こんにちは、ピッコです。
「メイドになったお姫様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
116話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 賢者ラクタ
皇室とアンゲルス公爵は、賢者ラクタへ書簡を送った。
【少女のように純粋な愛を願うアンゲルス公爵家の庶子ベロニカが、結婚もしていないのに子を宿しました。ベロニカはその子の父を皇太子と指名しました。しかし名誉と真実を重んじる皇太子ラシードは、その主張を強く否定しています。両者の間に生じた深刻な対立について、賢者ラクタのご見解を伺いたく存じます。】
つい先日までは、ラシードとベロニカに関するスキャンダルを知っているのは、宮廷の一部の人々と噂に敏感な少数の貴族だけだった。
だが、もはやそうではない。
高貴な皇室と公爵が、ラクタにこうした書簡を送ったのだから。
醜聞を抱えているという事実は、瞬く間にあちこちに広まった。
もはや知らぬ者などいないほどであった。
人が集まるところでは必ずこの面白い話題が取り沙汰された。
「考えてみろよ。この件で一番困るのは誰だ?それはベロニカ公女様に決まっている。」
名門公爵家の庶子。
それも、まだ結婚もしていない娘が子を身ごもったのだ。
それだけでも世間の激しい非難が浴びせられるに十分な理由だった。
それでも公女は、その事実を隠さず公にした。
「理由は一つだろう。公女様の言葉は事実だということだ。公女様の胎内にいる子は、皇太子殿下の血を継ぐ者に違いない。」
「そうか。一夜の過ちで受けた傷を背負い、苦境に立たされているのだな。不憫なお方だ。」
一方、ラシードへの評判は冷たいものばかりだった。
皇太子殿下は「血の皇太子」と呼ばれるほど冷徹で冷たいお方だ。
たとえ一夜を共にした女性が子を宿そうと、気にも留めないだろう。
「気にも留めないって?面倒だからと言って、公女殿下を疎ましく思い捨て去ることだってあるかもしれないわ。」
ラシードは長きにわたり戦場を駆け、多くの勝利をもたらした帝国の英雄だった。
だが、人々が彼に抱く感情は、尊敬というよりも恐れのほうが大きかった。
ゆえに、ひとたび事が起これば、人々の同情は一方に傾かざるを得なかった。
世に恐れるものなき冷酷な皇太子と、そんな皇太子に弄ばれ捨てられた貴族令嬢。
どちらが悪人かなど、一目で明らかだった。
「……俺が悪党だというのか?」
ラシードの言葉に、ソルは思わず声を荒げた。
「ただの悪党どころじゃない、血も涙もない冷血漢、女を一夜で弄んで捨てる人間の屑、そのうえ血筋まで絶やそうとする外道だなんて……!」
「……やめろ。」
「はい。」
ソルは慌てて口をつぐんだ。
しばし後、ラシードの表情を伺いながら、恐る恐る再び口を開いた。
「世論がこれほど一方に傾いているのを見ると、さすがに心配になります。いくらラクター殿が公正な方とはいえ、多くの人々の声に影響される可能性もあるのではありませんか?」
「その程度で揺らぐ人なら、とうに重臣として信任を得ていない。」
もちろん、ラシードがラクターを全面的に信じていたわけではない。
この件を委ねる前に、ラシード自身が徹底的にラクターを調べ上げていたのだ。
皇后やアンゲルス公爵がラクターを懐柔しようと試みたことも――。
もしも作為の痕跡があれば、それを掴み逆手に取るつもりだった。
だが、何ひとつ見つからなかった。
『まあ、皇后陛下もアンゲルス公爵も愚かではない。ラクタに浅はかな策を弄して見破られたら、すべてを失う。そんな危険な賭けはしないだろう。』
ラクタはもし誰かが贈り物を送って懐柔しようとしたり、脅迫したりすれば、その事実をすぐに公にしてしまう人物だった。
だからこそラクタは尊敬を集めていた。
『どちらであれ卑劣な手は使えない。つまり、この裁きは徹底的にラタの考えに基づいて決まるのだ。』
