こんにちは、ピッコです。
「悪党おじさんと暮らしています!」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
42話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 最初の手がかり
「アイカ」
いつの間にか、白狐のレフスが私の前に静かに立っていた。前足をきれいにそろえ、口に大きな紙の束をくわえている。
「整理してみよう、思考を」
「それがいいね!」
そう言うや否や、セレは私の膝の上からすとんと床へ飛び降りた。
レフスがぽとりと紙を置くと、その片端を器用にくわえ、セレが反対側へと素早く回り込んでくるくる巻かれていた紙をきれいに広げる。
真っ白に広がった紙を前に、私はレフスがどこからか持ってきた鉛筆を小さな手で握りしめた。混乱した頭の中を整理するために。大事なことだけを、一つずつ考えよう。私ならできる。
「まずは……」
今まで分かったことを整理してみよう。馬車の事故のときに聞いたあの恐ろしい声の中で、特に鮮明に覚えているのは四人。どうしてそこまで鮮明なのか、そして声だけで本当に人物を特定できるのかは、正直自分でも分からない。ただ、私は一度聞いた声を忘れることがほとんどなく、これまで聞き間違えたこともなかった。
レフスも私のこの特異な能力を不思議がっていたけれど、お母様からその理由を聞かされた覚えはない。お母様が手がかりとして残してくれた書庫の中にも、『捜索者』の聴覚が人並み外れて優れているという記述は見当たらなかった。
ともかく、残る二人の正体はまだ分からないものの、今回思い出した記憶によって、断片的だった過去の会話の流れが少しずつ見えてきた。
あの時、馬車が横転するほどの激しい衝撃があり、お母様は私を守ろうとして頭をひどく負傷した。それでもお母様は、私にセレフェンスの宝石を必死で飲ませ、その直後にあの貴人が馬車の中へと踏み込んできたのだ。
そして、お母様は私を細い腕で抱きしめ、命がけで守ろうとして――。
私はぎゅっと強く目を閉じた。
『アイカ、絶対に泣かないって約束よ』
「……私ならできる」
私は両手で涙を乱暴にぬぐい、再び鉛筆を握り直した。
犯人のうちの一人は、ジェミエル・デ・ロンド。
もう一人は、おそらくファビアン・ジナードだ。
私はまず、その二人の名前を白紙の左右に大きく書き込んだ。
ジェミエル・デ・ロンドは、『災厄』である母を害そうとした張本人だ。けれど彼は、先日の祖父の宴で私を見たとき、私のことを全く覚えていない様子だった。少し不思議そうな顔はしていたが、それだけだった。
その反応から推測できるのは、あの日私たちの馬車を襲った貴族が、ジェミエルに私の生存や存在を報告していなかった可能性が高いということ。
そして、ファビアン・ジナード。
うーん……。あの記憶の声と顔が、本当にカッセル叔父様の言っていたファビアン・ジナード本人なのかは、まだもう一度この目で確認する必要がある。
「でも、私は叔父様の言葉を信じる。とりあえずファビアン・ジナードってことにしておこう」
この男の声には、襲撃の最中、前の二人よりも少し遅れて合流したような妙な違和感があった。それに、彼は明らかにセレフェンスの首飾りと宝石の存在を知っていた。だとすると、ファビアンもまた、『捜索者』であるお母様を最初から狙っていた人物ということになる。
「ジナード……」
だけど、ジナード伯爵家もまた貴族派であり、前皇帝を熱烈に支持していた家門の一つだったはずだ。つまり、ジェミエル・デ・ロンドと裏で結託していても不思議ではなく、いつでも手を組める立場にあったということ。
「要するに、同じ穴のむじなってことね」
私は二人の名前の間に、鉛筆で一本の黒い線を力強く引いた。
「……」
そして、もう一人。
声ははっきりと覚えているのに、未だ正体を確認できていない、あの仮面の貴族。
