こんにちは、ピッコです。
「シンデレラを大切に育てました」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
239話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- アシュリーの選択②
「あなた、正気?」
二日後――アシュリーが恋人ヘンリーを連れて別邸へとやって来たとき、応接間の手前で出迎えた長女アイリスは、あからさまに顔をしかめて鋭い声を上げた。
予期せぬ姉の拒絶にアシュリーは動揺し、奥のソファで母ミルドレッドと向き合っていたヘンリーの背中を慌てて振り返ると、アイリスを遮るように言った。
「お姉様、やめて。失礼よ」
「何がやめてよ! あの男、三十五なんでしょう? 二十五でもなく、三十五よ!?」
遮るどころか、アイリスの声はさらにボリュームを増し、冷徹な数字の現実を突きつけた。その鋭い刺突は、当然ながら奥で談笑していたミルドレッドとヘンリーの耳にも届く。
二人が一斉にこちらへ振り向くのを見て、アシュリーは顔を真っ赤にし、慌ててアイリスの手を引いて立ち上がった。そして、その場を誤魔化すように取り繕う。
「……ちょっと、お茶を新しく取ってきますわ」
アシュリーはアイリス、そしていつの間にか背後に控えていた次女リリーの二人を半ば引きずるようにして、応接室の外へと連れ出した。
重い扉が閉まった途端、今度はアイリスの鋭い矛先がリリーへと向けられた。
「リリー、あなた知っていたのね!?」
リリーは最初からすべてを諦めたように腕を組み、深いため息をついて答えた。
「当然、知っていたわよ。ちゃんと止めたわ」
「もっと強く止めるべきだったでしょう! あの子の足を一本折ってでも、ベッドに縛り付けて二度とあの男に会えないようにすればよかったのよ!」
「アイリスお姉様!!」
アシュリーが思わず悲鳴のような声を上げた。怒りと悔しさでリンゴのように頬を赤く染めながら、大好きな姉を激しく睨みつける。
ひどすぎる。アイリスが優秀なのは百も承知だし、皇太子殿下と婚約してこのバンス家で最も偉い立場になったのも分かっている。でも――アシュリーは、自分がこうして姉たちから「何も分からない子ども」扱いされるのが、どうしても許せなかった。つい数か月前までは、姉たちの庇護の中にいることがあれほど心地よかったというのに、今の彼女の心は完全に変わっていた。
「私たち、たった二歳しか違わないのよ! お姉様が結婚できる年齢なら、私だって自分の意志で結婚できるわ!」
「今、私がリアンと結婚したから自分も、って言いたいの?」
「どうしてヘンリーが年上だからってそこまで反対するのよ!? ヘンリーだって、自分が好きでこの年齢まで歳を取ったわけじゃないわ!」
「でもね、自分より二十歳も若い世間知らずの子供にプロポーズをしたのは、紛れもなくその男自身の醜い意志よ」
アシュリーは反射的に「二十歳じゃなくて十八歳差よ!」と言い返しかけたが、虚しくなって言葉を飲み込んだ。そして生まれて初めて、完璧だった姉アイリスのことを「なんて幼稚で視野の狭い人なんだろう」と見下した。年齢差という記号だけを理由にすべてを否定するなんて、人間誰しも平等に歳を取るというのに。
アシュリーはこれ以上侮辱させまいと、再び腕を組み、誇らしげにヘンリーの偉大さを語り始めた。
「ヘンリーは高名な詩人なのよ。自分の名前だけで……」
「詩集をすでに五冊も上梓しているわ。そのうちの一冊は文壇で大ヒットを記録して、今や全国の書店で売られているくらいなんだから!」
自信に満ちたアシュリーの熱弁を聞きながら、アイリスとリリーは哀れむように静かに顔を見合わせた。『この子、本当にあの男の口車に驚くほど深く思い込んでるわね』――言葉にせずとも、姉二人の目線がそう語っていた。
