こんにちは、ピッコです。
「メイドになったお姫様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
137話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 凱旋の総理、至高の婚約者
夜明け前。普段ならまだ誰もが深く眠りについている時刻だったが、今日ばかりは勝手が違った。
ラシードはいつになく早起きし、皇太子宮の侍女長エバの手を借りて、念入りに身支度を整えていた。
大きな姿見に映る己の姿を冷徹に眺めながら、彼は次々と注文をつける。
「シャツのボタンを上まで留めると、少し窮屈そうに見えるな。首元を少し開けたほうがいい」
「いや、そのブローチの色はあまり良くない。サファイアがついたものを持ってきてくれ」
「……やっぱり、さっきの髪型のほうが良かったな」
その様子を横で見ていたソルは、思わず口をあんぐりと開けた。
(普段は“シャツはシャツ、ズボンはズボン”って感じで、色だけ適当に合わせて着てた人が……なんで急にあんなに気合いを入れてるのよ。帝国一の男を落とそうと必死に祈ってる令嬢だって、あそこまで本気で着飾らないわよ!?)
ソルがあっけにとられているのとは対照的に、侍女長エバは無表情のまま、淡々とラシードの身支度を整えていく。
どれほどの時間が経っただろうか。退屈に耐えかねてうとうとしていたソルは、はっと目を覚ました。しかし次の瞬間、思わず「ひっ」と短い悲鳴を上げそうになり、慌てて両手で口を押さえた。
すべての支度を終えて佇むラシードの姿が――あまりにも眩しすぎたからだ。
きっちりと整えられた、気高き銀色の髪。
その下にある、彫刻のように美しく整った顔立ち。
切れ長の目元には、宝石のように鮮やかな淡い紫の瞳がきらめいていた。
引き締まった強靭な肉体にぴったりと馴染む、純白の制服。
胸元には、青みがかった紫のブローチが気品ある輝きを放っている。
長年最も近くで仕えてきたソルでさえ、思わず息を呑んで見とれてしまうほどの、圧倒的な美貌だった。ソルはしどろもどろになりながら、なんとか声を絞り出す。
「で、殿下……今のそのお姿なら、剣なんて持たなくても戦に勝てますよ。どんな気の強い令嬢だって、殿下に心を奪われて自分からひざまずいちゃいますって!」
ラシードは冗談とも本気ともつかないソルの言葉を軽く聞き流し、悠然と歩き出した。
「準備は整った。行くぞ」
「は、はい!」
ソルは慌てて頷き、その後を追った。
二人が向かった先は、皇帝宮。
ほどなくして、長い旅路を終えたシアナが姿を現す場所だった。
皇帝宮の大広間には、宮廷に属するすべての皇族が集結していた。
高く設えられた豪奢な玉座の中央には皇帝と皇后。その片側には皇子と皇女が、もう一方には四人の皇妃が居並んでいる。
だが、皇帝と皇后を除く皇族たちの視線は、ただ一点に釘付けになっていた。
上座で優雅に腰かける、ラシードへと。
その人間離れした美しさを見つめながら、皇族たちはそれぞれ胸の内で驚愕し、あるいはため息を漏らしていた。
(殿下の美貌が並外れているのは知っていたが……ここまでとは。とても人とは思えない)
(くそ、あの混血の兄上にときめくなんて……どうかしてる)
(お兄様、一度でいいからこちらを見てください……!)
一同がラシードに意識を奪われていたその時、広間の重厚な扉の方から聞こえてきた侍女の声が、彼らを現実へと引き戻した。
「――シアナ公主様、ご到着です」
その一言で、気の抜けた表情をしていた皇族たちは一斉に姿勢を正し、大広間の入口へと鋭い視線を向けた。玉座に座る皇后も同様だった。
水を打ったように静まり返る広間の中で、ただ一人――ラシードだけが隠しきれない喜びをその美貌に浮かべ、強く拳を握りしめた。
(シアナ……!)
