こんにちは、ピッコです。
「ニセモノ皇女の居場所はない」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
141話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 燃え盛る炎
彼らは予想よりも早く、その黒く濁った大地を踏みしめることになった。
道を歩いていたエレインが足を止めて口を開く。
「ここから先は、汚染されていない土地が見当たりませんね」
前方に広がる大地は一面、どす黒く染まっていた。
濁った気配は土や草木だけでなく、足元に触れるあらゆる物質にまで染み込んでいる。
大理石も、木々も、例外なく――すべてが黒く侵されていた。
これまでは、できる限り汚染されていない土地を選んで進んできたが、それもここまでだった。
つまり、“茎”へと辿り着くには、黒く侵された大地を踏み進むしかない。
エレインは靴を履き直す。
「仕方ありませんね。この時のために神聖力を温存してきたのですから」
彼女は一行を振り返った。
「これからは私が先頭に立ちます。皆さんは、私が通った場所だけを踏んでください」
靴に包まれたエレインの足が、ほのかに光を帯びる。
「踏んだ場所だけを浄化する、というわけですね」
「はい。このやり方なら、神聖力の消耗を最大限に抑えられますから」
テオドールがエレインに声をかけた。
「神聖力が落ちてきたら言ってくれ。俺が交代する」
「助かります。私より神聖力に余裕のある方がいますからね」
ナサールが手を挙げて質問した。
「モンスターが現れた場合は、どうするんですか?」
エレインの背後からしか戦えない、という意味だ。
「その時は一時的に浄化の範囲を広げます。それに、地面を踏んだからといって、すぐに汚染が進行するわけではありません」
彼らがここへ来る途中で出会った人々の話を踏まえれば、確かにその通りだった。
ナサールは小さくうなずいた。
「分かりました。万が一、浄化領域の外に出てしまうような事態が起きても、すぐ戻れるようにします」
エレインは一歩、また一歩と、黒く濁った大地へ足を踏み入れた。
彼女が通った跡はかすかに光を放ち、やがて再び黒い気配に呑み込まれていく。
エレインは振り返った。
「……あら、この程度の神聖力だと、浄化が保たれる時間が短すぎますね。少し出力を上げましょう」
彼女はいったん一行の近くまで戻ると、再び黒い大地へと踏み出した。
今度は、彼女が踏んだ場所が先ほどよりもはっきりとした光を帯びている。
フィロメルは息を詰めるようにしてその後に続き、ナサールが続いた。
そして、いざという時に自ら浄化を行えるテオドールが、隊列の最後尾に立った。
「キィィィィッ!」
「そっちだ、行くぞ!」
ナサールの警告と同時に、モンスターがフィロメルの目前へと躍り出た。
「キャアッ!」
「エレイン!しっかり掴んで!」
フィロメルは悲鳴を上げるエレインを、自分の方へと強く引き寄せた。
地面を抉る鈍い音とともに、突進してきたモンスターが体勢を崩して転がる。
その隙を逃さず、フィロメルは素早く棍棒を振るい、モンスターを打ち据えた。
「えい、えいっ!」
「ぐえっ!」
彼女がさらに数度叩きつけると、ほどなくしてモンスターの動きは完全に止まった。
「……倒した……」
フィロメルは額を伝う汗を拭いながら、荒く息をつく。
これで何体目だろうか。
“茎”に近づくにつれて、モンスターと遭遇する頻度は明らかに増えていた。
その数は、これまでの倍以上に達している。
ナサールは依然として一当百の活躍を見せていたが、それでも進むにつれて、フィロメルが相手をするモンスターの数は増えていった。
自分が対処してきたモンスターたちを、すべて片づけ終えてフィロメルのもとへ近づいたナサールは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「面目ありません」
「どうしてフォローが遅れたんですか?」
「自分の持ち場で全部片づけるべきでしたのに……」
「私だって、結構強いんですよ。これでも一応、勇者ですし」
フィロメルの冗談めいた言い方に、ナサールの表情が少し和らいだ。
テオドールが朗らかに笑う。
「その通りです。勇者様がエレインを守ってくださっているおかげで、私たちは安心して戦えていますから!」
