こんにちは、ピッコです。
「ヤンデレを演技していたら本物に執着されました」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
49話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 深い闇
目を覚ました私は、まず窓の外を確認した。
まだ薄暗い。どうやら寝坊はしていないらしい。
ほっと胸をなでおろした瞬間、腰を包み込む柔らかな寝具の感触に首を傾げた。冷たくて硬い離宮の寝台とはまるで違う。
「あれ……?」
ゆっくりと身を起こす。見慣れない天蓋に、気品ある豪華な装飾。そこでようやく、ここがどこかに出る直前の記憶と結びついた。
「なんで私、レシウスの部屋で寝てるの?」
昨夜の記憶を必死に手繰り寄せる。酒を飲んだ。ケリオンと話した。その後は――。
「……覚えてない」
頭を抱えながら周囲を見回すと、部屋の隅にあるソファが目に入った。そこには、長い脚を窮屈そうに折り曲げて眠るレシウスの姿があった。
どうやら私は堂々とベッドを占領し、部屋の主をソファへ追いやったらしい。
「ふふ」
思わず笑いが漏れた。こんな姿、他の人が見たらそれこそ大騒ぎだろう。
レシウスはまだ微睡みの中にいる。整った顔立ちは寝ていても変わらず、朝日を受けた金髪が淡く光を放っていた。
――そして私はまだ知らない。昨夜、この男が一睡もできないほど自分に振り回されていた理由を。
「ふぅ……」
私はベッドから抜け出し、暖炉の前に足を進めた。昨夜のシャビアンとのやり取りが脳裏をよぎる。私がつらそうに見えたからと、わざわざ見つけてベッドに上がるよう促してくれた優しい少年。
そんなことを考えながら、ソファのレシウスに近づいた。彼を抱き上げてベッドへ運ぼうとしたその時、ふいに開かれた透明感のある緑の瞳と視線がぶつかり、一瞬息を呑んだ。
「起きた?」
揺れる緑の瞳。どうしてこの男は、朝からこんなに綺麗なのかしら。
「もっと寝ていなさい」
どこか気遣うようなレシウスの声は低く、その顔には隠しきれない疲労が滲んでいた。よく眠れなかったのだろうか。仕事が山積みだったのかもしれない。
ふと見ると、彼は楽な室内着を身にまとっていたが、まくり上げられた袖口は普段の彼らしからぬほど少し乱れていた。何か作業でもしていて、インクで汚れてしまったのかしら。
「洗ってきて、レシウス」
私が声をかけると、私の隣で気まずそうにしていたレシウスがぴたりと動きを止めた。まるで、何か重大なことを忘れていたと思い出したかのように。
いつの間にか耳まで真っ赤に染めたレシウスは、浴室へ向かうのではなく、部屋に飾られた大きな壁画の前へと歩き始めた。
カチッ。
彼が額縁のある一点を正確に押すと、音を立てて壁画が横へと開いた。
「秘密通路の入口……!」
驚く私を余所に、先ほどの言葉が頭をよぎる。洗ってこいと言ったのに、なぜ急に秘密通路なんて見せるのだろう。
「洗えって、どこで?」
「ああ。ここじゃなくてね」
レシウスは私の背中をそっと押し、薄暗い秘密通路の奥へと導いた。
離宮を行き来するために秘密通路はよく利用していたけれど、皇帝宮のある中央区域のルートは初めてだった。興味津々の私は発光石を掲げ、前を行くレシウスの背中を追いながら辺りを見回した。
「ところで、私たちどこへ行くの?」
「行けば分かる」
静まり返った闇の中に、彼の低い声が心地よく響く。
複雑に入り組んだ通路を足早に進んでいたレシウスは、やがていくつもある扉の一つを迷わず開けた。
「ちょっと。あなた正気?」
扉の向こうに広がる宮殿を目にした瞬間、私は思わずレシウスの背中を軽く叩いた。