この数ヶ月、会いたくて、狂おしいほどに焦がれ続けた愛しい人。ようやく会えるのだと思うと、全身の血が沸き立つようだった。胸の鼓動が、今にも弾けそうなほど高鳴っていく。
そして――ついに、シアナが姿を現した。
ゆるやかに波打つ、美しい蜜色の髪。
宝石のように神秘的な輝きを放つ、エメラルドの瞳。
淡い空色のドレスをまとって歩むその姿に、一瞬、ラシードは息を呑んだ。
(綺麗だ……)
今すぐその場へ駆け寄り、周りの目も忘れて強く抱きしめたくなる。
だがその時、シアナがふとラシードを見つめ、目を細めて柔らかく微笑んだ。
――少し待ってほしい。
そんな彼女からの無言の合図のようだった。その愛らしい微笑みを受け、ラシードはどうにか湧き上がる衝動を抑え込む。
恋人の無事を確認したシアナは、皇帝と皇后の前へと進み出ると、静かに深く頭を下げた。
「尊き皇帝陛下、皇后陛下にご挨拶申し上げます。ご無沙汰しておりますが、お変わりございませんか」
久しぶりに再会した相手への、穏やかで気品に満ちた挨拶。しかし、それに応じる皇后の声は、対照的に冷ややかで厳しかった。
「前へ出なさい。あなたは皇后の試練、その最終試験を受けるために長く帝国を離れていたのでしょう。――それで、どのような成果を持ち帰ったのですか」
余計な歓迎の言葉は一切なく、いきなり本題へ。
今日この場に皇族たちが集められている理由も、まさにそれだった。シアナが持ち帰った“成果”を見定めるため。
緊迫した沈黙の中、シアナはゆっくりと、しかし通る声で口を開いた。
「腐敗が根まで広がっていた王国を終わらせ――新たに国を築くことに力を尽くしました」
澄んだ声で静かに告げられたその言葉には、確かな重みがあった。
それでも、その場にいた誰一人として驚きはしなかった。なぜなら皇后をはじめ、皇族たちはすでにその事実を事前に把握していたからだ。王家に伝わる神秘の花を携え、他国と交渉し、新たな国を興した――それ自体は、紛れもなく大きな功績だった。
しかし皇后は、すっと不機嫌そうに眉をひそめる。
「だが、それは純粋にあなた一人の力で成し遂げたものではない」
場の空気が、わずかに張り詰めた。
「あなたの一族に伝わるその“花”がなければ。そして、帝国の皇太子があなたの後ろ盾でなければ――到底成し得なかったことだ」
冷ややかな視線がシアナに突き刺さる。
「ゆえに、私はその功績を全面的に認めることはできない」
その言葉は理屈としては通っているように聞こえた。だが――どこか、無理に難癖をつけて押し通しているような響きがあった。
血筋も、立場も、与えられた力も、すべてを“本人の実力ではない”と切り捨てるその言い方は、あまりにも厳格で、理不尽ですらあった。縁や運ですら、彼女がその手で掴み取った力の一部に違いないというのに。
それでもシアナは色をなして反論せず、静かに言葉を続けた。
「――それでは不十分とおっしゃるのであれば、もう一つ成果をご報告いたします」
「……?」
予想外の一言に、皇后の眉がわずかに動いた。周囲の皇族たちも同様に、緊張した面持ちでシアナを注視する。
シアナは落ち着いた声で、淡々と語り出した。
「先日、新たな時代を切り開いたアシルンド王国では、従来とはまったく異なる方法で統治者を選びました。民の投票によって選ばれた者たちで構成される“議会”です」
一瞬、場の空気が静まり返った。
確かに珍しい仕組みではあるが、大陸の歴史上、前例がないわけではない。ゆえに、それだけでは決定打にはならない。
だが、シアナはなおも言葉を続ける。
「しかし――問題はそこではありません。新たなアシルンドを率いる初代宰相は――この私、シアナ・アシルンド・フォン・シルリテです」
「……っ!?」
その一言が放たれた瞬間、皇后の目が見開かれた。
周囲の皇族たちも息を呑み、思わず言葉を失う。
静まり返った広間の中で、シアナだけがわずかに、誇らしげに微笑んでいた。彼女は任命されたその日すぐに旅立ち、一瞬の猶予もなくここまで走り続けてきた。そして今――ようやく、誰もが知り得なかった圧倒的な成果を、ここに示したのだ。
シアナははっきりとした、揺るぎない声で続ける。
「アシルンドの宰相となるには、血筋も家柄も財も関係ありません。必要なのは、ただ民の支持のみです。私がその座に就けたのは、ただ一つ――民が私を選んだからに他なりません。……ということです」
静寂が、重く落ちる。
それは偶然でも、誰かの後ろ盾でもない。民衆に“選ばれた”という事実そのものが、何よりも強い彼女自身の実力の証明だった。
誰もその言葉を否定することはできなかった。なぜなら、“皇族”という特権的な名を外せば、ここにいる者の中で誰一人として、民衆の支持だけで一国の指導者に登り詰められると確信できる者などいなかったからだ。
皇后もまた何も言えず、屈辱に震えながらシアナを見つめるしかなかった。