エレインは、その言葉に顔を赤らめた。
「今回も、身を挺して私を庇ってくれて……」
フィロメルは仲間たちの様子を見渡し、ほっと息をついた。
連戦で疲弊していないか心配していたが、まだ問題なさそうだ。
「もうすぐ目的地ですよ」
一行は顔を上げ、“茎”を見据えた。
葉も実もつけず、天へと伸びる黒く歪な構造体。
間近で見ると、その不気味さはいっそう際立って感じられる。
フィロメルは仲間たちを振り返った。
「あと少しです。頑張りましょう!」
その瞬間。
“茎”の内部から、フィロメル一行を見下ろす存在があった。
「ふむ……あまりにも素直すぎて、面白みに欠けるな」
イエリスは、ひゅっと小さく息を吹き、指先を鳴らした。
残念ながら、今は自ら前に出ることはできない。
新たに吸収した力を完全に自分のものとするため、悪神は身動きが取れない状態にあった。
しばし思案に沈んだイエリスが、ふっと口元を歪める。
「――こうしてみるのは、どうだろう?」
最初に異変を察知したのは、テオドールだった。
後方にいた彼は、先頭を進むエレインに向かって叫ぶ。
「エレイン!そろそろ神聖力が落ちてきてないか?」
「何を言ってるの?まだ余裕――」
「それなのに、浄化が保たれる時間がやけに短いんだ。さっきから、もう汚染された地面を踏んでる」
「……え?」
慌ててテオドールの足元を確認したエレインは、はっとして顔色を変えた。
フィロメルも、足を止めて自分が立っている地面を確かめた。
よく見ると、最初の頃よりも、淡い光が明らかに弱まっている。
「例の怪物に近づいたせいで、汚染の濃度が上がっているんじゃないでしょうか?」
フィロメルの推測を聞き、エレインは小さくうなずいた。
「そこまでは計算していましたが……ともかく、これからは神聖力をもっと使います」
その直後、エレインの足元から、これまでよりも強い光があふれ出した。
しかし、彼女が地面に描く光の軌跡は、相変わらず儚く、すぐに薄れていく。
一行が中央庭園の入口に辿り着いた頃、ついにエレインはその場に崩れ落ちた。
「……これ以上、浄化を維持しながら進むのは無理です」
「エレイン!大丈夫か?」
「……ごめんなさい」
エレインに代わって、テオドールが前へと踏み出した。
「やっぱりだ!さっきから汚染の進行が尋常じゃなかった!」
今度は、彼の足元が光を放つ。
「ここからは俺が浄化する!」
しかし、彼の浄化できる範囲は、エレインのものよりもずっと狭かった。
テオドールは思わず息を呑む。
「なんだこれ……相当きついぞ。神聖力をこれだけ注ぎ込んで、ようやくこの程度か……」
モンスターとの戦闘で神聖力を消耗していた点は、彼も同様だった。
以浄化の領域は次第に縮小していき、ついには四人が足を置くのもやっとというほどにまで小さくなった。
「フィロメル様!こちらへ!」
ナサールはフィロメルを、二人の神官のすぐそばへと引き寄せる。
「美と信の神よ、どうか我に力をお授けください」
エレインは杖を支えにしながら、両手を添えて祈りの言葉を紡いだ。
その手が、淡く、しかし確かな光を放つ。
テオドールも袖をまくり上げ、同じく杖に手を重ねた。
「俺も力を貸す!」
二人が本格的に神聖力を解放すると、周囲の大地が一気に明るく染まった。
浄化の領域は、短時間ながらも大きく拡張される。
「お二人!これ、少し口にしてみませんか?体力回復の助けになるはずです」
フィロメルは、何でもいいから手を打たねばと、背嚢から体力回復薬を取り出し、二人に一本ずつ手渡した。
ちなみにこれは、星灯商会で取り扱われている商品の一つである。
「おっ、力が湧いてきた!」
「すごいな、これ。今まで飲んできた回復薬より、ずっと効くぞ?」
ほどなくして、二人の顔色には血色が戻り、浄化の領域も再び明るさを取り戻した。
フィロメルは“魔塔主が作った薬”だと適当にごまかし、深くは追及させなかった。
――だが。
「ぐっ……!」
「勇者様!汚染が、さらに強まっています!」
事態は、むしろ悪化の兆しを見せ始めていた。
ほどなくして、テオドールは苦しげな声を漏らし、エレインは切迫した眼差しでフィロメルを見つめた。
黒い染みが、瞬く間に浄化領域を侵食していく。
その瞬間、フィロメルの思考は真っ白になった。
――こんな時、どうすればいい?