その点でラシードは自信があった。
噂とは違い、自分とベロニカの間には本当に何の関わりもなかったからだ。
『ラクタは感情に流されて真実を見失うような人ではない。』
ラクタは確たる証拠や証人がなければ、罪に対して軽々しく判を押すことは決してなかった。
ラシードもまた思い至った。
彼はラクターの冷徹さを信じていた。
だが、ひとつの問題が残っていた。
ラシードは低くつぶやいた。
「――あの夜のことが引っかかる。」
ラシードの言葉に、ソルも息を呑んだ。
ベロニカがアンゲルス公爵に語った「ラシードと一夜を共にした」という、その夜のこと。
ラシードとベロニカが会ったのは事実だった。
それも皇太子宮殿で。
もちろん約束された面会ではない。
ラシードが外出から戻ると、ベロニカが彼の部屋にいたのだ。
ラシードは血が逆流するような不快感を覚えた。
冷ややかに彼を見つめながら、ベロニカは赤い唇を吊り上げて笑った。
「どうあっても、あなたに会わずにはいられなかったのですわ。」
皇太子宮は容易に他人が踏み入れられぬほど厳重に守られていた。
だが、一介の貴族令嬢がこれほど自然に入ってきたということは……
「皇太后様のご意向か。」
ラシードの冷ややかな眼差しとは対照的に、ベロニカは意味ありげな笑みを浮かべながら優雅にお辞儀をした。
「はい。皇太后陛下がお力添えくださいました。皇太后陛下がおっしゃるには、殿下がどれほど冷淡に振る舞われても、簡単に諦めてはいけない、と。愛とは努力して勝ち取るものだと。」
そう言うと、ベロニカは身にまとっていたマントを外した。
一見すると淑やかな貴族令嬢の装いだったが、その下には挑発的なドレスに包まれた肉感的な身体が露わになった。
ベロニカはラシードへと一歩近づき、熱を帯びた声で囁いた。
「殿下、ベロニカは殿下のためなら何でもいたします。どうかこの愛をお受けください。」
ラシードの全身に戦慄が走った。
もし腰に剣を帯びていたなら、その場で女を斬り捨てていただろう。
本気でそう思った。
だが今は素手。
一瞬たりとも彼女に触れたくはなかった。
そこでラシードは、ベロニカに手を触れる代わりに、冷酷で揺るぎない声で告げた。
「公女、今すぐこの場から消えろ。さもなくば、お前もろともアンゲルス公爵家を跡形もなく葬り去る。後世の歴史書にお前の名すら残らぬほど徹底的にな。」
ぞっとする言葉だったが、ベロニカは笑い声を洩らした。
「殿下、なんと大げさで恐ろしい冗談を……」
だがその口元はすぐに閉ざされた。
ラシードの鋭い紫の瞳に射すくめられたのだ。
表現できないほど鋭い悪意が潜んでいたからだ。
たとえベロニカが正気を失っていたとしても、皇太子に対してこのような真似をするほど無謀ではないはずだった。
生きたいという本能は、彼女にもあるのだから。
――このままでは本当に命を落とす。
ラシードが心からそう悟った時、ベロニカの顔は青ざめていた。
よろよろと後ずさりしていた彼女は、ついに嗚咽混じりの悲鳴を上げると、まるで逃げ出すように去っていった。
それはちょうど満月の夜に起きた出来事だった。
そして、その一部始終を知っていたソルが、眉をひそめながら言った。
「ベロニカ公女様が、もしもラクタの前でも“あの夜、殿下と共に過ごした”と口にするなら、殿下の立場は極めて不利になります。いずれにせよ、公女様が皇太子宮に出入りしていたのは事実ですから。」
「……ラクタには真実を見抜く目がある。」
二人の間に一瞬の沈黙が落ちた。
すでに件はラクターの手に渡っている。
今さら悩んでも仕方のないことだった。
ラシードは困惑した表情のまま、小さく息を吐くソルに尋ねた。
「ところで、シアナは?」
なぜ今まで聞かなかったのかと、自分でも不思議に思った。
ソルは慣れた質問に答えるように淡々と答えた。
「静かに部屋でお休みです。」
「……そうか。」