その息が詰まるような静寂を破ったのは、パチパチという、小気味よい拍手の音だった。
第三皇妃ライラだった。彼女は上気した顔で両手を打ち鳴らしながら、称賛の声を上げる。
「わずか18歳の少女が、それも旧王国の王女が、民衆の心をつかみ、王と変わらぬ総理の座に就くとは。実に見事なことではありませんか!」
その言葉に背中を押されるように、隣に座っていた第四皇妃アンジェリナも、勇気を出して口を開いた。
「素晴らしい功績を成し遂げられたこと、お祝い申し上げます、シアナ王女。……いえ、これからはシアナ総理とお呼びすべきですね」
「そうお呼びすればよろしいですか?」
アンジェリナと視線を合わせたシアナは、微笑みながら答えた。
「アシルロード王国の歴史は終わりましたが、私の地位はまだ残っています。王女と総理、どちらも私の身分ですので、お好きなようにお呼びください」
しばらくすると、皇族たちが一人、また一人と立ち上がり、惜しみない手を叩き始めた。それは目の前の少女が成し遂げた、偉大な功績を称える心からの拍手だった。
皇后の様子をうかがっていた第一皇妃ヨハンナと第二皇妃ベアトリーチェも、周囲の空気に押されるようにそっと立ち上がり、拍手に加わった。
その中で、皇后と皇帝だけが、頑なに静かに座ったままだった。
そこへ、ラシードが二人を見つめながら、静かに、しかし威圧感のある声で口を開いた。
「お父上とお母上からも、お答えをいただけますよね。シアナは皇后の試練を乗り越えたのですから、合格とお認めになるのではありませんか?」
当然ながら皇后は、「馬鹿げた話、そんなの認められるわけが——」と拒絶を返そうとした。「そんな資格で皇后の試練を通過できるわけがない!」と叫びたかった。
しかし、自分を見つめるラシードの冷徹な眼差しと、完全にシアナを認めている皇族たちの視線に、完全に圧倒されていた。
皇后は藁にもすがる思いで、隣の皇帝を見た。だが、皇帝は無表情のまま、何の反応も示さなかった。まるでこの件に、最初から一切の関心がないかのように。
味方が一人もいないという残酷な現実を悟った皇后は、きつく歯を食いしばった。
やがて皇后は、歪んだ表情を無理やり整え、重い口を開いた。
「……おめでとう、シアナ」
「!」
目を大きく見開いたシアナに向かって、皇后は言葉を絞り出す。
「あなたは皇后の試練を通過した。あなたをラシードの婚約者として認めよう」
その言葉は、一見すると二人の関係を公に祝福したかのように聞こえた。しかし、正面から皇后と向き合っていたシアナには、彼女の青い瞳の奥に、激しい怒りと憎しみが宿っているのがはっきりと見えた。
(愛する人の母親にあんなふうに見られるのは、やっぱり気分のいいものじゃないわね)
だが、感じたのはそれだけだった。シアナは皇后をなだめるために、自分が最も望んでいる幸福を手放すつもりなど毛頭なかった。
彼女はドレスの裾を優雅に持ち上げ、綺麗に一礼した。
「偉大なる皇帝陛下、そして皇后陛下、ならびに皇族の皆様のご厚情に、心より感謝申し上げます。今後は殿下の婚約者として、恥じることのない振る舞いを心がけてまいります」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。
上座にいたラシードが弾かれたように立ち上がるや否や、一瞬にしてシアナのもとへ歩み寄り、彼女の身体を軽々と抱き上げた。
「きゃっ!?」
シアナが小さく悲鳴を上げる。あまりの速度で、いわゆる“お姫様抱っこ”をされてしまったのだ。
「で、殿下!? いったいこれは……!」
突然の暴挙に顔を真っ赤にして驚くシアナに向かって、ラシードはこれ以上ないほどにっこりと、眩しい笑みを向けた。
「最高だよ、シアナ!」
ラシードは呆然とする皇后や皇族たちを見渡しながら、堂々と宣言した。
「もうこれ以上は、私の婚約者をここに置いておくわけにはいきません。長い間離れていたので、これ以上我慢するのは無理です」
「ラシード!」
皇后が顔色を変えて制止しようとしたが、ラシードは全く意に介さず言葉を繋いだ。
「婚約式は近いうちに行います。どうか皇族の皆様もご出席のうえ、お祝いください」
言い終えるや否や、ラシードはシアナを腕に抱いたまま、振り返りもせず謁見の間を後にした。
皇太子宮にある、ラシードの部屋。
結局、そこへ到着するまでずっと抱き上げられたままだったシアナは、トマトのように真っ赤になった顔で足をばたつかせた。
「殿下、いったいどういうおつもりですか!」
他でもない“体面”を何より重んじる皇族たちの前で、あんな真似をしてしまったのだ。しかも、皇太子宮へ向かう回廊でも、すれ違う多くの侍従や侍女たちにその姿をバッチリ見られてしまった。
(あの大広間だけならまだしも、ここまで来る間にも皆に見られてしまったじゃない……。人前でこんな濃厚なスキンシップなんて……!)
