こんにちは、ピッコです。
「育児もの小説の悪役に転生しました」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
21話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- とんでもない噂
公爵邸へ向かう馬車の中で、ビビは見るからにしょんぼりしているレイモンをじっと見つめた。
「レイモンお兄ちゃん」
「……」
「ねえ、ビビはティタニアお姉ちゃんと会ってからまだそんなに経ってないから、よく分からないの。レイモンお兄ちゃんとティタニアお姉ちゃんの関係のこと」
いや、回帰者ビビは知っていた。
知らないはずがなかった。だから今世では長兄とティタニアの安全な破婚を主導しようとまでしたのに。
ビビは複雑な表情を浮かべたレイモンを再び見つめながら、考えを整理した。
エレイン皇妃が不治の病を患っていることは、世間にも知られていた。
今のところ病名すら正確には知られていなかった。
遠い未来、似た症状の患者が何人も現れ、それが「アレルレネ病」だと古い文献を調べた何者かによって明らかになっただけだ。
ビビにさまざまな実験を強行した魔法使いが試していた薬の一つが、その病の治療薬だった。
治療薬にアレルレネの花の根が使われていたことから、「アレルレネ病」と呼ばれていた。
アレルレネの花の根は非常に希少で高価だった。海辺の断崖に、たまに一本だけ咲く珍しい野草だった。
アレルレネ病にかかると、まず体重が急激に減り、全身から力が抜けていった。消化器官も急速に弱まり、何を食べても消化することが難しくなった。
最後には呼吸器まで徐々に機能しなくなり、まともに息をすることもできず、喘ぎながら死に至った。
これといった原因もなく、ただゆっくりと症状だけが現れることから、不治の病として知られていた。
ところが実は、毒を飲まされていたのだというのか?
病気になったんじゃないの?
『……原作のラスパーお兄ちゃんも、アレルレネ病にかかったって言ってた』
ビビは唇を噛んだ。
アレルレネ病にかかる者の大半は、剣の修練をしない一般人だった。室内で過ごすことが多く、体を鍛えていない者たち。普段から体が弱いと言われる者がほとんどだった。
そのため、誰もが初めはただの風邪か、疲れすぎたのだろうと軽く考えていた。そして徐々に病状が悪化しても、なかなか病名や原因を突き止められず、絶望に陥った。
後になって推測されたことだが、何らかの理由で――
おそらく、体内の力の均衡が崩れることで発症する病なのではないか、と推測していた。
魔法使いがビビに薬を飲ませたのも、当時ラスパーがその病にかかっていたからだった。
公爵家の三兄弟の中で、唯一剣を修練しなかった末弟ラスパー。
彼は首都には上がらず、本家の領地でずっと学問を修めていた。そして他の兄弟に比べて体が丈夫なほうではない。当時知られていた情報は、その程度だった。
病にかかった後、公爵邸が人目を避けて薬を探し回っていた時でさえ、それ以上の情報が知られることはなかった。
「……アレルレネ病が、実は不治の病ではなく、特――」
「純粋な毒による中毒症状なのかもしれない」
エレイン皇妃が亡くなってから、この病の患者が増え始めた。エレイン皇妃によって有名になった病だったため、いつしか「美人薄命病」と呼ぶ者まで現れた。
今になって考えてみれば、それも不自然だった。
病気の原因すらまともに分かっていないのに、アレルレネの花を使った治療薬をビビに試していた魔法使いの態度も。
詳しい情報を得るには、エレイン皇妃に接触するのが一番手っ取り早いだろう。
皇后やクレオ皇妃が毒を盛ったのではなく、エレイン皇妃が自ら毒を飲んでいるのだとしたら……。
「でも、でも……」
ビビは、笑顔で壁を作り、どこか距離を置いていたティタニアの顔を思い浮かべた。
自分の死を悟る前から、すべてを諦めたかのような、ひどく疲れ切った顔で笑っていた姿も。
ビビが回帰したように、彼女もまた今世では何かが変わっているのかもしれない。
だから、あれほど執着していたレイモンに対して以前とは違う態度を見せ、ビビを助けようとしたのかもしれない。でも。
『聞けないよ……』
ビビは唇の端を噛んだ。
ビビにはカストライン公爵家があった。
自分たちを後回しにしてでも、何をしてもいいのだと応援して――
特別な治療法があるということだった。だからティタニアはビビにきっぱりと、「夫より友人を、家族より遠い親戚を選びなさい」と言い聞かせていたのだ。
カストライン公爵家を、家族を最優先にしなさい。
私のせいで大切な人と疎遠になってはいけない。選ぶ必要なんてないのだと。
ティタニアが心から心配してそう言っているのなら、それは偽善なのだろうか?
