こんにちは、ピッコです。
「シンデレラを大切に育てました」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
237話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- リリーの世界
リリーは深い悩みに沈んでいた。画家の集まりに加わること自体はフィリップおじさんの計らいで難なく叶ったものの、「サロン」という、さらに大きな壁が目の前に立ちはだかっていたからだ。
社交界において、男性には「クラブ」という憩いの場がある。食事や時には宿泊まで提供してくれるクラブは、特別な催しがなくても男たちが自然に集い、絆を深める社交の場だったが、当然ながら女性の立ち入りは禁じられていた。そのため女性たちは、自邸の応接室や茶室に知人を招いて独自の社交を始め、それがやがて「サロン」と呼ばれる文化へと発展していったのだ。
面白いことに、新たな芸術家を発掘し、世に送り出す支援の力は、男性限定のクラブよりも女性たちのサロンのほうがはるかに大きかった。だからこそ、リリーの周囲にいる画家たちはみな、社交界で有力な夫人のサロンに招かれ、お披露目されることを切望しているのだった。
「お母様に頼んでみたら?」
悩むリリーの横で、妹のアシュリーが何気なく尋ねた。
社交界で力のある夫人といえば、二人の母であるミルドレッド・ヴァンスを外すことはできない。もちろん、母は純粋な社交よりも実業の分野でより凄まじい影響力を誇ってはいたが。
しかし、リリーは別の理由で首を横に振った。
「だめよ。お母様のサロンで紹介されるなんて……想像しただけで、どれだけ恥ずかしいと思う?」
サロンで紹介されるということは、そのサロンの主催者に芸術家として認められたという証になる。主催者がどれほどの権力を持ち、どれほど優れた審美眼の持ち主であるかによって、紹介された新人の実力や価値までもが評価される仕組みなのだ。
リリーは母の影響力も、その確かな審美眼も心から信じていた。けれど、そこで称賛されるべき芸術家が「自分」だとはどうしても思えなかった。どれほど母が偉大であろうとも、親の庇護のもとで芸術家としてデビューするなんて、あまりにも気恥ずかしく、身内びいきのように思えて耐えられなかった。
「じゃあ、アイリスお姉様は?」
アイリスはまだ「夫人」という立場ではないものの、今や社交界で最も影響力のある女性の一人だった。彼女が開くサロンの招待状を受け取った者は、誰一人として欠かさず出席すると評判になるほどだ。
それはアイリスが皇太子妃だからという理由だけではなかった。彼女の日頃の気高い行いが、人々の心からの支持を集めていたからでもある。アイリスは名門アカデミーに女性を受け入れることを最も熱心に推進した立役者であり、労働者の待遇改善や、孤児・病人のための教育と福祉にも並々ならぬ情熱を注いでいた。
「無理よ」
リリーは今回もアシュリーの提案をぴしゃりと遮った。アイリスのサロンも魅力的ではあるが、彼女もまた大切な家族だ。母のサロンよりは少しはましだったとしても、姉の引き立てでデビューを飾ることは、リリーの自尊心がどうしても許さなかった。
アシュリーは、それならケイシー侯爵夫人に頼んではどうかと言いかけ、すぐに口をつぐんだ。彼女自身、それは現実的ではないと分かっていたからだ。
妹が自分と同じように眉をひそめて悩み始めると、リリーは可笑しそうにくすくすと笑った。
「心配しないで。紹介してくれる人がいなくて困っているわけじゃないのよ」
「いないってことじゃないの?」
「問題なのは、私自身なの」
実際のところ、紹介の手手を差し伸べてくれる心当たりはいくらでもあった。二人の継母であるマーフィー伯爵夫人もいるし、かつてアシュリーに無礼を働いたことを謝罪して以来、すっかり親しくなったスチュワード伯爵夫人もいる。高名なロアン侯爵夫人だって力を貸してくれるだろう。
「でもね、そういう親しい知り合いに紹介されると、人々は決まってこう思うわ」
「……『実力ではなく、コネで上がってきたんだ』って、疑われるのが怖いのね」
続くリリーの言葉を先回りしたアシュリーは、何も言わずに姉をじっと見つめた。リリー自身は「自分はアイリスお姉様とは違う」と思っているようだが、こういう頑ななところを見るたび、アシュリーは二人が確かに血を分けた姉妹なのだと実感する。
