こんにちは、ピッコです。
「ニセモノ皇女の居場所はない」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
135話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 甘い幻
どこからか、甘い花の香りが漂ってきて――フィローメルは、はっと目を覚ました。
どうやら、ほんの一瞬、うたた寝をしてしまっていたらしい。
「眠いなら、奥に入って少し休んだほうがいい」
すぐそばから、穏やかな声が聞こえる。
フィローメルは顔を上げ、その声の主を確かめようとする。
――そこにいるはずのない人物だと、気づきもしないまま。
「陛下……?」
ユースティスだった。
彼がどうしてここにいるのだろう。
フィロメルは周囲を見回した。皇帝の執務室だった。
(あれ、私、どうして……?)
フィロメルは何でもいいから記憶を引っ張り出そうとしたが、頭の中は霧がかかったようにぼんやりしていた。
フィロメルとテーブルを挟んで座っていたユースティスは、妙な顔をした。
「陛下?」
彼は席を立ち、フィロメルへ近づいてきた。
「どうして、いつものように“父上”と呼ばない?」
――父上?
そう思った瞬間、考える暇すら与えられなかった。
ユースティスが、ひょいと彼女を抱き上げたのだ。
「降ろしてください!もう子どもじゃ……!」
じたばたと暴れるフィローメルに、皇帝は小さく首を傾げる。
「九つにもなれば、十分に子どもだろう?」
――九つ?
フィローメルは、はっとして自分の手を見下ろした。
小さな両手、細い指。
体もまた、皇帝の腕の中にすっぽり収まってしまうほど小さい。
(……なに、これ……)
両脇に抱えられ、まるで人形のように軽々と扱われる感覚。
記憶の奥底で、確かに“知っているはずの光景”が、現実として目の前に広がっていた。
甘く、懐かしく――そして、胸の奥がきりりと痛むほど、やさしい幻。
そのとき、澄んだ柔らかな声が聞こえた。
「仲が本当にいいのね」
腰まで流れる金髪、若葉のような緑の瞳。
ユースティスはその美しい女性を見て言った。
「イザベラ、九歳はもう子どもじゃないだろう?」
イザベラ……。
――イザベラ皇后。
彼女を初めて目にした瞬間、フィロメルの胸は驚きで満たされた。
フィロメルがどう思おうと関係なく、二人は会話を始めた。
「9歳がどうしたの?」
「抱き上げたら、フィロメルが自分は子どもじゃないと……」
「九つなら、まだ子どもね」
「やっぱり」
けれど――そのあとに続いた言葉が、空気を変えた。
「でも、そろそろ……父親とは距離を取る年頃、なのかもしれないな」
その一言に、ユースティスの眉が、ほんのわずかに動いた。
「……なぜ、距離を取らねばならない?」
フィローメルは、皇帝の腕の中で身をよじり、まっすぐに彼を見上げる。
「ユースティス。親というのは――時が来たら、子どもを腕の中から送り出すものなんです」
「たとえ、それが正しい理屈だとしても……私は、その考えを受け入れられそうにないな」
「それなら……」
フィローメルは、一瞬だけ言葉を選び、続けた。
「一生、抱きしめたまま生きるつもりですか?」
「ダメなのか?」
「……」
返ってきたのは、あまりにも真っ直ぐで、疑いのない問いだった。
その眼差しは、“失う”という選択肢そのものを、最初から知らない者のそれだった。
――ああ。
これは、甘い幻だ。
優しくて、温かくて、胸が締めつけられるほど幸せな――
だからこそ、長く留まれば留まるほど、抜け出せなくなる場所。
「皇帝になる身。これから先も、ずっと私がそばに……」
皇帝の言葉は途中で途切れた。
フォラン伯爵が書類の束を抱えて入ってきたからだ。
「陛下、失礼いたしますが……」
「そろそろ行きましょうか?」
イザベラはフィロメルの手を取って扉の方へ導いた。
「さあ、一生懸命働くお父さまに手を振りましょう。」
フィロメルは頬を赤らめながら、机に向かうユースティスに手を振った。
彼も微笑みながら手を振り返した。