分からない。
体力回復薬はほとんど役に立たず、そもそもナサールには神聖力がない。
たとえ全力を尽くしても、首席神官たちの力だけでは、到底押し返せるはずがなかった。
「フィロメル様……」
ナサールが、彼女をかすかに呼ぶその声にフィロメルは我に返った。
「ぼーっとしている場合じゃない!」
何としてでも書かなければならなかった。
フィロメルは通信石を取り出した。
出発前に大臣館と通信石同士をつないでおいたのだ。
「今すぐ助けに来られる神官がいないか、確認してみます!」
フィロメルの通信石は、何か起きてから一度もまともに作動したことがなかった。
それでもフィロメルは、藁にもすがる思いで通信石をぎゅっと握りしめた。
「お願い、お願いだからつながって!」
天が味方したのだろうか。
何度か試した末、かろうじて通信がつながった。
「勇者様?」
だが、深い眠りの中で聞こえてきた声は、大神官のものではなかった。
おそらく、大神官を最も近くで補佐している司祭だろう。
彼が慌てた様子で口を開いた。
「申し訳ありません!大神官様は現在、別件で手が離せず、私が代わりに対応させていただきました!」
不吉な予感が、フィロメルの後頭部をかすめた。
「何があったんです?」
「大地の汚染が深刻で、浄化に追われているのです!」
「汚染が、すでにそこまで進行していると……」
「え?」
もともと彼らの予想では、早くても半日ほどは経たなければ、汚染が生体保管所に到達するはずはなかった。
しかし、フィロメル一行がその場所を離れてから、まだ二時間も経っていない。
「汚染の進行速度が、突然速くなりました!それに……」
そして続いた言葉は、あまりにも衝撃的だった。
「汚染が、ほかの地域を無視して、人が多く集まっている場所から先に襲っています!ま、まるで……意志を持った生き物のように……」
フィロメルは言葉を失った。
「意志を持っている?それなら、もしかして先ほどモンスターが現れなかった理由は……」
以偶然の一致ではなく、急速に広がっている汚染と関係があるのかもしれない。
――もしかすると、モンスターを生み出す力を、すべてそちらへ回してしまったのではないか。
そう考えたところで、彼女はふと、通信を入れた本来の目的を思い出した。
「私たちは、たった今中央庭園に到着しました!ここでも突然、汚染が深刻化しているのですが、近くに応援に来てくださる神官様はいらっしゃいませんか?」
「え、ええと……私の知る限り、この近辺にいるのは勇者様の一行だけで……あっ!」
相手が突然、大声を上げた。
「モンスターが!」
続いて、モンスターの咆哮が通信越しに響き渡った。
通信は、ぷつりと途切れた。
フィロメルは、うつろな表情で通信石を見下ろした。
再び接続を試みたが、むなしいだけだった。
「…………」
「…………」
絶望に満ちた沈黙が、その場を覆った。
彼らは皆、通信の内容を聞いていたのだ。
「そ、そんな……」
ずっと意見を述べていたエレインが、声を詰まらせて泣き出した。
「ちくしょう!」
こんな状況でも軽口を忘れなかったテオドールが、悪態をついた。
「もし私がフィロメル様を抱えて走ったら、汚染されていない場所へ、どれほどの時間で辿り着けるだろうか……」
ナサールは、何かを必死に計算するように、立ち止まって考え込んだ。
彼らは皆、等しく死を覚悟していた。
だが、自分たちの死が何の意味も持たないかもしれない――その事実が、彼らをより一層、絶望へと突き落とした。
大神官のいる聖物保管庫でさえ、すでに危険に晒されている。
この大神殿の中で、最も安全な場所であるはずなのに。
――あそこが危機に陥っているのなら、他の場所など、見るまでもない。
死ぬ。
やがてすべてが汚染され、苦しみながら死んでいくのだ。
フィロメルの体が、再び震えた。
死ぬのは怖い。死にたくない。
フィロメルは、安心を求めるようにナサールの手を強く握った。
ナサールは歩みを止め、彼女を見つめた。
「フィロメル様、今すぐ星光商店へ移動できますか?」
「え?あ……できます」
星々の岩場から欠け落ちた石のかけらも、きちんと鞄に入れてある。