二人とも、恐ろしいほどプライドが高いのだ。相手の受ける助けが公的な支援や、単なる業務上の縁であるなら全く気にしない。しかし、自分の実力に対する絶対的な誇りがあるからこそ、そこに少しでも身内の情や不透明なコネという泥が塗られることを、激しく拒むのだった。
誰かの助けを素直に受け入れることに慣れているアシュリーとは違い、リリーは「自分にできることは何か」を静かに模索していた。サロンなら、その気になれば自分自身で開くこともできる。アイリスほどの規模にはならずとも、自分が招待状を送れば、多くの人々が足を運んでくれるはずだ。
だが、アイリスが自身のサロンで自分を誇示しないのと同じ理由で、リリーもまた、自らが主催する形でデビューすることは避けたかった。
では、一体どうすればいいのだろう。
頭を悩ませるアシュリーを見て、リリーはふっと表情を和らげ、話題を変えるように尋ねた。
「アシュリー、明日は私と一緒に画家の集まりに行ってくれるでしょう?」
リリーは定期的に、画家たちが集う会合へと足を運んでいた。芸術家同士で交流し、新たな情報を得るためだ。しかし問題は、その帰り道に毎回、ダグラス・ケイシーが迎えに来ることだった。
最初はフィリップおじさんだった。画家の集まりが開かれるカフェの周辺は、貴族の令嬢が一人で出歩くには治安が悪く危険だという理由で、おじさんが彼女を気遣い、送り迎えをしてくれていたのだ。それがいつの間にか、その役目をダグラスが引き継ぐようになっていた。
「一人でも帰れる」と主張するリリーと、「危険だから絶対に許さない」と譲らないダグラスの衝突は、傍から見ているアシュリーでさえハラハラするほど激しいものだった。実際、リリーが迎えに来たダグラスを完全に無視し、近くにいた他人の馬車に乗り込んでそのまま帰ってしまったことすらある。
その一件を、なぜアシュリーやアイリスまでが知っているのかというと――。
他人の馬車に乗って去っていくリリーの後ろを、ダグラスの馬車が静かに、ぴったりとついてきていたからだ。
ダグラスは、リリーがどれほど冷たい言葉を浴びせようとも、彼女の安全だけは決して譲らなかった。彼女が自分を無視して別の馬車に乗ろうとも、その後ろを追いかけ、彼女が我が家の門を無事にくぐるのを確認するまでは絶対に離れようとしなかった。
(本当に、二人とも相当な頑固者よね……)
アシュリーは内心でため息をついた。アイリスとリアン皇太子の喧嘩であれば、激昂するアイリスに対してリアンが素直に謝罪することで幕が下りる。しかし、リリーとダグラスの争いはいつも、ダグラスを徹底的に無視して歩くリリーと、そんな彼女に文句ひとつ言わず、黙って背後を護衛するダグラスという、奇妙な形で平行線をたどっていた。
「リリー、私が一緒に行けば、ケイシー卿もそこまで口出しはしてこないと思うけれど」
アシュリーのもっともな提案に、リリーは苦い表情を浮かべた。彼女自身、ダグラスに余計な心配をかけたくはないのだろう。そう思ってはいるものの、だからといって大人しく彼の馬車にエスコートされて帰るのも癪だった。
アシュリーはそんな姉をしばらく見つめたあと、もう一つの案を出した。
「じゃあ、ジムかフィリップおじさんに送り迎えを頼んだらどうかしら? それならケイシー卿だって安心すると思うわ」
「嫌よ」
「どうして?」
「その人たちだって、結局はダグラスに認められた人たちでしょう? どうして私が行動するのに、ダグラスの基準で『合格』とされた人の保護を受けなきゃいけないのよ。私はダグラスの所有物じゃないわ」
アシュリーはハッとした。そう言われてみれば、確かにその通りだ。アシュリーの顔に驚きが広がる。と同時に、フィリップおじさんやダグラスたちが、なぜあれほどリリーに対して過保護で口うるさく言うのか、その理由が少しだけ理解できたような気がした。
彼らは根底で「女性は男性の保護を受けるべきだ」と考えているのだ。
そういう古い価値観を持つ人々から見れば、一人で立ち、自分の足で歩こうとするリリーは、確かに危なっかしくて「扱いづらい女性」に映るのだろう。
アシュリーは少し複雑な表情で言った。
「でも、ケイシー卿の心配も一理あるわ。あの通りにはスリや質の悪い用心棒が多いのも事実だもの」