お母様を殺したその貴族は、あの時、幼い私に剣を向けながらも、なぜか最後まで手を下さなかった。どうしてだろう。なぜジェミエルに私のことを報告しなかったのだろう。
あの時、確かに目が合ったのに。顔までは見えなかったけれど、妖しくぎらつく琥珀色の瞳だけははっきりと覚えている。瞳孔が細く、まるで飢えた猛獣の目のようだった。
私はその特徴も紙の余白に書き加えた。ロンド側の人間であることは間違いない。そして……。
「ここから調べるつもりなの?」
レフスが前足でその文字をトントンと叩きながら尋ねた。
「うん。ジェミエル・デ・ロンドに直接迫るより、まずはこっちの仮面の人のほうが近づきやすいかもしれない。私のことをあえて報告しなかったのには、何か深い理由があるはずだから」
もしかすると、ここがすべての真相を暴く突破口になるかもしれない。頑丈な壁を崩すなら、一番脆い部分から突くものだ。
「なるほど、分かった」
レフスはそう答えると、突然どこかへ向かってタタタッと駆け出していった。そしてしばらくすると、薄い本を二冊、口にしっかりとくわえて戻ってきた。
「重くないの?」
「私は力持ちだからね。ほら!」
レフスは私の前に本をぽんと置いた。本というより、どちらかといえばノートに近い代物だ。
「これは何?」
「まだ私たちが読んでいない資料の中に隠されていたものだ。セリアが直接書き残した記録だよ。君が作った目録にも載っていたはずだ」
この書庫に来る回数は増えたけれど、一日に読める古代語の量には限りがあった。基礎から学ぶことを優先していたせいで、まだ目を通せていない本やノートのほうがずっと多かったのだ。
「わあ、ありがとう!」
何が書かれているのかは分からなかったけれど、私は受け取るなり、一番上に置かれたノートを勢いよく開いた。すると、一ページ目から見覚えのある家門の名が目に飛び込んできた。
「役に立ちそう? 最初に家門って書いてあるから」
「本当にお母様の字だ……」
私は目を見開き、夢中でページをめくった。
そこには、現在の各家門の当主と、その配下にある詳細な家系図がびっしりと書き込まれていた。
「これは……?」
家系図のあちこちに不気味な×印が付けられていて、その横には『除去』と冷徹な文字で記されている。それだけではない。お母様が残したノートには、各家門の重要人物についての詳細な調査記録も遺されていた。関係のある人物同士は複雑な線で結ばれ、事業内容や性格、さらには致命的な弱点になり得る情報までが克明に書き込まれていたのだ。
私はさらに目を大きく見開いた。そして、じっと私を見つめているセレとレフスに視線を向け、確信を込めて呟いた。
「……これだわ!」
それからというもの、私は毎日のように書庫へ通い詰めた。お母様が残したノートを手がかりに、時間を見つけては現在の貴族たちの動向と照らし合わせ、一つずつパズルを合わせるように確認していった。
その中には、かつてお母様が家門について教えてくれたとき、一緒に説明してくれた懐かしい内容もいくつか含まれていた。きっと私が全部を覚えていられないだろうと見越して、こうしてノートに細かく残してくれていたのだろう。
一つずつ、ゆっくりと。お母様がノートに書き残していた場所も、これから突き止めなければならない。
「証拠も、絶対に見つけ出さなきゃ」
そうすれば、お母様をあんな目に遭わせた悪い人たちを、全員残さず法の元に裁けるかもしれない。
「ふぅ……」
今日も書庫へ行く前に、私はきちんと着替えて鏡の前に立った。
いーっ、と口を開けてしばらく眺めてみると、前に抜けた歯の跡から、新しくて白い歯のようなものがほんの少しだけ顔をのぞかせている気がする。毎日鏡を見ているから、その分だけ自分の成長が分かるのかな。
