こんにちは、ピッコです。
「もう泣いてもいいですか?」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
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又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
38話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 皇帝の完璧な夏休み計画
同じ頃――皇宮の執務室で、新皇帝クライスは頬杖をつき、深い思索の海に沈んでいた。
侍従長が静かに部屋へ入ってきても、彼は一度も顔を上げようとはしなかった。机の上には、まるで山のように書類が積まれており、その一枚一枚を鋭い眼差しで見つめ続けている。
「陛下、少しお休みになられてはいかがでしょうか」
見かねた侍従長がそう勧めると、クライスは短く首を横に振った。
「いや、時間がないんだ」
彼の言葉には、本物の焦燥感が滲んでいた。
英才院の夏休みが始まるまで、残された時間はあと二週間ほどしかない。試験が終わった今の学院は、希望者への補習が行われる程度で、実質的にはすでに休暇同然の空気が流れているはずだった。遠方の生徒の中には、前もって課題を受け取り、早々に帰郷する者さえいる。
(イビィは今回の休暇、学院に残ると言っていたな……)
一週間前、試験が終わった直後にクライスはイビィをこの部屋へ呼び出していた。あの『イズリエラ事件』以来、まともに顔を合わせるのはそれが初めてだったため、イビィはどこか緊張した面持ちで部屋へ入ってきた。
しかし、クライスは彼女の姿を見るなり勢いよく立ち上がり、長い足で一気に歩み寄った。幸いなことに、襲撃の際に彼女の頬に残っていた痛々しい指の跡はすっかり消え去り、表情も以前のような輝きを取り戻している。皇帝である自分に対してまだ遠慮は残っているものの、出会った頃に比べればずいぶん肩の力を抜けているようで、クライスはそれだけで胸をなでおろしたものだ。
その際、クライスはあらかじめ用意させておいた山のような軽食と色鮮やかな菓子を運ばせた。
「まるで山みたいだ……」
テーブルを埋め尽くす馳走を前に、イビィが目をきらきらと輝かせる姿を見るのは、クライスにとって至上の悦びだった。
美味しそうに次から次へと頬張るイビィを微笑ましく眺めながら、クライスはそれとなく尋ねた。
「夏休みはグビン院へ帰るのか?」
「いいえ……今回はこちらに残るつもりです。勉強しなければならないこともたくさんありますし、せっかくなので首都も見て回りたくて」
イビィが首都に残る。それを聞いた瞬間、クライスの心は決まった。
(あの子を狭い英才院に閉じ込めておくわけにはいかない。皇帝である私が、楽しい思い出を作れる場所へ連れて行ってやらなければ)
イビィが部屋を退出するや否や、クライスは侍従長へ鋭い命令を下していた。
「首都近郊にある皇室所有の別荘をすべてリストアップしろ。一つも漏らすな」
――そうして集められた膨大な報告書が、今、彼の机を占領している書類の正体だった。
クライスは一枚一枚の資料に目を通しながら、イビィと共に過ごすのに最もふさわしい聖域を選び抜いていた。
(まずは馬車で行きやすい場所がいいな)
どの別荘も首都から一日圏内ではあったが、立地はさまざまだ。中には険しい山奥に佇む広大な別荘もあったが、道幅が狭く揺れが激しいルートは、小さなイビィが馬車酔いで苦しむかもしれない。
(それに、ああいう場所は足場が悪くて危険だ)
万が一にも、あの子が遊び疲れて高い崖から足を踏み外したら――想像しただけでクライスの背筋に冷たいものが走った。彼は即座に、危険要素のある別荘を候補から外した。
次に確認すべきは、建物の保存状態だった。
未だ戦争の爪痕が残る皇宮の本宮でさえ予算が逼迫しているのだ。普段使われない別荘の修繕など、後回しにされているのが現実だった。しかし、抜け目のない一部の領主たちは、新皇帝への忠誠を示すため、あるいは先代皇帝との縁を誇示するために、自費で完璧な修繕を施していた。
