こんにちは、ピッコです。
「ニセモノ皇女の居場所はない」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
136話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 甘い幻②
カトリンが皇宮に来て、すでに一週間が過ぎていた。
「そろそろ魔塔に行こうか?」
友人と心ゆくまで時間を過ごした彼女は、フィロメルに旅立ちの支度をするよう告げた。
明日、魔塔主が自ら娘を迎えに来ることになっている。
昼食を終えたあと、フィロメルは皇后と二人きりで間食の時間を過ごしていた。
今日のおやつはシュークリーム。
「しばらく会えなかったから、少しでも多く一緒にいられたらと思ってね」
イザベラはそう言って、自分の分のシュークリームまで娘に譲った。
フィロメルはしばらく夢中でフォークを動かしていたが、ふと手を止める。
――まただ。
口の中に広がるのは、シュークリームの甘さよりも濃厚な花の香りだった。
それと同時に、忘れていたはずの記憶が、唐突によみがえり始める。
「……わかりますか?」
「何が?」
「エレンシアは、シュークリームを食べたことがないそうです」
あの子の日記には、そう書かれていた。
「だから、エレンシアが戻ってきたら、真っ先にシュークリームを食べさせてあげたいと思ったの」
フィロメルは皇后を直視した。
エレンシアによく似た顔立ちだが、瞳の色だけが違っている。
皇后は不思議そうな表情で尋ねた。
「エレンシアって誰?新しくできたお友だち?」
フィロメルはフォークをぎゅっと握りしめた。
「詳しくはわからないけど、そんなにシュークリームが食べたいなら、いくつか持たせてあげて。厨房長には私から話しておくわ」
「違う。エレンシアは、イザベラ皇后の実の娘。私じゃない――本物の皇后の娘よ」
「それって、どういう……」
フィロメルはイザベラを真正面から見据え、問いかけた。
「あなた……誰なの?」
その瞬間、皇后の表情が一変した。
完全な無表情。
「私が誰か?あなたの母親に決まっているでしょう」
「くだらない芝居はやめてちょうだい。不快だわ」
「……」
言葉を失った彼女の様子を見て、フィロメルは確信する。
「なるほどね。どうりで今のこの世界、幻にしてはやけに現実的だと思ったわ」
あまりにも正確だった。
彼女が本で読んだ内容によれば、呪縛ワイバーンの松ぼっくりの毒に、ここまでの効果はなかったはずだ。
「まるで終わらない悪夢を見ているかのように、過去の記憶が繰り返された」
それは、呪縛ワイバーンの松ぼっくりの毒を受けた人物の感想だった。
だが、フィロメルが体験しているこの世界は、はっきりと違っている。
「ひとまず、つらい記憶ではないという点を除けば……」
夢のように曖昧ではなく、驚くほど現実的だった。
物事には、たいてい明確な原因と結果がある。
両親がそれぞれ二人ずつ存在するという、あまりにも奇妙な状況も、「もともとそうだった」と無理やり納得してしまえば、それで済ませられなくもない。
だが、それ以外にも――フィロメルには、腑に落ちる理由があった。
「フィロメル、あなたが何を言っているのか、私にはさっぱり分からないわね」
イザベラ皇后は平然とした顔でとぼけてみせる。
ここまで自然体で出られてしまっては、打つ手がない。
フィロメルは仕方なく、この話題を一度引っ込めることにした。
「これまでずっと観察してきたけれど……あなたは、他の人たちとは少し違うの」
「違う、ですって?」
「この世界は一見、確定しているように見えるけれど――私の認識次第で、いくらでも再構築されるのよ」
フィロメルが一度、乳母の死をはっきりと認識したことで、乳母はこの世界でも死んだものとして扱われるようになった。
「あなたについて行って、乳母の葬儀に出た記憶が、突然よみがえったの」
一方で、イザベラとカトリンが乳母について交わした会話は、逆に曖昧になっていた。
まるで、そんな出来事は最初からなかったかのように。
「意識して、ずっと噛みしめていなかったら、完全に忘れてしまっていたはずよ」
イザベラは、かすかな笑みを浮かべた。