「どうして私をここへ連れてきたのよ!」
「空いている宮殿がここしかなかったからね」
レシウスは、見てみろと言わんばかりに悪戯っぽく爽やかに笑った。
だが、ここは――主のいない「皇后宮」だ。
いずれ彼の未来の夫人を迎える場所。管理は行き届いているものの、人の気配がないせいで、どこか物悲しい静寂が満ちていた。豪華な大理石の床の上に、二人の足音がコツコツと虚しく響く。
レシウスは、その中でも最も広い部屋の扉を開け放った。
「ここで洗えってこと?」
「ああ。私の部屋で洗うのは……その、気まずいだろうから」
彼はそう言って、赤くなった首筋を照れくさそうに手でさすった。何よ。以前の彼なら、それこそ「洗ってから帰れ」と冷たく突き放して済ませていたくせに。どこか変わってしまったレシウスの態度に、私は少し戸惑いを隠せなかった。
「それと、お前に必要な物はすべて用意しておいた」
見渡せば、華やかな皇后宮の寝室は今すぐ使い始めても問題ないほど完璧に整えられていた。いくら侍女たちが定期的に掃除をしているとはいえ、普段使われていない宮殿が毎日ここまで手入れされているはずはない。
ギィッ――と、浴室で湯を張るレシウスの後ろ姿を見て、私はハッと気がついた。
(私が眠っている間に、この人が一人でここを片づけていたんだ……)
まくり上げられた彼の袖口が汚れていた理由は、これだったのだ。
「あなた、こんなことしちゃ駄目よ……」
彼の深い厚意は涙が出るほどありがたい。けれど――。
「皇帝ともあろう人が、ね? あなたがこんな雑用をする立場じゃないでしょう!」
私のせいで余計な手間と時間をかけさせてしまった気がして、申し訳なさで胸がいっぱいになった。
「誰に教わったの? どうしてそんなに手際がいいのよ」
さらに手際よく入浴用品を並べていくレシウスの動作は、妙に洗練されていた。水しか触ったことがないような高貴な男が、なぜこれほど完璧に準備できるのだろう。
「私は何でもできるからね」
レシウスは金色の香油の瓶を持ち上げ、誇らしげに整った鼻を少し高くしてみせた。本当に、原作の執着系主人公だから何でもこなせてしまうのだろうか。
「これは『神の恩寵』という香油だ。必ず使うように」
「分かっているわ。前にくれた大切なプレゼントだもの」
以前彼からもらって以来、大事に使っていた。不思議なことに、これを使うたびに肌の調子まで良くなる気がするのだ。
「……じゃあ、私は外に出ている。ゆっくり洗ってくるといい」
レシウスはなぜかまた耳を赤くしながら、湯気の立つ浴室を逃げるように出て行った。
浴室の扉の向こうから、さらに部屋の重い扉が閉まる音が響く。部屋からも出て行ってしまったのだろうか。どうしてあんなに私を意識するのか、不思議に思いながらも、用意されていたふかふかのタオルとガウンを確認して服を脱いだ。
(ああ……気持ちいい……)
浴槽に芳醇な香油を垂らし、温かな湯へと身体を沈める。
ふわふわの泡に包まれながら浴槽の縁にもたれかかると、そこはまさに天国そのものだった。
と同時に、なんとなく未来の皇后陛下に申し訳ない気持ちが湧いてくる。先に使わせてもらってごめんなさい、と。
(レシウスは結婚したら、本当に奥さんを大切にするんだろうな)
ただの友人である私にさえ、ここまで尽くしてくれるのだ。彼は皇帝であり、いずれ国のために皇后を迎えなければならない。いつか必ず、その日は来る。
ぷくり、と湯の中に顔を半分沈めた。
レシウスが結婚してしまったら、一体誰が私とこんな風に遊んでくれるのだろう。さっきまでの極楽気分が、少しだけ寂しさに塗り替えられていく。
『ルウィン。もし私たち、どちらかが女だったら結婚していたのかな?』