「だったら、その通り自体を安全に改革すればいいじゃない。どうして男たちは自分たちで街を危険なままにしておいて、『守ってやる』なんて大義名分を掲げて私に制限をかけようとするの?」
胸のすくようなリリーの正論に、アシュリーは言葉を失った。そしてふと、いつか母が口にしていた言葉を思い出す。
『うちの娘たちは、少し反骨精神が強すぎるのよ』
そう言って優しく微笑んでいた母の顔が浮かぶ。アシュリーはそれを最高の褒め言葉だと思っていたし、自分の中にも同じ気質が眠っているのかもしれないと、少し誇らしくなった。
やがてアシュリーの思考は、自然と自分の仕事である石鹸工房へと移っていった。彼女の工房は街の外れにある。そこで働く従業員たちは、毎日の通勤に――かなりの長い時間を歩くか、あるいは決して安くない運賃を払って乗合馬車を使わなければならなかった。
これまでアシュリーは、「距離が遠いなら、従業員たちがもっと早く起きて出勤すればいいだけだ」と冷ややかに考えていた。だが、彼らは大切な自分の工房の仲間だ。距離そのものを縮めることはできなくても、通勤の負担を軽くするための手立て――例えば専用の送迎馬車を手配するなど――はあるはずだ。リリーの言葉は、思わぬところでアシュリーの経営者としての視点を開かせてくれた。
「おはようございます、ヴァンス嬢」
翌日、アシュリーの予想通り、ダグラスは画家の集まりが開かれるカフェの向かいに、いつもの馬車を止めて待機していた。
彼を見つけたリリーは途端に不機嫌そうに表情を硬くしたが、代わりにアシュリーが極めて自然に挨拶を交わした。
「おはようございます、ケイシー卿」
「……今日はリリーが心配で、ご一緒について来られたのですか?」
むしろ逆で、リリーに連れてこられたのだ。だがアシュリーはあえて真実を伏せ、ただ悪戯っぽく微笑んだ。リリーが「無理やりダグラスの馬車に乗せられたわけではない」という体裁を保ってあげるために。
少し強引な潜り込みだったが、今日の集まりは新鮮で面白かった。集まっていたのは画家だけでなく、詩人や音楽家、小説家など、多種多様な芸術家たちだったからだ。そしてアシュリーは、かねてより自分が愛読していた詩を詠む詩人、ヘンリーに出会うことすらできた。
ヘンリーともう少し深く言葉を交わしたいと思ったアシュリーは、遠くの席の彼をちらりと盗み見たあと、目の前にいるダグラスに静かに告げた。
「ケイシー卿、リリーをあまり苛立たせないであげてくださいね」
ダグラスの端正な顔が、わずかに曇った。彼だって、愛しい彼女を怒らせたいわけではない。だが、どうすればリリーの自尊心を傷つけずに、その身を危険から守れるのかが、どうしても分からなかったのだ。
「彼女は……あらゆる形の『男の保護』を、ひどく嫌うのだろう?」
切なげなダグラスの言葉に、アシュリーは深く頷きながら考え込んだ。アシュリーはダグラスという実直な男性が気に入っていた。リリーより年上で、彼女を包み込むような包容力がある。何より、守ろうとするあまり空回りしてはいるが、その行動の根底にはリリーを一人の自立した人間として尊重したいという誠実な思いやりがあることを知っていたからだ。
「あの、うちの旦那様(ダニエル)のことなんですけれど」
不意にアシュリーの口からダニエルの名前が出ると、ダグラスの眉がぴくりと動いた。なぜ今、ウィルフォード卿の話になるのだろう。確か卿は今、新婚の妻であるミルドレッドと共に、ヴァンス伯爵家の領地であるハルフォードに二ヶ月ほどの予定で新婚旅行に出かけているはずだった。
「以前、お母様がほんの少しだけ、肩の露出したドレスを着て夜会に出たことがあったんです。ほんの少し、このくらい……」
そう言いながら、アシュリーは自分の肩を手で覆って見せた。ダグラスの脳裏に、いつぞやの貴族の音楽会で見かけたヴァンス伯爵夫人の姿が鮮明に蘇る。確かに、息を呑むほど美しいドレスだった。
彼がその光景をよく覚えている理由は単純だ。その日、会場でウィルフォード卿から、言葉にできないほど冷酷で不機嫌な視線で睨みつけられたからである。
「母が部屋から出てきたとき、旦那様はすぐに、周囲にいた使用人たちを全員外に出したそうなんです」
正確には“追い出した”というよりは、急な用件を言いつけてその場から一時的に離れさせたのだが。実のところ、アシュリーもその場面を直接見たわけではなく、後になってアイリスとリリーが楽しそうにからかい混じりで話しているのを小耳に挟んだだけだった。