陽だまりのように温かかった以前とは、どこか異なる微笑みだ。
「なかなか難しいことを言うのね。続きを話してみて」
「でも、あなたは違った。私はあなたの死を認識しているのに、まだ生きているでしょう? はっきり覚えているはずなのに」
「こう考えてみたらどう?」
彼女はゆったりと、シュークリームをひと口かじった。
「あなたとは違って、私は――生きていたいと願ったの」
「……」
「ここは、あなたが望んだ幻。もしそれが現実だったなら、きっと本当に幸せだったでしょうね――そう夢見ていた世界」
「教えてくれてありがとう。半信半疑だったけれど……やっぱり、私の予想は当たっていたわ」
「ふふ。無理に強がらなくていいのよ。震えているもの」
――正論だ。
フィロメルは、冷や汗で濡れた手をぎゅっと握りしめた。
「この世界では、あなたの記憶よりも重要視されるのは、あなたの願いよ。皇帝が本当に良い父親だったから、あんな幻想が生まれたのかしら?」
「そういう仕組みだったのね」
「ともかく話してみなさい。あなたの夢に現れた数多くの人物の中で、どうやって私を正確に見分けたの?」
フィロメルは一拍置いてから、口を開いた。
「私がこの世界に違和感を覚えるたび、あなたが現れたから」
最初に皇帝の執務室で目を覚ましたとき、乳母の死を認識したとき、両親がそろっているこの状況に疑問を抱いたとき。
「不思議なことに、あなたと話したり、目を合わせたりしていると――さっきまでの違和感が、すっと消えていったの」
イザベラは顎に手を当てた。
「勘はいいみたいね。でも、それだけ?」
フィロメルは彼女の問いには答えず、代わりに別の質問を投げかけた。
「この世界に、エレシアが存在しない理由は?」
「さあね。どこまで行っても、私はあなたの願いを形にしただけだから。ほんの少し、手を加えた程度よ」
皇后の瞳に、冷ややかな笑みが宿る。
「まあ……皇女がいないほうが、あなたにとっては幸せなんじゃない?」
「……」
「勇者になるなんて、いい子ぶってはいるけれど、これがあなたの本心よ」
「本心?」
「そう。ここに来て初めて見たわけじゃない。あなたの幼い頃を見てきたもの」
作り物ではない、本当の過去。
皇后の姿をした存在は、そう言って小さく笑った。
「幼い頃から、人の目に良く映ろうとして、愛想を振りまいてきたでしょう?」
〈皇女エレンシア〉の“フィロメル”のような悪女にならないために。
「褒めてあげる。そこまで必死にしがみついていたら、いい子の“ふり”が、もはや“ふり”ではなくなってもおかしくないわ」
イザベラは、低く囁いた。
「でも、もう自分を欺く必要はないわ。正直になりなさい」
その声は、まるで甘く囁く蛇の吐息のように響いた。
「ここにいれば、あなたは一生――幸せでいられる」
――パチン。
皇后が指を鳴らすと、部屋中にあった調度品が一斉に宙へと浮かび上がる。
「あなたを傷つける人もいない。あなたを抑えつける鎖も、ここには存在しないの」
フィロメルの身体までもが、ふわりと浮いた。
皇后は彼女に向かって、両腕を伸ばす。
「フィロメル。祝福すら受けなかった名前を与えられた子――」
イザベラの背後で、神々しく見える後光が差した。
「私と一緒に、永遠の夢を見ましょう」
その姿は、まるで天から舞い降りた天使のようだった。
今すぐにでも、差し出されたその手を取ってしまいたくなる。
だが――
「断るわ」
フィロメルは、その手を取らなかった。
「あなたと一緒に見てきたその夢の先にあるのは、破滅だけだから。イエリス」
彼女が悪神の名を呼んだ瞬間、女はぴたりと動きを止めた。
次の瞬間、どさりと音を立てて、フィロメルの身体が床へと落ちた。
精神世界だからだろうか。幸いにも、痛みはなかった。
「……気づかないふりをしていたほうが、お互いのためだったのに」
女の微笑みが消える。
後光は、どす黒い闇へと変質した。
「幸せを、自分の足で蹴り捨てるなんてね」
皇后の顔が歪む。
その瞬間、悪心の周囲にまとわりついていた闇が、怒涛のように膨れ上がった。
「ああ、これは駄目ね」
悪心は指先で、自分の髪をくるくるともてあそぶ。
「あなたの身体は守りが多すぎて、精神の奥を突こうとしたけれど……失敗したわ」
バチバチッ!