持っているものが多い者が施す善意に見えるのだろうか?
ビビは悩んだ。しかし、以前のように答えを見つけることはできなかった。
「お兄様はお姉様とどういう関係なの?」
「……婚約者だ」
しかし、そう答える声は不安定だった。そう、自分でも感じていたのだろう。
今日ティタニアがはっきりと見せた態度は、婚約者に対するものではなかった。かつて愛していた相手に対する態度でもなかった。
むしろ、はっきりしているといえば、はっきりしていた。
これまでレイモンがティタニアに見せてきた態度そのものだった。
法的な婚約関係にあることは否定しない。ただ、それだけだ。
私たちは政略的な関係であり、互いを信頼したり、大切に思ったり、愛し合ったりする関係になるとは思っていない。結婚まで至るかどうかも分からない。
「私だって全部知ってるよ。カストライン公爵家の人たちもみんな知ってる。自作自演なんじゃないかって疑ってた人たちまでいたじゃない。お兄ちゃんがすごく怖い顔で怒ったから、みんな何も言わなくなったけど」
ビビはしばし過去を思い返した。
・
・
・
レイモンとティタニアが交わした契約の内容は、カストライン公爵邸の中でもごく一部の者しか知らないことだった。
そのため、侍従の一人や二人がティタニアが変わったことや、公爵家と新たな契約を結ぶことになったという事実など知るはずもなく、ただ皇宮で事故に遭い倒れたティタニアのもとへ送られる品々の列を見ながら、こんなふうにひそひそと囁き合っていた。
「あの忌々しい皇女が、今度はうちの末のお嬢様を利用したんじゃないか?」
「あり得るな。それにしても情報が回るのが早すぎる」
「死んでもいなかったんだろ? なのにここまで大げさにする必要があるのか? そもそもあの皇女がこれまでレイモン公爵様にどんな仕打ちをしてきたか……」
「目を覚まさないって話だって嘘かもしれない。今までどれだけくだらない嘘をついてきた? 隙さえあれば痛いだの何だのって……」
ビビはメインの廊下で窓を開け放ち、ひそひそと噂話をしている使用人たちを見ながら、こいつらを一体どう処分すればすっきりするだろうかと考えていた。
これまで金を着服してきた使用人たちを追い出して――
大勢で寄ってたかって責め立てるのはいいけど。
人手が足りないからと急きょ選ばれただけの使用人たちが、今回のことをあんなふうに騒ぎ立てるなんて、誰が予想できただろう。
そろそろ姿を現そうかと考えていたその時、冷ややかな声が廊下に響いた。
『カストライン公爵家を甘く見ている連中が、こんなに多いとはな』
一か所に集まって騒いでいた者たちは、一瞬にして驚き、弁明を始めた。
『レイモン若公爵様!』
『た、ただ若公爵様を心配して話していただけです』
「そうですよ。あのずる賢い女が、今度こそ――」
「誰がその基準を決めたんだ?」
「……はい?」
「誰かの目にはずる賢く映り、誰かの目には善良に映る。確かに過去には欠点もあった。だが、現カストライン小公爵の婚約者であり、小公爵令嬢の恩人でもある。カストライン家の血族すべてを、刺激すればすぐ踊らされる無能な愚か者だと侮辱する手腕が、これほど見事だったとは驚きだな」
「小公爵様、お許しください!」
「二度と軽率に口を開きません!」
ビビは驚いて目をぱちぱちさせた。
いや、兄が止めなければ、ビビ自身が乗り出そうかと考えていたくらいなのに……。
遅れて駆けつけてきた執事に、レイモンがひどく冷たい声で告げた。
「こいつら全員、魔晶石採掘場へ送れ」
「公爵様!」
「口で犯した罪だからと、大した罰を受けないと思っていたのなら誤算だ。私が罰を下したことを後悔する前に、その口を閉じろ」
そう、ビビはそのとき、レイモンが残念そうな眼差しで自分の剣を見つめていたことを見逃さなかった。