「ケイシー卿も、同じようにしてみてはいかがですか?」
「……どういう意味ですか、ヴァンス嬢」
ダグラスは困惑したようにアシュリーを見つめた。ダニエル・ウィルフォードが何をしたのか、いまひとつ意図が掴めない。使用人を遠ざけることが、一体どうリリーの件に関係してくるというのか。
迷える彼に、アシュリーは決定的な答えを授けた。
「つまりね、旦那様は母に対して『そんな破廉恥なドレスは着るな、隠せ』と怒ったわけじゃないんです。母を縛る代わりに、彼女を見る周りの人々のほうを遠ざけて、彼女の自由を配慮したんです」
「……!」
そこでようやく、ダグラスの頭の中で全ての点と線が繋がった。あの音楽会の日、ダニエルが自分を鋭く睨みつけてきた理由もようやく理解できた。あれはダニエルが変わった男だからではなく、「私の妻を無遠慮に見るな」という無言の牽制であり、妻の美しさを守るための彼なりの『環境作り』だったのだ。当然、ミルドレッドに一抹の異性としての興味もなかったダグラスには、当時は理不尽極まりない視線に思えたのだが。
「なるほど……。つまり、今の私はリリーの行動を制限するのではなく、彼女が安全に歩けるように、この通りそのものの治安を整えろ、と言われているわけですね?」
「そういうことですわ」
アシュリーは満足そうにこくりと頷いた。だが、その無邪気な笑顔を見つめながら、ダグラスは内心で驚愕していた。一介の貴族令嬢が「治安の悪い通りを丸ごと作り直せ」と平然と言うのだ。普通なら世間知らずの妄言と一蹴されるところだが、彼女の背景を考えれば合点がいった。
アシュリーの母ミルドレッドはこの国でも指折りの大富豪であり、その夫ダニエルは妖精の血を引くとも噂される絶世の美貌と権力を持つ男。さらに長女のアイリスは、次期国王たる皇太子の唯一の婚約者。
なるほど、このヴァンス家の人間にとっては、「障害があるなら世界の方を創り変えればいい」という思考こそが世界の基準なのだ。
通りを安全にしてしまえば、リリーの自由を奪うこともなく、彼女と衝突することもない。実にもっともで、壮大な解決策だった。
「その通りですね」
ダグラスはしばらくアシュリーを見つめたあと、深く深く頷いた。彼女の言う通りだ。リリーの伴侶となるべき男は、彼女の翼を捥いで箱庭に閉じ込める男であってはならない。彼女がどこまでも自由に飛び回れるように、空そのものを整えられる器の人間でなければならないのだ。
そして、あのウィルフォード卿にそれができるのなら、自分にできないはずがなかった。
ダグラスは顔を上げ、窓の外の薄暗い通りを見渡した。確かに、今のままではか弱い女性が一人で歩ける場所ではない。ならば、リリーを抑えつけるのではなく、この通りの闇そのものを叩き潰すべきだ。
「素晴らしい教示をありがとうございます、ヴァンス嬢」
ダグラスはアシュリーの前で丁重に腰を折って礼をした。その言葉には心からの感謝がこもっていた。そうでなければ、嫌がるリリーに自分のエゴを押し付けているのではないかと、ずっと罪悪感で胸を痛めていたところだったからだ。
彼は「弱きを助け、不正と戦え」と厳格に教えられて育った騎士の家系、ケイシー家の男だ。愛するリリーを敵に回して泥沼の言い争いをするよりも、たとえどれほど厄介であろうとも、街の悪党や治安問題という明確な「敵」と向き合うほうが、よほど性に合っていた。
「あ、いえ、お役に立てたなら良かったです」
アシュリーは高名なケイシー卿が自分に深く頭を下げたことに少し照れ、慌てて手を振ると、そのままお目当ての詩人ヘンリーの待つ席へと足早に去っていった。
ダグラスは、会場の奥で他の芸術家たちと談笑しているリリーの姿を遠くから見つめ、小さく息を吐いた。アシュリーのおかげで、今後自分がどう動くべきかの道筋は見えた。だが、だからといって今この瞬間、リリーとアシュリーという若い令嬢二人をこの混沌とした場所に置いて、一人で帰る気には到底なれなかった。通りを改革するにしても、それには時間がかかる。二人はまだあまりにも若いのだ。
(初めて、ウィルフォード卿を羨ましいと思ったな……)
もし自分が彼のような妖精の眷属であったなら、自分がそばにいなくとも、愛する女性に害が及ばないような魔法をかけておけるだろうに。だが、自分は泥臭い一人の人間にすぎない。しかも今のリリーは、自分が目の前にいることすら拒んでいるのだ。