やがて、次女のリリーが同業者としての現実的なため息をつき、静かに口を開いた。
「ごめんね、アシュリー。今回ばかりは、私もお母様とアイリスの味方よ。それにね、三十五歳で詩集が全国に流通しているというのは、確かに立派なことだけれど……私だって、自分が三十歳になる前には、自分の画集や本が全国で売れるくらいにはなれると確信しているわ」
リリーの言う通りだった。リリーがアシュリーを連れて行った芸術家の集まりには、二十代前半という若さで、すでに国中に名を轟かせている本物の天才たちがゴロゴロと転がっていたのだ。三十代半ばでようやく一冊のヒットというのは、凡才の領域を出ない。
アイリスもあきれ果てたように冷たく言い放つ。
「そもそも、どうして比べる対象が私たちなの? もしその男の能力を比べるなら、あの人と同年代の『大人の男性』と比べるべきじゃない? どうしてあなた、お父様(ダニエル)ではなく、まだ十代の私たちを基準にしてその男を誇っているの?」
核心を容赦なく突く刃だった。アシュリーの顔が、今度は怒りと、己の無知を暴かれた恥ずかしさで一気に真っ赤に染まった。
彼女はアイリスとリリーを烈火の如く睨みつけ、苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。
「……お姉様たちは、どうせ最初から優秀で恵まれていて良かったわね!」
それだけ言うと、アシュリーは涙を堪えるように踵を返し、廊下の奥へと走り去っていった。
リリーは遠ざかっていく妹の細い背中を見つめ、一つため息をついてからアイリスに向き直った。
「……少し、言いすぎよ」
「このくらいの手加減で済ませてあげているだけ、ありがたいと思ってもらわなきゃ困るわ。本当なら、胸ぐらをつかんで『目を覚ましなさい!』って怒鳴りつけてやりたいところだったんだから」
それは確かに。リリーは、アイリスのあの激しい気性を考えれば、これでも王家の婚約者として相当感情を抑え、大人の対応をしたほうだと認めざるを得なかった。リリーは腕を組み直しながら、ぽつりと言った。
「でもね、アイリス。アシュリーの言い分にも、ほんの少しだけ一理あるところはあるのよ」
「どこがよ? 息をして生きているところ以外で、何かあの男に褒めるところがあるとでも言うの?」
「……少なくとも、あのヘンリーという男はね、アシュリーに対して『最初に結婚しよう』という筋を通した求婚の言葉を口にしてくれているわ」
「それがどうしたというの?」
清廉潔白な王族の世界に足を踏み入れたばかりのアイリスには、まだ理解しづらい裏社会の闇だろう。だが、ドブ板のような芸術界や社交界の裏側を見てきたリリーは、これよりも遥かに卑劣で凄惨な話をいくつも耳にしていた。
「世の中にはね、箱入りのお嬢様を確実に手に入れるために、先に女性を妊娠させて逃げ道を塞ぐような最低な男だって五万といるのよ」
「まさか……!」
リリーの生々しい言葉に、アイリスの美しい顔がさっと血の気を失って青ざめた。なぜそこまで過剰に怯えるのか分からず、リリーは一瞬きょとんとしたが、すぐにアイリスの恐ろしい勘違いに気づいて顔色を変えた。
「違うわ! 勘違いしないで! アシュリーは絶対に違うから! 誓ってそんな不埒なことは起きていないわ!」
リリーは慌てて、アシュリーを例のカフェの集まりに同行させた本当の理由を説明した。あの男とアシュリーを絶対に二人きりにさせず、純潔を守るための監視役として、自分がずっと目を光らせていたのだと。
必死の釈明を聞くうちに、アイリスの顔にようやく安堵の色が浮かんだ。彼女は大きな重荷を降ろしたように激しくホッと息をつくと、両手で顔を覆ったまま、その場にへたり込むようにしてしゃがみ込んでしまった。
「アイリス……?」