「ですが、汚染を防ぐ商品は特にありません」
「そういう意味ではありません」
彼は淡々と告げた。
「フィロメル様だけでも、あの場所へ避難してください」
フィロメルは、自分の耳を疑った。
それが、どういう意味なのか。
「私だけ逃げるなんて、できません!」
星光商店には、プレイヤー以外は入れない。
「皆が、ただ大人しく死を待つしかない状況なんです」
「ですが、商店に避難したところで、命を少し延ばすだけに過ぎません!」
どうせ星光商店を出れば、元いた場所へと戻される。――この、汚染された大地へと。
「万が一、その間に土地が浄化される可能性もあります」
「誰が、ここを浄化するんですか?」
大司教でさえ、限られた区域を守るのが精一杯だというのに。
ナサールが、低く息を吸い込む音を立てた。
「父上も、まもなくお越しになるかもしれません」
「ルグィーンは魔導師であって、神官ではありません」
「フィロメル様!」
「嫌です!」
「フィロメル!」
フィロメルは、はっとして驚いた。
初めてだった。
ナサールが、彼女を名前だけで呼んだのは。
不意に、彼は肩を震わせた。
そして、嗚咽を漏らしながら懇願する。
「フィロメル……お願いだ。ほんの少しの間でいい、ここを離れてくれ」
赤く充血した瞳に、涙が滲んでいた。
「君が間違った結末を迎えるくらいなら、僕は死んだほうがましだ」
「ナサール……」
「きっと、あそこで耐えていれば、この状況だって好転するはずなんだ」
それは、何の根拠もない希望。
それでも彼は、その空虚な希望にすがり、フィロメルを送り出そうとした。
胸が締め付けられる。
ナサールの、あまりにも切実な想いが手に取られそうなほど、はっきりと感じられた。
もはや浄化領域は完全に消え失せていた。
神官たちは疲れ果て、地面に倒れ込んでいる。
終わりが見えた。
だが、フィロメルは首を横に振った。
「いいえ。私はここを離れません」
彼女の意志は、これまでになく固かった。
「ナサール、そしてみんなのそばにいます」
勇者になって、ひっそりと一人で生き延びるために逃げることなど、彼女にはできなかった。
フィロメルは、必死に笑顔を作った。
「死ぬなら、みんな一緒です」
そして、その瞬間。
『100%』
ナサールの頭上に現れた赤いゲージが、瞬時に満ち切った。
それと、ほぼ同時に――地上から、巨大な光の柱が天を貫いた。
フィロメルは慌てて、その光の柱が立ち上った場所を確認する。
ここからかなり離れた地点だ。
「な、なにあれ!?」
「まさか、また別の邪神の眷属か!?」
神官たちも愕然としながら、その荘厳な光景を見つめていた。
エレインが息をのんだ。
「いや……邪神の術なんかじゃない……とてつもない量の神聖力を感じる」
テオドールが、はっきりとうなずいた。
「そうだ。ここまで巨大で、しかも純粋な神聖力は初めてだ」
フィロメルの胸が高鳴った。
「びっくりした……一瞬、好感度の数値が100に跳ね上がって起きた現象かと思った……」
どうやら、そういうことではなかったらしい。
だが、驚くべきことはまだあった。
「え?汚染が……!」
自分の体が触れていた地面を確認したエレインが叫んだ。
「汚染が、浄化されました!」
黒く濁っていた大地が、いつの間にか、先ほどの光の柱と同じ色合いに染まっている。
光の柱そのものはすでに消えていたが、大地はなおも浄化された状態を保っていた。
「さっき見えた、あの巨大な光のおかげでしょうか……?」
テオドールの戸惑った呟きに、皆が黙って頷いた。
大地は光で満ちている。
それはあまりにも神聖な輝きだった。
「おお、慈悲深き神よ。私たちをお救いくださり、感謝いたします」
エレインは、その荘厳な光景に、深く祈りを捧げていた。
「助かった……」
安堵が、フィロメルの全身に広がっていった。
「神のご加護に違いありません!」
テオドールの言うとおりだ。
神でなければ、いったいどんな存在が、こんな奇跡を起こせるというのだろう。
だが、エレインの祈りの言葉どおり、ミアは神ではない。
ミアは別の世界にいるはずだ。
「待って……神、って……?」
ミアでも神でもないとしたら、別の神?
