こんにちは、ピッコです。
「悪党おじさんと暮らしています!」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
43話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 花屋の悩み
翌日。お祖父様との約束の日がやって来た。
私は朝から起きるなり大忙しで、自分の部屋でせっせと荷物をまとめていた。
「セレ」
「ん? あんた、本当に今日おじい様のところへ行くの?」
「うん。だから早く叔父様が危険じゃないか確認してきて。しばらくの間は安全かどうか、早く見てきて! 早く!」
セレは私の周りをくるくると飛び回りながら、不満そうにぶつぶつと文句を言った。
「……そういうことを教えるための能力じゃないんだけどな。それに、お前が祖父の家へ行くのと、あの叔父が危険かどうかに何の関係があるんだ?」
「だって、危なかったらちゃんと守ってから行かなきゃいけないでしょ! 早く!」
セレはふわりと浮かび上がると、私の耳元まで飛んできて、ため息混じりに言った。
「少なくとも数か月は危険なさそうだよ。ずっと見てるけど、何も変わったことは起きてない」
私は鼻をすすりながら、もう一度確認した。
「本当?」
「うん」
「じゃあ……行っても大丈夫だね。ふふん!」
おじい様の家に行くんだ! 私は残りの荷物をせっせと鞄へ詰め込んだ。ルスフェからもらった大切な贈り物も入れ、ライのぬいぐるみも忘れずに入れた。
「ところで、お前の祖父の家にはどうやって行くんだ?」
荷造りの手を止めて、私はセレの言葉に振り返った。
あの恐ろしくて意地悪な詐欺師のカッセル叔父様のことだ。直前になって「やっぱり駄目だ」と言い出すかもしれない。私は叔父様を信じていたのに、私の小遣い――じゃなくて、抜けた乳歯までちゃっかり持って行ったくせに。
「今日、おじい様がここへ来るの。おじい様が帰る時に一緒について行くんだもん!」
それに、まだ乗ったことはないけれど、私には愛馬のエクスもいる。地図だって必要なら手に入れればいいだけだ。ふん、私はもう叔父様なんて信用しないんだから。
侍女のゼンダから、叔父様は朝から仕事が山ほどあって執務室に籠もっていると聞くと、私はすぐに執務室へ向かい、勢いよく扉を開けた。
きちんと荷造りした鞄を背負ったまま、私が入ってきても驚きもしない叔父様の前に立つ。
「また家出か。ずいぶん堂々とした家出だな」
カッセル叔父様は私を見るなり、呆れたように言った。机の上には書類が山積みになっていて、忙しそうにペンを動かしている。
「叔父様」
「今度は何だ。朝食なら一人で食べろ。今日は――」
私は顎を上げ、お腹をこれみよがしにつき出しながら、得意げに宣言した。
「私、今日からおじい様の家で暮らすの。叔父様、元気でね!」
「何だって?」
執務室の椅子に座ったまま書類に目を通していた叔父様が、ぴたりと手を止めて顔を上げた。「……おじい様の家に行くって?」
叔父様の視線が、私の背中へと移る。
「その亀の甲羅みたいなのを背負って行くつもりか?」
「亀の甲羅じゃなくて鞄だもん!」
「ゼンダは知ってるのか?」
あっ、そういえばまだゼンダには言っていなかった。ただ、ゼンダに「鞄なんか背負ってどこへ行くんですか?」と聞かれたから、「うん! 叔父様に話があるの!」と言って飛び出してきただけだった。
「うううん、別に。ただ私が行くって決めただけ。今度はおじい様も私が守らなきゃいけないし! おじい様、いつも私に会いたがってたでしょ?」
叔父様と三秒ほど無言で見つめ合った。叔父様は胡散臭そうに眉をひそめたかと思うと、すぐに興味を失ったように視線を書類へと落とした。
「そうか」
私は一瞬ぽかんとした。えっ、それだけ?
