こんにちは、ピッコです。
「ロクサナ〜悪女がヒロインの兄を守る方法〜」を紹介させていただきます。
今回は36話をまとめました。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
どういう訳か小説の中の悪の一族、アグリチェ一家の娘「ロクサナ」に生まれ変わっていた!
アグリチェは人殺しをものともしない残虐非道な一族で、ロクサナもまたその一族の一人。
そして物語は、ロクサナの父「ラント」がある男を拉致してきた場面から始まる。
その拉致されてきた男は、アグリチェ一族とは対極のぺデリアン一族のプリンス「カシス」だった。
アグリチェ一族の誰もがカシスを殺そうとする中、ロクサナだけは唯一家族を騙してでも必死に救おうとする。
最初はロクサナを警戒していたカシスも徐々に心を開き始め…。
ロクサナ・アグリチェ:本作の主人公。
シルビア・ペデリアン:小説のヒロイン。
カシス・ペデリアン:シルビアの兄。
ラント・アグリチェ:ロクサナの父親。
アシル・アグリチェ:ロクサナの4つ上の兄。故人。
ジェレミー・アグリチェ:ロクサナの腹違いの弟。
シャーロット・アグリチェ:ロクサナの妹。
デオン・アグリチェ:ロクサナの兄。ラントが最も期待を寄せている男。
シエラ・アグリチェ:ロクサナの母親
マリア・アグリチェ:ラントの3番目の妻。デオンの母親。
エミリー:ロクサナの専属メイド。
グリジェルダ・アグリチェ:ロクサナの腹違いの姉。
ポンタイン・アグリチェ:ラントの長男。
リュザーク・ガストロ:ガストロ家の後継者。
ノエル・ベルティウム:ベルティウム家の後継者
37話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 神殺しの夜、狂犬どもの反逆
異母兄弟たちが集う広間に、信じがたい報せがもたらされた。
「おい、お前たちも聞いたか? 父さんが、今『処罰の部屋』に監禁されているらしいぞ」
アグリチェの子供たちにとって、絶対権力者である父親の動向は最大の関心事だった。ラントが権威を失ったというだけでなく、あの悍ましい処罰の部屋に囚われたという凶報は、異母兄弟たちに凄まじい衝撃を与えた。
「え? 本当に? 聞き間違いじゃないのか?」
普段なら質の悪い冗談として片付けられる話だったが、誰一人として笑う者はいない。まさか現実にそんな天変地異が起こるなど、想像すらしていなかったのだ。
「本当のことさ」
その時、広間の重い扉が開き、全身から濃厚な血の香りを漂わせたジェレミーが姿を現した。
「あなた、今までどこに……っ!?」
問い詰めようとした兄弟たちの言葉は、一瞬で喉の奥へと引っ込んだ。室内へと歩み寄ったジェレミーが、手に提げていた「何か」を、まるで玩具のボールでも放るように床へ転がしたからだ。
赤い尾を引きながら大理石の上をゴロゴロと転がった物体――その正体を確認した瞬間、全員が息を呑み、驚愕に顔を歪めた。
「なんだ、これ!?」
「教育官……!? まさかジェレミー、お前が殺したのか!?」
床に転がっていたのは、彼らもよく知る教育官の生首だった。広間の空気が、またたく間に凍りついていく。
「ああ。前から本気で殺したかったんだよね」
ジェレミーは何でもないことのように言い放った。数いる教育官の中でも、ラントの命令で自分を集中的に監視し、評価を下していた男を真っ先に血祭りにあげたのだという。耳を疑うような凶行に、誰もが戦慄し、気が気ではなかった。
「この気狂いめ、頭がおかしくなったのか!? 父親に知られたら『廃棄処分』されるぞ、早くそれを片付け――」
「廃棄処分? ははっ……処罰の部屋に転がされている人間が、一体どうやって俺を処分するって言うんだよ」
ジェレミーの冷ややかな一言が、混沌としていた広間の空気を一気に凝固させた。
言葉を失い、呆然と立ち尽くす異母兄弟たちを見回しながら、ジェレミーは血の飛沫が飛んだ顔に、それとは不釣り合いなほど華やかな笑みを浮かべた。
「そうだ。今さっき聞いたんだけどさ、処罰の部屋の鍵は開いていて、俺たちも自由に出入りできるらしいよ。だから、父さんがどんな無様な格好で転がっているか、ちょっと見物に行こうと思ってたんだけど……その前に」
ジェレミーの低い声が、まるで悪魔の囁きのように甘く彼らの心臓をくすぐる。
「残った教育官と執行官を『掃除』しに行くんだけどさ、一緒に行く人?」
◇
アグリチェという狂気の檻で生まれ育った子供たちなら、誰もが幼い頃に一度は夢見たに違いない。自分たちの命綱を握り、気の向くままに生殺与奪を牛耳ってきた残酷な大人たちの支配から、いつか解き放たれることを。
しかし、成長するにつれて、その欲望は諦めとともに薄れていった。ラントや教育官に服従することこそが絶対の掟であると、骨の髄まで叩き込まれて生きてきたからだ。
だが、本当に殺してもいいのだろうか?