いくら肝の据わったシアナでも、これには耐えがたいほどの恥ずかしさだった。
「もう、本当にひどいです……!」
シアナは目をぎゅっと閉じ、ラシードの広い肩をポカポカと拳で叩いた。ラシードにとっては、くすぐったい程度の手応えでしかなかったが。
ラシードは腕の中のシアナの愛らしさに目を細め、その頬にそっと口づけして囁いた。
「ごめん。だけど、あなたにどうしても触れたかったんだ」
「……」
ラシードの唇が、シアナのやわらかな耳たぶを優しく掠める。
「あなたの声が、どうしても聞きたかった」
「……」
そのまま、目を閉じたシアナのまぶたにも、そっと温かい唇が触れた。
「あなたに、ものすごく会いたかったんだ、シアナ」
「……」
ラシードの甘い口づけは止まらなかった。シアナの丸い鼻先、額、長い蜜色の髪、なめらかな首筋、そして衣服の隙間からわずかに覗く鎖骨まで――。
切実なほどに、飢えた野獣が愛を確かめるようにして伝えられる彼の情熱に、シアナはもう怒り続けることができなかった。
やがて、シアナは自らゆっくりと目を開けた。
ラシードの鮮やかな紫の瞳が、まっすぐに自分を見つめている。これ以上ないほど、深く、底無しの愛に満ちた眼差しで。
どくん、と胸が締めつけられるような感覚の中で、シアナはそっと口を開いた。
「私も……ずっと、伝えたかったことがあるんです」
「何だい?」
愛おしそうにもう一度、シアナの唇に軽く口づけるラシードに向かって、彼女ははっきりと告げた。
「愛しています、ラシード」
「……」
ラシードはしばし呆然とシアナを見つめていたが、次の瞬間、その小さな身体を壊れ物を扱うように、けれど拒絶を許さない強さで強く抱きしめた。
彼の広い胸に顔を押し当てると、シアナ自身の心臓よりも遥かに大きく、激しく響く鼓動がダイレクトに伝わってきた。その確かな熱と音を肌で感じたとき、シアナはようやく実感したのだった。
――私は、本当に彼のもとへ帰ってきたのだと。
大きな窓から柔らかな陽の光が差し込む中、二人は寄り添いながら長椅子に座っていた。ラシードは、シアナの手をとり、その指先の一つひとつを丁寧に確かめるように見つめている。
「よかった、怪我はないみたいだね」
実際には、シアナはまったくの無傷だったわけではない。特に王宮が炎に包まれたあの日、身体に小さな傷をいくつも負っていた。
(もう全部きれいに治っているけれど……)
過去の傷を話して、これ以上ラシードを心配させたくはなかった。シアナはただ穏やかに微笑んだ。
「殿下が送ってくださったブラックシャドウ騎士団のおかげで、大きな怪我はありませんでしたわ」
「ああ、役に立ったなら本当によかった」
「でも、ここに来るまで、騎士団の方々とはまともに会話もできませんでしたし、お顔もほとんど拝見していません。一体どんな命令を出して、あんなに慎重に動かしていらしたのですか?」
シアナの純粋な疑問に、ラシードは平然と答えた。
「影のように潜み、お前が必要とするときにだけ現れて守るように、と命じたんだ」
「私が気を遣わないように、ですか?」
シアナの言葉に、ラシードはふっと笑った。
それは半分は当たっていた。だが、残りの半分は――あの筋骨隆々の男たちがシアナと親しく会話を交わすこと自体が、猛烈に気に入らなかったからだ。
しかし、独占欲をそのまま口にするのは野暮というもの。ラシードはそれを上手く隠し、話題を変えた。
「アシルロード王国で何があったのか、詳しく聞かせてくれ。誰に会い、どんな話をして、何を考えていたのか――全部だ」
断片的な定期報告だけでは知り得なかった、シアナの空白の時間をすべて共有したかった。シアナは小さく頷き、ここ数か月の波乱に満ちた出来事をぽつりぽつりと語り始めた。
シアナの小さな手を両手で優しく包み込みながら、真剣に耳を傾けていたラシードだったが、ある瞬間にその瞳にゾッとするほど鋭い光が宿った。
「お前にあんな仕打ちをした女に、その程度の罰とは……お前は本当に甘いな」
「……そんなことはありません。しかるべき裁判が行われれば、きっと死刑判決が下されるはずです」