その事実が改めて胸に突き刺さり、ダグラスの心を痛ませた。かつて二度の婚約破棄を経験した時でさえ、これほどまでに胸が締め付けられるような苦しみは味わわなかった。
ダグラスは意を決して踵を返した。今日はひとまず身を引き、信頼できる部下を手配して、二人が無事に邸へ帰るのを遠くから見守らせよう。
「ダグラス」
その時、背後から不意に、鈴の鳴るような声が彼を引き止めた。
驚いて振り返ると、そこにはリリーが立っていた。ダグラスは慌てて破綻のない礼を取る。
「……ご迷惑をおかけして申し訳ありません、リリー。私はもう失礼しますので、どうかお気になさらず、残りの楽しい時間をお過ごしください」
「帰るつもりだったの?」
リリーの澄んだ瞳が、一瞬だけ微かに揺れた。
彼女は、彼が毎回「当然の義務」のように自分の行動を先回りし、迎えに来ることが嫌だっただけなのだ。ただの友人として、たまに馬車で一緒に帰るくらいであれば、拒むつもりはなかった。友人同士ならごく自然なことだからだ。
(一体どういう風の吹き回しかしら……)
いつもなら何が何でもついてくると言い張る男の予想外の引き際に、リリーは微かに眉をひそめた。だがすぐに、自分が彼に声をかけた本来の目的を思い出し、毅然と口を開いた。
「引き止めて悪かったわ。それより、急に思い出したことがあって。……もしかして、あの展覧会で私の絵を買い占めたのは、あなた?」
クリスタル宮殿で大々的に開かれた展覧会が幕を閉じてから、もうすぐ二ヶ月が経とうとしていた。そこで展示されたリリーの作品は、ありがたいことに全て完売していた。それは画家として非常に誇らしいことだったが、彼女にはどうしても一つだけ、解せない疑問が残っていたのだ。
彼女が出展したのは全部で五点。そのうちの三点は、初日の開場直後に購入希望を出した“ある同一の人物”によって、一瞬ですべて買い取られていた。しかし、その大口の購入者が誰なのか、未だに画商も明かしてくれず分からぬままだったのだ。
最初はフィリップおじさんを疑った。だがおじさんではない。確かにおじさんも購入を申し出てくれていたが、他に入札した謎の人物によって提示額が跳ね上がっていくのを見て、リリー自身が「無駄なお金は使わないで」と止めさせた経緯があった。となれば、他にそんな大金を積んでまで自分の絵を欲しがる物好きなど、目の前の男くらいしか思い当たらなかった。
「……もし私がそれをできたなら、どれほど光栄だったでしょう。ですが、違います」
ダグラスは心底から無念そうに、けれど嘘のない目で告げた。彼とて、リリーの描いた素晴らしい絵をこの手に入れたいと切望していた。だが、もし自分が買い占めたと彼女に知れれば、リリーは「憐れみや身内びいきで買われた」と激怒し、決して喜ばないだろうと分かっていた。だからこそ、あえて涙をのんで入札の手を引いたのだ。
「……そう。それならいいの。ありがとう」
リリーは、一度に三点もの絵をさらっていった人物の正体に首を傾げつつも、静かに頷いた。誰かは分からないが、自分の家柄やコネではなく、純粋にキャンバスに込めた彼女の感性を気に入ってくれた人が世界にいる。その確信だけで、胸の奥からじわじわと誇らしい自信が込み上げてくるのを感じていた。
「それでは、今度こそ失礼します」
立ち去ろうとするダグラスの広い背中を見つめながら、リリーは「一緒に帰る?」と声をかけるべきか、一瞬だけ迷った。彼なりに不器用な方法で、いつも自分を必死に気遣ってくれているのは痛いほど分かっている。だから、今回くらいは自分が少し折れて、彼の馬車に乗ってあげてもいいのかもしれない――。
けれど、やはりそれは違うとすぐに思い直した。
「心配されているから」という理由だけで相手に縛られ、自由を切り売りすることは決して正しくない。
去っていくダグラスの背中を静かに見送りながら、リリーは一つの大切な事実に気づき始めていた。自分はこれから、こういう「孤独」に慣れていかなければならないのだ。これから世に出て有名になれば、出会う人々は皆、それぞれの甘い理由や悪意を持って、あらゆる形で自分を型に嵌め、縛ろうとしてくるだろう。
それを毅然と拒み、一人の独立した画家として生きていく覚悟を持つならば――当然ながら、自分にとって都合の良い時だけ、誰かの温かい関心や庇護に甘えるような真似をしてはならないのだ。