――いや、今なら確実にやれる。強者こそが法とされるアグリチェにおいて、絶対者だったラントは敗北者となり、処罰の部屋に監禁されている。アグリチェの主人は変わったのだ。ならば、失脚した旧王に付き従っていた猟犬どもが、まとめて駆逐されるのはあまりにも当然の理ではないか。
突如として、嵐のような現実感が彼らの胸に込み上げてきた。
黒い毒蛇たちの瞳に、飢えた獣のような獰猛な光がパチパチと灯る。深い歓喜が生臭い空気となって広がり、戦慄となって彼らの背筋を駆け抜けた。
音もなく、引き金は引かれた。
彼らはまるで、最初からこの日を待ち望んでいたかのように、弓を離れた矢の如き勢いでジェレミーの後を追い、広間から飛び出していった。その足取りに、躊躇いの破片など微塵もなかった。
◇
「えっ? それは本当なの……?」
シエラは必死に驚愕を押し殺そうとしたが、激しく波打つ動悸は容易に収まらなかった。先ほど下女から聞かされた言葉は、それほどまでに彼女の現実を揺るがすものだった。
アグリチェの絶対的な君主であったラントが、デオンの手によって監禁された――。
しかし、シエラの直感は告げていた。この未曾有の政変の裏には、間違いなく我が娘、ロクサナが絡んでいるはずだと。
落ち着きなく部屋の中を右往左往していたシエラは、やがて意を決したように拳を握りしめた。
「今すぐ、サナのところへ行きましょう」
傍らにいた女中のベスが、狼狽した様子で彼女を遮る。
「奥様、いけません。今は邸内が大変な混乱に包まれています。むしろ、この騒ぎが少し落ち着くまで、お部屋でお待ちいただいた方が……」
コンコン。
その時、小気味よいノックの音が静かな部屋に響いた。直接ドアの近くに立っていたシエラは、ベスの制止を振り切って自ら扉を開けた。
そして、そこに佇む人物の姿を目にした瞬間、シエラは息を呑んだ。
「あなたは……」
扉の外に立っていた女性は、シエラに向けて物慣れた様子で恭しく一礼した。
「ご無沙汰しております、奥様」
それは、いつもロクサナの影のように付き従っている忠実な侍女、エミリーだった。顔を上げたエミリーは、淡々とした口調でシエラに告げた。
「ロクサナお嬢様の仰せにより、お迎えに参りました」
◇
ロクサナの視線は、ずっと窓の外に向けられていた。いつの間にか太陽は完全に沈み、空には底のない濃い闇が舞い降りている。
彼女が佇んでいるのは、代々アグリチェの首長たちが使ってきた重厚な執務室。昨日までは、ラントの絶対的な聖域だった空間だ。その名残か、室内にはラントが好んで吸っていた覚醒剤の、特有の煙の残り香がうっすらと漂っている。
ロクサナは細い指先を動かし、高級なマホガニーの机に置かれたグラスを取り上げた。中には、ほのかな芳香を放つ深紅の酒が満ちている。
かつてラントが座っていた最上の椅子に深く腰掛け、彼の執務室で酒を傾ける気分は、格別というほかなかった。処罰の部屋で無惨に這いつくばる父親を見てきた余韻に加え、異母兄弟たちが「死んで当然の害虫」である教育官どもを、自発的に掃除してくれているのだ。口に含んだ酒が、いつもより甘く感じられた。
ゆっくりとグラスを傾けていると、気配もなく扉が開き、一人の男が室内へと入ってきた。ロクサナはグラス越しに彼を見据え、静かに話しかける。
「もうお帰りになってもよろしくてよ」
デオンはいつものように、微動だにせず、瞬き一つせずに彼女を見つめていた。ロクサナの言葉など最初から耳に入っていないかのように、ただ静かに歩み寄ってくる。