本当にレイモンは、その場で彼らを斬り捨てようかとしばらく悩んでいたのだ。
カストライン公爵家が所有する魔晶石鉱山の主な採掘場は二か所ある。
一つは一般の労働者を雇い、安全を優先している場所。もう一つは危険で過酷な場所で、主に罪人たちが送られていた。
ずっと以前なら、無視するか、せいぜい減給程度で済ませていただろう。いや、不敬にも主人たちの事情を口にしたとしても、執事長や侍女長が自ら取り締まるまで、何事も起こらなかったはずだ。
レイモンは間違いなくカストライン公爵家の次期当主であり、それにふさわしい行動を取ってきた。だが、一度の過ちだけで罪人たちの労役場へ使用人を送るようなことはしなかったのに……。
明らかに彼らは、カストライン家の判断力そのものを――
ビビは疑問に思った。ティタニアの挑発に踊らされているのではないかと、公爵家の皆を侮辱したも同然だった。
けれど……。
『口を軽々しく開いたことを罪だと思うのなら、無闇に公平で公正な長兄自身も罪悪感を抱かないはずがないのに』
ティタニア皇女の過去の行いについては聞いていた。皇宮へ行く前に、すでに簡単な話を聞いていたのだ。
特にレイモンにどれほど多くのことをしたのか。聞くだけでもうんざりするような数々の行いを。それでもレイモンは眉一つ動かさず耐え抜いたということも。
今のティタニアに対して、レイモンが好感を抱いていることは明らかだった――
抱いている。
カストライン家の恩人に対して、この程度は当然のことだと自分に言い聞かせてはいるが、公的に感謝を示すことと、私的に近づくことは別だ。
以前は皇宮の近くにさえ寄りつかなかったリシアンサスが、ティタニアが皇后宮に出入りするようになってからは、どうにか機会を見つけて入宮しようとしているのを見てもそうだった。
レイモンは四六時中忙しいにもかかわらず、リシアンサスが入宮したと聞けば、まるで幽霊のように現れ、何かと口実をつけて連れ戻してきた。
ビビからすれば、まったく子供じみていた。
「患者を過度に興奮させるのはよくない」
『あ、兄貴! 兄貴! どうしたんだよ! 本当に病室に行こうとしてるのか!』
『お前の見舞いが、本当に患者のためになると思っているのか? この前のジャミ宮放火事件の時だって、お前が病気の皇女を……』
『いや、それは俺が言っただろ! ムカついて殴ったんだって! いやぁ、あいつ本当に腹立つんだよ。あ、でも、そういえばあいつ最近、宮殿で……いや、何でもない……』
『宮殿で?』
『いや、その……待遇が悪いのか? 違うよな……? でも幻聴だか何だか聞こえるらしくて』
『……幻聴だと?』
『うん……あの、帳簿を管理してる奴、クビにしろって――』
――と言っていたけれど。まったく、服なんかを見る限り、とても豪華に暮らしているように見えるけど。違うのか? 礼儀作法が厳しくて食事もろくにさせてもらえないのか?」
「……」
レイモンはしばらく黙り込んだ後、リシアンサスに薔薇宮でティタニアと私が交わした会話の一部始終を執拗に問いただした。
リシアンサスはぶつぶつと答えながらも、なぜか本能的に疑問を抱いたようだった。
「……俺はあいつが、本当に何不自由なく暮らしていると思っていたんだけど」
「……」
「ちくしょう。自分の家でも安心して暮らせなかったんじゃないかって気もするし」
レイモンはリシアンサスの言葉を黙って聞き流していたが、すぐそばに立っていたビビには分かった。
レイモンの表情が、いつもよりひときわ冷たくなっていることに。
だからいっそのこと、心の奥に押し込めている感情を少しでも吐き出して、どうにか解決してみろというつもりで結婚の話を持ち出し、レイモンを挑発した。
