こんにちは、ピッコです。
「ニセモノ皇女の居場所はない」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
147話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- ハッピーエンド
ベレロンがそのように去ったあと、フィロメルとユースティスの間には静寂が流れた。
「…………」
「…………」
現在、二人がいる場所は大神殿の内部に設けられた臨時の治療所だった。
治癒能力を持つ神官たちが、傷を負った者たちを治療するため、慌ただしく行き来している。
少し前には、エレンシアを鎮静させるために一人の神官が席を外していた。
「健康状態に特に異常はありません。意識もまもなく回復するでしょう。腕の火傷も、すでに治療を施しています」
本当に、本当に――よかった。
皇帝は小さく息を吐いた。
フィローメルは、自分の隣に腰を下ろした皇帝を見て口を開く。
「陛下、お身体は大丈夫ですか?」
「寿命は縮んだらしいが、実感はあまりないな。ただ、全身に軽い筋肉痛が残っている程度だ」
あの程度で終わるはずもないのに、無理に平然を装っているのだろう。
「ありがとうございます。陛下が決断してくださらなければ、私たちは皆、無事ではいられませんでした」
「悪神を討ったのはお前だ。私は皇帝として、なすべきことをしたにすぎない。それに私こそ君から大きな恩恵を受けた」
厳かでありながらも温かみのある眼差しが、フィロメルに向けられた。
「エレンシアを救ってくれて、本当にありがとう」
「いえ……あの子こそ、私を救ってくれました」
ほんの一瞬の出来事ではあったが、エレンシアは神に抗う形で、フィロメルの命を救ったのだ。
ベレロンはそれを、いくつもの意識が重なり合った結果として起きた、偶然の事故だと語っていたが……。
『私には、あの子の意志が起こした奇跡に見えた』
皇帝はそう言って、軽くうなずいた。
「強い子だ。……君もな」
ほどよく和やかで、心地よい空気だった。
フィローメルは、今こそ皇帝の謝罪に答えるべき時だと判断した。
「私はきっと、陛下がおっしゃったあの言葉を一生忘れないと思います」
幼い頃、扉の向こうから聞こえてきた皇帝の声。
それは、フィローメルの暗く閉ざされた幼少期を象徴する言葉でもあった。
「でも、今はもう――あの頃を思い出しても、あまり辛くありません」
すでに、その時代の記憶の上には、たくさんの新しい思い出が積み重なっていたから。
フィローメルはしばし過去を振り返り、そして、ついにその一言を口にする。
「……陛下を、お許しします」
これで終わりだ。
長いあいだ澱のように溜まっていた感情に、ようやく区切りがついた気分だった。
ユースティスはその一言のあと、しばらく沈黙し、フィロメルをまっすぐに見つめた。視線を逸らすことなく。
「最後に……これでいいか?」
彼は手を差し出した。
フィロメルは拒まず、その手を取った。
二人は静かに握手を交わす。
二人とも分かっていた。
フィロメルが彼を許したからといって、ユースティスが望むような関係になれるわけではないということを。
結局、フィロメルとユースティスは家族にはなれなかった。
血が繋がっていなかったからではない。
互いに本心をさらけ出すのが、あまりにも遅すぎたのだ。
だが、家族でなくとも、縁が断たれたわけではない。
「……たまに、連絡してもいいか?」
フィローメルは、その不器用な問いかけに、素直に頷いた。
「もちろんです」
静まり返っていた礼拝堂をかき乱す騒がしさが、ちょうどそのとき外から聞こえてきた。
「フィル!ここにいるのか?」
誰かが礼拝堂の外で大声を上げ、フィローメルの名を呼んでいる。
彼女にも、すぐに誰だか分かった。
皇帝が先に口を開く。
「どうやら、君の父親が来たようだ。早く行きなさい」
フィロメルは一瞬、目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。
「患者さんの邪魔になりますから、一言注意してきますね」
皇帝を呼びに来た者もいた。
「皇帝陛下!ただいま皇后陛下が正気を取り戻されました!」
神官の報告を聞くと、皇帝は慌てて足早にその場を後にした。
「私もそろそろ行かないと」
「私も後で伺います!」
「そうだな。エレンシアもきっと喜ぶだろう」