「だから甘いと言っているんだ。もし俺の目の前に現れていたら、生きているほうが地獄だと――心底そう思わせてやったのに」
――命乞いをしてきても、決して楽には死なせなかっただろう。
ラシードの声は相変わらず穏やかで甘かったが、その内容は血も凍るほど冷酷だった。シアナは思わず生唾を飲み込み、表情をわずかにこわばらせる。
「……少し忘れていましたが、殿下にはやはり、そういう恐ろしい一面がありますね」
その言葉に、ラシードはまるで叱られた子犬のようにしゅんとした様子を見せ、シアナを再びきつく抱きしめた。
「怖がらなくていい。俺はお前を傷つけるものにしか、牙を剥かないから」
ラシードは、新王妃だけでなく、シアナの口から出た「ベラ」という名前にも敏感に反応していた。
「そのベラという者のお前への態度も、どうにも気に入らないな」
シアナは呆れたように眉をひそめた。
「ベラは女性ですし、私と一緒に新しい国を築いた大切な仲間です。今は私とともに国を治める議員でもあるんですよ?」
それでも、ラシードの警戒と独占欲の炎は消えなかった。
「……次に新アシルロードへ行くことがあれば、必ず俺も同行する」
有無を言わせぬ口調だった。
結局、シアナのこれまでの話をすべて聞き終えたラシードは、満足げに微笑んだ。
「お前を総理に迎え入れるなんて、その国の民はこれから安泰だな。これ以上ないほど素晴らしい選択だ」
ラシードの盲目的な賛辞に、シアナはくすっと笑った。
総理の任期は5年。その短い期間でどれほど国を発展させられるかは分からないが、最善を尽くすつもりだった。
シアナはラシードと視線を合わせ、今度は自分の番だとばかりに尋ねた。
「殿下も、お留守の間にどのように過ごされていたのか教えてください」
断片的な情報で状況を説明していたシアナとは違い、ラシードは手紙で帝国の事情をほとんど語っていなかったからだ。
ラシードは長い指でシアナの蜜色の髪を愛おしそうにすくいながら、静かに口を開いた。
「シアナ、お前がいない間、この帝国でもいろいろあったよ。一番大きかったのは……貴族の支持についてだ。そのうち七割以上が、俺の側についた」
「……っ!」
シアナは驚きに目を大きく見開いた。自分が帝国を去る前、ラシードに貴族の支持を集めておくよう頼んではいたが、まさかこれほど短期間で全体の七割を掌握してしまうとは、想像以上の手腕だった。
ラシードは、彼女の驚きを見越していたかのように淡々と言葉を続けた。
「難しいことじゃなかったさ。アンゲルス公爵をこちらに完全に引き入れてからは、すべてが一気に動いたからね」
さすがに、帝国屈指の大貴族であるアンゲルス公爵の影響力は絶大だった。彼に従っていた貴族たちは、一人も欠けることなく雪崩を打ってラシード側へと寝返ったのだ。
「とはいえ、アンゲルス公爵の力だけで、残りの頑固な貴族たちまで引き込めたとは思えませんが……」
貴族の中には、皇帝や皇后に盲目的な忠誠を誓う古参も多い。安定した権力を持つ皇帝夫婦に背を向けてまで、彼らが簡単にラシードを選ぶ理由がないはずだった。
しかし、シアナが予想できなかった決定的な要因がそこにはあった。
――皇帝その人である。
「父上が長い療養から戻られてから、様子が変わったのはお前も知っているだろう?」
シアナは静かに頷いた。皇帝は療養から帰還して以降、まるで別人のようになっていた。以前は細かな国政にも目を光らせ、激しく干渉し、怒りを露わにしていた支配者だったのに、今は冷めきった表情で、あらゆる権力闘争に無関心になっていた。
ラシードは続けた。
「もともと気まぐれな方だから、最初は俺もあまり気にしていなかった。いずれまた、何かをきっかけに牙を剥くと思っていたんだ。まるで獲物を狙う虎みたいにね。……だが、その“時”はついに訪れなかった」
ラシードが公然と勢力を拡大しても、皇后との対立がどれほど激化しても、皇帝はただの一言も発さず静観を決め込んだ。そんな皇帝の不可解な様子をうかがっていた貴族たちは、こう結論づけたのだ。
(あれほど静かにしておられるということは、陛下はもう権力への執着を完全に失われたのではないか?)