「報告書の上では問題なし, か。だが、やはりこの目で確かめたほうが確実だな」
そう呟きながら指を滑らせていたクライスの手が、ある一か所の別荘の資料でピタリと止まった。
「ここは……」
そこは、幼い頃のクライスが最も好んで訪れていた場所だった。
英才院に通っていた頃の彼は、ドロドロとした権力闘争の渦巻く本宮へ戻ることを病的に嫌っていた。
後継者として自分を指名しながらも、実の息子としての愛を一度も注いでくれなかった父親。自分を激しく妬み、隙あらば蹴落とそうとしてくる異母兄弟たち。そして、甘い汁を吸おうと群がる側近たち。皇宮という場所は、幼いクライスにとって息が詰まるほど煩わしく、苛立たしい檻でしかなかった。
だからこそ彼は、学院の寮で暮らし、休暇になると決まって皇室の別荘へと逃げ込んでいたのだ。
その数ある避暑地の中でも、彼がとりわけ愛したのが、このゆるやかな丘陵地帯に建つ別荘だった。
なだらかな緑の丘には大小さまざまな美しい湖が点在し、長い歴史を刻んだ古い村々や、羊の群れがのんびりと駆け回る草原が広がっている。湖は底が見えるほど澄んでいて浅く、小さな子どもでも安心して水遊びができた。夕暮れ時になると、美しい水鳥たちが一斉に茜色の空へ羽ばたく幻想的な光景が見られる場所だ。
(いつか、リリアンを連れて行こうと思っていた場所だ……)
血生臭い戦場で泥にまみれて夜を明かしながら、彼はいつも戦後の穏やかな未来を夢見ていた。リリアンは皇后として皇宮に縛られることになるだろうが、彼女の真っ直ぐな気質では、きっとあの冷徹な宮殿を好きにはなれない。だからこそ、いつか彼女をこの美しい別荘へ連れてきてあげたい――そう願っていたのだ。そこは、リリアンの故郷によく似た、美しく清らかな自然に囲まれた静寂の地だった。
普段は冷酷な皇帝として身を削っていても、時折訪れるその夢のような休息の中で、愛する妻と、いつか生まれてくる子どもと一緒に過ごせたなら、自分の人生も悪くはないと思えた。
クライスは愛おしむように資料をめくった。幸いなことに、その別荘は戦争の被害を免れ、調度品も完璧な状態で保存されている。幼少期の自分が長く滞在していた場所だけあって、子どもが退屈しないような仕掛けも多かった。
さらに、当時のクライスが「静かに勉強したい」と望んだため、父親が小さな図書館にも引けを取らないほどの立派な書斎まで造らせていたのだ。別荘の近くには、散策にちょうどいい活気のある大きな町もある。
(これなら、イビィも絶対に気に入るはずだ)
季節祭のとき、目を丸くして露店を見つめていたイビィの愛らしい姿が脳裏に浮かぶ。週末に開かれる大きな市場へ連れて行ってやれば、あの子はきっと弾けるような笑顔を見せてくれるだろう。
(まずは私のスケジュールを調整しなければな)
クライスの頭の中では、すでにイビィとの別荘行きは決定事項となっていた。ならば、自分も当然その全日程に同行すべきだ。
幼い頃、あの場所でどんな風に過ごしていたかを思い出そうとした、その時――。
小気味よいノックの音が響き、侍従長が姿を現した。
「陛下」
「今は忙しい」
クライスは顔も上げずに遮った。些細な用件なら後回しにしろ、という明確な拒絶だった。
「イビィ・エルデン様が、陛下への拝謁を願っております」
「何だと?」
イビィの名前が出た瞬間、クライスは椅子を蹴立てるようにして立ち上がった。机の書類など目に入らなくなった彼は、侍従長の横をすり抜け、大股で廊下へと飛び出した。しかし、左右を見回してもそこには誰もいない。
「イビィはどこだ?」
「……お子様はまだ英才院にいらっしゃいます。本日、お会いしていただけるかどうか、事前に確認の連絡を寄こされたのです」
「どういうことだ? あの子には、私に会いたくなったらいつでも直接訪ねて来いと言ってあったはずだが」
「陛下が直接お会いになってその言葉を伝えておられなかったため、遠慮されたのでしょう」