フィロメルは、本当の娘との初めての対面に向かう皇帝の背中を、少し離れたところから静かに見送った。
きっと、この二人の少女の未来には、明るい出来事が待っている。
そんな予感がした。
その頃、フィローメルを呼ぶ声は、すでに礼拝堂の入口まで迫っていた。
「おい!お前たち無事か?この頑丈なのも、ちゃんと生きてたか」
扉の前に立つ息子たちを見つけた魔法使いが、ぶっきらぼうな声を上げる。
今になって、フィローメルにも分かった。
それが、あの人なりの子を案じる気持ちなのだということを。
「本当に……素直じゃないんだから」
フィローメルはそう呟き、騒がしさに満ちた礼拝堂の入口へと歩き出した。
──彼女の“家族”が待つ場所へ。
数か月後、魔塔。
フィロメルは、自分宛てに届いた手紙を、どきどきする気持ちで開封した。
手紙の書き出しは、こうだった。
[親愛なるフィロメルへ。]
安否を気遣う挨拶のあとには、手紙を書いた人物――皇后の近況が綴られていた。
[今日も課題を全部終わらせられなくて、先生たちに叱られました!皇女として生きるのも、なかなか大変ですね。]
フィローメルは小さく笑った。
涙を浮かべたまま、山のように積まれた課題に向き合うエレンシアの姿が、やけに目に焼き付いていた。
二人はやがて、手紙を交わす関係になった。
連絡を取るだけなら通信石の方がずっと手軽だったが、手紙ならではの温もりや余韻は、どうしても代えがたい。
[でも、絶対に途中で投げ出したりしない!私のために力を尽くしてくれたフィローメルのためにも]
かつては、突然姿を消して再び現れた皇女について、よくない噂が囁かれたこともあった。
だが、それらは長く続くことなく、やがて嘘だったかのように静まっていった。
「さすがに上級覚醒だな」
フィロメルが残っていた上級覚醒を一つ、エレンシアのために使ったからだ。
今のエレンシアは、正統な皇位継承者となるべく励む皇女である。
フィロメルは、微笑みながら手紙を読み進めて――ふと、手を止めた。
[ところで、言いづらいのですが……お父様の手紙には、どうして返事をくださらないのですか?]
彼女の眉間に、しわが寄った。
[一行でもいいので、返事を書いてあげてください……駄目、でしょうか。内緒にはしませんが、父がとても心配していまして。もし失礼なお願いでしたら、ごめんなさい。――あなたの親友、エレンシアより」
手紙は、そうして結ばれていた。
「どうして返事をくれなかったの……」
フィローメルはエレンシアの手紙を置き、困惑した面持ちで皇帝を見つめた。
「それは、手紙が届いていなかったからだ」
皇帝が自分に宛てて手紙を出していたことも、フィローメルは今になって初めて知った。
なぜ彼の手紙は、一通たりともフィローメルのもとへ届かなかったのか。
理由など、考えなくても分かっていた。
フィロメルは、すぐに自分の部屋を出て、同じ階にある魔塔主の執務室へと踏み込んだ。
「フィル、こっちに来い!」
「私に言うことはないんですか?」
娘のとげとげしい口調に、魔塔主はひるんだ。
「言うこと?何の話だ?」
「どうして私の手紙を勝手に持っていくんですか!」
「持っていったのは誰だ!」
「ねえ、今すぐ素直に返してくれたら、怒らないであげますよ」
たぶん。
彼は「はあ……」とため息をつき、引き出しから手紙の束を取り出した。
幸い、と言うべきか、封はまだ切られていなかった。
「中身は確認していないんですね」
フィローメルの怒りは、やや和らいでいた。
「どうして、こんなことをしたんですか?」
魔法使いは肩をすくめる。
「やりすぎじゃないか?」
「何が、やりすぎなんです?」
「皇帝のことは“お父さん”って呼んでたくせに、俺のことは今でも“ルーク”だろ」
「……それを、どうして知ってるんです?」
「カーディンが代戦のときに、お前が『お父さん!』って叫ぶのを聞いたらしい」
カーディンは、獣じみた鋭い感覚と、並外れた聴力を持っていた。
「いえ、そのときは事情があったんです。それに……」
厳密に言えば、彼女が「お父さん」と呼んだ相手は皇帝ではなかった。
フィロメルはそんな言い訳を口にする代わりに、父をじっと睨みつけた。
ルグィーンの立場からすれば、十分に傷ついてもおかしくない出来事だ。
娘が、他人を「お父さん」と呼んだのだから。
『手紙を隠したのも、危機感から出た行動だったようだし、』
今回はここまでにしておこう。
