こんにちは、ピッコです。
「もう泣いてもいいですか?」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
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又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
28話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 試練の季節
月曜日の朝。
静まり返った寮の掲示板に、真新しい紙が一枚貼り出された。
それは、全校生徒が恐れ、かつ待ち望んでいた「中間試験」の開始を告げる日程表だった。
試験期間は二週間。
その間はすべての通常授業が中止となり、各科目につき一度ずつ、命運を懸けた試験が実施される。科目ごとの緻密な日時と会場が並ぶ日程表を見上げながら、生徒たちは一言も発さず、まるで行軍のスケジュールを記録するかのように、重い手つきで自分の手帳へ予定を書き写していった。
「どうしよう……私、本当に勉強が足りてないのに……」
まだ幼さの残る下級生の中には、過酷な日程を確認した途端、プレッシャーに耐えかねてその場で泣き出してしまう子もいた。周囲の友人たちも、ただ「大丈夫だよ」と無責任になぐさめることはできなかった。なぜなら、試験期間に入った途端、この英才学院の空気はそれまでとは一変することを知っているからだ。
ここに集うのは、帝国の名門貴族の子弟ばかり。多少の不出来はあれど、皆、最高峰の教育機関である英才学院への入学を許されるだけの、最低限の資質とプライドは備えていた。すべての科目が完璧でなくとも、誰もが一つは胸を張れる突出した成績や、類稀なる才能を持っている。
当然、地元の領地や外の世界では「神童」「天才」ともてはやされてきた子どもたちだ。周囲の凡百な人間とは比べものにならない輝きを放っていた。
しかし、一歩この英才学院に足を踏み入れると、彼らは自分がいかに井の中の蛙であり、思い上がっていたかを残酷なまでに思い知らされることになる。
ここでは、「天才」であることなど大前提にすぎない。誰もが特別な才能を持っているのだ。
ゆえに、外でどれほど称賛を浴びていたとしても、この閉ざされた学院の中では、その他大勢の「平凡な生徒の一人」に埋もれてしまう。
自分は、決して特別な存在ではない――。
その冷徹な事実は、多感な生徒たちの心を深く傷つけ、打ちのめすには十分な衝撃だった。
それでも、これまでは何とか互いのプライドを保ち、耐えてきた。
しかし、いざ本番の試験が始まり、明確な数値として成績が発表されるとなれば話は別だ。「もし自分の順位が底辺だったらどうしよう」という、底知れない恐怖が頭をもたげ始める。
英才学院では、試験の成績が悪いという理由だけで退学処分になることはない。しかし、その代わりに成績下位20%の生徒は「著しい学力不足」と見なされ、放課後の過酷な義務補習へと強制参加させられるのだ。
生徒たちは、何よりもその補習組に落とされることを恐れていた。それは、自らの血統と頭脳が「最下位グループ」であると、全校生徒の前で公式に証明されるようなものだからだ。
「もし選ばれたら、きっとみんなに頭が悪いって笑われるわ……」
だからこそ、生徒たちは皆、生き残りを懸けて必死に机に向かっていた。
新入生のイビィもまた、学院の空気が肌を刺すように張り詰めていくのを感じ取っていた。
何よりも驚いたのは、特進クラスの四人の中で、いつも一番授業を退屈そうに受け、不真面目だったルスカーが、突如として猛烈に勉強を始めたことだった。
普段のルスカーといえば、上着をだらしなく肩に掛け、シャツのボタンを二つほど開け放ち、取り巻きの友人たちと遊び回るにはうってつけの、いかにも不真面目な格好をしていた。授業中もあちこちをソワソワと見回しては悪戯ばかり仕掛けるため、マレス教授に「集中できんのか、この馬鹿者が!」と何度も耳を引っ張られて叱られていた。それが日常の光景だったのだ。
しかし、現在のルスカーには、そんな軽薄な面影は微塵もなかった。