しかし、残った前歯のうち、下の歯は今や本当に危ういほどグラグラと揺れていた。これも全部、カッセル叔父様が毎日毎日、私の歯を物騒に点検してくるせいだ。だから下の歯が恐怖で我慢できず、ますます揺れるようになったに違いない。
侍女のゼンダは、前みたいに自然に抜けるのを待つより、さっさと抜いてしまった方がいいと言っていたけれど。
「うぅ……」
私もルースみたいに、もっと早くきれいに歯が生え変わっていたらよかったのに。
そんな残念な気持ちのまま、しばらく鏡の前をうろうろしていたけれど、やがて諦めてその場を離れた。
「書庫に行かなきゃ」
今日もやることがたくさんあって、忙しいのだから。
そして、その日の夕方。
お祖父様が明日、この邸に、来られるという報せが届いた。なんでも、私が大喜びするような素晴らしい贈り物を持ってくるから、必ず待っていてほしいとおっしゃったらしい。
その報せにすっかり浮かれてしまった私は、夕食のテーブルでいつもよりたくさんご飯を食べてしまった。そして、ついでに下の歯がぐらついていることを、カッセル叔父様にうっかり話してしまったのが運の尽きだった。
「そのまま噛まずに飲み込め!」
「ひゃあ! 叔父様には言わなきゃよかった!」
食事中に歯が抜けてそのまま飲み込んでしまったらどうなるのかと怯えて聞くと、叔父様は「食べ終わったら部屋に来い」と指をくいっと動かしたのだ。
全部綺麗に解決してやると言うのでしぶしぶついてきたけれど、どうやら数日前に叔父様が言っていた“その日”が、ついに来てしまったらしい。叔父様が手伝ってやると不敵に笑っていた、あの日が!
「叔父様、私、これやりたくない。すごく怖いよ……」
だって、ぐらぐらの下の歯に白い糸を結びつけるなんて! 糸って服を縫ったり刺繍したりするためのものじゃなかったの!? こんな恐ろしい使い方まであるなんて聞いていない。
騎士のジェラードまで、叔父様の隣で楽しそうに膝をつき、期待に満ちた目でこちらをじっと見つめていた。
「ほら、ジェラードは早く向こうへ行ってよ」
「私はお嬢様の護衛です! お嬢様をあらゆる危機からお守りする義務があります!」
……全然守ってくれてないじゃない。それなのにジェラードは、叔父様がちゃんとやるか見届けると言いながら、じりじりと膝立ちのまま距離を詰めてくる。
ゼンダはその後ろに静かに立っていた。ゼンダだけは私の味方だと思っていたのに――なんと、叔父様にその頑丈な糸を持ってきた張本人は、他ならぬゼンダだったのだ。
「三つ数えれば終わる」
カッセル叔父様が糸をピンと張りながら言う。
「でも、三つ数え終わるまでずっと待たなきゃいけないじゃない!」
「目をぎゅっと閉じて数えればいいだけだ」
私はしばらく本気で悩んだ末に、ぶんぶんと首を振って後ずさった。どう考えても、これは何かがおかしい気がする。
「やっぱり抜かない……!」
「なら、この前みたいに馬車から飛び降りた拍子に、また痛い思いをして抜けるのを待つか?」
それは、絶対に嫌だった。
「……うぅ」
私はついに観念して、涙目で「あーん」と小さな口を開けた。いつの間にか、ぐらぐらしている私の下の歯には、細い糸がしっかりと結びつけられていた。
うわぁ、もう本当に逃げられない……!
「さあ、五つ数えろ」
私は心の準備なんて全然できていないのに、叔父様は容赦なく数を数えろと急かしてくる。
「五つも!?」
「そうだ、五つ数えたら抜いてやる。いいな?」
「ひぃぃ……」
私はぎゅっと強く目を閉じた。「いち、にぃ……」
緊張で全身の体をこわばらせながら、叔父様の低めの声に合わせて「さん」を言おうとした、まさにその瞬間――。
ぐいっ!
「ひゃっ!?」
三を言うよりも早く、叔父様がいきなり私の顎を手のひらで軽く小突いた。頭がぐらりと後ろへ大きく傾く。私は慌てて体勢を立て直し、叔父様を思い切りにらみつけた。
「も、もう! 何するのよ!? まだ五まで数えてないのに!」
ちゃんと数えてたのに! 騙したわね! 本当に後ろへ転ぶところだったじゃない!