いつかレシウスが冗談めかして口にした言葉が、不意に耳の奥で蘇った。絶対に叶うはずのない、ただの仮定の話。私は本当は女だけれど……一生、男として生きていくつもりだから。
「ふぅ」
湯から上がり、私は頭を振って余計な感傷を振り払った。そうよ、レシウスは私の生涯の親友。変なことを考えるのはやめよう。
「ねえ、まだそこにいる?」
浴室の扉を開けて声をかけたが、部屋の中には誰もいなかった。室内履きを履くのが躊躇われるほど、床は小さな埃一つなく磨き上げられている。
その時、奇妙な既視感が胸をよぎった。かつて私の黒魔法が解け、あの廃神殿で目を覚ましたときも、床はまるで誰かが掃除したかのように綺麗だった。
(まさかね……)
少し大きめのレシウスの服を借りて身にまとい、部屋の扉を開ける。
レシウスは、廊下の突き当たりにある窓辺で静かに風に当たっていた。さらさらとなびく金髪。目を閉じた彼の横顔には、柔らかな陽光が差し込み、まるで一枚の宗教画のような美しさだった。
気配を察したレシウスが、私を振り返って微笑む。
「髪、乾かしてやろうか?」
差し出された白いタオルと、私の頭に触れる綺麗で長い指。その仕草の一つ一つは、痛いほど丁寧で、優しかった。
――まるで、かつて私を救ってくれた、あの優しき騎士のように。
その頃。
バハルト騎士団の控室では、いつも以上に冷酷で険しい表情を浮かべたケリオンを遠巻きに見ながら、使節団の人々が不安げに目配せを交わしていた。
「陛下、今日はずいぶんご機嫌が斜めですね……」
「本日はハイレン側との宴会がございますが、あのご機嫌のまま出席されたらと思うと……」
想像しただけで恐ろしい、と言わんばかりに大臣たちは顔を青ざめさせていた。最近は少し落ち着いたと思っていたのに、よりによって敵国で問題を起こすわけにはいかない。
ケリオン自身、自分がハイレン皇帝レシウスの手のひらで踊らされていたことを認めざるを得ず、それが猛烈に不愉快で苛立っていたのだ。
『陛下、公爵位を手に入れるには、ハイレン皇帝を排除しなければなりません』
側近である黒魔術師バトゥの言葉が頭をよぎる。確かに、望む地位を得るためにはあの皇帝を倒さなければならない。それに――冷宮にいるシャビアン、あの目障りな小さな子供のことも頭をよぎる。
「……いっそ、殺してしまおうか?」
公爵位でも与えて飼い殺しにしようと思っていたが、今やただの邪魔者だ。
「あの子を殺せば、少しは私の気分も晴れるかもしれないな」
「……左様でございますね」
ケリオンの低く沈んだ物騒な呟きに、バハルトの大臣たちは「やはり」とでも言いたげに深く頷いた。やがて宮殿の奥へと下がった彼らは、声を潜めてひそひそと囁き合った。
「陛下はやはり、第八皇子の存在を快く思っておられないのだ」
「ええ。爵位を与えなかったのも、最初からいずれ始末するつもりだったからでしょう」
彼らにとっても、シャビアンは厄介な火種だった。ケリオンは皇帝の血を引いていないだの、悪魔の血筋だのという噂が絶えず、挙句に反乱を起こして帝位を奪った身だ。正統性に欠けるケリオンに比べ、先帝の実子であるシャビアンは、彼らの目にはいつか反旗を翻すかもしれない危険分子に映っていた。
「陛下ご自身が望んでおられるのだ。消してしまっても何の問題もあるまい」
一人の大臣が意を決して口を開くと、周囲も同意するように頷いた。
「その通りだ。陛下は帝都に到着されてすぐ、わざわざ第八皇子のもとへ向かわれたではないか」
「本当はすぐにでも殺したかったが、あのベルウェン公爵が邪魔をしているせいで手が出せないのだろう」
「ならば、我々が動くべきだ。第八皇子さえ消えれば、陛下も満足してバハルトへお戻りになるに違いない!」