「まあ、いいわ。今日はとても気分が良いから」
ロクサナは彼の接近を拒まず、椅子の背もたれにさらに深く身を預けた。
「一杯、差し上げましょうか?」
気分が良いというのは嘘ではないらしく、ロクサナは珍しくデオンに対して柔和な態度を見せた。
「要らない」
しかし、デオンは撥ね付けるように冷たく断った。
「そう? 残念ね。このような機会は、今日を逃せば二度とないというのに」
デオンの視線は、先ほどからずっとロクサナのある一点に釘付けになっていた。窓外から差し込む淡い月明かりを除けば、執務室の中は薄暗い。だが、彼ほどの暗視能力があれば、その違和感を捉えるのは容易だった。
ロクサナは、デオンの目がどこに向いているのかを即座に察した。
「気づいているのね」
彼女は手にしたグラスを机に戻し、艶やかに口元を歪めた。
ロクサナはまだ外出着のままで、着替えを済ませていない。しかし、その肩に羽織っている上着は、どう見ても彼女のサイズではないメンズのコートだった。
「カシスがくれたの」
ロクサナは、ゆったりとした仕立ての大きなコートの襟に触れた。
「気に入ったから着ているのよ」
彼女はデオンを見つめ、挑発するようにニッコリと微笑む。
「私がこれを着ているのを見て、不愉快かしら?」
デオンは答えない。ただ、氷のように冷徹な視線を彼女に注ぎ続けるだけだった。
ユグドラシルを離れる直前に出会った男、カシス・ペデリアン。言葉を交わさずとも、今二人が同時に同じ男の顔を思い浮かべていることは明白だった。
「あなたがそんな表情をするたびに、とても不思議な気分になるわ。最近のあなたは、私を見るたびに怒っているように見えるもの」
「俺は……」
沈黙の後、デオンが重々しく唇を開いた。
「アシルを殺したことを、これっぽっちも後悔していない」
ピキリ、と空気が張り詰めた。グラスに触れようとしたロクサナの指先が、ピタリと止まる。彼女の美しい顔から、徐々に、しかし確実に笑みが消え失せていった。
「あの時に戻ったとしても、俺は躊躇うことなく、また奴を殺すだろう」
微かな感情さえも蒸発していくような静寂の中、デオンの声は続く。
「ただし今度は……お前の目の前で、直接、あいつの顔を殴り潰してやる」
限りなく平坦で、起伏のない単調な音声が、静まり返った執務室に低く、深く響き渡る。
「そんなことを考えていると、自分の手で、すでにアシルを殺してしまったことが、酷く惜しい気がしてくるんだ」
デオンは、ロクサナを怒らせて復讐するためにこの言葉を吐き出しているのではなかった。
「だが、済んだことを悔やんでも始まらない。あいつはもう死んだ。だから、その次に俺は……お前の母親を、お前の目の前で引き裂いて殺したくなった」
彼女を脅迫するための言葉でもなかった。ただの純然たる事実の吐露。
「お前もそれを分かっているからこそ、自分の母親を守る役目を、俺の母親に押し付けたんだろう」
ロクサナもまた、その事実を痛いほど理解していた。
認めたくはなかったが、この呪われたアグリチェという沼において、お互いの本質を最も深く理解し合っているのは、間違いなくこの二人だけだった。
「あの日、お前は言ったな。俺が何を欲しているか、知っていると」
二人の記憶が、一瞬にして三年前のあの日に引き戻される。彼らが今も足を取られている底なしの泥沼に、初めて踏み込んだあの運命の日に。
あの時、一体誰が予想できただろうか。自分たちの未来に、今日という夜が訪れるなどと。