(いよいよ皇太子殿下にすべての権限を譲り、隠居なさるおつもりなのかもしれない)
それは、まったく的外れというわけでもなかった。皇帝は数多くいる我が子の中でも、とりわけラシードの実力と美貌を寵愛していたからだ。
ラシードはふっと目を伏せて言った。
「そういう状況だったから、貴族たちはわざわざ次期皇帝である俺に敵対する必要はないと判断したんだ。父上が動かない以上、母上の側についていても、実権はほとんど得られないからな」
残酷ではあるが、それが宮廷の冷徹な現実だった。
皇后は人望こそ厚かったが、それがそのまま絶対的な権力には結びつかなかった。彼女はもともと中央の有力な大貴族の出ではなく、皇后になった後も、その権威の多くは皇帝の寵愛に依存していたのだから。
そして今、その皇帝の関心は息子であるラシードに移っている。皇帝も皇太子も彼女を支えようとしない以上、貴族たちが皇后に気を遣う理由はどこにも残されていなかった。
目を丸くして話を聞いていたシアナは、ようやくすべてのジグソーパズルが繋がった合点がいった様子で、小さく息を吐いた。
「それで……だからこそ、先ほどの大広間で皇族の方々や皇后陛下も、反論できずに私の功績を認めてくださったのですね」
ラシードは優しく頷いた。そして、シアナのやわらかな頬をそっと撫でながら、温かい声をかける。
「だからシアナ、もう何も心配はいらない。母上も、これ以上は俺たちの関係に反対できないはずだ」
ラシードの声はどこまでも穏やかだった。けれど、その響きの端々には、実の母親と決定的に決裂してしまったことへの、微かな、触れてはならない寂しさが滲んでいるように思えた。
シアナは複雑な感情を胸に抱きながらラシードを見つめ、それから彼を不安にさせないよう、ぎゅっとその身体を強く抱きしめて、とびきり明るく笑ってみせた。
「ふふ、遠回りした甲斐がありましたね、ラシード」
「……そうだね」
それでも――なぜだろうか。
ラシードの腕の中で、シアナの胸の奥にはかすかな、嫌な予感のような寂しさが、澱のように残っていた。
実の母に冷徹に引導を渡さざるを得なかったラシードへの哀れみ。……もし、それだけであるならば良いのだけれど。
シアナは胸に湧き上がる正体不明の不安を必死に押し隠すように、ラシードの背中に回した手に、さらにぎゅっと力を込めた。
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ラシードの尋常ならざる気合いと、シアナとの劇的な再会
普段の無頓着さが嘘のように着飾ったラシードは、圧倒的な美貌で周囲を魅了する。大広間に帰還したシアナの美しさに息を呑みつつも、ついに再会の時を迎える。
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シアナが示した規格外の功績と、皇后の完全敗北
新国の「初代宰相」に民の支持で選ばれたという、後ろ盾に頼らない実力を示したシアナ。ラシードが事前に貴族の7割を掌握し、皇帝も静観したため、孤立した皇后は2人の婚約を認めざるを得なくなる。
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深まる2人の愛と、宮廷闘争の裏に潜むかすかな不安
周囲の目を無視してシアナを連れ去ったラシードは、部屋で切実な愛を伝え、シアナも「愛しています」と応える。しかし、実母を追い詰めたラシードの寂しさに触れたシアナの胸には、正体不明の不安が残る。