「待て……会えなかったとはどういう意味だ?」
不審に思ったクライスが振り返ると、侍従長は少しためらった後、静かに口を開いた。
「実は、イビィ様は先週、この宮殿へ二度もお越しになっていたのです」
「な……何だと……?」
クライスは絶句した。
先週、彼は今か今かとイビィの訪問を待っていたのだ。襲撃の怪我の具合も心配だったし、セラフィナからの業務報告ではなく、本人の口から「もう大丈夫です」という言葉が聞きたかった。試験の手応えだって気になっていた。それなのに何の音沙汰もないため、内心では酷く心配し、拒絶されたような寂しささえ覚えていたというのに。
実際には、あの子は二度も自分を訪ねてきてくれていたのだ。
「それなら、なぜその時に私に会わせなかった!」
「二度とも、シレンに関する緊急会議が長引いておりました。イビィ様には控室でお待ちいただいていたのですが……最終的にはそのままお帰りになられました」
「会議……ああ……」
クライスは片手で額を押さえた。
国境地帯で取り逃した大逆罪人・シレンの動向が掴めず、急遽招集されたあの緊迫した会議か。内務大臣、外務大臣、騎士団長ロメルク、国防大臣までが集まり、夜を徹して怒号が飛び交っていたあの時間。シレンの件は帝国の根幹に関わる最優先事項だったため、誰も席を立つことができなかった。
「シレンの件だったか……。だが、それでも私に知らせてくれれば、少し席を外してあの子に会うくらいはできたはずだ」
クライスは侍従長を責めるような視線を向けた。どれほど国家の重大事とはいえ、煮詰まった議論の合間に、愛らしい子どもの顔を見て話を聞く時間くらい作れたはずだ。それに、シレンの問題はいつもクライスの心を暗く蝕んでいた。
(そういえばあの子は、私の皇族の紋章に興味を示していたな……)
なぜ今そのことを思い出したのかは分からなかったが、イビィのあの無垢な眼差しが何度も頭をよぎる。
「私も陛下にお伝えしようとしたのですが、イビィ様がそれを頑なに止められたのです。『私はここで待っていますから』と。万が一にも、陛下の大切なお仕事の邪魔になっては申し訳ないと、本当に健気に気遣っておられました。そうして、外のベンチに三時間ほど静かに座り、お持ちになった本を解きながら待っておられたのです」
侍従長の話を聞きながら、クライスはふと違和感を覚えた。彼がいつの間にか彼女を「イビィ・エルデン様」ではなく、親しみを込めて「イビィ様」と呼んでいることに。自分の知らない間に、二人の距離はずいぶん縮まっていたらしい。
(まあ、あの子は誰からも愛される子だからな……)
孤児院育ちというだけで偏見を持つような狭量な人間でなければ、あんなによく笑い、素立派で一生懸命な子どもを嫌うはずがない。そう誇らしく思いながらも、クライスは侍従長の言葉の中に引っかかる一言を見つけた。
「本を解いていた、だと?」
「はい。退屈されないようにと私が上級数学の専門書を二冊ほどお持ちしたのですが、それはもう楽しそうに没頭されておりましたよ」
「……」
クライスは完全に言葉を失った。
皇帝である自分を待つ間、あの子は数学の難問を解いていたというのか? しかも楽しそうに、三時間も?
「その後、寄宿舎の門限が近づいたため『もう戻ります』と。その際、自分がここへ来ていたことは、どうか陛下には秘密にしてほしいと強く念を押されまして」
「君……私への約束をあっさりと破ったな?」
「仕方がありません。私の忠誠の第一対象は、あくまで陛下でございますから」
飄々と言ってのける侍従長の口元には、柔らかな笑みが浮かんでいた。彼もまた、あの小さくて健気な少女にすっかり心を奪われているようだった。
「それで二度目の際、私から提案させていただいたのです。事前に職員を通してご連絡いただければ、陛下がお会いできる時間を調整してお伝えします、と。そうすれば、イビィ様が冷たい廊下で何時間もお待ちになることもなくなりますので……」
「よくやった。流石に子どもを三時間も待たせるのは酷だ。すぐに『今すぐ来い』と返事を送れ」