戸惑うティタニアとは違い、レイモンはとても落ち着きながらも、はっきりとした態度で結婚を進めようとしていた。
それだけを見ても、ビビにはレイモンの本心が手に取るように分かる気がしたのだが……。
「だから恩人だという口実で、これ以上、私に――」
『口出ししようなんて考えないでください』
実に冷たく突き放した言葉だった。
「分からない」
「何が?」
「私の行動に対する答えが」
レイモンはいつもと違い、馬車の床に視線を落としたままだった。ビビでさえ、その顔をまともに見ることができなかった。
声もひどく低かった。
「……ティタニア皇女殿下の言うことが正しい。恩を仇で返したいというのなら、それも構わない。君との関係も悪くないし……もともとは名目上だけの婚約だったのだから……」
まるで誰かに胸の奥を鋭いもので何度も突き刺されているような――
レイモンは顔をしかめた。
「それに、私が気づくのが遅すぎて、本当に……」
ティタニア皇女が腕の中で息を失いかけた瞬間を思い出すだけで、レイモンは息が詰まるような気がした。
負傷者の臨終に立ち会ったことなら、数え切れないほどあった。致命傷を負った者を安らかに逝かせてやったことも多かった。
しかし、あれほど強く抱きしめただけで折れてしまいそうなほど弱々しい者が、腕の中でか細く息を失っていくのを見るのは……初めてだった。
大丈夫だ、今度こそは大丈夫だ――そう思っているかのように、ガナダラが安心したように微笑む口元を見た瞬間、胸の奥が締めつけられた。
初めて味わう感覚だった。
息が止まり、そして再び息を吹き返した瞬間。
本能的に思った。
何かが間違っている、と。
自分が遅すぎたのだ、と。
その事実一つだけで、この人の前では下手をすれば永遠に罪人になってしまうのだ、と。
「……助けられないところだったから」
だから、恨んで距離を置くのが正しい。
そう思いながら、漠然と金色の瞳は風にさらされた木の葉のように、落ち着きなく揺れていた。
「つまり、お兄様は罪悪感に苛まれて、それで――」
「……ってことで合ってるよね?」
「…………」
ビビは黙り込んだレイモンを見て、ため息をつきながら言った。
時には、当事者よりも周りにいる人間のほうが、物事をはっきりと見抜けることがある。
レイモンはただ罪悪感のせいだと言い張っていたが、ビビにはそうは見えなかった。
レイモンは、単なる罪悪感だけで結婚を強行するほど愚かではない。
「はぁ、分かんない。もう分かんないよ。リシアンサスお兄ちゃんはすごく楽しそうだったのに。二人をくっつけて半分ずつ分けておけばちょうどよさそう」
「……リシアンが君に直接、何か言っていたのか?」
罪悪感なのか、責任感なのか、それとも過去への後悔なのか。
ティタニアのことで突然落ち着きを失い、地団駄を踏む長兄。
皇宮へ乗り込んでひと騒ぎ起こしてきたかと思えば、今度は自分の心にまで火がついたのか、急にティタニアを擁護し始める次兄。
そして、その次兄の反応に敏感に反応する長兄……。
ビビの目が曇った。
ああ、なぜだろう。急にティタニアお姉様に「今すぐ逃げて」と言ってあげたくなってきた。
確かに大好きなお兄様たちだけど、能力もあって容姿もよく、家柄も申し分ない私のお兄様たちだけど……。
『ああ、毎日大変だ』が口癖の人に――
まるで二匹の猛犬が、互いに牙をむき出しにして尻尾を窺っているのを見ているような気分、とでも言えばいいのだろうか。いや、一匹でも手に負えないのに、それが二匹に増えたような気分と言うべきか。
とはいえ、だからといって「ティタニアお姉様には手を出さず、距離を置いて見守ろう」と言うには、ティタニアがあまりにも危なっかしく見えた。
いや、そもそも本人がカストライン公爵家を心配している場合なの? 違うでしょ?