――皇宮、回廊。
フィローメルは、ぎゅっと自分の手を握りしめている皇后を見上げた。
「わ、わたし……皇后陛下……」
「どうしたの、急に?」
子どもと視線の高さを合わせたイザベラが、フィローメルを不思議そうに見つめる。
「私にまで距離を置くつもり?お父様はともかく……私は、ずっと『お母さん』って呼んでほしいのに」
「お、お母さん……?」
「そうよ。私があなたのお母さんでしょう。あなたは、私の娘なんだから」
フィローメルは、その言葉を噛みしめた。
――お母さん。
――お母さん。
――お母さん……。
その瞬間、先ほどまで感じていたすべての違和感が消えた。
そうだ。この人は私の母で、さっき見かけた男性が私の父。
そして私はフィロメル。
『ベレロフ帝国の赤髪の子、我が両親の娘』
なぜ自分がさっきあの場所にいたのかも、今になって思い出した。
「そうだ。お父様が働いているところを見に行ったんだ!」
本当にまだ完全には目が覚めていなかったらしい。
こんな当たり前のことさえ混乱するなんて。
「最初から大人びていなくてもいいのよ。」
皇后はフィロメルの頭をなでながら、優しく――そうして、彼女は穏やかに言った。
「世間ではいろいろ言われるでしょうけれど……私は、あなたをただの“普通の子”として育てたいの」
不思議なほど、心がすっと軽くなる。
胸の奥に重く沈んでいた不安や葛藤が、一斉に溶けて消えていく感覚。
フィローメルは、彼女の温かな手の感触を確かめるように握り返し、答えた。
「はい、お母さま!」
「あなたはまだ、ほんの幼い子よ。皇族としての重責だとか、危険だとか……そういう難しい話は、ずっと先でいいわ」
その通りだ。
フィローメルは、もう難しいことを考えるのをやめることにした。
時は流れた。
フィロメルは、これまでと変わらないように、幸福な日常を送っていた。
優しく穏やかな母、無口だが格好いい父。
そして胸をときめかせる許嫁。
それだけでなく、彼女を無条件に愛してくれる人たち。
フィロメルの周りには、いつも笑顔が絶えなかった。
ある日、思いがけない訪問客が皇后の私室を訪れた。
フィロメルが母と談笑していた時のことだった。
「フィロメル、イサベラ!来たよ!」
カトリンが明るく声をかけた。
フィロメルは彼女のもとへ、勢いよく駆け寄った。
「ママ!」
「本当に久しぶりね!」
二人は、思わず強く抱き合った。
「……二か月ぶり、かしら?」
イザベラが指を折って数えはじめると、カトリーヌは呆れたように即座に突っ込む。
「ちょっと、何言ってるの。二か月どころか、まだ半月も経ってないでしょう」
カトリーヌは額に手を当て、ふるふると首を振った。
「私だって、その間ずっとフィローメルに会いたかったわ。でもね……あっちの男たちが大騒ぎで、どうにもならなかったのよ」
フィローメルは、カトリーヌのそばでぴょんぴょんと跳ねながら、無邪気に問いかけた。
「お父さんとお兄さんたちは元気?」
「ふふ、毎日通信石で連絡を取り合ってるのに、そんなことが気になるの?」
「はい!気になります!」
「あなたのお父さんは、こちらに来たがって仕方ないのよ。お兄さんたちも、少しでも時間ができると、私にあなたの様子を聞いてくるし。」
二人の仲むつまじい様子を見守っていた皇后の表情が、少し曇った。
「それにしても、もうこんな時期なのね。しばらくフィロメルに会えないと思うと、寂しいわ。」
カトリンは友人の肩に手を置いた。
「数か月もすればまた来られるでしょ。それより、その間にできなかった話をしましょう。」
ほどなくして、ティーテーブルが整えられた。
イザベラとカトリーヌは紅茶を口にしながら、穏やかに談笑を始める。
「そういえば、この茶葉……ユモからの贈り物なの」
イザベラの言葉に、カトリーヌは「へえ」と感心したように声を漏らした。
「ユモの話はやめてちょうだい。子どもの頃、あなたと遊んでただけで、どれだけ小言を言われたことか」
「ユモって、ああいう性格でしょう。でも、言うことをちゃんと聞く子には、意外と優しいのよ」
