こんにちは、ピッコです。
「抱かれるたびに泣くくせに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
34話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 冷徹な大公が膝を折る日
「……クレセンティア」
エーリッヒの唇から漏れたのは、熱を帯びた、酷く低い声だった。
四年の歳月を越えて、森の静寂に溶けていくその響きに、クレセンティアは胸の奥を激しく揺さぶられ、無意識のうちに両手をきつく握り締めた。
熱いものが、一気に目頭へと込み上げてくる。
エーリッヒ。
彼がどうしているのか、この四年間、気にかけていなかったと言えば嘘になる。
元気に過ごしているのだろうか。冷酷なあの人は、今でも自分のことを少しは思い出してくれるのだろうか――。
そんな感傷が、不意に脳裏をよぎる。だが、まさかこんな形で再会するとは夢にも思わなかった。それも、帝国の王都から遥か遠く離れた、このレギナの辺境の地で。
「え……リヒ……?」
戸惑いと動揺のままに彼を見つめる。
ほんの数年。されど、目の前に立つ彼は、記憶の中の姿から大きく変貌を遂げていた。
かつてのような圧倒的な力強さよりも、研ぎ澄まされた刃のような鋭さを感じさせる風貌。身体つきは相変わらず強靭だが、余分な肉が削ぎ落とされ、以前よりもずっと引き締まった印象を与える。
そして何より――彼の端正な顔からは、生気が完全に失われていた。
その代わりに、かつて見たことのないほどの、痛々しいまでの「切実さ」がその黄金色の瞳の奥に宿っている。
「ティア……」
さらに紡がれたのは、かつて寝室でだけ囁かれた、懐かしい愛称(アペラシオン)だった。
その一言が鼓膜を震わせた瞬間、クレセンティアは膝の力が抜けそうになり、かろうじて踏みとどまった。
ただ名前を呼ばれただけなのに、胸が苦しくて平静を保てない。他の誰に呼ばれるのとも違う、魂に直接響くような感覚。
必死に足元に力を込め、倒れそうになる身体を支える。
あまりにも突然の再会。そして、彼の信じられない態度。
これほどまでに切実な想いを、剥き出しの感情を込めて彼が自分の名を呼ぶことなど、これまでの人生で、ただの一度もなかった。
……もし、かつて冷え切っていたあの館で、彼がこのように愛し合う恋人同士のように、自分を求めてくれていたなら。
「あなたが……ど、どうしてここに……」
「……すまない」
不意にエーリッヒの口からこぼれ落ちた、掠れた謝罪。
クレセンティアは大きく目を見開いた。
あの傲慢で冷酷なエーリッヒ・フォン・ペテールが、他人に頭を下げるなど、ましてや心からの謝罪を口にするなど、天変地異が起きてもあり得ないことだった。
激しく鼓動を打つ胸に、次第に冷ややかな不安が混じり始める。
(何を企んでいるの……?)
クレセンティアは、エーリッヒという男の冷徹さを誰よりも知っていた。
彼の行動には、常に冷徹な計算と目的が存在する。かつてレギナの王宮へ彼が乗り込んできた時も、すべては結婚という契約を得るための布石だった。
ならば今回、彼は何を得るためにこんな泥臭い森の奥までやってきたのか。
彼がここで手に入れられるものなど――。
「ママ!」
足元から響いた幼い声に、クレセンティアはハッと我に返った。
小川の浅瀬に座り込んでいる我が子、ラファエル。
その濡れた頭髪から黒い染料が流れ落ち、隠すべき「白銀の髪」が白日の下に晒されていることに気づき、彼女の顔から一瞬にして血の気が引いた。
「ラフィ……!」
エーリッヒの突然の出現に心を奪われ、最も守るべき息子の髪を隠すことすら忘れていた。
心臓が警鐘を鳴らすようにドクドクと激しく脈打つ。
彼は見たのだろうか。ラファエルのあの美しい銀髪を。そして、自分にそっくりな金盞花の瞳を。
クレセンティアはラファエルのもとへ滑り込むように駆け寄ると、震える手で自身の頭に巻いていたスカーフを剥ぎ取り、乱暴に子どもの頭へと被せた。
何があっても。この子だけは、この冷酷な男に奪わせるわけにはいかない。
「おいで、ラフィ」
震える腕でラファエルを抱き上げる。
背後から、エーリッヒが壊れ物を凝視するかのような、切なげで痛切な眼差しを向けているのが分かった。それが、どうしても耐えられなかった。
一刻も早く、この場から逃げ出さなければ。
「行きましょう。早く!」
ラファエルをきつく抱きかかえたまま、クレセンティアはエーリッヒの横をすり抜け、駆け足で通り過ぎようとした。
――そのはずだった。
「ティア、行かないでくれ」
引き留める男の声が、背中に突き刺さる。
「……」
クレセンティアは振り返らなかった。まるで彼の存在そのものが幻であるかのように、前だけを見つめて歩を進める。