私はもう少し叔父様の顔を見つめたが、叔父様は仕事に追われていて、それ以上こちらを見る様子もない。
ふん、ふんだ。でも、このまま終わるのも何だか悔しい。想像していた反応とは少し違ったけれど、とにかく叔父様にはちゃんと挨拶をした。
「うん!」
そう返事をすると、私はまだ忙しそうな叔父様に背を向けて執務室を出た。
廊下へ出てからも、すぐ食堂へ向かう気にはなれず、その場でしばらく立ち尽くしていた。
ふん……! それでも私は、絶対におじい様の家へ行くつもりだった。私は胸を張って食堂へと向かった。
おかしい。
おじい様は今日来ると言っていたのに、まだ姿を見せない。しかも、とても大きなプレゼントを持って来ると言っていた。だから必ず待っていてほしいとも言われていたのに。約束の時間はとっくに過ぎている。
途中で礼儀作法の授業を一時間受けたが、それでも来なかった。
「ゼンダ、おじい様は今日来ないの?」
確かに来ると言っていたのに。私はまだ鞄を背負ったままだった。本当は礼儀作法の授業の時に少し重くて下ろしていたのだけれど、通りかかった叔父様に見られたので、慌てて意地でまた背負い直したのだ。
「お忙しくて少し遅れているのかもしれませんね。よろしければ、お先におやつでも召し上がりますか?」
「おやつはおじい様と一緒に食べるの!」
「でしたら、せめてジュースだけでもお持ちしましょうか?」
「うーん、いいや。それも後でおじい様と飲む」
おじい様が来たらすぐに見つけられるようにと、わざわざ一階中央ホールのソファに座って健気に待っていたら、カッセル叔父様が現れた。
「まだ行ってなかったのか?」
長い脚で悠々と歩いてきた叔父様は、片手をポケットに突っ込んだまま、くすっと笑って私を見下ろした。
私はぶんっと勢いよく振り返った。
「うん、おじい様が来たらすぐ行くの!」
本当なら、もっと格好よく出発するつもりだったのに、少し予定が狂ってしまった。
「もう二時だぞ?」
「だ、大丈夫だもん! おじい様も忙しいんだから……」
そう言いながら、私はなんとなく気まずくて鞄の肩紐をいじった。すると叔父様は一度通り過ぎたかと思うと、また戻ってきて私の前にひょいとしゃがみ込んだ。
私は鞄を少しずらして叔父様を見た。
「この中に何を入れたんだ?」
叔父様は今にも荷物検査を始めそうな顔で鞄を見つめる。
「ルスフェからもらったプレゼントと、ぬいぐるみと、鉛筆と、それから色々!」
本当はお母様からもらった大切な本なども入っていてかなり重かったけれど、それは叔父様には意地でも言わなかった。
「そんなに荷物を詰め込んだのか」
叔父様が手を伸ばしてきた。私は慌てて鞄を抱え込む。
「だ、大事なものばっかりなの! それより叔父様、おじい様はまだ来ないの?」
「お前の言う通り、忙しいんだろう」
「でも早く来てほしいのに……」
叔父様は大きくあくびをすると、再び執務室の方へ向き直った。
「そのうち来るさ」
そう言い残し、のんびりした足取りで執務室へ戻っていった。
その頃――。
バリエット公爵邸の庭には、目がくらむほどきらびやかな黄金色の馬車が停まっていた。磨き上げられた車体は、溢れる陽光を反射して眩しく輝き、遠目にもただならぬ最高級品だと分かる。
それはまるで、「私は大金持ちです!」と全力で主張しているようなド派手な馬車だった。
そう、それはアイカが以前、乗りたいとずっと言っていた黄金の馬車だった。
「問題はないか?」
「はい。整備もすべて完了しております。移動中に日差しを避けられるよう、黒い天幕も用意しました。今すぐ取り付けましょうか?」
執事のベンゼルは天幕を広げながら尋ねた。
公爵家でも滅多に見られないほど豪華な馬車だったため、使用人たちも総出で庭に集まり、その様子をうっとりと眺めていた。
本来ならもっと早く完成する予定だったのだ。だが、庭に飾るだけの模型として作り始めたものを、途中でイルロード公爵が「本当に走れる馬車にしよう」と方針転換した。さらに、アイカが移動中に遊び疲れて眠ってしまうことも考え、座席のクッションも最高級のふかふかなものに作り直した。まさに、アイカのためだけに仕立てられた特別な黄金の馬車だった。