他ならぬロクサナ自身でさえ、当時はこんな瞬間を想像すらしていなかった。あの傲慢なラント・アグリチェを王座から引きずり下ろし、彼の執務室でデオンとこのような会話を交わす日が来ようとは。それはおそらく、デオンにとっても同じことのはずだった。
ロクサナはゆっくりと視線を落とした。
「……もしかしたら、あなたと私は、どこか少し似ている部分があるのかもしれないわね」
彼女の長い地睫毛が、窓から差し込む淡い光を受けて、かすかにきらめいた。
「俺は……これまでこの邸内で何とか生き延びるために、あれやこれやと足掻き、喚き散らしてきた理由が、他にあるとは思っていなかった」
奇妙な夜だった。いや、特別な夜、あるいは極めて異質な夜と呼ぶべきかもしれない。
今日は、ロクサナがこれまでの人生で最も大きな意味を持つ一日であったことは間違いなく、そして始まったばかりのこの夜は、これまで経験したどんな夜よりも、長く濃密な時間になるはずだった。
「私はただ……何の実感もないまま、アグリチェの人形として死にたくなかっただけ。強いて言えば、生き残ることそのものが目的だったと言えるかもしれないわね」
いつもとは違う、張り詰めた夜。もしかしたら、これから先二度と訪れない、一瞬の均衡。だからこそ、ロクサナもデオンも、互いに向け合っていた鋭い棘を一時的に収め、このような本音を口にできるのかもしれなかった。
「でも、今になって考えてみると、それが私の最終目的ではなかったような気がするの」
独り言のように、彼女は静かに呟いた。
「たぶん私は、こうしてしぶとく生き長らえて……どうしても、やりたいことがあったのよ」
「これまで、これほど平穏な瞬間があっただろうか」と思えるほど、二人の間の空気は凪いでいた。
「デオン、あなたはそれが何なのか、分かっている?」
ロクサナが静かな声で問いかける。デオンの深い闇を湛えた瞳が、じっと彼女を見つめ返した。
「分かっている」
ロクサナの唇に、微かな、しかし歪んだ笑みが浮かぶ。
互いに似た者同士だからこそ、他人の欲望は見易々と見透かすくせに、己の心の一番奥底にある真の欲望には、決して確実な答えを出せないのだ。
建物の外が、さっきよりも一段と騒がしくなってきた。大勢の人間が一斉に移動する、重苦しい足音が伝わってくる。いよいよ濃さを増していく闇の中で、デオンがゆっくりと口を開いた。
「お前も……俺に、希望を与えてくれるのだろうか」
ロクサナは何も答えず、ただ静かに彼を見つめ返した。デオンはその瞳をしばらく見つめた後、気配を消して、先に執務室を後にした。
一人残されたロクサナは、再び窓の外へと視線を戻す。
闇に呑まれた夜。その黒い帳の向こうに、何が待ち受けているのかを彼女は正確に把握していた。いつの間にか近づいてきた数匹の赤い蝶が、机の上にぽつんと残されたグラスの周囲を、愛おしげに揺らめいている。
「……時間になったわね」
短い祝宴は、これで終わりだった。
ロクサナは席を立ち、先ほどデオンが出ていった扉を開けた。彼女が部屋を去り、静かにドアが閉まった後、主を失った執務室には完全な暗黒が敷き詰められた。
いつの間にか、窓の外には、冷たい白い雪がしんしんと舞い始めていた。
◇
「そんなに急いで、どこへ行くのかしら?」
アグリチェの使用人の一人であるジーンは、背後からかけられた声にビクリと肩を震わせた。恐る恐る振り返ると、そこには暗闇の中でも眩いほどに美しい、ロクサナの姿があった。
「ロ、ロクサナお嬢様……っ」