すると叔父様は、何も言わずにすっと私の前に手を差し出した。その大きな指先には――。
小さな、白い、血のついた歯が一つ。
「……え?」
私はぽかんと口を開けたまま、目を瞬かせた。
「抜けたぞ」
「へ?」
叔父様の手のひらの上には、さっきまで私の口の中で不快にぐらぐらしていた下の歯が、ちょこんと寂しそうに乗っていた。
「うそ……」
恐る恐る、自分の舌で口の中の隙間を触ってみる。さっきまで確かにあった鬱陶しい歯が、本当になくなっていた。全く痛くもない。血もほとんど出ていない。
「ぬ、抜けたぁぁぁ!」
私は思わず大歓声を上げた。あれだけ怖がって逃げ回っていたのに、終わってみれば本当に一瞬だったのだ。私は両手で自分の額をこすりながら、なんとかこの興奮を落ち着かせようとした。
ところが、カッセル叔父様は肩を小刻みに震わせながらクスクスと笑うばかりで、一向に何も言おうとしない。どうしてそんなに笑うの?
「……?」
私は訳も分からないまま、少し間の抜けた口を開けた状態で、ゼンダとジェラードを見つめた。
ゼンダは両手で必死に顔を覆いながらクスクスと肩を揺らしており、ジェラードに至っては完全に後ろを向き、腕で顔を隠したまま、壁に張り付いてぶるぶると激しく震えていた。
「???」
なんでみんなして笑ってるの? 私、何か変なことした?
不思議に思って辺りを見回していると、叔父様が差し出してきた手鏡の中に映る、間の抜けた自分の顔が目に入った。
ぱちぱち、と瞬きをする。鏡の中の私は、上の前歯だけでなく、下の前歯まで綺麗に一本なくなっていて、笑うと信じられないほど間が抜けた顔になっていたのだ。
「痛くないのか?」
叔父様が、とうとう堪えきれずに決壊したように笑いながら言った。
私はそのまま石のように固まった。遅れて、頭がようやく自分の今の間抜けな容姿の状況を理解し始めると、歯茎のあたりからじわりと熱を帯びた恥ずかしさが広がった。
「うわあああん!!」
私はあまりの恥ずかしさと悔しさにその場で大号泣し、叔父様のもとへ猛烈に駆け寄った。
「五つ数えるって言ったくせに!」
「うそつき!」
私は両手で叔父様の固い胸をぽかぽかと力任せに叩いた。
「こんなふうに、心の準備もないまま抜けるなんて思わなかったんだよぉ!」
叔父様は相変わらず楽しそうに笑っている。
「五つ数えるって言ったじゃない! その時に合わせて力を入れようと思ってたのに! 途中で失敗して抜けたらどうするのよ!」
突然抜けた奇妙な感覚もあるし、なんだか後から痛い気もしてきたし、歯がなくなった空間も変な感じがして、とにかく全部がおかしかった。それなのに、この大人は私の気持ちも知らないで笑ってばかりで!
「叔父様なんて大嫌い!!」
私は泣き叫びながら小さな拳を握りしめ、叔父様の胸や肩を何度も何度も叩いた。
やっぱりカッセル叔父様は、私の短い人生の中で出会った一番の詐欺師だった。本当に!