フィロメルの胸に、ある恐ろしい推測が浮かび上がった、そのときだった。
「やりすぎだな」
何の前触れもなく、すぐ傍から突然、誰かの声が響いた。
「ミワではない。私がやったことだ」
「……っ!?」
反射的に警戒態勢に入ったナサールは、声の主を確認して息を呑んだ。
「皇帝陛下!?」
ユースティスの姿が、フィロメルの背後に立っていた。
「皇帝、だって……」
「皇帝ということは、まさか――ベルレロフ帝国の皇帝陛下!?」
エレインとテオドールの顔に、遅れて大きな驚愕が広がった。
「まさか……本当に、あのお方が皇帝陛下なのですか?」
「えっ、ど、どうしてここに……?」
フィロメルは、彼らに手短に事情を説明した。
「皇帝陛下は、密かに大聖殿を訪れておられました」
ユースティスは、余裕のある微笑みを浮かべながら、そんなフィロメルを見つめていた。
「……いや?」
だが、フィロメルの胸の奥では、嫌な予感が強くなっていく。
それは、初めて彼と対面した時から、ずっと感じていた感覚だった。
「そして、おそらくこの方が土地を浄化し、私たちを危機から救ってくださったのでしょう」
少し前に本人が口にした言葉は、おそらく真実だった。
エレインの瞳に、思わず息を呑むほどの異様な気配が走った。
「皇帝陛下の神聖力が並外れていることは、私たちも承知しています。ですが、これほど広範囲の大地を浄化なさったと……?」
テオドールも、思わず小さく呻いた。
「大神官様でさえ、浄化できるのはせいぜい一部に限られていたはずなのに……」
彼らが抱いた疑念は、もっともだった。
人の身で成し得る所業ではない――本来ならば。
「今の皇帝陛下は……人間ではない、ということですか」
フィロメルは、目の前に立つユースティスの姿を、真正面から見据えた。
「私の言ったことは間違っていましたか?偉大なるベレロン神よ」
フィロメルの言葉に、男の瞳に宿る興味の色が、さらに濃くなった。
突然口にされた神の名に、人々の表情がこわばる。
とりわけ、二人の神官は強く動揺した様子だった。
「ベ、ベレロン神……?」
「そういえば、ベレロフ帝国の皇帝は、太陽神の力を操れるという伝説があったはず!」
男が口を開いた。
「そのとおりだ」
その一言だけで、場を支配するほどの威圧感があった。
「私が、ベレロンだ」
神が皇帝の身体を借りて顕現した存在だった。
太陽神ベルレン。
ミワが眠りについた後、神々の王としてこの世界を統べるようになった神。
また、遥か昔、ある人間と交わり、ベルレロフ帝国の建国皇帝を誕生させた――その逸話でも知られている。
フィロメルは、男の瞳を注意深く観察した。
――赤い。
よく見ると、海のような青色の瞳孔の中心が、赤く染まっている。
まるで、燃え盛る炎のように。
それは、紅炎の指輪にはめ込まれた宝石に酷似していた。
その宝石は、ベルレン神が建国皇帝に授けたとされる鉱石を、少しずつ加工して作られたものだと伝えられている。
神が子らの子孫に授けた祝福は、それだけではなかった。
ベレロンは約束していた。
彼らの国が危機に陥ったときは、自らが直接介入すると。
ゆえに、ベレロフ帝国の皇帝は代々、神を降ろす秘術を受け継いでいる。
「ないと思っていたほうがいい。どうせ、軽々しく使えるものじゃない」
かつてフィロメルがその秘術について尋ねたとき、ユースティスはそう答えた。
皇帝は、フィロメルにその秘術を授けるつもりはなさそうだった。
――正直に言えば、分かっていたとしても、神聖力を持たない私には使いこなせない。
それでもフィロメルには、一つだけ確信に近い推測があった。
神を降臨させるには、それに見合う代価が必要だということ。
それはおそらく……。
「ま、まさか……本当にベルレン神なのですか!?」
テオドールの叫び声に、フィロメルは思考の海から引き戻された。
二人の神官は、神を目前にしているという事実に、異様なほど興奮している。
「私がミワ神の次に敬愛している神こそ、まさにベルレン神なのです!」
「わ、私もです!見習い司祭の頃、ベルレン神の神話を一番深く学びました!」
熱を帯びた声が重なり、場の空気は一気に高揚していった。
「え?エレイン、君、以前ベレロン神は妻がいるのに、人間と浮気して生まれた子がベロラだって言ってなかった?」
「黙って!」
神の御前で不敬な過去を掘り返され、エレインはぶるぶると震え始めた。