彼は思わず言葉を詰まらせてしまう。しかし、彼女の圧倒的な美貌と威圧感を前にして狼狽えるのは、屋敷の人間にとっては日常茶飯事であり、取り立てて不自然な反応ではなかった。
「使用人たちを招集した場所は別館のはずよ。あっちだわ」
「あ、その、それが……少々、体調が優れず、気分が悪くて……」
「そうなの?」
「は、はい……っ」
ジーンの顔は実際、恐怖で真っ青だった。冷や汗を流すその様子は、見ようによっては本当に酷く体具合が悪いようにも映る。ロクサナはすべてを察したように、深く深く頷いた。
「それなら、あなたはここで休んでいた方がいいわね」
とろけるように優しい声が耳元に響いた。ジーンは、ロクサナを上手く欺くことができたという安堵と、アグリチェの血族を騙したという致命的な罪悪感を同時に覚えながら、深く腰を屈めた。
しかし、ロクサナは立ち去るどころか、なぜか彼との距離をさらに詰めてきた。
「目が覚めた時には、すべてが終わっているはずだから。あなたは何も心配しなくていいのよ」
その言葉の真意を問い質す時間すら、彼には与えられなかった。
「だから……楽に、目を閉じなさい」
視界のすべてが、彼女の極上の笑みで満たされていく。柔らかい手のひらが自分の頬をなめらかに撫でる感覚は、まるで甘美な夢のようだった。
至近距離から注ぎ込まれる、脳を痺れさせるような甘い香りに頭がクラクラとする。心臓を鷲掴みにするほどに美しい顔が、目の前まで近づいてきたのを最後に――ジーンの意識は、永遠の闇へと転落した。
◇
「最後まで、父親らしいと言うべきかしらね」
ロクサナは、手の中でしわくちゃになった一通の手紙を見つめ、嘲笑を浮かべた。
幽閉され、外部の人間と連絡を取る時間など微塵もなかったはずだというのに、どうにかしてラントの伝言を外へ持ち出そうとする忠臣がいたらしい。万が一の事態に備えた最低限のパイプだけは、常に維持していたという意味だろう。
冷徹な視線が、毒によって足元に崩れ落ち、意識を失っている男の体を冷たく見下ろした。
現実のラント・アグリチェは、小説のシナリオのように、娘であるロクサナの美貌を利用して他の男たちを誘惑させるような真似はさせなかった。その理由は極めて単純である。ロクサナの全身が、文字通りの「致命的な猛毒」そのものだったからだ。
毒蝶の主人となる過程で、彼女は長年にわたり、常人なら即死するレベルの猛毒を微量ずつ、地道に摂取し続けてきた。その結果、彼女の体液や呼気には毒が完全に浸透しており、免疫のない人間は、今のようにロクサナと至近距離で息を交わすだけで激しい中毒症状を起こし、昏倒してしまうのだ。
小説の中でシルビアの「キス」が人々の傷を癒やす奇跡の力だったとするならば、ロクサナの「キス」は、触れた者を確実に絶命させる死の呪いだった。
「それにしても……また『ベルティウム』なのね」
ラントが以前から聖皇国ベルティウムとの親交を深めたがっていたことは、彼女も早くから察知していた。しかし、まさかこのような切羽詰まった状況で、真っ先に兵力の要請を行おうとするほどの関係を築いていたとは。
少なくともラント側は、そう確信している。それはすなわち、両家の間に、世間には決して明かせない「密かな利害関係」が存在しているという証左に他ならない。ラントがベルティウム側に、何らかの莫大な対価を差し出しているのだ。
しかし、先の和合会におけるカシスの生存発覚の一件で、ラントもベルティウムに対して強い疑念を抱いていたはず。