仕立ての良い制服を寸分の乱れもなく着こなし、背筋をピンと伸ばして席に座ると、ただ目の前の難問を解くことだけに全神経を集中させている。
イビィは、そんな彼の真剣な横顔を初めて見て、不思議そうにぱちくりと目を丸くした。
しばらく黙々と数学の難問に挑んでいたルスカーは、最後の一行を書き終えると、ふうと息を吐いてノートをイビィのほうへと差し出してきた。
「イビィ、ちょっとこれ見てくれる?」
「はい。ええと……」
イビィは差し出されたノートを受け取り、美しい数式を上から順に目で追っていった。
「ここまでは完璧に合っています。でも、この式のこの部分で、少し計算がおかしくなっていますね。平方根を導入しなければいけないところで、単純な掛け算になってしまっていて……」
イビィは、ルスカーが躓いた箇所を一つひとつ、まるでもつれた糸を解きほぐすように丁寧に説明してあげた。ルスカーはその言葉を一言も聞き漏らすまいと熱心に耳を傾け、素早く手元にメモを取りながら、自分の解答を最初から丹念に見直していく。
「なるほど……じゃあ、こういう風にアプローチすれば合ってる?」
イビィの解説を咀嚼したルスカーは、さらさらと新しい数式を組み立て、少年のような悪戯っぽい笑顔で彼女に見せた。
「はい! 完璧です!」
イビィが嬉しそうにパチパチと小さな拍手を送ると、ルスカーは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「やっぱり、イビィに教えてもらうと驚くほど分かりやすいな」
「でも、マレス教授の教え方もすごくお上手ですよね?」
イビィが不思議そうに首を傾げると、ルスカーは苦笑を漏らした。
「それはね、君やアルセルだからだよ……。普通の人間は、たまにあの天才のぶっ飛んだ説明についていけなくなるんだ」
「ルスカーさんだって、本当はすごく勉強ができるじゃないですか」
いつも四人の中で「俺が一番バカだから」と言っては、大げさに落ち込むフリをするルスカー。だが、イビィはその言葉が彼の本心ではないことを見抜いていた。
ルスカーは、一度説明を受ければ本質を即座に理解できる信じられないほどの地頭の良さを持っていた。だからこそ、さっきまで解けなかった最高難度の問題も、あっという間にマスターしてしまう。ただ、理解するとすぐに飽きて遊び始めてしまうだけなのだ。
だからこそ、マレス教授が『あいつも素材は一級品なのに、不思議なほどそれ以上上を目指そうと努力せんのだ……』と、才能を惜しむようにぼやいているのを、イビィは何度も耳にしていた。
そのお決まりの小言を聞くたび、ルスカーはいつも一瞬だけ、複雑な影を帯びた瞳でアルセルを見つめ、それから自嘲気味に呟くのだった。
『どれだけ死に物狂いで頑張っても、アルセルには絶対に敵わないからな……』
それは、いつもの明るい彼らしからぬ、どこか諦念の混じった力のない声だった。
「イビィだって、アルセルを見ていれば分かるだろ? あいつは本当に、何をやらせても完璧なんだ」
「はい……」
ルスカーの言う通り、アルセルは底が知れないほど恐ろしい男だった。全教科において一切の隙がなく、常に頂点に君臨している。最初は他の生徒に全く興味を示さなかった偏屈なマレス教授でさえ、アルセルを指導するようになってからは『お前、私の跡を継いで数学を専門にする気はないか?』と、熱烈な視線を送るほどだった。
「僕がどれだけ血の滲むような努力を重ねても、あいつの領域には届かない。何をやっても、アルセルを超えるなんて不可能なんだよ」
どこか寂しげに笑うルスカーの言葉を受け、イビィは小さな頭を少し傾けて考え、それから大真面目な顔で答えた。
「でも、ルスカーさんのほうが、アルセルさんよりずっと背が高いじゃないですか」
「それは……まぁ、そうだけど」
「それに、走るのもすごく速いです」
「はは、君の言う通り、足が長いからかもしれないな」
「ボール遊びだって、とっても上手です!」
「それは単に、勉強もしないで友達と泥だらけになって遊んでただけさ」
「歌だって、もの凄くお上手じゃないですか」