しかし、エーリッヒはなおもすがるように言葉を重ねた。
「あなたに会いに来たんだ。頼む、もう私を避けないでくれ。あなたに……話したいことが、山ほどあるんだ……」
「お帰りください」
頑なに前を見据えたまま、その言葉を冷たく遮る。
抱きしめられたラファエルが、母の尋常ではない様子を察し、好奇心と不安の入り混じった瞳でエーリッヒを見つめているのが分かった。
クレセンティアは子供をたしなめようと、一瞬だけ顔を伏せる。
その隙を、エーリッヒの鋭い視線が逃さなかった。
「この子の名前は、ラファエルというのか?」
「……」
「私たちの……子ども、なのか?」
その問いが投げかけられた瞬間、クレセンティアの腕に、痛いほどの力がこもった。
ラファエルは身をよじって苦しそうな声を上げたが、彼女はそれを緩めることができなかった。
この子は私の光。私の絶望の淵に現れた、唯一の希望。
絶対に、この男に渡してなるものか。
「違います」
きっぱりと、感情を殺して否定した。
だが、エーリッヒは引き下がらなかった。彼は素早くクレセンティアの隣へと歩み寄り、その行く手を塞ぐようにして、真剣な面持ちで語りかけてくる。
「あなたにそっくりじゃないか、ティア」
「似ていません!」
「……私たちに似た、子どもだ」
『私たち』。
その言葉が、クレセンティアの呼吸を奪った。
かつて彼が、自分と彼女を一つの括りにして語ったことなど、ただの一度もなかった。仮にそのような言葉を使ったとしても、それは常に政治的な取引や、損得勘定の上のことにすぎなかった。
今のように、魂を削り出すような切実さで口にされたことなど、過去に一度としてなかったのだ。
「私たちの子どもだろう、ティア」
「……っ」
クレセンティアは喉を詰まらせ、涙で赤く潤んだ瞳で、ついにエーリッヒを正面から睨みつけた。
ずっと、彼を恨んできた。
もし彼が、あの冷たい大公館で、ほんの少しでも優しさを見せてくれたなら。
温かい言葉を一つでも、不器用でもいいからかけてくれていたなら。
一度だけでも、義務ではなく心から抱きしめてくれていたなら。
そうだったなら、自分はどんなに苦しくても、彼のそばに未練がましく残り続けていただろう。
だが、当時のエーリッヒは冷酷そのものだった。彼にとって自分は、ただ「ペテール家の後継者」という義務を果たすための器でしかなかった。彼はクレセンティアの世界を粉々に踏みにじり、絶望する彼女を、ただ冷ややかに見つめていただけだった。
だから、あの地獄を捨てて、自由を求めてレギナへ逃げてきたのだ。
それなのに、なぜ。
身体は自由になっても、心だけはあの冷たい檻に囚われたままだった。
イゾルデやヒルダと笑い合い、穏やかな日々を過ごしていても、胸の奥には常に冷たく重い石が居座り、時折息ができないほどの痛みを寄越す。
それは未練でも、恋しさでもない――そう自分に言い聞かせ続けてきた。
さらに、ラファエルの成長がその傷口を抉り続けた。
成長するにつれ、息子はますます「あの男」に似ていった。輝きを増す金色の瞳。すっと通った高い鼻筋。髪を黒く染めたラファエルは、まるで幼少期のエリヒそのものだった。彼を知る者が見れば、一目でその血筋を確信するほどに。
息子を愛おしく思う反面、その顔を見るたびに、あの冷酷な男の拒絶の言葉が脳裏に蘇る。
『私は、誰一人愛したことなんてない』
初恋であり、最後の恋。
あの日、勇気を振り絞って伝えた想いに対し、エーリッヒは恐ろしいほど淡々と、冷徹に言い放ったのだ。
『私はあなたを愛していません。私たちは契約で結婚した。契約に、愛などあると思うのか?』
あの日の乾いた風の匂いも、足元の芝生の冷たさも、何年経っても色褪せることはない。
ラファエルが生まれてからというもの、悪夢にうなされて睡眠薬なしには眠れない夜がどれほど続いたか。
彼に乱暴に抱かれた記憶、愛馬を殺された日の絶望、冷たく置き去りにされた虚無感。
それらすべてを、血を吐くような思いで忘れようとしていたのに。
それなのに、なぜ今になって、何事もなかったかのように目の前に現れ、再び自分を揺さぶるのか。
「……誰が、そんなことを許すものですか」
クレセンティアはラファエルをさらに強く抱きしめ、拒絶と警戒の眼差しをエーリッヒに突きつけた。
「お帰りください。あなたが何を言いに来たのか、私には関係ありません」
「ティア……」
「この子は私の子です! あなたの子ではありません!!」
張り裂けんばかりの悲痛な叫び。
母親の尋常ではない怒声と殺気を感じ取り、腕の中のラファエルが「うわああん!」と大きな声を上げて泣き出した。
クレセンティアが子供をあやしながら、背を向けて走り出そうとした、その瞬間。
エーリッヒの黄金色の瞳が、鋭く収縮した。
「ティア、危ない――!」
キィン……ッ!!!