ロクサナは僅かに思考を巡らせたが、すぐにアグリチェとベルティウムの黒い繋がりについて考えるのを放棄した。今となっては、そんな過去の因縁など何の役にも立たないと直感したからだ。ベルティウムが今さら、この地に兵力を差し向けたところで、すべては手遅れ。
何よりも、今の彼女にとってはすべてが酷く退屈で、面倒なことだった。
「姉さん」
その時、薄暗い廊下の奥からジェレミーが姿を現した。教育室のある建物から出てきたばかりの彼は、書状を握るロクサナの前へと足早に近づいてくる。ジェレミーの鋭い視線が、床に無様に転がっている使用人の体を冷たく掠めた。
「エミリーは何をしてるの? ……姉さん、一人?」
「お母様のところへ送ったのよ」
ロクサナが淡々と答えると、ジェレミーは一瞬だけ沈黙し、彼女の横顔をじっと覗き込んだ。その少年の瞳には、アグリチェ特有の薄暗く陰気な光が宿っている。
「姉さん、言われた通りに片付けてきたよ」
審判の部屋で父親を相手にしていた時や、先ほど異母兄弟たちを扇動して教育官どもを惨殺しに行った時の狂気じみた様子とは打って変わり、ロクサナの前に立つ彼は、いつも通りの「姉を慕うジェレミー」だった。
彼は最初から、ロクサナの命令であれば何であれ従う覚悟を決めていた。目障りなデオンがロクサナの側にまとわりついているのが死ぬほど不満だったが、彼女の厳命があったからこそ、ジェレミーはこの三年間、一度もデオンに牙を剥くことなく耐えてきたのだ。今の自分なら、あの出来損ないの兄に後れを取る気はしなかったが、ロクサナがそれを望まない以上、ウズウズする拳を握りしめ、破壊衝動をグッと抑え込んで耐え忍んできた。
分別をなくして己の感情のままに暴走したのは、三年前、ロクサナの「玩具」であったカシス・ペデリアンを勝手に危険に晒してしまったあの時が最後だ。
今のジェレミーは、ロクサナの隣で、彼女が本当に必要とする唯一の存在になりたかった。だからこそ、彼女の望みならどんなに血生臭いことでも、この手で叶えてやりたかった。ロクサナがアグリチェのすべてを欲するというなら、首長の首を刎ねてでも持ってきてやるつもりだった。もし父親のラントを最も無惨な方法で殺したいと言うなら、喜んでその執行人になって先頭を走るつもりだった。
しかし――ラントを玉座から引きずり下ろした今、ロクサナが自分に命じる事の数々は、どこか奇妙に歪んでいた。
これはまるで……彼女の本当の目的が、最初から「アグリチェを支配すること」などではないかのような――。
「ええ、よくやってくれたわ。最後に、この人を他の使用人たちが集まっている場所へ運んでくれるかしら?」
ロクサナは、ジェレミーの胸中に去来する激しい動揺と違和感に気づかないふりをして、静かに告げた。
その態度を見て、ジェレミーもまた、喉元まで出かかっていた疑問と不安を静かに飲み込んだ。
「うん。分かったよ」
理由が何であれ、彼はロクサナが望むことのすべてを助けたかった。それだけが彼の真実だったから。
ジェレミーが気絶した使用人を引きずりながら別館へと向かう後ろ姿を見送り、その姿が完全に視界から消えたのを確認して、ロクサナは身を翻した。
壁に掲げられた蝋燭の炎にラントの密書をかざし、パチパチと燃え上がる。そして、まだ赤々と火種が残っている紙片を、窓際に下がっている分厚いカーテンへと押し付けた。
ゆらゆらと揺らめく不吉な炎は、渇いた布を伝って、またたく間に勢いよく燃え広がっていく。
ロクサナは無表情のまま、部屋を赤く染めながら拡大していく炎の渦を見つめた後、静かにその場を歩き出した。
ウウウウウウウン――!