さきほどまで重大な局面に立ち向かうかのように毅然としていたラシードの顔に、静けさが戻った。
数日前、ラシードを訪ねたシアナは、確かにこう告げようとしていた――
〔これから私は、殿下と……〕
しかし、ソルとアンゲルス公爵の割り込みによって、その後の言葉を聞くことはできなかった。
あの時、何を言おうとしたのか確かめたい気持ちはあったが、ラシードに起きた出来事が真実なのか、そうでないのか判断する術はない。
勘が鋭いとは到底言えないラシードだったが、不思議とシアナにだけは勘が働いた。
だからこそラシードは、シアナに対してだけは真剣な表情を浮かべ、ベロニカに関することをきっぱりと否定した。
――[シアナ、私はあの女とは、本当に、絶対に、何の関係もない。]
しかし、必死のラシードの訴えも、シアナにとってはただ「はい」と淡々と返すだけで終わってしまった。
そして、それで終わりだった。
「……キュ?」
隣にいた白いフェレットが、どうしてそんなことを言うのかと首を傾げるようにラシードを見上げていた。
ラシードの肩にちょこんと飛び乗ってきた。
「チッ?」
小動物のナムナミ(イタチのような生き物)も、じゃれながら小さな足でラシードの手の甲を軽く叩いた。
だが、愛らしい動物たちの慰めにも、胸の奥に絡みついた不快感は拭えなかった。
ラシードは険しい顔で低くつぶやいた。
「……シアナは、本当に私に無関心なのだろうか?」
もちろん、今回のくだらぬ醜聞に彼女が関心を持つことを望んでいるわけではない。
ラシード自身も、こんなことに巻き込まれている姿を見られたくはなかった。
ただ、どうかシアナがこの件を知らずにいてほしい――そう願っていたのだ。
それでも彼女の姿が見えないことが、妙に胸を締めつけた。
実に複雑で抑えがたい感情だった。
ラシードはその日、朝早くから身支度を整えていた。
清らかな水で体を洗い、刺繍ひとつない真新しい白いシャツを身にまとい、銀で作られた装飾品だけを身につけた。
今日という日は、賢者ラクタが宮廷とアンゲルス公爵の間で起きた争いについての見解を述べる日だったからだ。
ラクタの言葉はオロー神殿で発せられる予定であり、「隠しごとは許されない」というオロー神の掟に従い、神殿には多くの信徒たちが集まることになっている。
ゆえにラシードもまた、可能な限り厳粛に、そして清らかに見えるよう身を整えたのだ。
ソルは満足げな顔で言った。
「誠実で澄みきったお姿に見えます、殿下。今の殿下の御姿であれば、たとえこの世に生まれてから唯一の失敗が“この馬鹿者め”と叱責されたことぐらいで、人生で犯した一番悪い過ちは野に咲く小さな花を踏んでしまったことだ――と仰ったとしても、人々はその言葉を信じるでしょう。」
もちろん、ただの見かけだけのことだ。
ラシードは、かつて戦場で幾千もの命を奪ってきた冷徹な男だった。
――「今、ラクターやオーロ神殿に集まった人々が、この姿を見て少しでも気を紛らわせてくれればいいのだが。」
ソルは、ラシードの堂々たる姿が世論に良い影響を及ぼすよう、切に願った。
そんなソルにラシードが尋ねた。
「母上と父上は?」
「陛下はお疲れでお越しにならず、皇后陛下が時間に合わせてご到着なさるそうです。」
「そうか。」
息子を縛りつけようとするほど情熱的な皇后とは対照的に、皇帝はほとんど関心を示さなかった。
もっとも、それは今に始まったことではない。
以前から皇帝は、自分が興味を持たぬことには徹底的に無関心だった。
――「療養地から戻られて以来、その傾向は一層強まったな。」
皇帝のことを考えつつ部屋を出たラシードは、目を大きく見開いた。
そこには、深緑色の祭服を纏ったシアナが立っていたのだ。
久しぶりに見る姿だった。
ラシードの顔が一気に明るくなる。
「シアナ。」
ラシードは長い脚を急ぎ動かし、すぐにシアナの前へと歩み寄った。
「私の侍女でありながら、こんなに久しく顔を見せないとは……」