一人で遊んでいて外へ出たくなるかもしれないと考え、小さな子供が自分で昇り降りできる安全な階段まで取り付けたせいで、完成が少し遅れてしまったのだ。馬車全体は純金色に塗装され、車輪にはアイカの好きな色の宝石まで贅沢にあしらわれている。
「うむ、それでいい。うちの可愛い姫が乗るのだから、移動中に少しでも不便があってはならん」
馬車の中には、アイカが話していた小さな黄金の玩具の馬車もそっと置かれていた。人形を乗せたいという彼女の可愛らしい願いを聞き、一流の職人を集めて細かな装飾まで一つひとつ彫り込ませた逸品だった。
ただでさえ歯が抜けてさらに愛らしくなったアイカの姿を思い浮かべるだけで、イルロードの口元は緩みっぱなしだった。まさか自分がこんな玩具のようなものを喜んで作るとは思わなかったが、どれほど幼くてもやはりバリエットの誇り高い血を引く子なのだと、どこか愛おしく思っていた。
「うむ、金は水のように使ってこそバリエットだ」
それに加えて、少し前の夏の大宴会で初めて公式の場へ出た時も、アイカはまったく臆する様子を見せなかった。むしろ子どもたちに囲まれながら、バリエットの名に恥じない堂々とした態度で宴を終えたという。
「セリアにも見せてやりたかったな……」
イルロードは一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、すぐに誇らしげな表情で黄金の馬車を見つめた。本来なら彼女を公爵邸へ招いて見せるつもりだったが、カッセルが少女をなかなか連れて来ないため、自分から直々に迎えに行くことにしたのだ。
出発の準備を終えたイルロードは、しかし、レギア侯爵家から戻ってきた騎士の報告を聞いて眉をひそめた。まるで寝耳に水の話だった。
「何だと? うちの姫が屋敷にいないだと?」
稲妻のような勢いで駆け込んできた騎士が、息を整えながら答えた。
「はい。お嬢様は本日、朝早くからレギア侯爵とともに外出されたとのことです……」
「何を言っている! 今日は私が迎えに行くと、カッセルに伝えてあっただろう!」
今日という日をどれだけ楽しみにしていたことか。イルロードは怒りのあまり声を荒げた。騎士は慌てて一通の手紙を差し出した。
「こちらをお預かりしております」
「カッセルからか?」
「はい」
手紙だと? イルロードが封を切ると、中から一枚のシックなカードがひらりと落ちた。そこには、実に簡潔な文字でこう書かれていた。
[今日は私がアイカを連れ出します。余計なことはなさらないでください。]
たった一文。それだけだった。
「……あの無礼者め」
人をよこせば済む話を、普段は手紙の一つもろくに書かない男が、今日に限って封筒まで用意して寄越したのだ。イルロードは忌々しげに額を押さえた。
「こんなことなら、昨日のうちに無理にでも知らせておけばよかったものを。……明日行く。馬車の覆いはそのままにしておけ」
「えっ? では、本日は行かれないのですか?」
「明日にするしかあるまい」
「ですが、お嬢様はきっとお喜びになりますよ……」
ベンゼルが宥めるように言うと、イルロードは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
もちろん喜ぶだろう。だが、せっかく作ったあの黄金の馬車は、陽の光の下でこそ最も美しく真価を発揮する。今日はもう遅い。明日、最高な形でお披露目してやればいい。そう考えながらも、イルロードの機嫌はなかなか直らなかった。
イルロードは名残惜しい気持ちを抱えながら、杖で地面を強く突き、屋内へと入っていった。
その日の夕方。
結局、おじい様は来なかった。
明日来るという新しい報せを聞いて、私は重い鞄を床へ放り出したまま、カーペットの上でごろごろとふて寝をしていた。すると、カッセル叔父様がぶらぶらと近づいてきた。
「ピーナッツ」
私はぱっと身を起こして叔父様を見上げた。
「本当におじいちゃんのところへ行くのか?」
「うん!」
