こんにちは、ピッコです。
「シンデレラを大切に育てました」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
229話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 自分の意思
「リリー、手紙が来てるよ。」
翌日、丸い屋根の家の二階にあるリリーの作業室に、アシュリーが入ってきて声をかけた。
ソファにだらしなく寝転んでいるダグラスと、その向かいに座るリリーを交互に見て、すぐにくすくすと笑い出す。
そのせいでダグラスの顔は赤くなったが、リリーはなぜ笑われているのか分からない様子で、筆を持ったままアシュリーに尋ねた。
「手紙?」
「うん、エメルから来てる。」
どこかで聞いた名前だ。
ダグラスがそう思った瞬間、リリーの表情がぱっと明るくなった。
彼女は筆を置いて立ち上がり、ダグラスに向かって言う。
「少し休憩にしませんか?」
休むつもりなどなかったはずなのに、ダグラスは勢いよく立ち上がった。
そして上着を羽織りながら、ダグラスは尋ねた。
「エメルって誰だ?」
聞き覚えのある名前なのに、どこで聞いたのか思い出せない。
リリーが答えようと口を開いたが、その前にアシュリーが口を挟んだ。
「リリーにつきまとってる男の人よ。」
「つきまとってる?」
ダグラスは目を見開き、驚いてリリーを見た。
「どういう人だ?いや、誰なんだ?」
その様子にアシュリーは面白そうな表情を浮かべるが、当のリリーは苛立った顔をしていた。
「前にあなたも会ってる人よ。筆を作ってる人。」
そこでようやく、ダグラスは思い出した。
エメル――フィリップの代わりに、リリーの工房に出入りしていた男だ。
だから案内された時に会った、あの感じの悪い男か――ダグラスは思い出した。
あの時、男は謝罪の印として筆を贈ると言っていたが、リリーは受け取らなかった。
それもちゃんと覚えている。
ダグラスはくすくす笑うアシュリーを一瞥し、相変わらず何でもない顔で筆を片付けているリリーに尋ねた。
「そんなことをしておいて、あなたに求婚するつもりなのか?」
「え?」
驚いたリリーが勢いよく顔を上げた拍子に、まとめていた筆に付いていた絵の具が飛び散った。
そのせいで、リリーとアシュリーの視線は一斉に、汚れてしまったダグラスの服へと向いた。
「やだ、どうしよう!」
「アシュリー、早くタオルを持ってきて!」
ダグラスは大丈夫だと言う暇もなかった。
彼の頭の中は、それどころではない。
エメルが――どうやってリリーに求婚するつもりなのか。
慌ててタオルを持ってきたものの、リリーとアシュリーは別の用事で呼ばれてそのまま出て行ってしまい、ダグラスはぽつんと作業室に取り残された。
「大丈夫よ。」
そう言えたのは、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきたミルドレッドが来てくれた後だった。
彼女はダグラスのシャツを確認すると、油を使って付着した絵の具を丁寧に拭き取ってくれた。
完全には落ちず少し跡が残ったため、ミルドレッドは新しいシャツを用意すると申し出たが、ダグラスは首を振って断った。
「すみません、私のほうがもっと気をつけるべきでした。」
「いいえ、本当にバンス嬢のせいではありません。」
ダグラスはそう言って、両手を軽く広げて見せた。
本当にリリーのせいではない。
――それよりも。
彼の頭にあるのはただ一つ。
エメルの求愛に対して、リリーがどう答えるつもりなのか。
ダグラスは、リリーがエメルの求愛をどう思っているのか気になって仕方がなかった。
まさか前向きに考えているわけがない。
そう信じたかった。
最後に見たエメルは到底好ましい人物ではなく、リリーも彼を嫌っていたはずだからだ。
――けれど。
今になって初めて、エメルがリリーに求愛していることを知った。
その間に何かが変わっていてもおかしくはない。
いったい何があったのか。
自分の知らないところで、エメルがリリーに会いに来ていたのではないか――そんな落ち着かない想像が頭をよぎり、ダグラスは思考に飲み込まれていった。
そのせいで、ミルドレッドが何か話しかけていたことにも気づかない。
「ケイシー卿?」
「……え?ああ、はい。」
反射的に返事をしてから、ダグラスはようやく自分が何に答えたのかも分かっていないことに気づいた。
戸惑う彼を見て、ミルドレッドは少し不思議そうに首をかしげた。
ミルドレッドはにこやかに微笑んで言った。
「そうなんですね。では、奥様とご一緒に行かれるのですね。」
――え?