つい吹き出して笑ってしまったせいで、アイカは本格的に大泣きしてしまった。
「うわあああん!」
こんなふうに子供らしくわんわんと声を上げて泣く姿は、初めて見る気がした。
カッセルはアイカをその大きな腕で抱きしめながらも、あえて宥めず、そのまま好きなだけ自分を叩かせて泣かせておいた。綿菓子みたいに小さくて軽い拳でどれだけ叩かれたところで、痛くもかゆくもない。
『カッセル、それじゃないか? 子どもは笑いたい時には笑って、泣きたい時には泣くものだ』
『何がだ?』
『だから、無理に泣き止ませる必要はないってことだ。それが子どもというものだ。そして、それを見守るのが大人というものだ』
『はあ……またどうしてそんな大層な話になるんだ』
かつて誰かから聞いたような、あるいは自分がふと思ったような、そんな言葉が脳裏をよぎる。しょんぼりと泣きじゃくるピーナッツみたいな姪の顔を見ながら、なぜそんな実感を伴った言葉がふと口をついて出たのだろうと不思議に思った。まあ、単に少しからかいたくなったのも事実だが。
しばらくして、カッセルはアイカが泣き疲れてしまう前にひょいと抱き上げ、小さな背中を優しくさすってやった。顔を全力で押しのけられて嫌がられはしたものの、思い切り泣いて真っ赤になったその顔は、何か重い秘密を必死に隠していた頃のあの表情よりも、ずっと子供らしく晴れやかに見えた。
「叔父様なんて、もう大嫌い」
「それは困ったな。これで俺の小銭は全部あいつに持っていかれたな」
「違うよ! 叔父様が抜いたんじゃないもん!」
「歯の妖精も大変な仕事だな。毎回小銭を持って世界中を飛び回らないといけないんだから」
「歯の妖精じゃなくて、乳歯の妖精だもん!」
「同じようなものじゃないか」
むっとしたアイカは、ついにカッセルの膝から怒って飛び降りた。カッセルから離れると、そのまま救いを求めるようにゼンダのところへ向かおうとしたが、ゼンダもどう反応していいか分からなかったのか、笑いを隠すようにさっと体を背けた。
裏切られたと感じたアイカは、カッセルをもう一度だけ親の仇のように睨みつけると、自分の部屋へ向かって一目散にタタタッと駆けていってしまった。
カッセルは思わず再び吹き出した。
「行って様子を見てやれ」
「かしこまりました、ご主人様」
ゼンダはその後を慌てて追いかけていった。
騎士のジェラードは、その時になっても床に倒れ込み、腹を抱えて身をよじりながら笑い続けていた。
「お前、何やってるんだ」
「いや、お嬢様、本当に可愛すぎませんか? ご主人様、私にもその抜けた乳歯を見せてください!」
どうしても見たいのか、ジェラードは勢いよく立ち上がり、両手を差し出してきた。
カッセルはそんなジェラードをひどく胡散臭そうに見つめると、糸で結ばれたままの小さな乳歯を、容赦なくジェラードの胸ポケットへ直接放り込んだ。
「あっ、ご主人様!」
「何だ」
「けちですね。それすらまともに見せてくださらないなんて。見るだけなのに、減るわけでもないでしょうに……」
「いいから、行ってあの子を見てこい」
結局、名残惜しそうにポケットを触りながらも、ジェラードはしぶしぶ部屋の扉へ向かって歩き出した。だが、ふと立ち止まると、再び扉を閉めて真剣な顔で振り返った。
「ところで、ご主人様。本当にこのままにしておくおつもりですか?」
「何をだ」
「帝国語教師、ベルポイ・ロギスの件です。臆病な男なので最近は大人しくしていますが、その分かえって動きが不気味です」
「……」
「明日も帝国語の授業があると聞いています。今のところ目立った問題は起きていませんが」
帝国語教師のベルポイ・ロギスが、授業中にアイカに対して度を越した探りを入れる行動をしているという話を耳にして以来、カッセルは彼を注意深く監視していた。ジェラードが、以前その男について「かつて人を救おうとしていたまともな教師だった」と報告していたが、単なる事故ではなく、何らかの闇の事件に巻き込まれたのだと察していた。その男は、すでに悪霊のような何かに取り憑かれ、手遅れになっていたのだ。
「一気に網を絞って片付けるつもりだから、今はそのままにしておけ」
問題を起こす連中など、どうせ片手で数えられるほどしかいない。だからこそ、今回はあえて餌を撒いて泳がせ、様子を見ていたのだ。下手に今すぐ排除してしまえば、別の場所からまた別の害虫が入り込まれるかもしれないし、かえって尻尾を掴むのが厄介になる可能性もあった。