「すでに手配しております」
侍従長が礼をして部屋を出ていくと、クライスはこれまでにない素早さで机の上の書類を片付け、衣服を整えた。
(きっと喜んでくれるはずだ)
季節祭のとき、街を歩くこと自体が初めてだと言っていたあの子だ。孤児院にいた頃は、敷地の外へ出ることさえ許されなかったという。
(最高の夏休みにしてやろう)
定例の会議はいくつかあるが、すべて午前中に詰め込めば数日間の完全な休暇は作れる。クライスの胸は、まだ見ぬ休暇の計画で高鳴っていた。
しばらくすると、廊下からトントンと軽い足音が聞こえ、侍従長に案内されたイビィが部屋へと入ってきた。
「来たか」
クライスは抑えきれない笑みを浮かべて歩み寄り、両腕を大きく広げた。イビィは一瞬、皇帝のその破格の出迎えに戸惑うように足を止めたが、すぐに花が咲くような笑みを浮かべると、小さな体をクライスの広い胸へと飛び込ませてきた。
ぎゅっと抱きしめると、子ども特有の柔らかく甘い香りが鼻腔をくすぐり、クライスの凍てついた心がじんわりと溶けていく。
その時、胸の中からイビィが小さな声で言った。
「陛下、これに署名をお願いできますか?」
「署名?」
宰相でもないイビィが、一体何の書類を持ってきたというのか。驚いたクライスが彼女をそっと床に下ろすと、イビィは小さな鞄の中をごそごそと探り始めた。差し出された紙片を見て、クライスは「ああ」と得心がいった。
「成績表か」
「はい。英才院の規則で、夏休みが明けて戻ってくるまでに、保護者か後見人の署名をもらって提出しなければならないんです」
確かに、そんな規則があった。かつてのクライスの成績は直接皇帝へと報告されていたため、自分で受け取りに行く必要はなかったが、当時の友人だったケイルレン公爵やラグセル侯爵は、成績表が配られるたびに死にそうな顔をしていたものだ。
『今回は学年三位だよ。また親父に大目玉を食らう……』
『うわ、お前はまだマシだろ! 俺なんて学年四〇五位だぞ!?』
今思えば、彼らのその一喜一憂する性格は、現在のその子どもたち(アルセルやルスカー)にも見事に遺伝しているようだった。
イビィは成績表の一番下にある、真っ白な保護者署名欄をじっと見つめた。
「最初は、グビン院の院長先生に郵送して署名してもらおうかと思ったんです。でも、往復の途中で大切な手紙がなくなってしまうかもしれませんし……今は私の公式な後見人が陛下になってくださったので、陛下にお願いするのが正しいのかなって。それから……あの……」
イビィはそこで言葉を切り、ちらりと後ろに控える侍従長の様子をうかがった。どうやら、大人の前では少し話しづらい秘密があるらしい。
その場の空気を一瞬で察した侍従長は、クライスが目配せするよりも早く、「温かいお茶とお菓子をご用意してまいります」と言い残し、流れるような動作で部屋を退出していった。
パタンと扉が閉まり、二人きりになった途端、イビィは途端に元気をなくし、借りてきた猫のようにしょんぼりとうつむいてしまった。
「どうした? 何か問題でもあったのか?」
彼女がここまであからさまに落ち込んでいる姿を見るのは初めてだったため、クライスは胸を突かれて尋ねた。
「……成績が、思うように振るわなかったのか?」
実際、地方の学校で神童と持て囃されていた生徒でも、帝国のエリートが集まる英才院の壁にぶつかり、最初の試験でプライドを粉々に砕かれるケースは珍しくない。そのため、多くの貴族の子女は入学前から首都で一流の家庭教師を雇い、万全の対策をして臨むのだ。
しかし、イビィにはそんな準備期間など一瞬もなかった。本格的な教育を受けたのは、この一学期が生まれて初めてなのだ。
点数が悪くて傷ついているのだろう。そう確信したクライスが、どうやってこの小さな心を慰めようかと必死に言葉を探していると、イビィは消え入りそうな蚊の鳴くような声で呟いた。
「……学年、二位でした」
「何だって? ……二位?」
クライスは思わず椅子から立ち上がり、裏返った声を上げてしまった。
二位だと?