ダグラスは一瞬きょとんとした表情を浮かべた。
それを見たミルドレッドが慌てて説明を付け足す。
「展覧会のことです。奥様とご一緒に行かれるのかと思いまして。」
つまり、ミルドレッドはケイシー侯爵夫人と一緒に行くのかと尋ねていたのだ。
ダグラスは反射的に「はい」と答えてしまっていた。
なるほど、そういうことか。
ダグラスはすぐにうなずいた。
母をエスコートして行くつもりだ。
おそらく父は関心を示さないだろうから、それは自分の役目になる。
ダグラスがうなずくと、ミルドレッドはトレイを持ち上げながら続けた。
「私も子どもたちと展覧会に行こうと思っていたのですが、ほかの子たちは予定があって……アシュリーと二人で行くことになりそうです。」
「リリー・バンス嬢も展覧会には行かれるのですか?」
「ええ、私は少し早めに行きます。」
ちょうどその時、着替えを終えたリリーが応接室に入ってきて答えた。
ダグラスは思わず立ち上がり、その様子を見てミルドレッドは内心くすりと笑う。
「早めに、ですか?」
「展示の準備がありますから。先に行って確認しないといけなくて。たぶん会場で母やアシュリーと合流することになると思います。」
ダグラスはリリーが席に着いたのを確認してから、ようやく自分も座り直した。
そして、少し急ぐように口を開く。
「では……私がエスコートしてもよろしいでしょうか?」
「どこへですか?」
「展覧会です。早めに向かわれるのでしたら、私が馬車を用意してお迎えに上がり、そのまま会場までお送りいたします。」
「ですがケイシー卿、奥様とご一緒に行かれるのでしょう?」
――しまった。
ダグラスはそこでようやく自分の失言に気づいた。
母を伴って展覧会に行く以上、その前に一度屋敷へ戻らなければならない。
頭の中で一気に計算を巡らせる。
その速さは、昔の家庭教師が見ていれば「なぜ普段からそれをやらない」と嘆くほどだった。
「問題ありません。お送りしたあと、すぐに屋敷へ戻れば間に合います。」
かなり急がなければならないが――。
ダグラスの言葉に、ミルドレッドはわずかに眉を上げたものの、何も口にはしなかった。
リリーは少しの間母を見てから、肩をすくめて言う。
「お気持ちはとても嬉しいのですが……大丈夫です。送っていただいて、またすぐ戻られるとなると、お忙しくなってしまいますし。それに、どうせフィリップさんにお願いするつもりでしたし。」
フィリップ・ケイシーなら、リリーの頼みを断ることはまずないだろう。
むしろ彼女が他の誰かと一緒に展覧会へ行くほうが、内心では面白く思わないかもしれない。
ダグラスはもう一度、自分が送ると言い張ろうか迷ったが、やめた。
あまりしつこくすれば、かえってリリーに嫌がられる気がしたからだ。
「では、展覧会でお会いしましょう。」
そう言って、ダグラスはその場を後にした。
もうすぐ展覧会――。
リリーはそのことを思い浮かべると、緊張とわずかな高揚で指先がひんやりとするのを感じ、そっと手を握りしめた。
「……ケイシー様のこと、名前で呼んでいるのね。」
ふいにミルドレッドがティーカップを持ち上げながら問いかけた。
リリーは驚いて顔を上げた。
「どちらのことですか?」
どちらもケイシー卿のことだ。
ミルドレッドは自分の言い間違いに苦笑して、言い直した。
「ダグラス・ケイシー卿のことよ」
「わかっています。実はどちらも名前で呼んでいますから」
フィリップ・ケイシーのことは「フィリップおじさま」と呼び、ダグラス・ケイシーのことは「ダグラス」と呼んでいる。
リリーのその言葉に、ミルドレッドはくすりと笑った。
彼女は、リリーがダグラスに対してどう思っているのか尋ねようとして、やめた。
きっとリリー自身も迷っているのだろう。
ケイシー侯爵夫人という立場は、得るものと同じくらい失うものも多い。
画家として歩み始めたばかりのリリーにとっては、なおさら重い選択だ。
軽い好意だけで決められるようなことではないのだから。
「少し心配なんです」
同じことを考えていたリリーが、口を開いた。
ミルドレッドの表情をうかがいながら、慎重に言葉を選ぶ。
「ダグラス・ケイシー卿と、こんなに親しくしていていいのかなって……」