「でも、これからはこんなことしないでください。本気で怒りますから。それと……これからは、ルグィーンのことも『お父さん』って呼びます」
その言葉に、魔法使いの眼差しが一瞬で期待に満ちたものへと変わった。
「本当か?ほら、早く呼んでみろ!」
「……あ……」
どうしても、言葉が喉からこぼれ落ちなかった。
やはり、あまりにも気恥ずかしい呼び名だったのだ。
「……だめです。もう少し時間が経ってから呼びます」
「どうしてだ!」
「心の準備が必要なんです」
「呼び方を変えるだけで、心の準備まで必要なのか?」
「私には、必要です」
「いいから、呼んでみろよ」
「待ってください、ルグィーン」
「やだ!お父さん!お父さん!」
「……お父さん」
それはフィロメルの言葉ではなかった。
いつの間にか、そこにはエレクシオンが立っていた。
「僕が先に“お父さん”って呼んであげますから、仕事でもしてくださいよ。お父さん」
彼は一人ではなかった。扉の向こうから、カディンがひょいと顔をのぞかせた。
「“お父さん”って呼ばれるのが夢だったんだな。正直に言えよ!俺もこれからは“お父さん”って呼ぶからな、お父さん!」
「お父さんって何だ、気持ち悪いな」
外から聞こえてきたその声の主はジェレミアだった。
魔法使いが叫んだ。
「お前たちの“お父さん”呼びなんて、必要ない!」
「ひどいですね。それ、子ども差別じゃありませんか?」
レクシオンは感情もこもらせず、泣く真似をしながら、机の上に積まれていた書類の山をどさりと放り投げた。
「“お父さん”って呼んでやったんだから、さっさと書類を片づけろ」
カーディンも、からかうように言い放つ。
「俺も“お父さん”って呼んでやったんだ。訓練用のモンスターを何体か出せよ!」
ジェレミアは“お父さん”と呼ぶことすらしていないのに、ちゃっかり恩恵だけを受けていた。
「お前の持ち物の中に、欲しいものがある。出せ」
「だから、お前たちが嫌いなんだ!」
魔法使いの苛立ち混じりの叫び声だけが、魔法塔の中に響き渡った。
フィロメルはくすりと微笑んだ。
それは彼女が愛してやまない、平穏な日常の一場面だった。
「仕事しなさい!」
「やだ!」
「モンスター!」
「アイテム!」
「やだ!やだ!」
しかし、なぜか父娘の言い争いは次第に激しさを増していく。
こういうのは、あまり平和的とは言えない。
「そういえば、時間旅行装置はもう完成したの?」
フィロメルは、彼らの注意をそらすために話題を変えた。
部屋の隅に置かれていた物体を、彼は指先で示した。
それは巨大な懐中時計のような外見をした装置で、魔法使いが生み出した発明品の一つだった。
ルークは少し前から、かつて開発を試みては断念した「時間旅行装置」を、再び組み上げようとしていた。
彼は首を横に振る。
「まだだな。理論は完璧だが、最後の一押しが足りない、とでも言うべきか」
レクシオンが、言葉を継いだ。
「時間は、神の領域ですから」
「俺のエステリオンが創造神の力だって話も聞いたが……試しに組み込んではみたものの、やっぱり動かないな」
「なるほど、そういうことですか」
フィロメルは時間旅行装置に近づいた。
「見た目は、ただの普通の時計みたいなのにね」
そう言って、時計の針に手を伸ばした。
本当に深く考えてはいなかった。
どうせ動かないのだから、少し触ったところで問題ないだろうと思ったのだ。
だが、事故というものは、たいていそうした油断から始まる。
カチ、カチ。
その瞬間、止まっていた時計の振り子が動き出した。
時計の針は、凄まじい勢いで逆回転を始める。
「フィル、離れろ!」
魔法使いが叫んだが、フィロメルの身体は時計から放たれた光に、すべてが呑み込まれた。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
次の瞬間、フィローメルは生まれて初めて見る場所で目を覚ました。
チューリップが一面に咲き誇る花畑。その花々をかき分けるようにして、ひとりの女性が駆けてくる。
「イザベラ!イザベラ!聞こえる!?」
フィローメルは、血の気の引いたその女性の顔を見て、思わず息を呑んだ。
――カトリーヌだ。
本来なら、今ごろ皇宮の塔に幽閉されているはずの彼女が、どうしてここにいるのだろう。
エレンシアの嘆願によって、処遇はかなり改善されたとは聞いていたが、まだ自由の身にはなっていないはずだった。
「ちょっと、イザベラ?」
まさか、死んだはずのイザベラ皇后?