「お兄様こそ、急にお兄様をどうしてそんなに警戒するの? 事故だけは起こすなって、いつも言うだけだったじゃない?」
「あいつはあまりにも血気盛んすぎる」
「今では後始末にも慣れたって言ってたじゃない?」
「患者に迷惑をかけるわけにはいかないだろ。今度は皇后宮に火でもつけるつもりなのか、なんて言われたら……」
『それは話し合って決めたことだったんだけど……』と言おうとしたが、自分でもきちんと自覚できていない話題に触れるのが気まずくて、ビビは再び曖昧に言葉を濁した。
「レイモンお兄ちゃん」
「ん?」
「ビビはレイモンお兄ちゃんのこと、いつだって信じてるし、大好きだよ」
「私も君を愛している」
無表情だった顔に、かすかな笑みが浮かぶ。
こんな答えが返ってくるようになるまでには、長い時間がかかった。
まるで機械のように、「パパ、大好き! 長兄、大好き! 次兄、大好き! 末兄、大好き!」と叫びながら二週間以上もついて回って、ようやくあんな答えが返ってきたのだ。
「でも、長兄の狭量な嫉妬は好きじゃない……」
「嫉妬ではない」
「否定するそのみみっちさも好きじゃない……」
「嫉妬ではないと言っただろう、ビビ。リシアンサスは最近ひどく興奮していた。皇女殿下と会った時、自分の力を制御できない可能性があまりにも高かったんだ」
「防火用の魔晶石がお姉様の部屋にあるじゃない」
「……皇后宮のすべての廊下に敷かれているわけではない」
「もしかしたら廊下で何かやらかすかもしれないと思って、廊下には力増幅用の魔晶石を敷いて、部屋の中では暴れられないようにしておいたじゃない」
「皇后宮の使用人たちに、力の秘密を知られる可能性はまだ残っている」
自分の気持ちや感情を否定しながら、もっともらしい言い訳ばかり並べるレイモンを相手にしていては、きりがなかった。
公爵邸に到着し、ゆっくりと進む馬車の中で、ビビはしばらく目を閉じた。
「ティタニアお姉様、ごめんなさい。でも私、できる限り頑張るから。ビビが本当に頑張るから」
たまに腹が立つこともある兄二人を、どうか見捨てないで……。
ビビはカストライン公爵家を心から愛して――
そうだった。
けれど、時折彼らが人を息苦しくさせるほど追い詰めることがあるという事実も忘れてはいなかった。
・
・
・
「いったい、いつまで続くのよ」
洗濯をしていたミリアムが、幽霊のようなバラ園を眺めながら舌打ちした。
きれいに手入れされていた塀と、生け垣に囲まれた庭園はそのままだった。壁の一部が崩れ、応接室の中が丸見えになっているところをカーテンのようなもので覆ってはいたものの、どこまでいっても一時しのぎにしか見えなかった。
ひとまず工事だけを進め、ティタニア皇女が宮を離れた後に本格的な補修工事へ入る予定だったが、突然皇女が事故に遭い、生死の境をさまことになったため、どうしようもないことではあった。
皇女がまだ目を覚ましていないこの状況で、薔薇宮の工事を進めようなどと言える者は誰もいなかった。
宮内の反応は慌ただしかった。
特にティタニアの容体を知ろうと皇后宮の正門へ集まった薔薇宮の侍女たちは、悲惨な有様を目の当たりにしてからはなおさらだった。
これまでいじめられることがなかったわけではないだけに、なおさら。
だからこそミリアムは、よりいっそう固く決意した。
薔薇宮の品物を盗むことを。
「ちょっとだけ、ちょっとだけ触るのよ」
皇女すら薔薇宮にいないのだから、誰が気にするというのか。
ミリアムは先ほど、ナタリーが慌ただしい足取りで薔薇宮を出てどこかへ向かうのをしっかり見届けていた。だから今、薔薇宮には誰もいないと確信していた。
他の侍女たちは、薔薇宮が怖いと言っていた。
事件が起きて、薔薇宮の侍女たちが拷問同然の取り調べを受けるようになってからは、なおさらだった。
空っぽの宮殿から妙な音が聞こえるだの、幽霊がいるのではないかと怯えていた。