私はためらうことなく即答した。叔父様を助けるために、私は毎日一生懸命努力してきたのに。でも、叔父様は私に嘘ばかりつく。それが悲しくてたまらなかったのだ。
「なあ、本当に叔父さんを置いて行くのか? お前がいなくなったら、叔父さんはこれからどうやって生きていけばいいんだ」
「普通に生きていけるよ、叔父様」
「叔父さんは具合が悪くてつらいのに、それでも行くのか?」
うーん。私はゆっくりとまばたきをして、それからきっぱりと首を横に振った。
「お母様がね、叔父様は一生風邪をひいたこともないくらい丈夫で、叔父様みたいにたくましくならなきゃだめだって言ってたよ」
「お前、叔父さんが大ケガしたのを忘れたのか? 腕をケガしただろ」
「もう治ったもん!」
「そんな大ケガだったのに、本当に治ったっていうのか?」
「……まだ完全には治ってないってこと?」
私はむくりと完全に起き上がった。
「ねえ、どれくらい痛いの?」
「死ぬほど痛いさ」
……なんだか、すごく嘘っぽい。さっきまで機嫌よく走り回っていたし、腕もぶんぶんと力強く振っているのを見たのに。私は疑わしそうな目で叔父様を見つめた。
すると叔父様は、腕がずきずき痛むとわざとらしく言いながら、片方の肩をがっくりと落としてみせた。
私は少し揺れる瞳で叔父様を見つめた。けれど、すぐに気を取り直し、きっぱりと首を横に振った。
「うううん。ゼンダが言ってたもん。叔父様はもうすっかり治ったって。だから一人でもちゃんと生きていけるよ、叔父様。おじいちゃんは明日来るんだから、私はもう早く寝なきゃ」
私は勢いよく立ち上がった。叔父様の視線が、私の動きに合わせるようにじっとついてくる。
部屋へ向かおうとすると、後ろから叔父様がまたのそのそとついてきた。なんでそんなにストーカーみたいに後をついてくるの?
「ピーナッツ、よく考えてみろ」
「うーん? 何を?」
もう十分考えたと思うけれど。私はどこか焦った様子でこちらを見ている叔父様を見ながら、ぱちぱちと不思議そうにまばたきをした。
夜も更けた頃。
レギア侯爵家の屋敷の外に、不審な影が現れた。明かりのついた静かな窓が見えるだけの、かなり離れた暗がりの場所から――。
「……」
不安そうに唇を強く噛みしめたその人物は、遠くから長い間、侯爵家の立派な正門をじっと見つめていた。そしてやがて、その影は追跡を恐れるように闇の中へと静かに消えていった。
【ネリの庭園】
ネリは店へ戻り、自分で作って取り付けたお気に入りの花屋の看板をしばらく見つめていた。
初めてこの大都会の王都へやって来たのは、ちょうど三年前のことだった。
「私は王都で、きっと成功してみせます!」
彼女が生まれ育った場所は、ポンタ島の最北端にある小さな集落だった。リゾート地として有名なポンタ島から、さらに小さな小舟で向かわなければならない、本当に小さな島。ポンタ島の中でも特に何もない場所で、朝起きてカーテンを開ければ窓から一面の海が見えるような静かな村だった。まさに田舎の中の田舎。
『隣のジェームズさん、また海でイルカとケンカしたんだって?』
『昨日は下の家のソナさんにも会ったらしいよ』
誰かが一度くしゃみをしただけで、翌日には島中の人が「風邪をひいたのではないか」と心配して訪ねてくるほどの、極めて狭いコミュニティだった。
温かい人たちのいる大好きな場所ではあったが、若いネリにとってはその閉鎖的な環境がどこか息苦しかったのだ。
ここを出たい。成功してみせるという強い決意を胸に、成人すると同時にネリは王都へ向かった。そのために苦労して貯めた、わずかな金銭と銀貨五枚だけを手に持って。身の回りの荷物をひとまとめにした小さな包みと銀貨五枚。それだけが、彼女の全財産だった。
「どいてください!」
「ぼーっと突っ立ってるんじゃないよ、田舎者が!」
だが、飛び込んできた王都はネリにとって冷酷で、決して優しい場所ではなかった。
「あの、そこの求人広告を見て面接に来たのですが」
「何か特別なスキルはあるのかい?」
「やらせてもらえるなら、何でも必死にやります! 手先も器用な方です。この看板だって自分で作ったんです」
「ふん、一か月は見習い期間だ。その間の給料は半分だぞ」