「す、すみません!わ、私、そんなことを言ったことはありますが……あ、あの頃は何もよく分かっていなくて……」
ようやく自分の失言に気づいたテオドールも、慌てて一緒に頭を下げた。
「は、はい!エレインは大聖殿で一番敬虔な神官です!罰をお与えになるなら、どうか私だけに!」
「ふむ」
風が抜けるような音がした。
「ははははは!」
ベルレン神が、豪快に笑い声を上げた。
ひとしきり笑ったあと、彼は言った。
「構わん。たかがその程度のことで、お前たちを罰したりはせぬ」
「……あ、ありがたい……」
「だが、これだけは覚えておけ。神々は本質的に自由な恋愛を尊ぶ存在だ。ゆえに、“浮気”という概念は、我らにとっては希薄なのだ」
付け加えられたその言葉は、どこか言い訳めいて聞こえた。
「それにしても、人間というのは実に愉快だな」
そう言って、柔和に微笑む皇帝の表情を見た瞬間――フィロメルの腕に、ぞくりと悪寒が走った。
「どちら様ですか?」
その顔を見て、なぜか言葉を失ってしまった。
実のところ、フィロメルが最初に彼の正体を疑ったきっかけも、皇帝であるなら決して見せないはずの表情だった。
「ちょっ、今はそんな場合じゃないでしょ!」
神を迎えた高揚感からようやく我に返ったエレインが、叫ぶ。
「ベレロン神よ、どうか他の人々もお救いください。生体保管所にまで汚染が及んでいるそうです」
テオドールも両手を合わせた。
「そのとおりです。あそこには、最も多くの人員が集まっています」
ベルレンは、静かに手を差し出した。
「よい。まさか、私を信じる者たちを置き去りにしてきたわけではあるまいな」
「それは、つまり……」
「我が力をもって、人の足が踏みしめた大地は、ほぼ浄化しておいた」
テオドールは歓声を上げ、エレインは安堵の溜息をついた。
「この勢いで、邪神すらも退けてくださるのですね!偉大なるベルレン神であられるなら、それもお出来になるのでしょう?」
「それは……」
テオドールの問いかけに、太陽神は言葉を濁した。
「ベレロン神よ」
フィロメルが前に出た。
「皇帝陛下のご寿命は、あとどれほど残っているのですか?」
燃え盛る炎を思わせる神の瞳が、きらりと光った。
「ほう。我が力を用いる代償が、寿命であると知っていたか」
「……推測にすぎません」
帝国暦一三二年に起きたシリア戦争で、帝国は大陸連合軍の猛攻を受けた。
滅亡の危機に瀕した国を救ったのは、太陽神を降ろした当代の皇帝だった。
そして彼は、戦争に勝利してから数日後に命を落としている。
――神を降ろす代償が寿命であるという事実を、知らぬはずがない。
希望というものが、どこにも見出せない状況の中で、ユースティスが選び取ったのが、この最後の手段なのだと。
ベルレンが、静かに口を開く。
「この身に残された寿命が、あとどれほどあるのか――それを明確に語ることはできぬ。天機に関わることゆえな」
だが、それでも伝えねばならぬ言葉があった。
「残された命をすべて注ぎ込んだとしても、今のイエリスを討ち滅ぼせるかどうかは、賭けに近い」
二人の神官は、言葉を失い、深い絶望に沈んだ。
「そ、そんな……偉大なるベルレン神でさえ、太刀打ちできないなど……」
「そもそも、我々人間が、あのような存在を相手にしようとしたこと自体が、誤りだったのでしょうか……」
重苦しい沈黙が、その場を支配していた。
フィロメルも、同じような気持ちだった。
「いいや、まだ諦めるには早すぎる」
神がフィロメルを制した。
「お前たちには、勇者がいるではないか」
「ですが、私がもし……」
「ここで詳しい話をするには、少々場所が悪いな」
ベレロンは周囲を見渡すと、フィロメルに向かって手を差し出した。
――手を取れ、ということだろうか。
彼女が神の手を握った、その瞬間。
「うわあっ!」
フィロメルの体が宙に浮いた。ベレロンが彼女を抱え上げ、そのまま空へと舞い上がったのだ。
「フィロメル様!」
ナサールが驚いて叫んだが、その姿はみるみる小さくなっていった。
二人は一瞬にして地上から引き離されていたのだ。
「神よ、これは一体……!?」
フィロメルは、落下するのではないかという恐怖に駆られ、皇帝の身体にしがみついた。
太陽神は、どこか楽しげに笑った。
「二人きりで話すには、空の上のほうが都合がよいだろう?」
どう考えても、この神は――彼女の想像していた神の姿とは、あまりにもかけ離れていた。