「幽霊なんているわけないでしょ? 臆病者たち」
ミリアムは鼻で笑いながら周囲を見回し、幽霊のように静まり返った薔薇宮の中へこっそりと足を踏み入れた。
――皇帝が薔薇宮の使用人たちをどう処分するつもりなのか分からない、激怒している、今回の件に関わった者たちがどのような形で処罰されるか分からない――そんな噂が飛び交っていた。肝心の皇女本人は皇后宮にいるものの、生きているのかどうかさえ誰も知らなかった。
だからこそミリアムは、今回こそ一儲けする絶好の機会だと確信していた。
『いくら落ちぶれた皇女だって、やっぱり皇女よ。まともな銀食器や装身具をいくつか持ち出すだけでも、かなりの金になるわ』
以前この宮を守っていた連中がいたならともかく、今の彼らはいつ処分されるかも分からない状況だ。
装身具が二つや三つなくなったところで、混乱の中で戻ってきた皇女がそれに気づいたところで、いったい誰に罪に問われるだろうか? 誰にも知られないうちに消えてしまえば、それまでだ。
火に焼かれて真っ黒に焦げた廊下の片側を見ても、ミリアムは怯まなかった。
むしろ、この凄惨な光景に恐れをなした他の者たちが、仕事すらろくにしていないことを幸運だと思った。
建物の基本的な構造くらいは把握していた。
ミリアムはまず、皇女の部屋から物色することにした。
驚いたことに、扉には鍵がかかっていなかった。もっとも、薔薇宮の侍女たちはティタニアが事故に遭った後、自分たちまで処罰されるかもしれないという恐怖に怯え、こんな基本的なことにすら気を配る余裕がなかったのだ。
そして、本当に貴重品がなくなれば、彼女たちは――
「これ全部ひっくり返してやるのに、馬鹿ども」
もちろんミリアムには都合がよかった。自分の犯行が露見することもないだろうから。
キィィィッ。
扉を開けたミリアムは、慎重に顔を部屋の中へ突っ込んだ。埃っぽい匂いがした。昼間だというのに、窓という窓すべてにカーテンが引かれ、日の光が入らず薄暗かった。
寝室だろうか? 一番奥には天蓋付きの大きなベッドと、その横に小さなテーブルが見えた。
萎れかけた花が挿された花瓶には目もくれず、その下の引き出しを開けた。
小さなロケットペンダントが見えた。
真鍮でできた粗末な品で、値打ちはなさそうだったが、もしかしたら中に宝石でも入っているかもしれない。
そう思い、ミリアムはそれを開けた。
小さな肖像画だった。
真っ黒な髪に、ひときわ鮮やかな金色の瞳。ひと目見ただけで誰なのか分かった。
今よりずっと幼い頃のレイモン若公爵だった。市中で平民向けに売られている品なのか、粗雑な絵だった。
「……気分悪い」
ミリアムは途端に気分が悪くなった。レイモン若公爵に夢中になってつきまとっていたティタニアのことを思い出し、妙な良心の呵責を覚えたからだ。
『侍女に金を渡して買わせたものか、それともお気に入りの宝石でも入れてあるのかしら!』
ミリアムは震える手でロケットを閉じ、引き出しの中に入れた。
部屋をざっと漁った後、化粧室や衣装部屋を探すほうがよ사そうだった。いくら薔薇宮とはいえ、高価な装身具は基本的に箱に入れて鍵をかけ、侍女が別に保管しているものだ。
宝石箱に入れるほどでもない金や銀でもあればいいのに。
ミリアムが辺りを見回した、その時だった。
「……あら」
妙な声が聞こえた。ミリアムの後頭部に鳥肌が立った。
誰かがすぐ後ろに立って、囁いているような気がした。
『……侵入……者よ……』
ブツッ、ブツッ、と何かが無理やり途切れるような音。
ミリアムは手を震わせながら振り返った。
何もなかった。
ただ、先ほどはなぜ気づかなかったのだろうと思うほど華やかな箱が、ベッド脇の床に置かれているのが見えた。細長い形からして、杖や剣、弓などを収納しているようだった。
触らないほうがいいかしら?