「はい、ありがとうございます!」
王都へ来てすぐ、運よく花屋の仕事を見つけることができた。だがここでは、頼れる家族の助けもなく、すべてを一人でやっていかなければならない。息をしているだけでもお金が砂のように消えていくような、恐ろしい場所だった。
懸命に働いても貯金は一向に貯まらず、そうして心がすり減る日々を過ごしていたある日のこと。仕事を始めてから半年ほど経った頃だったと思う。
もう諦めよう。故郷へ帰ろう。
そう考えていたまさにその日に、小さな事故が起きた。
馬車の接触事故だった。
走ってくる馬車に気づかず、ネリが慌てて道路へ飛び出したせいで、馬を驚かせてしまったのだ。馬の激しいいななきに驚き、ネリは恐怖で目を見開いた。転んだ瞬間、自分はここで死ぬかもしれない――そう思ったが、悲鳴を上げることもできず、ただ地面で身をすくめた。
どれほど時間が経っただろうか。大きな馬の前脚の迫力に驚いて尻もちをついていると、目の前の高級な馬車から一人の人物が静かに降りてきた。恐怖で固まったネリは、なおも身を縮こまらせたままだったが。
「大丈夫ですか?」
返事をするより早く、もう一人が馬車から降りてきた。
「セリア様、危ないですからどうか出てこないでください。私が対処いたしますので」
「いいえ、大丈夫ですか?」
一瞬だけ厳しい口調だったが、聞いているだけで心が洗われるような、穏やかで美しい声だった。
ネリはぽかんと目を見開き、自分に手を差し伸べてくれた人物を見つめた。
その人は、きちんとした気品ある制服を身にまとい、赤みがかった美しいくせ毛をきれいにまとめ上げた女性だった。その後ろには、黒い正装に身を包んだ男性も控えていた。おそらく、その女性の優秀な秘書なのだろう。
(……私と、同じ人間なの?)
同性のネリですら思わず息を呑み、見惚れてしまうほどの圧倒的な美女だった。すらりと伸びた美しい長身に、気品あふれる完璧な立ち居振る舞い。どこにも隙がない。そんな高貴な女性が、薄汚れた自分を本気で心配そうな表情で見つめているのを見て、ネリははっと我に返った。
「だ、大丈夫です! 申し訳ありません! 私がちゃんと前を見ていなかったせいです。本当に申し訳ありません!」
ネリはその場にひざまずいたまま、何度も何度も頭を床に擦りつけた。お金は持っていなかったけれど、他のことはともかく『貴族を絶対に怒らせてはいけない』――そのことだけは、叩き込まれて王都に出てきたネリだった。
「どうやら前をよく見ていなかったようですね。お怪我はありませんか? 顔色もひどく悪いようですし、すぐに病院へ行った方がよさそうです」
「だ、大丈夫です! 今回の事故に関する馬車の修理費用は、いつか必ずお支払いします。本当に申し訳ありません!」
相手が何を言っているのかもよく分からないまま、ネリはひたすら謝り続けた。しかし、その高貴な女性は彼女の責任を追及するどころか、自ら個人の病院まで連れて行き、高額な治療費まですべて肩代わりして払ってくれたのだった。
「ご自宅はどちらですか? お送りしましょう」
そして、わざわざ馬車で家まで送ってくれようとまでした。
「……あ、その」
「はい?」
「あの、まだ家がなくて……近くの宿を転々としているんです。でも大丈夫です! 治療していただいただけでも十分感謝しています。このご恩は、一生かけて必ずお返しします!」
数日後、ネリは自分を助けてくれた恩人の正体が、セリア・デ・バリエット――あの偉大なるバリエット公爵家の令嬢であり、皇室でも重要な地位に就いている本物の雲の上の存在だと知った。本来なら、一生のうちに出会うことすら叶わないような相手だったのだ。
その後、ネリは治療の経過報告のために、彼女の秘書であるベルと何度か顔を合わせることになった。そして、毎日もらうなけなしの給料の一部をはたいて、その時買える一番新鮮で美しい花を買い、セリアへ感謝の印として贈り続けた。故郷へ帰るまでの間だけでも、どうにかして受けた恩を形にして返したかったからだ。自分が買えるものの中で、花がいちばん美しく、そして高貴な貴族にふさわしい贈り物だと思ったのである。