イビィは、思いつく限りのルスカーの長所を、指を折りながら次から次へと挙げていった。
ルスカーは自分にはアルセルより優れた部分など何一つないと言い張るが、イビィには到底そうは思えなかった。
イビィにとって、ルスカーは誰よりも温かく、優しい人だった。だからこそ、彼の周りにはいつも自然と多くの人が集まってくる。教授たちも「悪戯が過ぎる」と頭を抱えることはあっても、本気でルスカーを嫌う者など一人もいなかった。その証拠に、ルスカーの姿を見たり、その陽気な声が響いたりするだけで、誰もが自然と笑顔になり、嬉しそうに挨拶を交わすのだ。
「私、ルスカーさんみたいに、そこにいるだけでみんなから愛される人を、生まれて初めて見ました」
それは、孤独な境遇で育ったイビィが、心から憧れている光景そのものだった。
誰もがルスカーを慕い、ルスカーもまた、誰に対しても等しく優しい。だから、彼の隣にいるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなり、心から安心できるのだ。
「だから……私、大きくなったらルスカーさんみたいな大人になりたいんです」
「……」
イビィの曇りのない告白を聞いた瞬間、ルスカーは言葉を失い、ゆっくりと視線を伏せた。
見る見るうちに耳の付け根まで真っ赤に染まり、ひどく照れたように床の一点を見つめていたルスカーだったが、やがて意を決したように顔を上げると、愛おしさに満ちた静かな瞳でイビィを見つめ返した。
「……ありがとう」
ぽつりと呟くような声。彼はしばらくの間、イビィの瞳をじっと見つめ、それから愛おしさを堪えきれないといった様子でそっと手を伸ばすと、彼女の頭をくしゃくしゃと優しく撫でた。
そして、いつもの悪戯っぽい調子を無理に取り戻して笑う。
「でもさ、俺とお前って、そこまで歳が離れてるわけじゃないんだぜ? 大きくなったら俺みたいになりたいって、ちょっと大げさじゃない? 先生たちから見れば、最初から俺たちは同世代の括りなんだからさ」
「でも、今の私よりずっと大人で、ずっと大きいじゃないですか!」
「それはお前が小さすぎるだけだって。もう少し大きくなれば、そのうち身長の差なんて気にならなくなるよ。……まあ、流石に俺の身長を追い抜くのは無理だろうけどね」
それは確かにそうかもしれない、とイビィは思った。仮に自分がどれだけ成長したとしても、ルスカーの顎のあたりまで背が伸びれば、きっとそれ以上大きくなるのは難しいだろう。
「それからさ、いつまで『ルスカー様』なんて他人行儀に呼ぶつもり? アイリンなんて、いつも普通に呼び捨てにしてるのに」
「う、うーん、それは……」
「ほら、練習。今ここで呼んでみてよ。『ルスカー』って」
ルスカーはいたずらっぽく顎に手を当て、期待に目を輝かせながらイビィの顔を覗き込んできた。
突然の要求にためらい、イビィは困惑して周囲をキョロキョロと見回した。ただでさえ、こうして二人で並んで歩いているだけで上級生たちの注目を集めてしまうのに、ここで名前を呼び捨てになんてしたら、ますます周囲の不敬の視線を集めてしまうのではないか。
しかし、このままずっと頑なに「ルスカー様」と呼び続けたら、彼はきっと、自分たちの間に見えない壁を感じて寂しく思うに違いない。
周囲の鋭い視線か、それとも、目の前で期待に胸を膨らませているルスカーの気持ちか。
しばらく脳内で激しい葛藤を繰り返した末、イビィは意を決して、小さな唇を開いた。
「ル……ルスカー?」
その一言が零れ落ちた瞬間、イビィを見つめていたルスカーの美しい瞳が、信じられないほど愛おしそうに、ふわりと優しく細められた。
「よくできました。じゃあ、もう一回」
「ル……ルスカー」
「まだちょっとぎこちないな。もう一度だけ呼んでみて?」
「……ルスカー」
最初は「様」を外して高貴な彼の名前を呼ぶことに強い抵抗を感じていたイビィだったが、何度も乞われるままに繰り返すうちに、いつの間にか驚くほど自然にその名を呼べるようになっていた。
イビィの声で自分の名前を何度も何度も呼ばせ、何十回目かでようやく満足したルスカーは、「よし、合格」と嬉しそうに頷いた。