そう思いながらも、ミリアムは箱に手を伸ばした。
箱の蓋を開けると、赤い布の上に剣の柄と剣の鍔をきれいに並べて置いたような品が見えた。
何も知らないミリアムから見ても、かなり値打ちの剣のようなものだった。
普段なら、ミリアムはこんな剣には決して手を出さなかっただろう。
いくら泥棒だとしても、何も考えていないわけではない。装身具でもない名剣を、ただの侍女一人が後腐れなく処分できるはずがなかった。
しかし妙なことに、ミリアムは何かに取り憑かれたように赤い布をほどいた。そして当然のように鞘から剣を抜こうと、柄を握った瞬間――
『泥棒だ!!!!!! (ㅇ△ㅇ)!!!!!!』
「きゃあああああああっ!!!!!!」
頭の中で誰かが悲鳴を上げた。
「きゃっ、きゃあっ、きゃああああっ!!!!!!」
再び響き渡る、はっきりとした悲鳴!
バチバチッ!
さらに指先に雷が走るような感覚がして、ミリアムは悲鳴を上げながら剣を取り落とした。その拍子に鞘から完全に抜け落ちた剣が、床に転がった。
「契約者様!!!!! 契約者様、大変です! 泥棒、泥棒、泥棒です! 破廉恥な泥棒ですよ!!!!! 私を狙ったんでしょう! この美しく高貴で、契約者様に献身的な私を! 私を売り飛ばして解体し、一攫千金を狙うつもりなんでしょう! そうに違いありません! ティタニア様、どこにいらっしゃるんですか! あなたの可愛い子が危険です!!!」
ウゥン、ウゥゥン、ウゥゥゥゥン……!
ティタニアがこの場にいたなら、耐えきれず耳を塞いでいただろうほどのけたたましい音だった。
ミリアムはびくりとした。突然、頭の中で誰かが鋭く悲鳴を上げたような感覚は消えたものの、静かだった剣が突然震え始めたのではないか。もちろん、ミリアムには剣の声などまともに聞こえてはいなかった。
ただ、取り憑かれたように剣を手に取ると、頭の中で誰かが悲鳴を上げ、指先には電流が走った。おまけに剣が幽霊にでも取り憑かれたかのように、ウゥンウゥンと唸っているではないか。それだけでも十分に恐ろしかった。
まるで、
「よくもこの宮殿に侵入したな!」
とでも言っているかのように!
まるで、自分の首ではないものを狙った罪人を断罪するとでも言うように!