心配したリリーが低く声をかけても、アイリスは膝に顔を埋めたまま、しばらく何も言わなかった。やがてリリーもドレスの裾を気にせず隣に座り込み、姉の顔を覗き込むと、アイリスは震える唇をようやく開いて、ぽつりと呟いた。
「……私の、せいかもしれないわ」
「どういうことよ?」
「お母様が旦那様と新婚旅行に出かけている間、長女である私が、もっとしっかりアシュリーの面倒を見て、側にいてあげるべきだったのよ。すべては私の怠慢の責任だわ……」
(このお姉様、本当に責任感が強すぎるのも病気ね……)
リリーの頭に呆れ混じりの嘆息がよぎった。そもそも、アシュリーがヘンリーと出会ったのは、自分が連れて行った画家の集まりがきっかけだ。当事者であるリリー自身でさえ「人の恋心なんて誰にも止められないし、私の責任じゃないわ」と割り切っているというのに、アイリスはバンス家の全責任を背負おうとする。
恋に狂った人間の気持ちなど、他人がそう簡単にコントロールできるものではない。リリーはアイリスの隣に座ったまま、この頑固な姉の心をどう慰めればいいのか、静かに考え込むのだった。
――一方その頃、重厚な応接室の中では。
「バンス伯爵夫人。私は、アシュリー嬢と正式に結婚したいと考えております」
ミルドレッドの正面に座るヘンリーが、背筋を正したつもりになってハッキリと言い放った。
ミルドレッドは、我が家の純真な末娘がこの薄っぺらい男のどこにそれほど惹かれたのか、内面で冷酷に品定めしながら、じっと彼を観察していた。
少し痩せ型で、身なりは整えているものの、見た目はどこにでもいるごく普通の三十代半ばの男。その姿勢も、夫ダニエルのように神聖で堂々とした威厳があるわけでは決してなく、ミルドレッドの厳しい基準からすれば、その立ち居振る舞いだけで大幅な減点対象だった。背筋もどこか締まりがなく緩んでおり、座り方の重心が悪いのか、それとも脚をきちんと揃えていないのか、いずれにせよどこかだらしなく見えた。その佇まいからは、上流階級に対する誠実さも、正しい礼儀作法も微塵も感じられなかった。
ヘンリーはミルドレッドの冷ややかな沈黙を「気圧されているのだ」と都合よく解釈し、自信に満ちた笑みを浮かべて言葉を重ねた。
「はい、奥様。私たちが出会ってからの月日が浅いことに、不信感を抱かれるのも無理はありません。ですが、本物の恋において、時間の長さなどというものはそれほど重要ではないのではありませんか」
「……十七歳の子供との間には、あまりにも看過できない年齢差もありますけれど?」
ミルドレッドの鋭い指摘にも、ヘンリーは全く動じなかった。むしろ、その反論を予想していたかのように、文豪らしく優雅に軽く笑ってみせた。
「恋に落ちる年齢など、人間の理性や意志でコントロールできるものではありません。私だって、もし同年代の退屈な女性と恋に落ちていれば、どれほど平穏だったか知れません。ですが、アシュリーは同年代のどの令嬢よりもずっと思慮深く、成熟した内面を持つ特別な女性だった。私は彼女のその魂の美しさに惹かれたのです」
その瞬間。
ミルドレッドの隣に極めて優美に座っていたダニエルが、紅茶を飲んだ拍子に「ゴホッ、ゴホッ!」と思わず酷くむせて咳き込んだ。
(……アシュリーが同年代より思慮深いのではなく、お前の知性の水準が、十代の子供と同レベルなだけだろう)
ダニエルは内心で激しい嫌悪と侮蔑を抱いたが、紳士の仮面を被ったまま、あえてそれを口には出さなかった。
「……なるほど。それで、我が家の愛娘との結婚を本気で考えていらっしゃるのね」
ミルドレッドの底の知れない声音に、ヘンリーは満足げににこやかにうなずいた。
「ええ。互いに深く愛し合っているのですから、生涯の約束を交わすのは男として当然の義務でしょう。気持ちが通じ合っている以上、一日でも早く共に暮らしたいと願うのは自然な摂理です。とはいえ、大切に育てられた伯爵夫人が、未来を心配なさるのも無理はありませんが」