ろくな教科書も参考書もない地方の孤児院で、肩身の狭い思いをしながら育った子が。いくら一学期の試験が基礎的な内容中心だとはいえ、英才院の苛烈な競争の中で「学年二位」など、まさに天変地異レベルの驚異的なリザルトだった。
(どうりで、セラフィナが定期報告のたびに、誇らしげに口元を緩めていたわけだ……)
実のところ、クライスにとってイビィの成績が一位だろうが最下位だろうが、そんなことはどうでもよかった。
「英才院に入学できただけでも、すでに十分すぎるほど凄いことじゃないか」
他の誰よりも圧倒的に不利な環境から、自分の才能一つでここまで上り詰めてみせたのだ。それだけで、クライスは一生この子を褒めちぎる準備ができていた。彼が成績を気に病んでいたのは、ただ、イビィが初めての挫折で傷ついているのではないかと心配だったからに過ぎない。
まだ一番幼い年齢で、遠い地方からたった一人で首都へやってきた身だ。他の生徒たちは、実家が遠くても首都に高級マンションを借りたり、母親がつきっきりでサポートしたりしている。だが、イビィには頼れる家族の迎えもなければ、面会に来てくれる者もいない。入学当初は「グビン院の孤児」というレッテルを貼られ、冷ややかな視線の中で孤立していたはずだ。
ようやく心許せる友人ができたと思えば、今度はあの『イズリエラ事件』。まともに机に向かえる精神状態だったはずがない。試験中も、恐怖のフラッシュバックに苦しんでいたかもしれない――。
だからこそクライスは、セラフィナが報告に来るたび、それとなくイビィの様子を探っていたのだ。もし点数が悪くて落ち込んでいるなら、とびきりの贈り物や気分転換の旅を用意して励まそうと考えていた。しかし、セラフィナは『規則ですので、学生本人に通知されるまでは開示できません。気になるようでしたら、直接イビィにお聞きください』と、鉄壁の態度を崩さなかった。
『ですが、保護者として登録されている孤児院の院長へは、事前に通知が送られるはずだろう』とクライスが食い下がると、彼女はフッと笑い、
『陛下がそこまで過保護に先回りされては、かえってイビィの負担になるのではありませんか?』
と返してきたのだった。
その言葉があまりにも正論だったため静観していたのだが、まさか本人がこうして直接署名を求めて持ってくるとは。クライスは、学年順位の凄まじさよりも、イビィが自分を本当の「保護者」として頼ってくれたというその事実が、何よりも甘美で嬉しかった。
ただ一つ解せないのは、やはり当の本人が未だに地球の裏側まで沈み込みそうなほど元気がないことだった。
「イビィ。学年二位なんて、帝国の誰もが腰を抜かして祝福するような偉大な成績だ。それなのに、どうしてそんなに悲しそうな顔をしているんだ? もしかして……一位になれなかったのが悔しいのか?」
心配そうに覗き込んでくるクライスの碧眼を見て、イビィはおずおずと指先を弄びながら口を開いた。
「違うんです……。実は、外国語の試験で……一問だけ、間違えてしまって……」
「……一問、だけ?」
驚愕のあまり、今度こそクライスの声が高く裏返った。
実はクライスは、試験終了直後にセラフィナへ命じて外国語の試験問題を極秘に取り寄せさせていた。自分が教えた内容が正しく出題されているか、難易度は適切かを確認するためだ。
問題のレベルは、基礎とはいえ英才院基準の極めて骨のある内容だった。自分が教えた構文もいくつか含まれていたため、良い点数が取れていればいいと願ってはいたが――。
外国語は選択科目だ。つまり、幼少期から英才教育を受け、その言語に絶対の自信を持つ貴族の秀才たちだけがこぞって受験する、最も平均点の高い激戦区のはずだった。
そんな魔境の中で、生まれて初めてその言語に触れたばかりのイビィが、たった一問のミスだけで切り抜けた? それはもはや「驚異」を通り越して「怪物の領域」だった。
クライスが言葉を失って固まっていると、イビィはさらに深々と頭を垂れた。
「ごめんなさい……。陛下がそんなにお忙しい中、私のために時間を割いてたくさん教えてくださったのに……」
「いや、待て。謝るって……なぜ君が謝るんだ?」
「せっかく教えていただいた大切なところを、私の不注意で間違えてしまったから……」
クライスは思わず両手で顔を覆った。