ま、まさか。いくらなんでも、ほかでもない皇女の部屋が開け放たれているのに、誰も気に留めていないなんて。泥棒が入った痕跡すらないし……これは……。
『まさか、私みたいな人間をこの剣がみんな喰らったの? みんなの噂は本当だった? 私は呪われたの?』
混乱したミリアムの思考が、とんでもない方向へと暴走していった。
ミリアムが最初に予想していた状況と、現実はまるで違っていた。
ただ皆が薔薇宮に関心を払わず、空っぽの――
そうだっただけだ。もともと勤務態度が非常に悪かった衛兵たちは皇帝の怒りを買い、投獄された。そして新たな衛兵が配置されることもなかった。
残っていた薔薇宮の使用人たちも皆逃げ出してしまったのだから、誰がこの荒れ果てた宮に残ろうとするだろう。
しかもこの件にはカストライン公爵家まで関わっている。クレオ皇妃も恐ろしく、カストライン公爵家も恐ろしい宮人たちは、あえてこの宮に近づこうとすらしなかった。
だからこそ、肝が据わって大胆ではあるものの、悪い方向にばかり頭の回るミリアムが、薔薇宮へ盗みに入った最初の侍女となったのだ。
その中でも特に、まったく恐れることなく大胆にも皇女の部屋から手をつけたミリアムの度胸は大したものだったが……。
ウゥン、ウゥゥン、ウゥゥゥン、ウゥン……!
剣はまるで怒りを露わにするかのように、先ほどよりも激しく震えた。ミリアムは思わず剣を取り落とした。宙に浮かんだ剣の刃が、ひときわ不気味な白い光を放った。
まさか勝手に動いて、私の首を斬り落とすんじゃないでしょうね?!
「た、た、助けてください! 幽霊に取り憑かれた剣が、人を、人を……! 人を殺そうとしてます! きゃあああっ! ごめんなさい!」
すっかり恐慌状態に陥ったミリアムは、ついに泣き叫びながら逃げ出した。
そしてこれが、わずか3日後には皆の間で、
『薔薇宮には呪われた剣がある。ティタニア皇女の墜落――』
事故も、あの呪われた剣のせいで起きたのだという。薔薇宮が空になった今では、近くを通る者をおびき寄せて喰らおうとする魔剣なのだ! この剣を処分してこそ、ティタニア皇女殿下がお目覚めになるのだ!
……という、とんでもない噂が広まったきっかけだった。
1. レイモンとティタニアの関係に対するビビの葛藤
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アレルレネ病の真相: ビビは、かつて魔法使いから実験的に試された薬や、周囲の状況から、世間で「不治の病」とされるアレルレネ病が、実は「純粋な毒による中毒症状」ではないかと推測する。
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レイモンの心境: 婚約者であるはずのティタニアに対し、レイモンは愛情ではなく「間に合わなかったことへの強い罪悪感」や後悔に苛まれており、ビビはその複雑な心の内を見抜いている。
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兄たちの過保護な動向: レイモンはティタニアの恩人としての立場を理由に近づく一方で、次兄のリシアンサスもティタニアを気にかけるなど、二人の兄がピリついた様子を見せているため、ビビは頭を抱えている。
2. カストライン公爵家の厳格な対応
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レイモンとティタニアの婚約や状況を陰で嘲笑い、軽率な噂話をしていた使用人たちに対し、レイモンは激怒。
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「カストライン家を侮辱した」として、彼らを一発レッドカードで過酷な「魔晶石採掘場の罪人労役場」へと送り、周囲を震え上がらせた。
3. 薔薇宮での泥棒騒動と「魔剣」の噂
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ミリアムの侵入: 主不在で荒れ果てたティタニアの「薔薇宮」に、侍女のミリアムが一儲けしようとこっそり忍び込む。
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意思を持つ剣: ティタニアの部屋で華やかな箱を見つけたミリアムが中の剣の柄に触れた瞬間、頭の中に直接響く叫び声や電撃のような衝撃が走り、剣自体も奇妙な音を立てて激しく震え出す。
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呪いの噂の拡散: 恐怖のあまり泣き叫んで逃げ出したミリアムの体験がきっかけとなり、わずか3日後には「薔薇宮には人を喰らう呪われた魔剣がある」という突飛な噂が宮中に広まることになった。