リリーは、ダグラスが静かに馬車に乗り込み、通りを去っていくのを見届けると、ゆっくりと背を向けた。なぜだか分からないが、胸の奥が少しだけチクチクとざわつき、それと同時に、ひどく虚しい秋風のような気持ちが彼女を通り抜けていった。
「リリーお嬢様、クレイグ侯爵家からお手紙が届いております」
リリーがその思いもよらない手紙を受け取ったのは、ダグラスが彼女の前に一切の姿を見せなくなってから、一週間ほどが経った頃のことだった。
毎日のようにしつこく顔を出していた彼が急に来なくなると、リリーは自分でも驚くほど、どこか落ち着かない、手持ち無沙汰な心地に陥っていた。真っ白なキャンバスを前にして、次は何を描けばいいのか分からず、ただぼんやりと筆を握りしめていたリリーは、使用人の声でハッと我に返った。
「どなたから?」
「クレイグ侯爵家からでございます。差出人の欄には、ロレーナ・クレイグ様と」
使用人の説明を聞いた瞬間、リリーは思わず目を見開いた。
ロレーナ・クレイグ。もちろん、誰のことかはよく知っている。だが、なぜ彼女が自分宛てに手紙など送ってくるのか、その理由が皆目見当もつかなかった。アイリスお姉様宛てならまだ理解できるのだが。
リリーはパレットと筆を置き、立ち上がると使用人の手元を覗き込んだ。
「アイリスじゃなくて、本当に私宛てで間違いないの?」
「はい、間違いございません。宛名は確かにリリー・ヴァンス様となっております」
手紙を受け取ったリリーは、狐につままれたような気分のまま、ペーパーナイフで封を切った。
「……え?」
便箋に躍る文字の量は、驚くほど短かった。手紙というよりは、極めて簡潔な「訪問の許可を乞う内容」だった。
私に、会いたい……?
リリーはもう一度、手紙の末尾に記された美しい筆跡を確認した。
『親愛なるリリー・ヴァンス様へ』――。
その気取った一文に、いかにもロレーナらしい完璧な貴族令嬢のプライドが透けて見えるようで、リリーは思わずくすっと笑ってしまった。
彼女とロレーナは、決して親しい間柄ではない。少なくともリリーの感覚であれば、大して親しくもない相手に「親愛なる」などという気恥ずかしい言葉は使わないだろう。だがロレーナにとっては、これは他人に送る際の単なる形式的で、隙のない時候の挨拶に過ぎないのだ。
ふと、その徹底して妥協のない姿勢が、どこかあの融通の利かないダグラスに似ているかもしれない、とリリーの脳裏をよぎった。彼女はほんの一瞬だけ考え込み、それから小さく息を吐き出すと、机から新しい紙とペンを取り出した。
すぐに訪問を歓迎する旨の返書を認め、待たせていた使用人に手渡した。
「急な訪問をお許しくださり、感謝いたします、ヴァンス嬢」
応接室に現れたロレーナ・クレイグは、リリーが最後に彼女を見た時よりも、幾分かほっそりと痩せているように見えた。
あれは確か、アイリスとロレーナが共に皇太子妃候補として、激しい舞踏会の準備に追われていた時期だった。リリーは当時の光景を思い出し、静かに頷いた。
あの時のロレーナの決断は、社交界全体に大きな衝撃を与えた。最終選考の直前になって、突然自ら候補を降りると宣言したのだから。そしてアイリスが正式に皇太子妃に内定した後、社交界ではロレーナやクレイグ侯爵家に関する、あることないこと交ぜ合わせた質の悪い噂がいくつも飛び交っていた。
だが、リリーは何も言わなかった。アイリスや母ミルドレッドがその噂に対して一切の反応を示さず、泰然自若としていたのと同じように、自分も沈黙を守り続けた。画家の集まりで、退屈した連中が強い好奇心を剥き出しにしてしつこく質問を投げかけてきても、リリーはすべて冷ややかに無視し通したのだ。
その傲慢とも取れる態度のせいで、リリーを快く思わない同業者も数人現れたようだが、彼女の知ったことではなかった。
「お会いしたいというお申し出でしたので、正直驚きましたわ。一体どのようなご用件かしらと思いまして」
リリーの率直な言葉に、ロレーナの完璧に整えられた唇の端が、微かに緩んだ。やはり彼女も、リリーが飾ったお世辞を嫌う性格であることをある程度理解しているようだった。ロレーナは使用人が運んできた上品なティーカップの縁にそっと指を触れ、少し緊張を解いた様子で口を開いた。
「私、昔から絵画がとても好きなんですの。……もちろん、一番深く愛しているのは音楽ですけれど」