むしろ今のように、怪しい教師を目の届く近くに置いて動向を完璧に監視し、確実にその背後の尻尾を掴むほうが、結果的にアイカにとっても安全だった。
もちろん、カッセル自身もそれを静観しているのが愉快なわけではない。本音を言えば、今すぐにでもその男の手足の関節を一本一本へし折り、帝国語どころか指一本、舌一枚動かせないようにしてやりたい気分だった。昔の彼なら、目につく害虫を踏み潰すようにその場で始末していただろうが――。
「はい、承知しました。ゼンダにも、お嬢様の側に付き添う際、もう少し周囲に気を配るよう伝えておきます。それでは!」
ジェラードはお嬢様をなだめに行ってきますと言い残し、さっさと部屋を出ていった。
一人残ったカッセルは、ふっと自嘲気味に笑ったかと思うと、すぐにいつもの冷徹で険しい表情へと戻った。やるべきことは、山積みだった。
「連絡がありませんが、一体どうなっているのですか?」
苛立ちを隠さない暗い声での問いかけに、ベルポイ・ロギスは両手を体の前で揃えたまま、ぎこちなく背筋を伸ばした。へりくだった卑屈な姿勢を取っているのとは裏腹に、その顔には不気味な薄ら笑いが浮かんでいた。
「もう少し時間が必要です。あちらもレギア侯爵家の警戒心が強く、下手に動けばせっかくの計画が台無しになりかねませんので、あえて今は身を潜めて機会を窺っております」
レギア侯爵家でバリエット令嬢の家庭教師を担当するようになってから、すでにかなりの日数が経っていた。もう一か月近くになる。
初めて授業に入った時は、令嬢の過去について質問をいくつかしただけで、カッセル侯爵がすぐに鋭い目で顔を出してきた。ただ様子を見に来ただけだったのだろうが、ベルポイ・ロギスはその時点で、この家で軽率に動くべきではないと本能的に悟った。このままでは数日もしないうちに、何もできないまま捕まるのが目に見えていたからだ。
「それで、いつになったらあの小娘を連れ出せる? いい加減、この頃には何かまともな情報くらい掴んでいるんだろうな?」
「せめて何か一つくらい、使い物になる情報を持って来い!」
ベルポイ・ロギスは小さくうなずいた。もう少し待てばいいだけだ。せっかちな依頼主からの催促に、内心では激しくうんざりしていた。
「もう少しお待ちください。まもなくです。ですが、それでも私は怪しまれないようレギア侯爵家を行き来しながら、いくつかの重要な情報を確実に集めております。あの小娘が普段、どこへ出入りしているのかも完全に把握しました」
それは、思いがけない成果だった。授業中にいくつか質問をしただけで侯爵の警戒を招いたが、その代わりに一つ、極めて有益な情報を手に入れることができたのだ。
「信用できるのか?」
「ええ。ゼンダ、と呼ばれているあの小娘の専属侍女がおりましてね」
熱心に監視していたものの、バリエット令嬢に常に影のように付き従っているのは、その女だけのようだった。見た目は上品で、しかも偉大な侯爵家に仕える古参の使用人ということで誇り高そうに見えたが、実際は思ったよりも簡単に扱える女だった。どれだけ忠誠心があると言ったところで、目の前に積まれる莫大な金の前では人は脆い。
勉強の手伝いをしたいのだ、令嬢のためなのだと言葉巧みに近づき、いくつかの機密情報を聞き出すことに成功した。
その中の一つが、ある時期から毎週水曜日の午後だけは、必ず二時以降に帝国語の授業をしてほしいとレギア側から厳しく指定された理由だった。不審に思って尋ねてみると、水曜日は一時間ほど必ず外出して訪れる、秘密の場所があるのだという。
普段、屋敷の外へ外出することがほとんどないバリエット令嬢にしては、非常に意外で、かつ決定的な情報だった。
ベルポイ・ロギスは、その有力な情報をすべてすでにジェミエル・デ・ロンドへ報告済みだった。自分は帝国語教師としての正規の資格すら持っていない偽物だが、この誘拐拉致の仕事さえ成功すれば、一生遊んで暮らせるほどの莫大な金が手に入るのだ。決して諦めるわけにはいかなかった。
「はい、すべて私にお任せください。……あっ、そうだ。私が以前頼んでいた、あの協力者の女性の件は、うまく説得できましたか?」
ベルポイ・ロギスは欲望に目を輝かせながら、その返事をじっと待った。