まるで「傷つきやすい母親のために、自分が大人の対応をしてやっている」とでも言いたげな不遜な物言いに、ダニエルの美しい片眉がすっと細められた。
(……調子に乗るなよ、害虫が。何をしてくれようか。今夜のうちに、この男の存在ごと跡形もなく始末してやろうか)
ダニエルが脳内で冷酷な処刑プランを組み立てた、まさにその時だった。ミルドレッドが至って穏やかに口を開いた。
「そうですか。ええ、仰る通りですわ、ノアさん。アシュリーはまだ我が家の可愛い末っ子で、あまりにも若いですから、親として心配なのは事実です。……そこでお聞きしますけれど、結婚後は一体どちらの邸で暮らすおつもりかしら?」
「……ええと。この壮麗なバンス家の屋敷ほどではありませんが、もちろん、私のほうでそれなりの家は用意しております」
「それは、ご自身の『持ち家』ということですの?」
ミルドレッドの追い詰めるような質問に、ヘンリーは一瞬だけ言葉に詰まった。当然、自宅などではない。毎月、なけなしの印税から家賃を払って借りているだけの狭いアパートの一室だ。それでも彼は、アシュリーにいつも語っていたのと同じ高尚な言い訳を並べ立てた。
「私は芸術家であり、本質的に自由な性分でしてね。一つの土地や不動産という資産に縛られるのが、どうにも苦手なのです」
「そうですか。それで、我が娘と結婚なさると?」
「ええ。私ももう三十五ですから、そろそろ一人の女性と腰を落ち着ける時期だと思い至りまして」
言うことだけは、実にもっともらしかった。ミルドレッドはしばらく無言のまま、冷徹な目でヘンリーを観察した。――上流社交界の周辺には、こういう男が珍しくない。自分では何一つ資産も実績も持たないくせに、口先だけは達者で、夢を語って女を騙す手合いだ。
彼女は高級なティーカップを優雅に持ち上げながら、静かに、けれど確実に退路を断つ問いを重ねる。
「“腰を落ち着ける時期”とのことですけれど、では、そのための経済的な準備はすべて整っていらっしゃるのね?」
「ええ、もちろんですとも。実は私の友人たちの多くはすでに結婚し、子供も設けております。ただ、私は……」
ヘンリーは自身の襟元を少し緩め、傲慢に続けた。
「非常に慎重な性格なものでしてね。何よりもまず、アシュリーという運命の女性を迎え入れるための『心の準備』が必要だったのです」
「……そう。素晴らしいことですわね」
ミルドレッドは一度、隣のダニエルのほうをちらりと盗み見て、フッと意味深に小さく笑った。その視線を受け、ダニエルはどこか納得がいかないように不満げな顔をした。――当然だ。自分と、目の前のこの欺瞞に満ちた男とでは、人間の格があまりにも違いすぎる。
ダニエルであれば、ミルドレッドと結婚しようと思った瞬間、いつでも彼女と娘たちを一生何不自由なく養えるだけの莫大な資産と領地、そして完璧な住居を即座に提供した。ただ、それまでの人生でその気がなかっただけなのだ。
だが、ダニエルがその不快感を口にする前に、ミルドレッドがカチャリとカップを置き、再びヘンリーへと極上の微笑みを向けた。
「では、具体的にどういった方法で、アシュリーを一生養っていくおつもりかしら?」
「お恥ずかしい話ですが、これでも私は文壇でそれなりに名の知られた詩人ですので、多少の原稿料や印税収入はございます。もちろん、このような大富豪の家で贅沢に育ったアシュリーには、最初のうちは少し物足りない暮らしになるかも知れませんが……彼女も、愛のために倹約の努力をすると言ってくれていますから」
その点(ヘンリーの懐事情)については、ダニエルがすでに完璧に裏を調査済みだった。
ダニエルはティーカップを持ち上げ、呆れ果てた失笑を隠した。ヘンリーの手元にある全財産など、アシュリーのドレス数着分――今年の冬をやっと乗り切れる程度の手取りしかなかった。
そんな男が、結婚、だと?