それで? とリリーは促すように、何も言わずに自分のカップを持ち上げた。ロレーナは慎重に、けれど確かな足取りで言葉を紡いでいく。
「音楽家が社交界で華々しくデビューする際、有力な後援者や、古くから縁のある家柄の人間がサロンで彼らを紹介することが多いでしょう? それは、画家とて同じことではありませんか?」
「ええ、その通りよ。画家も全く同じシステムだわ」
リリーが肯定すると、ロレーナの瞳がぱっと明るく輝いた。
リリーは、ロレーナが先ほどからカップの取っ手をいじるばかりで、紅茶をまだ一口も口にしていないことに気づいた。彼女の指先は微かに震えている。
(まさか……)
ロレーナがこの部屋にやってきた真の目的をリリーが察知した、まさにその瞬間、ロレーナが核心を口にした。
「私には、画家としての活動経験はありません。ですが、これまでに有望な音楽家を二人、社交界に紹介したことがありますわ。二人とも、今では非常に素晴らしい後援者に恵まれて活躍しています。ですから……風の噂で、ヴァンス嬢もそろそろサロンでのデビューの時期を探していらっしゃると聞きまして」
「つまり……あなた、私をクレイグ侯爵家のサロンで紹介してくださるというの?」
「ええ。ヴァンス嬢、あなたさえよろしければ」
リリーは、自分の予感が的中したことにも驚いたが、それ以上に「ロレーナ・クレイグ」という、かつて姉と激しい火花を散らした当事者が、自分を自らのサロンで引き立てようとしているという事実に、完全に言葉を失ってしまった。
よりによって、クレイグ侯爵家の令嬢が――。
「……どうしてですか?」
思わず、リリーの口から飾らない疑問が漏れ出た。ロレーナは一瞬だけ驚いたように目を見張ったが、それが拒絶の言葉ではないと察すると、安堵したように柔らかな微笑みを浮かべた。
「それが、私たち両家にとって、最大の『利益』になるからですわ。ヴァンス嬢も当然ご存じでしょう? ヴァンス家と我がクレイグ家が、裏で激しく対立しているという忌々しい噂を」
リリーの脳裏に、アイリスの婚約決定後に街中で囁かれていた無数のゴシップが蘇る。
クレイグ侯爵家がアイリスの足を引っ張るために陰で卑劣な罠を仕掛けているという陰謀論から、逆にヴァンス家がクレイグ家の致命的な弱みを握って脅迫しているという話まで、尾ひれがついて回っていた。
当然、ヴァンス家に関する突拍子もない噂も多かった。
『本当は皇太子殿下とロレーナ様が結ばれるはずだったのに、途中で現れたヴァンス家の令嬢が殿下をたぶらかした』というものから、果ては『ヴァンス伯爵(ダニエル)は実は恐ろしい妖精の大母の血を引いており、その魔力を使って娘を皇太子妃の座に据えたのだ』というお伽話のような噂まで。
無論、ヴァンス家もクレイグ家も、そんなくだらない妄言には一言も反論せず、相手にしていなかった。
だが今、渦中のロレーナ・クレイグが自らリリーの前に現れ、その利害関係を机の上に並べ立てたのだ。
ロレーナはリリーの様子を見極めると、小さく頷いて続けた。
「私が我が家のサロンで公式にヴァンス嬢を歓迎し、後援者の一人として名を連ねれば、両家が対立しているという不名誉な噂は瞬時に霧散しますわ。それは、私たち全員にとってこれ以上ない利益となるはずです」
「なるほどね。では、あなた自身やクレイグ侯爵家にとっての具体的なメリットは何かしら?」
リリーの鋭い追及に、ロレーナは一切の迷いなく言い切った。
「我が家の、失墜しかけた名誉を完全に回復することができます」
あまりにも堂々と、当然のように言い放ったその態度に、リリーは静かに感心して頷いた。
それは、家のためというよりも――ロレーナ自身のプライドを守るための利益だったのだ。
「私は家(クラン)の名よりも、自分自身の尊厳のほうがずっと大事なんですの」
あっけらかんとしたロレーナの告白に、リリーはわずかに目を見開いた。
もしそうでなければ、皇太子妃となった姉を持つ自分が、家柄を隠して表舞台に出て「画家になる」などと言い出せるはずがなかった。リリーはロレーナの言葉に、鏡に映った自分を見ているかのような、奇妙な共感を覚えずにはいられなかった。
(この人も……私と同じ種類の人間なのかもしれないわね)
ロレーナにとって、クレイグ侯爵家の名誉は、自分自身のプライドそのものだった。あの誇り高き名門に生まれ育ったことは、彼女の人生における最大の輝きだったからだ。