「お久しゅうございます。」
シアナは落ち着いた声で答え、ラシードと目を合わせた。
ほんの一瞬、ラシードは迷った。
何を言うべきか。
『なぜ今まで会いに来なかった?私はどれほど君に会いたかったか……』
――いや、それではあまりに率直すぎる。
――「私の誠意と忠誠を証明してきます。」
軍人らしからぬ言葉が、かえって不思議に響いた。
――「では、行ってまいります。」
そうだ、それでいい。
これが一番穏やかな道に思えた。
だが、ラシードがその言葉を口にする前に、シアナが先に口を開いた。
「殿下。」
「うん。」
「お願いがひとつございます。」
「……?」
“お願い”という言葉に、ラシードの目が大きく見開かれた。
この瞬間、シアナが自分に何かを頼むなどということが不思議で仕方なかったからだ。
だが、次の瞬間、ラシードの瞳は柔らかさを帯びて揺らいだ。
「何でも言ってみろ。」
シアナは静かに唇を開いた。
「殿下のお名前を、一度呼んでみてもよろしいですか?」
「……!」
思いもよらぬ言葉に、ラシードは大きく目を見開いた。
ひとりの侍女が、皇族の――それも皇太子の名を呼びたいだなんて。
無礼極まりないことだ。
だがラシードにとっては、この世で最も甘美で、そして誇らしい願いに思えた。
ラシードは言葉ひとつ返さず、ただこくりと頷いた。
いつの間にかソルは席を外し、広々とした殿堂には二人きり。
天井は高く、華やかな装飾に彩られた静謐な空間に、シアナの声が響き渡る。
「……ラシード。」
「……」
ラシードは一瞬、時が止まったように感じた。
それほどまでに――非現実的だった。
ラシード。
彼女の口から紡がれたその三文字は、あまりにも強烈だった。
頭の奥が真っ白になるほど。
思わず息を止めてしまうほど。
激しく脈打っていた心臓が、一瞬止まってしまったほど。
しばし呆然としたのち、ようやく正気を取り戻したラシードは、震える声で答えた。
「……ああ、シアナ。」
「……」
ラシードはこれまでも何度か彼女の名を呼んだことがあった。
だからシアナはラシードほど大きな衝撃を受けはしなかった。
けれども、それに似た感覚を覚えた。
胸が押さえきれないほど高鳴り、全身が熱を帯びていくような感覚に包まれたのだ。
そして、今のシアナには、それを避けようとする気持ちはもうなかった。
頬をほんのり赤らめながら、シアナは口を開いた。
「困難なお願いを聞き入れてくださり、ありがとうございます。おかげで確固たる決心ができました。」
ラシードが思わず口元を綻ばせた。
「何を?」
「そういうのがあるんです。」
曖昧な答えに眉をひそめるラシードへ、シアナは話題を変えた。
「私も殿下と一緒に、神殿へ行ってもよろしいでしょうか?」
ラシードは驚いた。
なぜなら、シアナはこれまでこの件に全く関心を示していないように見えたからだ。
ラシードが視線を落とした。
「良い結果は見られないだろう。」
どれほどラシードが無愛想でも、好意を抱く女にこの件で動揺する姿は見せたくなかった。
そんなラシードの胸の内を見透かすように、シアナは目を伏せ、微笑んだ。
「それでも、私が行けばきっとお役に立てますよ。」
「どうやって?」
「もし状況が殿下にとって不利に流れてしまいそうなら、ソル様と一緒に大道芸でもしてごまかします!うちの殿下は、絶対にそんな卑劣なことをする方ではありません。殿下のお好きなことといえば、小さな動物たちの糞を掃除しておやつを与えるくらいの、純粋で真面目なお方なんですから!」
冗談めかした言葉だった。
だが、その瞳に宿るのは確かな意志だった。
ただ見守るだけの傍観者で終わるつもりはない。
どうにかしてラシードの力になりたい――そんな強い決意。
ラシードの口元に、ふっと笑みが浮かんだ。
先ほどまで胸を押し潰していた不快感が、まるで一瞬で吹き飛んだかのように。
「それは、心強いな。」
それは紛れもない本心だった。