「ところで、今日はアイリンの奴はどうしたんだ? あいつが君を一人で歩き回らせるなんて、珍しいこともあるもんだな」
「アイリンは、今日はどうしても一人で集中して勉強したいそうです」
試験期間が近づいてからというもの、アイリンは妙に一人で過ごす時間を選んでいた。教室が空いているから一緒に勉強しようとイビィが誘っても、彼女はどこか困ったような、焦るような表情を浮かべ、「ごめんね、今日は一人で部屋に籠って勉強したいの」と言って断ってきたのだ。
いつも影のように一緒にいてくれたアイリンが、最近自分を誘ってくれなくなったことに対して、イビィの胸には言葉にできない不安と寂しさが、澱のように溜まっていた。
「なるほどね……」
その言葉を聞き、ルスカーはすべてを察したように深く頷いた。
「だから、さっき僕のところに来たとき、今にも泣き出しそうな顔をしてたんだな」
アイリンのことを思い出して途端にしょんぼりと俯いてしまったイビィを見て、ルスカーは「今がチャンスだ」と言わんばかりに、悪戯っぽく両手で彼女の柔らかい両頬を包み込んだ。そして、痛くないように優しくむにゅっと引っ張る。
「ほら見ろ、やっぱり泣き虫な顔になってる」
「ふにゃぁ……っ(泣いてませんっ)」
イビィが頬を膨らませてじっと睨み返すと、ルスカーは声を立ててくすくすと言った。
「アイリンがいない今のうちに、僕の分の愛情をたっぷり補給しておかないとね」
そう言って、彼はスマートに右手を差し出してきた。
「よし、今日は俺がこれでもかってくらい美味いものをたくさん食べさせてあげる。食堂へ行こう!」
「うう……本当にお腹がいっぱいです……」
食堂からの帰り道、イビィは今日もぽっこりと丸く膨らんだ自分のお腹を、ぽんぽんと小さな手で叩いた。
ルスカーが言った「食べさせてあげる」という意味が、最初はよく分からなかったイビィだったが、いざ食堂に行ってみるとその言葉の意味を身を以て知ることになった。彼はいつもアイリンが座っていたイビィのすぐ隣の席を陣取ると、給仕さながらに、絶え間なく新鮮な果物や甘い焼き菓子を次から次へとイビィの小さな口元へ運び続けたのだ。
(私も、今日は夕方まで一人で必死に勉強を頑張らなくちゃ)
そう自分を奮い立たせないと、お腹が満たされすぎて今にもその場に座り込んで眠ってしまいそうだった。
幸いにも、イビィの科目の試験の多くは来週に集中していた。そのスケジュールを知ったとき、アイリンは「勉強する時間がたくさん確保できて羨ましいわ」と、本気で羨ましがっていたものだ。
(自室にずっと籠っているくらいなら、眠気覚ましも兼ねて、今のうちに食堂からサンドイッチか何かの軽食を部屋に持って帰ろうかな……)
そう考え、踵を返そうとしたその時、ふと前方にある大きな掲示板の前に、異様な数の学生たちが群がっているのが目に入った。
(一体、何かしら?)
試験の日程表ならずいぶん前に貼り出されたばかりだし、今さら確認しに来るような時期でもない。不審に思ったイビィがすり足で近づき、人だかりの間から覗き込んでみると、そこには新たな公式の通達が貼り出されていた。
【図書館 臨時早期開放のお知らせ】
記載されている内容は簡潔だった。
本来であれば夏休み前後に一般開放する予定だった学院の広大な「中央図書館」を、試験勉強を支援するため、特例として本日から臨時で利用できるようにするという案内だった。
「助かった! 正直、自分の部屋だとベッドがすぐ横にあるから、少し疲れると誘惑に負けてすぐ眠くなっちゃって困ってたんだよね」
「そうそう。教室も自習室として使えるけど、あそこはおしゃべりする声が響いて全然集中できなかったのよ!」
その場にいた学生たちは一様に救われたような歓声を上げ、我先にと参考書を抱えて上の階にある図書館へと向かっていった。
静かで清潔な環境で集中して勉強できるのはもちろん魅力的だったが、イビィ自身、英才学院が誇る伝説的な図書館が一体どんな場所なのか、純粋な知的好奇心からずっと気になっていた。
イビィは弾かれたように自分の部屋へと急いだ。
(まずは、この素敵なニュースをアイリンに知らせてあげなきゃ!)