そうしているうちにセリアと少しずつ親しくなり、やがて資金が尽きて故郷へ帰ろうとしているネリの切ない事情を知ったセリアは、彼女が王都で自立して生活の基盤を築けるよう、惜しみない手助けをしてくれた。
それが、この【ネリの庭園】だった。
今と同じように、定期的にバリエット家へ花を届けてほしいという、優しい依頼とともに。
その後、ネリは心に強く誓った。いつかたくさんお金を稼げるようになったら、必ずあの方へ本当の恩返しをしよう、と。
「こんにちは、お姉さま!」
今ではもう、セリア様はこの世になく会うことはできないが、その代わりに彼女の忘れ形見である愛らしい娘、アイカに出会うことができた。
ところが少し前から、ネリのこの小さな花屋に、別の怪しい貴族が出入りするようになった。正確には、ある大物貴族の補佐官たちだった。
ネリは強く警戒して何度も追い返していたが、彼らはしつこく店に通い詰め、やがて恐ろしい、けれど魅惑的な提案を持ちかけてきたのだ。
「とても簡単な仕事を一つだけ手伝っていただければ、一生遊んで暮らせるほどの十分な報酬をお支払いしますよ」
それは、ネリが一生死ぬ気で働いても、到底手にすることができないような莫大な大金だった。その眩しい金貨の山を見た瞬間、ネリの心は思わず激しく揺らいでしまった。
気がつけば、その甘い誘惑に流されるまま、昨夜はレギア侯爵家の近くまで足を進めてしまい――そして、罪悪感から直前で引き返してきたのだった。
(私は、一体どうすればいいの……)
重い気持ちのまま、罪悪感に押しつぶされそうになりながら花の茎をハサミで整えていると、店の扉が勢いよく開いた。
「お姉さん、こんにちは!」
両手を背中に回し、九十度に近いほど深々とお辞儀をする。それは、かつてネリを絶望から救ってくれたあの人――セリア様の愛娘、アイカだった。
ネリは胸のつかえが少し晴れたような気持ちになり、ハサミを置いてにっこりと笑った。
「アイカ、いらっしゃい! 今日はどんなお花を見に来てくれたの?」
「今日は赤いお花です! おじい様にプレゼントするんです!」
満開の花よりも明るい無邪気な笑顔で花を見つめるアイカを見下ろしたネリの目に、ふと、彼女が身につけている超高級な仕立ての服や、眩しいブローチ、大きな金色のネックレスが嫌でも映った。両側できれいに結ばれたリボン一つとっても、決して安物などではない。そのどれもが、ネリには一生かかっても到底手に入れられないような、ため息が出るほど高価な品ばかりだった。
手に持ったハサミを、ネリは無意識にぎゅっと強く握りしめた。
――もし、あの男たちから提示されたお金を受け取っていたら。
そんなドス黒い考えが、一瞬だけ頭をよぎってしまった。どれだけ毎日必死に泥をすするように働いても、この目の前の幼い子どもが当たり前のように身につけているものは、自分には一生買えないのだ。初めて見るわけでもないのに、なぜか今日は特にその格差から目が離せなくなっていた。
「うーん、どのお花にしようかな?」
「全部選んでもいいですよ、お嬢様」
付き添っていたジェラードが笑う。
「それじゃ、次に来たときに新しいお花が買えなくなっちゃうもの。それはダメ!」
そんなふうにネリがアイカを複雑な目で見つめていると、不意に、真っ白で細い手がすっと横から伸びてきて、アイカの小さな体を守るようにそっとネリの視線から隠した。
ネリはハッとして顔を上げた。
アイカの傍らに常に付き従っている、あの冷徹な専属侍女の女性だった。確か、アイカは彼女を「ゼンダ」と呼んでいたはずだ。
無言のまま、自分の邪念を見透かすようにじっと冷たく見つめてくるゼンダの視線。
ネリが恐怖で気まずそうに目をそらすと、ゼンダはすぐにいつもの穏やかな優しい表情を浮かべ、何事もなかったかのようにアイカへと優しく話しかけていた。
「ただ、お洋服を見ていただけよね……」
ネリは自分の醜い心を誤魔化すように、冷や汗の流れた首元をそっとなでた。そして、抑えようとしても自然と、再びアイカが身につけている目も眩むような美しい装飾品へと、その乾いた視線が向かってしまうのを止められなかった。