耳を圧するような突風とともに、鋭い金属音が鼓膜を震わせる。クレセンティアの銀の髪が風に舞った。
次の瞬間には、漆黒の仮面を被った男たちが、殺気を放ちながら二人を包囲していた。
すべては、瞬き一つの間の出来事だった。
「誰の差し金だ?」
クレセンティアの首を狙って突き出された刃を、自身の剣で冷酷に弾き飛ばしながら、エーリッヒが低く問い詰める。
いつ剣を抜いたのかすら見えなかった。彼はすでに己の背中で母子を完全に庇い、次なる襲撃に備えて剣を構えている。
超人的な、恐るべき反射速度だった。
「依頼主を吐け。そうすれば、命だけは保証してやる」
刺客たちは無言のまま、一斉に牙を剥いた。
エーリッヒは短く息を吐き出すと、一歩も退かずに彼らの攻撃を迎え撃つ。
「……ジークではないな。あいつが正気なら、この期に及んでこんな愚策は取らない」
「死ね!」
刃が激しく交錯し、火花が散る。
あまりに突然の戦闘に、クレセンティアは息を呑み、ラファエルを抱いたまま立ち尽くした。
これまでも襲撃はあった。だがその時は、常にイゾルデやその部下たちが身を挺して守ってくれていた。
しかし今、目の前で剣を振るっているのは、エーリッヒただ一人。
敵は少なくとも十人以上。圧倒的な数的不利。
それにもかかわらず、エーリッヒの表情には焦りどころか、微かな揺らぎすら存在しなかった。
(どうして……こんなにも……)
クレセンティアは、死線を潜り抜ける彼の背中を見つめていた。
自分たちを守るために聳え立つその背中は、あまりにも広く、たくましく、そして狂おしいほどに頼もしかった。一瞬でも、その背に身を委ねたいと願ってしまった自分に嫌悪感が走る。
エーリッヒは終始、氷のような静寂を保ったまま、刺客たちを次々と無力化していった。
断末魔を上げて泥に沈む男たちとは対照的に、彼の呼吸は、衣服の乱れすらなく、少しも乱れていない。
「誰の差し金だ。リヌス・ブークか?」
「……う、言え……ぐはっ!」
「なら、次だ」
淡々と尋問し、答えなければ容赦なく斬り伏せる。その無慈悲な戦闘の様子を、クレセンティアはラファエルの目を手のひらで覆い隠しながら、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
かつて、剣の達人と言えばイゾルデのことだと思っていた。彼女の剣は舞うように美しかったからだ。
だが、エーリッヒのそれは次元が違っていた。
美しさなど微塵もない、無駄を極限まで削ぎ落とした「効率的な死」の体現。彼の放つ圧倒的な殺気と気迫だけで敵の動きは鈍り、風を切る音のコンマ数秒後には、次の肉体が地面に転がっている。
「お前が最後だな。言え。誰に雇われた」
「……殺せ」
「そうか」
最後の一人の懇願に、エーリッヒは冷淡に目を細めると、ためらいなく剣を一閃させ、その息の根を止めた。
森は、再び静まり返った。
息を呑む暇もないほど一瞬で片付けられた惨劇の跡で、エーリッヒは静かに剣を鞘へと収め、ゆっくりと振り返った。
常に彼女の盾となって立っていた、あの広い背中が向き直る。
返り血すら浴びていない、冷徹な死神のような風貌のまま、彼はゆっくりとクレセンティアを見つめた。
その姿に、彼女は思わず息をのむ。
「大丈夫か?」
「私……」
「相当驚いただろう。……すまない。怖い思いをさせてしまった」
絶句するクレセンティアの前で、エーリッヒの黄金色の瞳に、先ほどの戦闘からは想像もつかないほどの、切ない色と深い悔恨が揺れていた。
今、この人は。
あのエーリッヒが、また、私に謝った。
信じられない光景に、クレセンティアはただ、言葉を失うことしかできなかった。
要点は以下の3点です。
-
葛藤と再会、そして「謝罪」への困惑
4年ぶりに目の前に現れたエーリッヒの変わり果てた様子(生気を失いながらも切実な瞳)に、クレセンティアは激しく動揺します。何より、かつて冷酷極まりなかった彼が、心からの謝罪と「ティア」という愛称を口にしたことに、困惑と警戒を隠せません。
-
引き裂かれる母性と、過去のトラウマ
ラファエルの存在と銀髪がエーリッヒに露見し、「私たちの子供か」と問われたクレセンティアは、我が子を奪われる恐怖から拒絶します。かつて「愛していない」と自分を切り捨て、悪夢となって彼女を苦しめ続けたエーリッヒへの愛憎と恐怖が渦巻きます。
-
圧倒的な武力での保護
対峙する二人の前に突如として十数人の刺客が現れますが、エーリッヒは超人的な剣技で一瞬にしてこれを殲滅、母子を無傷で守り抜きます。戦いを終え、再び自分を気遣って謝る彼の姿に、クレセンティアはただ呆然と立ち尽くします。