次の瞬間、邸内に侵入者の襲来を告げるけたたましい警報が鳴り響いた。
しかし、その喧騒の中でも、ロクサナの進む足取りには一寸の揺らぎも、躊躇いもなかった。彼女の命令を受けた無数の赤い蝶たちが、暗黒の廊下へと四方八方に散らばっていく。
彼女の背後では、さらに巨大化した紅蓮の炎が、まるで地獄の門を開くかのように、激しく狂い咲いていた。
◇
新年の初めの月。その終幕において、青の象徴たるペデリアン家が、黒のアグリチェの堅牢な城門を粉砕し、怒涛の勢いで攻め寄せてきた。
鋭い武器と硬質な甲冑が激突する凄惨な音が、夜の静寂を容赦なく引き裂き、凍てつく冬の突風に乗って戦場を駆け抜ける。ペデリアンは水も漏らさぬ完璧な布陣でアグリチェの包囲網を完成させており、四方から圧倒的な猛攻撃を浴びせていた。
前塞ぐ敵の兵士を一太刀で切り伏せたカシスが、戦場に響き渡る声で命令を下す。
「逃げる者は追うな! ラント・アグリチェの身柄確保を最優先とせよ!」
武器を持たない者や、戦意を喪失して敗走する者に無駄な追撃は行わなかった。彼らの目的は、アグリチェに住まう血族の皆殺しではないからだ。
混沌を極める戦闘の最中、誰かが魔物の飼育場の凄惨な扉を解き放ったのか、屋敷の内部はいつの間にか、解き放たれた凶悪な魔物と人間が入り乱れて殺し合う、生き地獄の修羅場と化していた。
しかし、カシスはその凄惨な光景を前にしても、一歩も足を止めることはなかった。立ち塞がる敵を、魔物を、その圧倒的な武力ですべて一掃していく。
ふと顔を上げると、夜空を赤く染め上げながら、激しく炎を噴き出している本館の建物に視線が吸い寄せられた。
彼は、あの激しい炎の向こうに、一体誰が待ち受けているのかを痛いほどよく知っていた。
すべての兵力を配置し、いつでもこの城を灰にできる準備を整えていながら、今日この瞬間まで侵略の手を止めていたこと。それこそが、彼が己の内に秘めた、彼女に対する最大の忍耐であり、最大の敬意の証だった。
たとえ今、アグリチェの残党が白旗を上げて投降してきたとしても、カシスの進撃が止まることは決してない。
あの紅蓮の炎の向こうで待つ彼女の望みもまた、間違いなく、これと同じなのだから。
魔物の返り血を浴びてガタガタと恐怖に震えているアグリチェの配下を見下ろし、カシスは冷徹極まる金色の瞳で、低く問いかけた。
「――ラント・アグリチェは、どこにいる」
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ジェレミーの扇動による教育官・執行官の掃討
ジェレミーは自身を監視していた教育官の首を撥ね、怯える異母兄弟たちに「ラントの支配は終わった」と告げて扇動しました。長年大人たちに服従させられていた子供たちは、アグリチェの法(弱肉強食)に従って一斉に反旗を翻し、残った教育官や執行官の「掃除」へと飛び出していきました。
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ロクサナとデオンの邂逅、そしてアグリチェへの放火
ラントの執務室で、ロクサナはカシスから贈られたコートを羽織り、デオンと対峙します。異母兄アシルの死を巡る呪縛や、お互いの歪んだ欲望を確かめ合った後、ロクサナはラントが外部(ベルティウム)へ送ろうとした密書を焼き、その火をカーテンに移してアグリチェの屋敷を炎上させました。
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カシス率いるペデリアン軍の総攻撃
アグリチェが内紛と炎で修羅場と化す中、カシス・ペデリアンが精鋭を率いて黒き城門を突破し、猛攻撃を開始しました。カシスは無駄な殺生を禁じつつ、炎の向こうにいるロクサナへの想いと決意を胸に、首長ラント・アグリチェの身柄を確保すべく進撃しています。