ダニエルの冷徹な知性は、ヘンリーがバンス家の莫大な財産や、将来の持参金を最初から狙ってアシュリーに近づいたのだと確信していた。実際、彼のような底辺の芸術家にとって、それは人生を賭けるに値するほど簡単な決断だったろう。
アシュリーは若く、美しく、素直で性格も良い。そんな極上の獲物を嫌う男がどこにいるだろうか。しかも実家は大陸有数の富豪で、長女は次期国王の王子妃になる立場なのだ。放っておいても、これから先、アシュリーの財産を狙う有象無象の男はいくらでも現れるはずだった。
ミルドレッドもまた、完全に夫と同じ結論に達していた。どうせこの男は、アシュリーと結婚すれば彼女の金を貪り食うだけで、いずれアシュリーを不幸にする。
かといって、今ここでダニエルの力を使ってヘンリーを物理的に排除したとしても、恋に盲目になっている現在のアシュリーの前には、またすぐに第二、第三の「ヘンリー」が現れて駆け落ちを繰り返すだけだ。
「そうですか。では、その生活のための努力は、ノアさん――あなた自身も、死に物狂いでお書きになってなさる、ということね?」
「……まさか、私がアシュリーに甘えて、自分自身は努力をしない人間だとでも仰るつもりではありませんよね? 伯爵夫人」
不快そうに眉をひそめたヘンリーの返答に、ミルドレッドは内心でくすりと邪悪に笑った。ああいう傲慢な返し方をされると、普通の人間は結局「そうは言っていない」「いや、そうだ」のどちらかで弁明せざるを得なくなる。どちらに転んでも、会話の主導権はヘンリーの望む方向へと導かれてしまうのだ。
だが、ミルドレッドは社交界の怪物である。彼女はわざとらしく傷ついたように戸惑った表情を浮かべ、再びカップを持ち上げながらおっとりと尋ねた。
「私は、あなたが努力をなさらないなんて一言も言っていませんけれど……どうしてそんな、被害妄想のような攻撃的な質問をなさるの?」
「……っ、失礼しました。大切な結婚の許しをいただく緊張の場ですので、少々神経質になっていたようです」
幸いにもヘンリーは、野生の勘で「これ以上この夫人に踏み込んでは危ない」という、引くべき場面とタイミングをよく心得ていた。
そこへちょうど、廊下での姉たちとの口論を終えたアシュリーが、先ほどよりも明らかに「私は間違っていない」と言いたげな、強気で明るい表情を顔に張り付けて応接室へと戻ってきた。
その張り詰めた様子を見て、ミルドレッドはアシュリーがアイリスたちと激しく衝突してきたのだと瞬時に察した。
(ここで、私までアシュリーを頭ごなしに否定して敵に回るわけにはいかないわね。それは、この男を喜ばせるだけの最悪の悪手だわ)
ヘンリーの真の狙いは、バンス家がこの結婚に猛反対することだったのだ。
そうすれば、アシュリーを「実家の理解を得られない悲劇のヒロイン」に仕立て上げ、二人で駆け落ちでもしようと地方へ連れ出し、既成事実を作って優位に立てるからだ。
それだけは、絶対に阻止しなければならない。ミルドレッドは極上の紅茶を喉に流し込み、静かにカップを置いてから、目の前の若い二人を見つめた。客観的に見れば、年の離れた夫婦のように見える二人だったが、純粋な恋人同士のつもりでいるのは、哀れなアシュリーだけだった。
「……あなたたち、私に結婚の許しを求めてここへ来たのでしょう? ――なら、いいわ。その結婚、許して差し上げます」
「えっ……本当ですか、お母様!?」
「……本当、なのですか?」
ミルドレッドの予想外の素早い快諾に、アシュリーはぱっと顔を輝かせたが、逆にヘンリーのほうは「おい、嘘だろ」と言いたげな、信じられないという驚愕の表情を浮かべた。駆け落ちの計画が、根底から崩れ去ったのだ。
ミルドレッドは美しい背筋を正し、慈愛に満ちた母親の笑みを浮かべた。そしてアシュリーに向かって優しく言った。
「ずっと男嫌いだった我が家の可愛いあなたが、人生で初めて『この人と結婚したい』と思って連れてきたお相手なんですもの。母親として、私もできる限り偏見を捨てて、公平に見て応援してあげなきゃね。そうでしょう?」
「はい! お母様!」
母の温かい言葉に、アシュリーは嬉しさを隠せず、何度もこくりと大きく頷いた。母ならきっと自分の自立を許してくれる――そう信じていたのだ。そんな純粋なアシュリーをしばらく愛おしそうに見つめていたミルドレッドは、やがて、冷酷な光を宿した瞳を再びヘンリーへと向けた。
「ノアさん。もしあなたがアシュリーと本当に結婚なさるというのなら、どうかこの子を生涯、大切に守ってあげてくださいね。……どの親も同じ気持ちでしょう? だからこそ、あなたが私の大事な娘をしっかりと経済的にも守っていけるように、私も母親として、相応の『支援』をしてあげたいと思っているのですの」
(まさか……まとまった結婚祝い金か、持参金を今すぐ一括で引き出せるのか!?)