「それって……私は言うことを聞かない子だった、って意味?」
「ちょっと、どうしてそういう結論になるのよ」
フィローメルはクッキーをつまみながら、二人のやり取りに静かに耳を傾けていた。
「え?」
口の中に、強い花の香りが広がった。
以前、皇帝の執務室で嗅いだのと同じ香りだ。
少女はクッキーを注意深く見つめたが、ただの普通のクッキーにしか見えない。
首をかしげているフィロメルに、イサベラが尋ねた。
「どうしたの?」
「口の中に、何か入っている気がします。」
「ちょっと、あーってしてみて。」
イサベラはフィロメルの口の中をのぞき込んだ。
「何もないわよ?あなたの勘違いじゃない?」
フィローメルは、花の香りを感じ続けながらも、皇后の言葉にうなずいた。
――お母さんの言うことが、間違っているはずがない。
やがて、イザベラとカトリーヌの会話は、少し前の話題へと戻っていく。
ユモについての話だった。
フィローメルは、ふと頭に浮かんだ疑問を、そのまま口にした。
「……ユモは、亡くなったんですか?」
カトリーヌとイザベラの視線が、同時にフィローメルへ向けられる。
次の瞬間、カトリーヌが吹き出した。
「何を言い出すのよ。ユモは、健康そのもの――ただの生きてる人間よ」
一方で、イザベラは友人とは対照的に、やや真剣な表情を浮かべていた。
「フィロメル、あなたが会ったことはあった?」
考えてみると、ない。
――なのに、どうして私は瞬間的に、その人は死んだと思ったのだろう?
イサベラが尋ねた。
「夢でも見たの?」
「うん、たぶん……そんな感じ……」
フィロメルが彼女の言葉を受け入れようとした、その時。
「皇帝陛下がお越しです。」
皇帝が姿を現した。
「カトリン、久しぶりだな。」
「皇帝陛下にお目にかかります。」
皇帝はカトリーヌと形式的な挨拶を交わすと、そのままフィローメルを抱き上げた。
今回は、フィローメルも逃げることなく、素直に彼の胸に身を預ける。
木の香りを思わせる彼の体臭は、いつもフィローメルに安らぎを与えてくれた。
――あ、木の匂い……。
……いいえ、違う。花の香りだった。
その香りをはっきりと意識した瞬間、いったん治まっていた違和感が、再び胸の奥でざわりと蘇る。
カトリーヌと話していたユースティスが、腕の中の娘を見下ろした。
「どうだ、正統派の魔法使い……あの男のところへ行ってみたいか?」
皇后は、あからさまに眉をひそめる。
「“あの男”ですって?まるで他人みたいな言い方ね。れっきとしたフィローメルのお父様でしょう」
「フィロメルの父親は、私一人で十分だ。二人もいる必要はない。」
いつも聞かされてきた言葉。
だが、なぜか今日は妙に引っかかって感じられた。
だからフィロメルは尋ねた。
「どうして私には、お父様とパパが二人いるんですか?」
おかしいと感じているのは、それだけではない。
「どうして母上とママも二人いるんですか?それに、どうして皇宮と邸宅を行き来する生活をしているんですか?」
沈黙が流れる。
最初に口を開いたのはカトリンだった。
「どうしてって?理由なんてある?」
続いてユースティスが言った。
「……前から、そうだっただろう?」
――前から?最初から?
フィローメルは戸惑ったが、二人の表情を見て言葉を失った。
何をそんな当たり前のことを、という顔。
その理由が、どうしても理解できない。
イザベラは不安を滲ませた眼差しで、フィローメルの頬にそっと触れた。
「どこか具合が悪いの?さっきから、変なことばかり言っているわ」
皇后と目が合った瞬間、フィローメルは反射的に視線を落とした。
――どうしてだろう。
急に、気力がしぼんでいく。
取るに足らないことで、お母さんを心配させてしまった。
「だ、大丈夫です。ちょっと勘違いしていただけみたい!」
フィローメルが無理に明るく笑うと、場の空気は再び和らぎ、彼らはまた、それぞれの会話へと戻っていった。
「変……」
しかし、一度根を下ろした違和感は、簡単には消えなかった。
むしろ、ほのかに感じられる花の香りによって、さらに身体を強張らせるだけだった。