また悪神の悪戯かと緊張したが、カトリンとイザベラは、周囲など気にも留めず、自分たちだけの会話に夢中になっていた。
カトリンが早口でまくしたてる。
「ねえ、さっきすごく格好いい男の人を見たの。身分が高いのか、部下を大勢引き連れて歩いてたわ」
「それでね、お父様が今日、皇宮に大切なお客さまがいらっしゃるっておっしゃってたの」
「皇宮?まさか皇族かしら?あ、でも、まともな皇族なら、現皇帝が即位したときに、みんな死んで――」
「うーん……」
フィローメルは、すぐに違和感に気づいた。
二人とも、明らかに若い。
夢で見た姿よりも、ずっと。
――しかも、今の会話の内容から判断するに……。
答えに辿り着くまで、そう時間はかからなかった。
彼女は――過去へ来ている。
フィローメルはしばらくのあいだ、カトリーヌとイザベラの会話に耳を傾け、状況を整理した。
「カトリーヌ、外でそんな話をするのはちょっと……」
「いいじゃない。ここ、私たちの庭よ」
彼女たちの目には、フィローメルの姿は映っていなかった。
「え?私のハンカチ、どこに行ったの?」
カトリンはきょろきょろと辺りを見回したあと、フィロメルがいる場所へと駆け寄ってきた。
「来る途中で落としたみたい。探してくるね!」
そう言うと、彼女はフィロメルの体をすり抜けるようにして、そのまま通り過ぎていった。
――見えないどころか、触れることすらできないのね。
この場に残ったのは、イザベラと異邦人であるフィロメルだけだった。
フィロメルは、イザベラには届かない独り言をこぼす。
「どうして急に、時間旅行装置が作動したの……?」
もしかして――彼女が、ミオに選ばれた“主人公”だからだろうか。
時間が神の領域であることを踏まえれば、その推測は十分にあり得た。
――そのときだった。
「客人がいるようだな」
フィローメルの背後から、低く落ち着いた声が響いた。
聞き覚えはあるが、どこか違和感のある面差し。
若き日の――皇帝だった。
イザベラとユースティスの視線が、静かに交わる。
今日という日は、やがて“最凶の夫婦”と呼ばれることになる二人の、最初の出会いの日だった。
その事実をフィローメルが悟った瞬間、空間がぐにゃりと歪む。
「……ここは、またどこ?」
目を瞬きした次の瞬間、フィロメルはまったく別の場所に立っていた。
どうやら彼女の時間旅行は、予想以上に長引きそうだった。
フィロメルは、さまざまな場所を移動しながら、多くの人々を目にした。
取っ組み合いの喧嘩をするわんぱくな三兄弟、研究に没頭するルグィーン、家族と穏やかな時間を過ごすデレス伯爵夫人、日記を書いているエレンシア。
そのほかにも、フラン伯爵、キリアン、乳母など。
どの人物も例外なく、フィロメルと何らかの縁を持つ者たちだった。
――どうやら私は、自分と縁のある者たちの「過去」にしか行けないらしい。
訪れる時代は、その都度ばらばらだった。
乳母は、イザベラ皇后に仕えていた若き日の姿で現れ、ヨハンは騎士団を辞して皇宮へ戻った頃、そしてキリエンは「本当の自分」を探す旅に出た、比較的最近の姿だった。
フィローメルは、いつしかこの奇妙な時間旅行を楽しむようになっていた。
彼らの過去。
その積み重ねが形づくった現在。
そして、やがて訪れる未来まで――。
そのすべてを、彼女は静かに見守っていた。
その事実が、胸の奥から込み上げるほどに、嬉しく、誇らしかった。
もちろん、知っている人たちの意外な一面を見る楽しさも大きかった。
なかでも、幼い頃のナサールは言葉では言い表せないほど可愛らしく、フィロメルの心をすっかり溶かしてしまった。
「そういえば、今日はナサールが来る日だったわね。」
ナサールは最近、首都と魔塔を行き来する生活を送っている。