期待に胸を膨らませて部屋の前にたどり着いたが、アイリンの部屋の扉には、無情にも「不在中」の木札が掛けられていた。どうやら、すでに別の場所へ一人で勉強しに行ってしまったらしい。
差し伸べた手が空を切り、少しがっかりして肩を落としたイビィだったが、すぐに自らの両頬をパチンと叩き、ぎゅっと小さな拳を握りしめた。
(だめ。あまりアイリンにばかり甘えて、頼りすぎちゃだめだわ……)
以前通っていた地方の上級学校では、一人で過ごすことなど当たり前の日常だった。一緒に進学した旧孤児院の友達はいなかったし、周囲の貴族の生徒たちも、孤児であるイビィを遠巻きにして誰も近づこうとはしなかったからだ。
だから、学校という場所では「一人ぼっちでいること」がごく普通の、当然のルールだと思っていたはずなのに――いつの間にか自分は、アイリンや周囲の優しさに慣れきってしまい、隣に誰もいないだけでこんなにも不安を感じるようになってしまっていた。
(アイリンだって、私がいつも金魚のフンみたいに隣にくっついていたら、本当は迷惑なんじゃないかな……?)
(だからこそ、今回は『一人で勉強したい』って、距離を置いたのかもしれない)
一度ネガティブな思考に囚われると、それは際限なく膨らんでいく。イビィはそれ以上アイリンを探すのをやめ、重い鞄を背負い直すと、一人で寂しく図書館へと足を向けた。
その頃、当のアイリンは、寮から遠く離れた敷地の端にある静かなカフェテリアの片隅にいた。
木製のテーブルの上には、これから彼女が受けるであろう難解な試験科目の教科書や魔導書が、文字通り山のように積み上げられている。
ガラス越しに彼女の姿を見つけた他の生徒たちは、「名門テリンス家の令嬢と話すチャンスだ」と一瞬色めき立って近づこうとした。しかし、鬼気迫るほどの凄まじい執念を漂わせ、血走った目で教科書を睨みつけながらペンを走らせる彼女の姿を間近で見た途端、誰もが恐怖に顔を引き攣らせて静かに引き返していった。
今のあの限界状態の彼女に不用意に話しかければ、まともな会話どころか、「私の邪魔をするな」という文字通り凍りつくような冷徹な視線で射殺されるのが目に見えていたからだ。
カリカリ、カリカリ――。
静まり返った空間に、ノートの上を狂ったように走るペンの硬い音だけが響く。
自分の人生の中で、これほどまでに必死に、狂気的な努力をして勉強したことがあっただろうかと、アイリンは自嘲気味に思った。それでも、彼女は一切の手を緩めなかった。彼女はその強い思いだけに、自分のすべてのプライドと未来を懸けていたのだ。
(何が何でも、完璧な最高得点を取らなきゃいけないの……!)
今年は開校初年度の第1学期という特殊な状況もあり、現在の特進クラスの編成は、生徒一人ひとりの正確な学習到達度を考慮せず、ある種無作為に割り振られた暫定的なものだった。
(だからこそ、今回の最初の中間試験が死ぬほど重要なのよ)
この試験結果という絶対的な数値を基にして、次の2学期の必修授業は、厳格な「成績順」でクラス分けが行われることが決定している。
(イビィと同じ最上位クラスに残るためには、あの子と同じトップレベルの成績を叩き出さなきゃいけない……でも、あの子の成績は化け物じみて高すぎるのよ……!!)
アイリン自身の成績も、決していわゆる「凡人」の部類ではない。むしろ周囲の貴族からは羨望の眼差しを向けられるほど優秀だった。名門テリンス家の大切な愛娘として、幼少期から超一流の家庭教師を何人もつけられ、その期待に応えるべく努力を重ねてきたのだから当然の結果でもある。
それでも、この英才学院においてアイリンの心は微塵も休まらなかった。
全国から選び抜かれたエリートが集うこの場所では、生徒たちは皆、常軌を逸した「絶対的な得意科目」を必ず一つは持っていた。普段は人をからかったり、ふざけてばかりいるあのルスカーでさえ――。
それどころか、全員が100点満点に近い高得点を叩き出せる得意分野を少なくとも一つ、優秀な人間なら複数も持っているのだ。そのため、すべての科目をそつなく平均以上にこなせる「器用貧乏」な自分は、この超天才集団の中にあっては、かえって中途半端で特徴のない凡庸な立場に追い詰められてしまう。
(このままじゃ……私だけが、イビィと別のクラスに落とされちゃう……!)