まさか、そんな愛おしくも健気な理由で、この子は世界が終わったかのように肩を落としていたのか。
「イビィ。君は今回、この外国語を初めて学んだんだぞ? それなのに、あの英才院の試験でたった一問しか間違えなかった。それはね……謝るどころか、帝国全土に触れ回って自慢すべき、とんでもない快挙んだ」
「でも……陛下はとってもお忙しいのに……」
教員(シアン教授)だった頃は分からなかったのだろう。だが、皇帝クライスとして本宮で会うようになってから、彼女はようやくこの男が背負っている職務の凄まじさを理解したようだった。自分のために時間を使わせたことが、申し訳なくて仕方がなかったのだ。
「そんなことは一ミリも気にしなくていい。私が好きでやっていることだ。どれほど政務が山積していようと、私の可愛い教え子一人に勉強を教える時間くらい、意地でも作り出してみせる」
クライスが声音を限りなく優しくして語りかけると、イビィは張り詰めていた糸が切れたように、ようやく少しずつ顔を上げた。
「それにしても、私の最愛の弟子が英才院で総合二位とはな。これは次の月曜の御前会議で、大臣どもの前で大いに自慢してやらねばならん」
「自慢、ですか? 陛下が……私を?」
「ああ。知っているか? 皇宮の大臣たちの多くは、英才院の優秀な生徒の後見人ぶって、会議のたびに我が子の自慢大会を開くんだ。これで私も、奴らの鼻を明かしてやれる」
自分が皇帝の「誇り」であり「自慢」であるという事実が、イビィにはひどく新鮮で、不思議だった。
けれど、その言葉が何よりも救いになったのだろう。さっきまで大罪人のようにしょんぼりしていた少女は、いつの間にか顔を赤らめ、嬉しそうにはにかみながら笑っていた。
その絶妙なタイミングで、侍従長が温かい湯気を立てる紅茶と、目も眩むようなお菓子のワゴンを押して戻ってきた。
「わあ……!」
ワゴンを見るなり、イビィの口から文字通りの歓声が上がった。
三段に分かれたワゴンの上から下まで、見たこともないような美しい焼き菓子や、宝石のように艶やかなタルトが所狭しと並べられていたからだ。ガラスのカバー越しに見える色彩の洪水は、帝国中の一流菓子職人を全員拉致して作らせたと言われても信じてしまうほどの豪華さだった。
「おやつの時間でございます。さあ、たくさん召し上がってください」
侍従長は、子ども特有の敏感な舌でも美味しく飲めるよう、渋みを完全に抜いた冷たくて甘い果実茶を銀のカップに注いだ。
イビィは目を輝かせながら、さっそくフォークを手に取りお菓子を食べ始める。その微笑ましい様子を見ながら、クライスは早くも目の前にいる侍従長を相手に、イビィの自慢話を始めていた。
「聞いたか、侍従長。イビィが英才院で総合二位だ。しかも、今回初めて学んだはずの外国語で、たったの一問しか間違えなかったそうだぞ」
クライスは、わざと「私が教えたからな」と言外に誇示するように、ふんぞり返って力を込めた。
「おお, なんということでしょう! イビィ様はいつも影で血の滲むような努力をされていましたから、その結晶でございますね。本当に素晴らしい」
侍従長もまた、心からの感嘆を瞳に宿し、我がことのように嬉しそうにイビィを見つめた。
イビィは耳まで真っ赤にして照れくさそうに笑いながらも、内側から湧き上がる嬉しさを隠せなかった。クライスがこんなにも喜び、侍従長までが目を丸くして褒めてくれる。その光景を見ているだけで、自分の胸の中まで極上の甘さで満たされていくようだった。
昔、地方の上級学校に合格した時も、孤児院の院長先生が自分のことのように大喜びしてくれた。あの時の嬉しさは今でも覚えているが、誰かが自分の存在を心から喜び、誇ってくれる姿を見るのが、イビィは何よりもしあわせだった。ここにも、自分の努力を一緒に喜んでくれる温かい人がいる。
しばらく侍従長へのドヤ顔自慢をひと通り終えたクライスは、満足げにイビィの隣のソファへと腰を下ろした。
イビィは初めて見る繊細なデザートを、フォークの先で恐る恐る小さくかじり取った。口に入れた瞬間、そのあまりの美味しさにぱっと目を丸くし、次からは大きな口を開けて上品かつ豪快に飲み込んでいく。最初は遠慮がちだった手の伸ばし方も、今ではすっかりリラックスしたおねだりの動きに変わっていた。