ヘンリーの卑しい顔に一瞬、下劣な驚きの色が浮かび、すぐに強欲な笑みに変わった。
ミルドレッドの隣で終始無表情に座っている若きダニエルを見て、ヘンリーは内心で(フン、大げさな噂の割には、結局バンス家も娘のワガママには勝てない、ただの甘い親だったな)と鼻で笑った。
アシュリーという人質が自分の手の中にある以上、勝利は確定したも同然だ。彼はここへ来る途中で目にした、この世の物とは思えないほど壮麗なバンス家の別邸のことを思い出した。うまくいけば、この豪邸や土地も、いずれ自分のものになるかもしれない。
男なら誰しも夢見る一発逆転の人生だ。若くて美しく、しかも自分を盲信する大富豪の妻を得て、何不自由なく贅沢に暮らす人生。いい女のスカートの紐を掴んで階級を駆け上がる――そんな願望を持つ男など、星の数ほどいる。
ミルドレッドはヘンリーのその浅ましい思惑をすべて見抜き、隣の夫へと視線で合図を送った。ダニエルが軽くうなずき、冷ややかに口を開く。
「さて……アシュリーが経営している石鹸工房の土地や建物は、すべてバンス家の公式な法人所有だ。結婚して家を出る以上、それを彼女個人の財産として切り離して譲渡することは、法的に不可能だな。……となると、アシュリーに今すぐ渡せる実質的な財産は、この『別邸の建物』くらいだが……」
ミルドレッドは困ったように言葉を濁し、やがてヘンリーを見て、にっこりと極上の聖母の笑みを浮かべた。
「……ちょうど良かったですわね、ノアさん。あなた、自由な性分で持ち家をお持ちでないのでしょう? ならば、結婚後はあなたがこのバンス家の別邸に『お婿様』として移り住んで、ここで暮らせば良いわ。そうすれば、あなたの汚いアパートの家賃も大いに節約できますもの」
「え……っ!? い、いえ……しかし、いくらなんでも新婚の二人ですし、最初は二人だけの静かな新居を……」
ヘンリーが慌てて反論しようとしたが、ミルドレッドは彼の言葉を完全に無視して取り合わなかった。むしろ、わざとらしく驚いたように美しく目を丸くしてみせる。
「新婚ですって? あら、勘違いしないでちょうだい。アシュリーの結婚はね、まず長女のアイリスが皇太子殿下と正式に結婚した、その後にさせるつもりよ。アイリスの世紀のロイヤルウェディングは来年の春に挙行されるから……アシュリーの式は、早くても『再来年』の秋以降でいいわね。そうでしょう、アシュリー?」
「はい、お母様! お姉様の後なら当然ですわ!」
アシュリーの素直な即答を聞き、ヘンリーは内心で(クソが、再来年だと!?)と激しく舌打ちした。遅すぎる。二年も待たされては、その間にバンス家の息のかかった連中に自分の化けの皮を剥がされてしまう。彼は焦って身を乗り出した。
「バンス伯爵夫人、失礼ですが……再来年となると、私はすでに三十七歳になってしまいます!」
「ええ、それが何か?」
「……結婚をして家庭を築くには、いささか遅すぎる年齢では、と申し上げているのです!」
「あら。三十五歳が結婚の適齢期だと豪語しておいて、三十七歳は遅すぎるの? 奇妙な論理ね」
あまりにも容赦のないミルドレッドの矛盾への論破に、ヘンリーはぐうの音も出ずに言葉を失った。そのとき、何も知らないアシュリーが、嬉しそうな明るい声で会話に口を挟んだ。
「大丈夫ですわ、ヘンリー! だって、私のお母様だって、今のダニエルお父様と『三十七歳』で再婚されたのですもの! 三十七歳なんて、男の人として全然遅くありませんわ!」
(……余計なことを言うな、この馬鹿娘が!)