最上位クラスに入れないこと自体、テリンス家の名の元にプライドがズタズタに引き裂かれる屈辱だったが、それ以上に、あの愛らしいイビィと引き離され、別のクラスにされてしまうことのほうが、今の彼女にとっては到底耐え難い恐怖だった。
(でも……あのアルセル・ケイレンなら、何の心配もないでしょうね)
ギシッ、とペンを握る手に思わず力が入り、アイリンは悔しさに唇を強く噛み締めた。
思い浮かべたのは、冷徹な天才、アルセルの姿だった。最近になって、アルセルが以前にも増して、あからさまにイビィの傍をキープするようになっているからだ。
(最初は、皇帝陛下が推薦した平民の子供だから、形だけで少し仲良くする程度で終わると思っていたのに……!)
皇帝が直々に推薦した生徒である以上、表立って退学に追い込むわけにはいかない。平民や孤児出身の者がのうのうと紛れ込んでいれば、来年入学してくる新入生の中にも同じような底辺の人間が紛れ込み、学院の威厳が損なわれると周囲の貴族たちは陰口を叩いていた。「どうせ環境についていけず、すぐに自ら辞めていくだろう」と、誰もが静観していたはずだった。だから、学院の雰囲気が落ち着けば、自然と関わることもなくなっていくと思っていたのに……。
(日が経つごとに、あいつの方がどんどんあの子を異様なまでに気にかけるようになってるじゃない!)
雨が激しく降り続き、朝から凍えるように肌寒かったある日のこと。アルセルは食堂で自ら温かい最高級のお茶を用意すると、周囲の視線など一瞥もせずまっすぐにイビィの元へと歩み寄り、その温かいカップをそっと手渡したのだ。薄着のせいで寒さに小さく震えていたイビィは、その大きなカップを小さな両手で包み込み、嬉しそうに体を温めていた。
それだけではない。あの傲慢なアルセルが、イビィが投げかける少し的外れで面倒な質問に対しても、嫌な顔一つせず、一つひとつ懇切丁寧に噛み砕いて答えていたのだ。挙句の果てには、自ら『ほかに、僕に聞きたいことはないかい?』とまで優しく問いかける始末だった。
(私の知っているアルセル・ケイレンは、あんな人間じゃなかったはずよ……!)
将来のテリンス家の有力な結婚相手になる可能性があるとして、かつて姉だけでなく両親までもが、彼の素行や性格を徹底的に調べさせたことがあった。その際、秘密裏に受け取った極秘の報告書には、アルセルは『極めて計算高く、冷徹無比な合理主義者である』と、不気味なほど冷たく記されていたのだ。
他者への感情が完全に欠落した、血の通わない人形のような人物――だからこそ、次期皇帝の養子として選ばれる可能性が最も高いのだ、と。
確かにこれまではその評判通りの氷の男に見えたし、実際に何度か見かけた際も、近づき難い冷酷なオーラを放っていた。それなのに、どうしてあの孤児のイビィにだけは、あんなにも底無しに甘く、優しい眼差しを向けるのだろうか。
おかしいのはアルセルだけではない。あのルスカーだって同じだ。イビィに対して異常なほど親切で、二人が並んでいる姿を見ていると、まるで「ずっと何年も前から、この学院にイビィが来るのを待ち焦がれていた」かのような、奇妙な既視感さえ覚えるのだ。
(まぁ、私が口を挟むようなことじゃないけれど……)
当事者である姉も何も言ってこないし、本当に世の中、何が起こるか分かったものではない。
「ダメダメ! 余計な雑念を考えてる暇なんてないわ! 勉強に集中、集中!」
アルセルやルスカーの不可解な行動に思考を奪われかけていたアイリンは、自分の頭をぽんぽんと両手で叩いて無理やり気持ちを切り替えると、再びノートの数式に視線を落とした。
次の学期、自分ひとりだけが別のクラスに引き離されるわけにはいかない。かといって、ルスカーと同じようなギリギリの成績で、あいつと同じクラスになるのも、それはそれで絶対に許せなかった。
あのルスカー・ラグセルブという男は、本当に――
「あの男は、本当に人の心をかき乱すのが天才的に得意なんだから……! しかも最近は、私がいつも独占して触っていたイビィの柔らかいお餅みたいな頬まで、隙を突いては狙い始めてるし……っ!」
(イビィの可愛いほっぺは、この私のものなんだからね……!!)
アイリンは執念で歯を食いしばり、再び凄まじい勢いでペンを走らせ、勉強の世界へと没頭していった。
――その静寂が、息を切らせた一人の生徒が「大変だ、みんな聞いてくれ!」とカフェテリアに怒鳴り込んできあげるまでは。