空間が歪み、四方で火花が散った。
フィロメルは震える脚を無理やり立て直し、まっすぐ前へ進んだ。
「怖がらないで」
イエリスが本気で彼女を害そうと思っていたなら、とっくにそうしていたはずだ。
それほどの影響力を、今は発揮できない可能性が高い。
「あなたは、イザベラ皇后の姿を借りるべきじゃなかった」
「理由は?」
「皇后は、エレシアによく似ているもの」
「どうして?」
「この世界にエレシアが存在しないのなら――皇后も存在していないはずでしょう」
イエリスの目が、わずかに見開かれた。
「エレシアを切り離して皇后だけを考えることなんてできないのに、片方だけが存在しているなんて、おかしいじゃない!」
実際に“皇后の顔”がそこにあったからこそ、フィロメルは曖昧な記憶の奥底から、エレシアの面影を引きずり出すことができた。
「……そういうことだったのね」
悪心は短く、ため息をつく。
「皇女の存在を消したのが、裏目に出たかしら?そのほうが、あなたの好みに合うと思ったのだけれど」
流れから考えると、この世界にエレンシアがいないのは、悪神の介入によるもののようだった。
つまり、フィロメルの本心――エレンシアが消えてほしいと願った、という言葉も嘘だったことになる。
人を欺き、堕落させる。
それこそが悪神だ。
フィロメルは叫んだ。
「私の精神(こころ)から出ていけ!」
その瞬間、突然フィロメルの視線がぐっと高くなった。
彼女は自分の身体を見下ろした。
子どもの身体から、本来の身体へと戻っていたのだ。
イエリスは舌打ちした。
「自力で目覚めたか」
凄まじい轟音とともに、空間に走る亀裂が一気に広がっていく。
イエリスの輪郭も、次第に薄れていく。
「最後に一つだけ聞かせて。どうやって正気を取り戻したの?」
瞬きをする間もなく、悪心はフィロメルの目前に迫っていた。
「私が教えるとでも思った?」
フィロメルの返答に、イエリスは彼女の顎を乱暴につかみ上げる。
「いいわ。まだ完全に追い出されきったわけじゃない。少し力を込めれば……」
本能的に悟った。
フィロメルの記憶が、引き剥がされていく。
「なるほど……そういうことか。やっぱりね、岩の巨人の触手……そういえば、花の香りがどうとか言っていたな」
悪神が目を細めた。
「思ったより、ずいぶん鋭いじゃないか」
「これを見て!」
フィロメルがその手を払いのけたが、男は笑いながら姿を消した。
「また会おう。ミワが選んだ、もう一人の子よ」
ミワって、創造神ミワのこと?
「創造神ミワが、私を選んだってどういう意味よ!」
だが次の瞬間、崩れ落ちていく世界には、彼女一人しかいなかった。
目を覚ました。
最初に感じたのは、どこか懐かしい花の香り。
フィロメルは身体を起こし、口の中に残っていたものを吐き出した。
それは、花の形をした――岩の巨人の触手の一部。
「これのおかげで……助かったみたいね」
もしそうでなければ、今もなお幻の中に閉じ込められていたに違いない。
――モンスター図鑑で読んだことがある。岩の巨人は、沈黙のワイバーンの天敵であり、精神干渉系の毒に対して高い耐性を持つ、と。
「……もしかしたら、と思ったけど。ちゃんと効果があったみたい」
彼女は小さく息を吐き、そう呟いた。
確信はなかった。
フィロメルは、ただ偶然手に入れた触手を持っていただけだ。
ナサールが彼女のために危険を冒して持ち帰ってくれた品なのだから。
それでも、彼女はモンスター図鑑の記述を思い出し、藁にもすがる思いで花びらを持ってきていた。
試験開始前、神官たちは候補者たちの身体を徹底的に検査した。
だが、袖の中に隠した花びら一枚までは、見つけ出せなかった。
「触手を口に入れたからといって、私にまで耐性がつくとは考えにくいけれど……」
少なくとも、鼻を刺すほど強烈な香りなら、眠りを覚ます効果はあるはずだと判断した。
「……こんなことをしている場合じゃない」
イエリスに襲われたことを思い出し、フィロメルはこの事実を一刻も早く伝えねばならないと判断した。
彼女はよろめきながらも、身体を起こす。
暗い回廊を駆け抜けた。
まだ意識が完全に冴えきっていないせいか、足取りはどこか心もとない。
やがて、元の食堂へと足を踏み入れた瞬間――溢れるほどのまばゆい光に、フィロメルは思わず目を細めた。
少しして、ようやく視界がはっきりする。
そこには、数え切れないほどの人影があった。
「……」
「……」
唇を引き結び、愕然とした表情を浮かべたままの人々。
言葉を失い、凍りついたように立ち尽くす面々――。
それから間もなく、人々は歓声を上げた。
彼女はようやく状況を理解した。
「そうだ……試験の最中だった……」
イエリスの出現があまりにも衝撃的で、試験の合否は人々の記憶の奥へと押しやられてしまっていた。
フィロメルは周囲を見回した。
キリエンは、まだ夢の中にいるようだった。――彼女の勝利だ。
こうして、勇者が誕生した。