ルグィーンは相変わらず、娘の恋人を快く思ってはいなかったが、魔塔に滞在できるよう、形式的に許可は出していた。
「結婚は絶対ダメ!恋愛だけにしなさい!」
こうして寄り道は重ねたものの――。
もちろんフィローメルは、成人した暁には、彼と結婚するつもりでいた。
――それはさておき。いったい、この時間旅行はいつ終わるのだろう。
元の時代へ、きちんと戻ることはできるのだろうか。
そんなことを考えていた、そのとき――再び空間が歪んだ。
「……まだ現れていない人は……」
出会うべき顔は、ほとんど見尽くしている。
彼女の知る人物の中で、残っているのは、あと一人だけだった。
予感は、的中する。
森の奥の小さな池のほとり。
そこに倒れていたのは、エレンシアだった。
――正確には、エレンシアではなく、憑依者だったのだが。
フィロメルにも、「真実の眼」を通して見た記憶のある過去がある。
侵入者が、初めてエレンシアの体に入り込んだ時のことだ。
未来でその者がどんな行いをするのか分かっていても、結局は何も違う行動を取れなかったという事実が、ひどく虚しく感じられる。
「何発くらい殴っておこうかしら?」
時間旅行を重ねる中で、ひとつ気づいたことがある。
フィロメルは人には触れられないが、物であれば触ることができるのだ。
――精神を集中させる必要があるため、長時間は無理だが。
フィロメルは、殴れそうなものがないかと周囲を見回し、はっと息をのんだ。
そこにあってはならない物が、侵入者のすぐ隣に置かれていたのだ。
〈皇女エレンシア〉――あの本だった。
「……どうして、これがここに……?」
フィローメルの知る限り、憑依者は本を所持していなかった。
もし内容を完全に記憶していたなら、彼女自身があれほど容易く出し抜かれるはずもない。
つまり――この人間の手に本が渡るのは、非常にまずい状況だった。
「……うぅ」
憑依者が、かすかに身じろぎする。
フィローメルの胸に焦りが走った。
目を覚ます前に、急いで本を隠さなければならない。
彼女は意識を集中し、本をそっと拾い上げた。
近くの茂みに隠そうとした、その瞬間――。
再び、空間が歪む。
「……また?」
今度は、本当に、出会うはずの人物などいないはずなのに。
とにかく、うまくいった。
〈皇女エレンシア〉は、まだ彼女の手の中にある。知らなかったが、フィロメルが物を持ったまま時間を越えると、その物も一緒についてくるらしい。
「別の時間に隠してしまえば、絶対に見つけられないわね」
満足そうに微笑んでいたフィロメルの表情は、ほどなくしてこわばった。
今回移動してきた場所は、フィロメルにとっても非常によく知る場所だった。
皇帝宮の庭園。幼い頃、よくここを散歩した場所だ。
「ああ、そういうことだったのね。……そうだったんだ」
一気に、いくつもの気づきが押し寄せてきた。
フィロメルは、ようやく太陽神の言葉の意味を理解したのだ。
「先に言ってしまったら、つまらないだろ?」
やがて、庭園の奥に誰かが姿を現した。
フィローメルが、これまで過去を巡る中で、ただ一人だけ会っていなかった人物。
「はぁ……呪いって、いつ解けるの?」
――フィローメル自身だった。
九歳のフィローメルは、肩を落としながら庭園を歩いている。
一方、十六歳のフィローメルは、手にしていた本を思わず足元に落とした。
とん、と乾いた音が響くと同時に、幼いフィローメルがこちらへ駆け寄ってきた。
「え、これなに?」
フィロメルはしゃがみ込み、幼い自分と目線の高さを合わせた。
もっとも、この子の目には彼女の姿は映っていないのだが。
「この本は?皇女エレンシア?」
小さな少女が、茶色の表紙の本をじっと見つめている。
「フィロメル」
彼女は、聞く者のいない話を始めた。
「これから、その本のせいでつらいことがたくさん起きるわ」