ミルドレッドは、リリーの不安の中身を察していながら、あえて問い返した。
「何が“いけない”と思うの?」
「私は結婚するつもりはありません。でもケイシー卿は、いずれ結婚しなければいけない方ですよね。そんな人と、こんなふうに親しくしていていいのかって……」
しばし考えたあと、ミルドレッドは静かに尋ねた。
「リリー。あなた、その気がないって、ちゃんと伝えてあるの?」
「はい」
「それでも、あの方はあなたと親しくしているのね?」
リリーは小さくうなずいた。
ミルドレッドは少しだけ微笑む。
「それなら、それはあの方自身の選択よ。あなたが一方的に惑わしているわけではないでしょう?」
リリーは言葉に詰まった。
「もちろん、相手がどんな立場かを思いやることは大事。でもね、だからといって“関わらない”ことが正しいとも限らないのよ」
彼女はリリーの手を軽く叩いた。
「大切なのは、曖昧にしないこと。あなたがどうしたいのか、どう思っているのか。それをきちんと持っていれば、少なくとも間違いにはなりにくいわ」
リリーは少しだけ肩の力を抜いた。
それでも胸の奥のざわめきは、まだ完全には消えていなかった。
「そう決めたのよね?」
「はい……そう、だと思います」
「だったら、どうしてあなたが悩むの?」
母の問いに、リリーは言葉を失った。言いかけて、飲み込む。
――確かにその通りだった。
ダグラスは、リリーに結婚の意思がないと知った上で、それでも彼女のそばにいることを選んだ。
あれは彼自身の判断であり、決断だ。
それでも胸に残るのは、消えない引っかかりだった。
自分は彼の気持ちに応えられない。
だからこそ、きっぱり距離を取るべきなのではないか。
あるいは、期待させないようにもっと冷たくすべきなのではないか――
そんな考えが、何度も頭をよぎる。
まるで、彼が自分を好きでいるせいで彼の人生が狂ってしまったら、その責任は自分にあるのではないかとでもいうような、重たい罪悪感だった。
ミルドレッドは、そんなリリーの心の揺れを静かに見つめていた。
好意を向けられれば、応えられないときほど苦しくなる。
それが誠実な人間であれば、なおさら。
彼女はカップを両手で包み込み、少し考えてからゆっくり口を開いた。
「リリー。それは“優しさ”でもあるけれど、“思い上がり”でもあるのよ」
穏やかな声だったが、はっきりと言い切った。
「誰かの人生を背負えるほど、あなたはまだ大きくないし、あの方もそこまで弱くはないわ」
リリーははっと顔を上げた。
「あなたができるのは、自分の気持ちに嘘をつかないこと。それだけよ。あとの選択は、あの方自身のもの」
静かな言葉が、胸の奥にすっと落ちていく。
「……はい」
それでも完全には晴れない感情を抱えたまま、リリーは小さくうなずいた。
少し間を置いて、ミルドレッドは静かに問いかけた。
「リリー。ケイシー卿のこと、好きなの?」
不意を突かれたように、リリーの頬が赤くなる。
彼女は一度視線を逸らし、カップの縁を見つめてから、ゆっくりと答えた。
「……少し、は」
「でも、結婚したいほどではないのね?」
「はい。正直に言うと、画家になることを諦めてまで選びたいほどではありません」
その言葉に、ミルドレッドは小さくうなずいた。
「それでいいのよ」
「いいんですか?」
「ええ。自分の中で“何を一番にしたいか”がはっきりしているのは、とても大事なことだから」
穏やかに言いながら、カップに口をつける。
「人はね、案外それがわからないまま選んでしまうものよ。だから後悔する」
リリーは静かにその言葉を聞いていた。
「あなたは、自分が何を捨てたくないのかをちゃんと知っている。それだけでも、ずいぶん強いわ」
そう言って、ミルドレッドは微笑んだ。
「だからあとは、その選択に責任を持つだけ。中途半端に優しくしないことね」
リリーは少し驚いたように目を瞬かせる。
「優しく……?」
「期待を持たせるような優しさは、時に残酷なのよ」
静かな一言が、重く響いた。
リリーは無意識に手を握りしめる。
自分の態度が、相手に何を与えているのか――初めて、はっきりと考えた気がした。