何より、彼ら自身が一刻も早くこの緊張感に満ちたハイレンから帰国したかった。表向きは使節団だが、実態はケリオンが気まぐれにハイレン皇宮へ乗り込んできたようなものだったからだ。
「それで、具体的にどうする?」
「今夜の宴の場を利用しましょう……」
名案だと言わんばかりに、大臣たちは顔を寄せ合い、暗い陰謀の計画を練り始めた。
そして、ハイレンの離宮。
すっかり朝を迎えていたが、厚い遮光カーテンで閉ざされたシャビアンの部屋の中は、夜のように薄暗かった。
「お休みになられているようですから、一度下がりましょう」
「そうですね……」
侍女たちは不安そうに顔を見合わせながら、そっと部屋を後にした。
昨日まではあれほど機嫌よく外出していたシャビアンが、戻ってくるなり再び一切の口をきかなくなってしまったのだ。長いふさぎ込みからようやく元気を取り戻したと思ったのに、また体調を崩してしまったのだろうか。
カチッ、と静かに扉が閉められると、部屋は完全な暗闇に包まれた。
シャビアンはベッドの上で目を閉じ、その足音が遠ざかるのをじっと聴いていた。やがて静かに目を開くと、冷たい扉を見つめる。
『殿者はお休みですか?』
『ええ、まだ昼間なのに、ずっと引きこもられていて……お加減が悪いのかしら』
遠くから聞こえてくる侍女たちのひそひそ話に、シャビアンは胸を締め付けられる思いで再びぎゅっと目を閉じた。
昨夜までは、公爵様に聞きたいことが山ほどあった。だけど――今は、尋ねるのが恐ろしい。
もし自分が尋ねて、公爵様がすべてを事実だと認めてしまったら? 公爵様が自分に優しい嘘をついていたことが、確定してしまう。
『バハルト帝国の情報部から直接流れてきた確かな話だ。ベルウェン公爵は、ハイレンの皇女と一週間も同じ部屋にいたと……』
ただの噂話ではない。バハルトの役人たちが話していた、極めて信頼性の高い情報。
ガチャッ――。
不意に扉が開き、閉ざされていた部屋に一筋の光が差し込んだ。
気配で分かった。公爵様だ。
公爵様は私の傍へと静かに歩み寄り、そっと額に手を当てた。その瞬間、シャビアンの鼻腔をいつもとは違う香りが掠める。
濃厚で高級な、香油の香り。
普段、公爵様が纏っているお気に入りの香りではなかった。皇宮のどこかで入浴をしてきたのだろうか。衣服の奥から漂うその香りが、あまりにも生々しく公爵様の周囲に満ちていた。
「起きてしまいましたか。申し訳ありません。まだ体調が優れないのでしたら、もう少しお休みください」
「うん……。公爵様、もう戻ってこられたんですか? ずっと研究室に……?」
シャビアンのか細い問いかけに、公爵は少し視線を泳がせながらも、ごく自然を装って答えた。
「あ、ああ。少し用事があって、屋敷へ戻っていました」
屋敷。
その嘘を耳にした瞬間、シャビアンはじっとその美しい顔を見上げた。
(やっぱり、私の聞き間違いじゃなかったんだ……)
公爵様は、また私に嘘をついた。
それとも――。
(おかしくなってしまったのは、私の方なのだろうか?)
公爵様に対する醜い疑念を抱き続ける自分自身に、シャビアンは恐怖した。自分もまた、あの狂った父親と同じように狂い始めてしまったのではないかと。嫉妬に取り憑かれ、疑い、執着し、相手を縛り付けようとする――かつて自分が最も忌むべきだと思っていた血の呪い。
(違ったんだ……)
シャビアンの青い瞳が、暗闇の中で微かに揺れた。深い闇に沈んだ、夜の海のような底知れない青い光が静かに輝く。
(ああ……今なら、父の気持ちが分かる気がする)
なぜ父が、母をあの薄暗い部屋に生涯閉じ込めていたのか。
それは、狂っていたからではない。ただ、狂うほどに不安だったのだ。
愛する人に、いつか捨てられてしまうのが、怖くてたまらなかったから。