「ですが、何の縁もゆかりもない人間のサロンでデビューを飾るというのは、あなたにとっても十分すぎるメリットがあるはずですわ」
続いたロレーナの言葉に、リリーは微かに眉を上げた。さすがは英才教育を受け、社交界の荒波を見てきた貴族令嬢だ。利害の計算に関しては実にするどく、抜け目がない。
「私があなたの最初の『スポンサー(後援者)』になることもできます」
真剣な眼差しでそう畳みかけるロレーナ。彼女は、リリーの背後にすでにダグラス・ケイシーという若く有力な後ろ盾がいることも、当然すべて調べ上げた上でここに来ていた。だが、芸術家にとって裕福な後援者は、多ければ多いほど活動の幅が広がるはずだ。
実際のところ、ロレーナは絵画については音楽ほど深い造詣があるわけではなく、リリーの作品の真の価値も正確には理解していなかった。それでも、大陸有数のクレイグ侯爵家であれば、支援する芸術家のリストにヴァンス家の令嬢を一人追加するくらい、造作もないことだった。
「もちろん……すべてはヴァンス嬢、あなたが望むのであれば、の話ですけれど」
最後に少しだけ焦ったように付け足されたその一言に、リリーは思わずクスリと笑ってしまった。
決して悪い提案ではない。いや、むしろ今のリリーにとっては、これ以上ない願ってもない好機だった。もしこれが自分一人の、純粋な絵画の実力だけの問題であるなら、今すぐにでもその手を握っていただろう。
だが、これはどうしても家同士の政治的な思惑が絡み合うデリケートな話だ。自分の一存で、今すぐ軽率にサインできるものではなかった。
「……少し、考えさせてくださらない?」
そう答えて、リリーは今度こそ自分のティーカップに手を伸ばした。今日はこれ以上の結論は出さない――という、社交界における無言の意思表示だった。
それを見て、ロレーナもようやく緊張が解けたのか、静かに自分のカップを持ち上げた。当然、リリーのようなはっきりした性格の女なら、その場で即座に頷くものとばかり思っていたのだろう。しかし、リリーの慎重な態度を見て、ロレーナはこれが簡単に断られる可能性もあるのだと、今更ながらに気づいたようだった。
(……それでも、構わないわ)
ロレーナはトクトクと速くなり始めた鼓動を落ち着かせるように、温かい紅茶を喉に流し込みながら、ゆっくりと息を整えた。彼女はすでに、自分のプライドと家のためにできる最善のアプローチをしたのだ。名誉を取り戻すための戦い方は、決して一つだけではないのだから。
「あなた、絵はお好きなんですの?」
心地よい沈黙が流れたあと、今度はリリーのほうから先に、柔らかな声で問いかけた。
一人の画家として生きていくと決めて以来、周囲に同じ芸術への熱量や興味を持つ人間がいてくれることの有り難さを、リリーは身に染みて実感していた。ロレーナが本心から美術に興味を抱いていると知り、リリーの頑なな心の壁が、ほんの少しだけ解けていくような親しみを感じていたのだ。
「ええ。実はね……絵画よりも、大理石の『彫刻』のほうがもっと好きなんですのよ」
ロレーナの意外な答えに、リリーは今度は心からの、穏やかな微笑みを浮かべた。
「まあ、素敵ね。私自身はまだ、彫刻の領域にまで筆を伸ばすことは考えていないけれど……」
リリーは少し声を潜め、楽しそうに続けた。
「実はね、うちの旦那様(ダニエル)の秘密のコレクションの中に、あの天才ルーフス・ラースの初期の作品がいくつか眠っているの。近いうちに母がハルフォードから戻ってきたら、お願いしてロレーナに見せてあげられるように手配できるわよ?」
「ルーフス・ラース」という伝説的な名匠の彫刻作品を生で見られると聞き、ロレーナの完璧な令嬢の仮面の下から、少女のような輝きが弾けた。彼女は激しく同意するように何度も頷いた。
「素晴らしいわ! ぜひお願いするわ。……それなら、今度はぜひ我が家の邸にもいらしてちょうだい。クレイグ家の本邸の回廊にも、ラースが遺した傑作がいくつか所蔵されていますのよ」
クレイグ侯爵家が歴史的な美術品を数多く隠し持っているという噂は、リリーもかねてより耳にしていた。その魅力的な誘いに、今度はリリーの瞳が、まるで宝物を見つけた子供のように爛々と輝き始めた。
二人の間に漂っていた張り詰めた利害の空気は、いつの間にか消え去り、そこには芸術を愛する二人の少女の、純粋で温かい時間が流れ始めていた。