっと親しいだけです。本当に、少しだけ」
――ちょっと親しい人にここまで動揺する?
どう見ても、彼は予想外の質問に狼狽しているようだった。
フィロメルはそんな彼を落ち着かせるように、静かに口を開いた。
「わかっています。あなたたちの関係を疑ってるわけじゃないんです」
彼女はスプーンをきゅっと握りしめた。
「ただ……私の気持ちを、正直に伝えたかっただけです」
――隠すつもりはなかった。隠したところで、きっとごまかせるような感情じゃないのだから。
胸の奥に言葉が残ったまま、フィロメルはしばし俯いていた。
その沈黙にナサールは返す言葉を見つけられず、ただ静かに茶を口に運ぶ。
「……そうですか。」
それだけを告げ、再び沈黙が落ちた。
(きっと失望したに違いない……)
そう思った矢先、横に座るナサールの頬が赤く染まっているのに気づいた。
耳の先までほんのりと熱を帯び、息さえ乱れているようだった。
フィロメルが見つめると、彼は震える声で言った。
「嬉しいんです。とても、嬉しくて。」
「……え?」
「フィロメル様が、僕と他の人の関係を嫉妬してくれたと思ったら……すごく、うれしくて……」
――うれしい?怒るんじゃなくて?
フィロメルは思わず眉をひそめ、立場を逆にして考えてみることにした。
『もしナサールが、私と男性の友人との仲に嫉妬したら……?』
想像の中、嫉妬して不機嫌になるナサールの姿が浮かぶ。
――あ、ちょっと……かわいいかも。いや、かなり……。それに……少し、うれしい……?
その瞬間、今日一日中ぐるぐる悩んでいたことが、なんだか急に取るに足らないことのように思えてきたのだった。
「そうか、これがこの気持ちなんだ」
自分に嫉妬するナサールも、“嫉妬した”と言って頬を染めるナサールも、どちらも愛おしい。
フィロメルは夜空を見上げた。
無数の星々がこぼれ落ちそうなほど輝き、その光が心に染み渡る。
(あの日に似てる……)
ナサールが自分に告げた、あの夜。
『あなたを敬愛しています』
あの時の夜空のように、美しく静かな夜だった。
「……ナサール。」
フィロメルはナサールの名を呼び、彼が自分を見つめたその瞬間――衝動的に、顔をぐっと近づけた。
柔らかな唇が触れ合い、温かな吐息が重なる。
――その日、二人は初めてのキスを交わした。