ヘンリーは顔を歪めたが、アシュリーの純粋な擁護のせいで、これ以上「年齢」を言い訳にできなくなってしまった。
その頃にはアシュリーも十九歳になり、少しは世間の現実が見えて頭も冷えるだろう、とミルドレッドは計算しながら、にやりと邪悪に笑った。そして、ヘンリーに致命傷を与える一言を放つ。
「ノアさん。これはすべて、あなたという高名な芸術家の『名誉』を思っての、母親としての温かい提案なのですのよ? このままあなたがアシュリーを連れ出して勝手に結婚したら、世間の噂はどうなるかしら?」
『三十代半ばの売れない年上の男が、世間知らずの純真な十代の富豪の令嬢を言葉巧みに誘惑して、財産目当てで結婚した』――間違いなく、社交界にはそんな最低の噂が立つ。ヘンリーと同じような下劣な男たちからは「バンス家の金を掴んだやり手だ」と羨まれるかも知れないが。
しかし、ミルドレッドの周囲にいる本物の権力者たちは違う。彼らはヘンリーを、ただの「卑しい結婚詐欺師」として扱い、アシュリーのことを「深く考えずに男に騙された、哀れで愚かなお嬢さん」と嘲笑うだろう。
ミルドレッドは、ヘンリーにその破滅の未来を想像させるために、たっぷりと残酷な間を置いてから、再びおっとりと口を開いた。
「ですが、あなたがこのバンス家の別邸に住むとなれば、形式上はまず、私の夫ダニエルの『下宿人(居候)』という形になりますわよね。そうして、数年かけてじっくりと我が家の厳しい教育を受け、家族として認められてからアシュリーと正式に親しくなっていった……という体裁にすれば……」
「……そうすれば、周囲の不名誉な泥棒の噂も、少しはマシになりますでしょう? ねえ、アシュリー?」
ミルドレッドのあまりにもロマンチックな演出の問いかけに、アシュリーの瞳がぱっと少女のように輝いた。まるで、かつて母ミルドレッドが平民の身分だったダニエルを邸に住まわせ、そこから真実の愛を育んで結婚に至ったという、両親のあの伝説的な美しいラブストーリーと全く同じシチュエーションに聞こえたからだ。母がヘンリーのために、そこまで素晴らしい配慮をしてくれていることが、嬉しくて堪らなかった。
「はい、お母様! なんて素敵なの! その通りにしましょう、ヘンリー!」
最愛のアシュリー本人から外堀を完全に埋められ、ヘンリーは完全にパニックに陥った。彼は当然、ここで猛反対されて追い出されるシナリオしか用意していなかったのだ。もし追い出されれば、アシュリーを説得して地方の安アパートへ駆け落ちし、そこで避妊をせずにアシュリーをすぐに妊娠させてしまえば、数か月後にはバンス家も泣く泣く莫大な財産と共に結婚を認めざるを得ない――そんな卑劣な計算をしていたのだ。
しかし、現実は違った。バンス家に追い出されるどころか、「正式な婿養子候補」として、この超高級な別邸での同居を強制されるという、一見すれば願ってもない最高待遇の提案が出されてしまったのだ。欲に目がくらんだヘンリーの知性では、これを今すぐ断る正当な理由など、何一つ思いつくはずがなかった。
どうするべきか分からず、彼の貧弱な頭脳は完全に機能停止に陥っていた。
「では、決まりね。さっそく今日から、彼のための狭い部屋を用意しましょう。……ダニエル?」
ミルドレッドに美しく名前を呼ばれ、これまでずっと静観していたダニエルが、極上の笑みを浮かべてゆっくりと振り返った。ヘンリーが罠にハメられ、完全に青ざめて戸惑っている様子を、心の底から楽しんでいる肉食獣の目だった。
「あなた、おめでとう。もうすぐ頼もしい『義理の息子』ができますわね。……ヘンリー、ダニエル様はあなたの将来の『義父』となる偉大な御方なのだから、今日から屋敷のルールに従って、死ぬ気で誠心誠意お仕えしなさい」
「ご心配なく、愛しい奥様。この男が、我がバンス家の高貴な名にふさわしい最低限の人間になれるよう……私が責任を持って、直々に『地獄の教育』を施して差し上げますから」