クライスは頬杖をつき、父親のような、あるいは年の離れた兄のような満足げな笑みを浮かべながら、その食べっぷりを眺めていた。ルスカーやアルセルが引くほど大食漢であることには日々感心していたが、イビィも負けず劣らずよく食べる。というよりも、彼女の食べ方は周囲を信じられないほど幸せにする魔力があった。
小さなリスが木の実を両手で持って一生懸命に頬張っているかのようなその姿は、見ているだけで胸が温かくなり、「もっと美味いものを与えよ」という皇帝としての本能を激しく刺激する。
(なるほど……だからアイリーン・テレンスは、毎日学院の食堂であの子の口に食べ物を運び続けていたわけだ)
以前イビィが、『アイリーン様がいつも雛鳥みたいに食べ物を食べさせてくれるので、少し恥ずかしいんです』とこぼしていた。その時はなぜそんな奇妙なことをするのか疑問だったが、今ならアイリーンの狂おしいほどの気持ちが痛いほど理解できた。
クライスは侍従長が運んできたプレートの中から、世界各地から取り寄せた最高級の希少な果物や焼き菓子を少しずつ取り分け, イビィの前に並べた。その代わり、わざとイビィの皿にあった分の半分を、自分のフォークでひょいとつまんで口に運ぶ。
自分の取り分が半分に減らされていくというのに、そのたびにイビィの表情はむしろパッと明るくなった。
食べ物を残すのは絶対に嫌だけれど、目の前にある美味しそうなものは全種類食べてみたい。でも、目の前の大食漢の皇帝が半分ずつ片付けてくれれば、お腹の容量を残したまま、より多くの種類の味を堪能できるではないか――。
そんな計算が手に取るように分かるイビィの素直な表情を見て、クライスは声を立てて笑った。
帝国の絶対権力者である皇帝が、子どもの食べ残しを嬉々として処理しているなどと大臣たちに知られたら、前代未聞のスキャンダルとして歴史書に載るだろう。だが、この部屋の秘密を守る優秀な侍従長しかいないのだから、知ったことではなかった。
クライスはイビィから預かった成績表を引き寄せると、備え付けの万年筆で流麗な署名を走らせた。それだけではどうにも物足りず、普段は国家の最高機密文書にしか捺されない、純金製の「皇帝の御璽(ギジ)」を、成績表の最下部にドカンと真っ赤に押し当てた。
何の変哲もないただの学生の成績表が、一瞬にして『国家最高重要文化財』のような威容を放つ書類に変貌したのを確認し、クライスは満足げに印を収めた。
そして、満を持して、今日一番楽しみにしていた本題を口にした。
「さて、イビィ。もうすぐ待ちに待った夏休みだが、もしかして私の別荘の予定は――」
「そうだ! そのこともお話ししようと思っていたんです!」
「夏休み」という単語がクライスの口から飛び出した瞬間、イビィはフォークをカタンと置き、弾けるような声を上げて身を乗り出してきた。
「私、夏休みの間ずっと、アイリーンさんとアルセルさん、それにルスカーさんのお家に遊びに行くことになったんです!」
イビィの嬉しそうな声が、広く静かな執務室に響き渡った。
その瞬間、クライスの完璧な営業用の笑顔が、彫刻のようにピキリと固まった。
開け放たれた窓から吹き込んできた生ぬるい夏の風が、彼の机の上にこれでもかと積み上げられていた、大量の『皇室特選別荘リスト』の書類を、虚しくパラパラと弄んでいった。
物語の要点は以下の3点です。
-
クライスの期待と秘密の別荘計画
イビィが夏休みに首都へ残ると知った皇帝クライスは、彼女に楽しい思い出を作ってあげようと、自ら過去に愛した安全で美しい皇室の別荘を選び抜き、全日程同行する気満々で予定を空けて待っていました。
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イビィの驚異的な成績と健気な反省
イビィは英才院で「学年2位」という天変地異レベルの快挙を成し遂げ、クライスに署名を求めました。しかし本人は、クライスが忙しい中で教えてくれた外国語の試験で一問だけ間違えてしまったことを、大罪のように深く落ち込んで申し訳ながっていました。
-
すれ違う思惑と計画の崩壊
クライスはイビィの頑張りを我がことのように誇り、侍従長と一緒に大喜びでお菓子を振る舞いながら「夏休みの別荘計画」を切り出そうとしました。しかしその瞬間、イビィから「夏休みはアルセル、ルスカー、アイリーンの家をずっと回る」と笑顔で告げられ、クライスの完璧な笑顔は一瞬で固まりました。