若いうちに、自分が何をしたいのか、何に才能があるのかを見つけられるのは、とても価値のあることだ。
そしてダグラス・ケイシーという魅力的な選択肢を前にしてもなお、自分が何をより強く望んでいるのかを理解している――それもまた、簡単なことではない。
ミルドレッドは、娘の迷いを少しでも軽くしようと口を開いた。
「リリー、ケイシー卿っていくつだったかしら?」
「ええと……二十五歳、だったと思います」
その答えに、ミルドレッドはふっと思い出したように笑う。
以前、リリーがダグラスに年齢を尋ねたとき、彼がわずかにごまかそうとした様子が頭に浮かんだのだ。
「じゃあ、あなたより七つ年上ね」
「はい」
ミルドレッドはカップを持ち上げながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「仮にあなたに結婚する気があったとしても、“こうしていいのか”と悩む必要はないわ」
リリーが不思議そうに顔を上げる。
「年上で、立場もあって、いろいろ分かっているはずの方よ。あなたがどういう気持ちでいるのかも含めて、ちゃんと見た上で近づいているの」
つまり――
「責任は、半分どころか、あの方のほうが大きいくらいね」
リリーは思わず目を見開いた。
「あなたが一人で背負うような話じゃないのよ」
静かなその言葉に、胸の奥の重さが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
「それは……むしろケイシー卿が考えるべきことじゃないかしら?」
思いもよらない言葉に、リリーははっと目を見開いた。
ミルドレッドは肩をすくめて、あっさりと続ける。
「もちろん、“何も考えなくていい”って意味じゃないわよ。あなたの人生なんだから、あなたも悩むべきよ」
一度言葉を区切り、静かに言い添える。
「でもね、今あなたが抱えているその悩みは――どちらかというと、あなたより年上のあの方が背負うべきものじゃない?」
リリーは言葉を失った。
彼女はもう、ダグラスに伝えている。
自分には結婚の意思がないことも、画家として生きたいことも。
それでも彼は離れなかった。
それを選んだのは、ダグラス自身だ。
頭ではわかっている。
それでも胸の奥に残る感情は、どうしても整理がつかなかった。
理屈では母の言う通りだと理解しているのに、心はそう簡単には追いつかない。
彼のことを考えてしまう。
気にしてしまう。
それが、ただの「責任感」なのか、それとも――。
自分でもまだ名前をつけられない感情だった。
責任はないと頭では理解していても、リリーの中にはダグラスに対する小さな責任感が残っていた。
ミルドレッドも、それが言葉で完全に消せるものではないとわかっている。
そしてそれは、娘の優しさゆえに生まれるものでもあった。
「優しすぎるのよ」
ぽつりとこぼす。
その夜、ミルドレッドは夫にその話をした。
話を聞いたダニエルは、どこか呆れたような、それでいて少し苦笑を含んだ表情で言った。
「まあ、あの子らしいな」
ミルドレッドは肩をすくめる。
「うちの子はみんな優しいのよ」
「優しすぎるとも言うな」
ダニエルは軽く息を吐いた。
「多少は割り切ってもいい場面だ。全部背負い込む必要はない」
ミルドレッドは彼の腕に頭を預けながら、ふと問いかける。
「それって、相手がケイシー卿だから、余計にそう見えるのかしら?」
ダニエルは一瞬だけ考え、ゆっくりと首を振った。
「いや――逆だな」
短く言い切る。
「相手があの男だから、余計に背負わなくていい」
その言葉には、ダグラスという人物へのある種の信頼がにじんでいた。
ぎこちない表情を浮かべながらも、彼女はダニエルの顔を見ようとせず、淡々と続けた。
「あなたとケイシー卿、あまり仲が良くないでしょう」
「悪いわけではない」
短い否定。
「ただ、二人きりだと空気が張りつめるというか……居心地がいいとは言えないな」
ミルドレッドはじっと彼を見つめる。
「温かい雰囲気になることは、まずないってことね」
「そういうことだ」
彼の言い方は相変わらず曖昧で、核心を避けているように聞こえた。
――どうしてそこまで言葉を濁すの?