けれど、その本がなければ、侵入者の策略にはまり、何も知らないまま利用されてしまう。
「衝撃的な真実を知ることにもなるし、たくさん泣くことにもなる」
少女は地面に膝をつき、座り込んで本を開いた。
「それでもね、きっとたくさんの素敵な人たちに出会えるよ。これまで心が通じなかった人と、ちゃんと向き合える機会もきっと訪れる」
そよ風に、少女の栗色の髪がやさしく揺れた。
「もちろん、嫌な人もいるし、つらいこともある。すごく疲れるし、腹も立つし、途中で投げ出したくなることだってある。でも――」
少女ではないフィローメルは、静かに微笑んだ。
「あなたなら、きっと大丈夫」
それは、何よりも伝えたかった言葉。
「たくさんの人が、あなたを助けてくれる。そして、応援してくれるから。私も、あなたを応援するわ」
彼女は子どもの頭を撫でようとした。
けれど、その手は髪に触れることなく、空中で止まってしまった。
空間が歪む。
本能的に理解できた。
――戻るのだ。
十六歳のフィロメルが、いるべき場所へ。
彼女は本に夢中な幼い自分を見つめながら、最後の言葉を贈った。
「いつか、あなたもそこへ行くことになる。あなたのための場所。あなたがいられる場所。私が先に行って、待っているから。……さようなら」
やがて、ひとりの時間旅行者は、完全に姿を消した。
「……何?」
幼いフィローメルは、きょとんと首をかしげた。
つい先ほど、誰かが自分の頭をやさしく撫でてくれたような気がしたのだ。
元の場所へ戻ると、魔法使いの執務室は目も当てられないほどの惨状になっていた。
「いっそ、あの時計を壊してしまえばいいんじゃないか!」
「馬鹿!そんなことしたら、フィローメルが二度と戻れなくなるだろう!」
「俺が余計な装置なんて作ったせいで、フィル……!」
「ルグィーン様、今は嘆いて後悔している場合ではありません!」
忽然と姿を現したフィロメルに、真っ先に気づいたのはナサールだった。
「フィロメル様が……フィロメル様がお戻りになりました!」
彼は感極まって叫んだ。
「はい、戻ってきました」
フィロメルは恋人の瞳に溜まった涙を、そっと手で拭いながら答えた。
その後、場は大混乱となった。
皆が一斉に、何があったのかと彼女を問い詰めたのだ。
返答に困っていたその時、ちょうどフィロメルの視界に、ナサールが抱えているものが入った。
遊び盤と、サイコロ、そして駒。
今日は、ナサールと一緒にすごろく遊びをする約束の日だった。
しかも今回は、彼女の家族も全員そろっての参加である。
「さあ、話の続きは庭園で、ゆっくりしよう」
フィローメルは男たちの背中を押した。
彼らは、魔法使いが娘のために特別な魔法をかけ、四季を通して薔薇が咲き誇るようにした、彼女自慢の庭園へと向かう。
「……何か、いいことでもありましたか?」
フィローメルの表情をじっと見つめていたナサールが、控えめに尋ねた。
その瞬間、彼の頭上に、くっきりとした光のゲージが浮かび上がる。
――『100%』
それは、疑いようのない答えだった。
以前と比べると、かなり曖昧なものになっていた。
姿を現す頻度も、はっきりと減っている。
実のところ、星屑商店の商品でさえ、少しずつ力を失いつつあった。
ミオは、この世界をただの夢として終わらせるつもりなのだろう。
フィロメルは、もはや神秘的な道具を自在に扱うことも、ナサールの想いをその目で確かめることもできなくなっていた。
それでも、まあいい。
それが普通の人間というものだ。
「ありますよ。良いことが」
「何ですか?」
「こうして、みんなが一緒にいられること自体が、良いことなんです」
彼女は、これまでで一番と言っていいほど、晴れやかな笑みを浮かべた。
今日もまた、きっと幸せな一日になる。
そんな予感が、胸の奥に静かに広がっていく。
〈完結〉