ダニエルのその酷く低い、冷徹な声音を聞いた瞬間、ヘンリーの顔から完全に血の気が引き、真っ青になった。自分を見つめるダニエルの美しい顔には、まるでこれからじっくりと骨まで噛み砕いて楽しむ、飢えた獣のような残虐な笑みが浮かんでいた。
ダニエルによるヘンリーへの“教育”という名の拷問は、その翌日の早朝から、容赦なく開始された。
まだ夜も明けきらぬ朝早く、ダニエルは使用人に命じてヘンリーをベッドから文字通り引きずり起こさせると、まだ寝ぼけている彼を別邸の広大な厨房へと連行した。ダニエルは料理人たちをすべて下がらせ、自ら、真っ白な調理台の前に堂々と立っていた。
彼の目の前に冷酷に並べられていたのは、小麦粉、数個の卵、そして大きなバターの塊だった。
ヘンリーはあまりの眠さと混乱に頭を抱えながら、目の前の美しい義父ダニエルと、その前に並べられた調理材料を交互に見比べ、掠れた声で尋ねた。
「……一体、私に何をさせるつもりですか?」
「ホットケーキだ。三十五歳の大人の男なら、ホットケーキくらい自分の力で作れるだろう?」
自分よりも遥かに若く、まるで妖精のように美しいダニエルが、上から目線で当然のように命令してくる態度に、ヘンリーのプライドは激しく歪み、顔を引きつらせた。だが、この男が将来の強力な義父(スポンサー)になる相手だということを思い出し、どうにか怒りをグッと喉元で堪えた。
「……フン、ホットケーキくらい作れない人間が、この世にいると思いますか?」
ヘンリーは精一杯の虚勢を張って言い返した。だが、ダニエルが「なら、今すぐ作れ」と冷たい手つきで調理台を示すと、料理など一度もしたことのないヘンリーは途端にオロオロと戸惑い、情けない声を上げた。
「……わ、私が作るのですか?」
「当然だろう。今朝の朝食は、お前が作ったホットケーキを、私とミルドレッド、そしてアシュリーの三人で査定して食べる。さあ、早く手を動かせ」
(何を言っているんだ、この狂った男は……!)
彼は呆れ果て、助けを求めるように広いキッチンを見回した。しかしキッチンの片隅では、自分の聖域である台所を完全に追い出されたバンス家の屈強な料理長が、腕を組んだまま、まるで哀れな奴隷を見るような目でヘンリーの様子を静かに見守っているだけだった。
ヘンリーはその料理長を必死に指さして、ダニエルに抗議した。
「そ、そこに専門の料理人がいるのに、どうして私がわざわざ料理なんてやらなきゃいけないんですか!?」
「彼は『私の料理人』であって、お前のような居候の奴隷じゃないだろう?」
つまり、四の五の言わずにやれ、ということだ。ヘンリーは思わず大声を上げて怒鳴り散らしそうになったが、ここで暴れれば即座に放り出されると考え、必死に理性を繋ぎ止めた。たかがホットケーキ一枚のために、なぜここまでネチネチと精神を削られなければならないのか。
彼は忌々しげにボウルを掴むと、適当に小麦粉をドサドサと投げ入れながら、不機嫌に呟いた。
「……私は、料理なんて得意じゃありません」
「ふうん。じゃあ、お前は普段、一体何を食べて生きているんだ?」
「外食に決まっているでしょう! 買って食べますよ! 今時、まともな男が自分で料理なんてするわけがない!」
「それは良かった。アシュリーはね、昔から石鹸作りに夢中で、料理があまり得意じゃないんだ」
(……女のくせに料理もできないのか)
そう文句を言いかけたヘンリーだったが、間一髪で口をつぐんだ。そんな前時代的な男尊女卑のセリフをここで吐けば、目の前の恐ろしいダニエルから「だったら、男のくせに何もできないお前は何なんだ?」と、倍以上の冷徹さで論破され、なぶり殺されるのが目に見えていたからだ。
そして、ヘンリーのその浅ましい思考をすべて見抜いたダニエルは、何も言わず、ただただ、美しくも残酷な微笑みを厨房の朝日に輝かせるのだった。