こんにちは、ピッコです。
「シンデレラを大切に育てました」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
240話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- アシュリーの選択③
「未熟ながら、朝食をご用意しました」
朝食のために食堂へと降りてきたバンス姉妹は、テーブルに並べられたホットケーキとゆで卵を見て、思わず顔を見合わせた。本当に“未熟”どころの騒ぎではない。ホットケーキは、あるものは黒焦げに焼け、あるものは生焼けという、凄まじい出来栄えだった。
「まるで、雪だるまみたいね」
アシュリーは気を遣って前向きに言ったが、アイリスとリリーは何も言えずに沈黙した。丸く焼くだけなら誰にでもできそうなものだが、形はどれも歪んでおり、アシュリーの言う通り、生地が重なり合って雪だるまのようになっているものがほとんどだった。
「卵をもう一ついただけますか」
アイリスは、せめてもの礼儀としてホットケーキを一枚だけ皿に取ると、傍らに控える執事にそう言った。こうなることが初めから分かっていたのか、執事は半熟と固ゆでの卵をあらかじめ用意していた。どちらにするかを尋ねているところへ、母ミルドレッドが食堂に入ってきた。
「よく眠れましたか?」
リリーとアシュリーが挨拶する声で、アイリスは母の到来に気づいた。振り返って挨拶を交わすと、それに続いてヘンリーも軽くうなずいた。
「おはようございます」
「おはよう」
ミルドレッドは自分の席である上座に腰を下ろし、一同の挨拶を受け入れた。そして、使用人のダニエルが持ってきた皿を受け取る。
「……それは、旦那様が作ったものですか?」
リリーが不思議そうに尋ねた。どうやら母の皿に盛られているものだけ、明らかに出来栄えが違ったのだ。丸くふんわりと美しく焼けたホットケーキは、表面にツヤさえ帯びているように見えた。リリーの質問に、ダニエルはミルドレッドの様子をうかがいながら答えた。
「はい。奥様の朝食は、私が作って差し上げたくて」
要するに、ヘンリーが作った悲惨な料理を奥様に食べさせたくない、という意味だった。しかし、その意図を正しく理解しているのはアイリスとミルドレッドだけだった。
ミルドレッドは自分の皿と他の面々の皿を見比べると、くすっと上品に笑ってダニエルに言った。
「ありがとう。でも、未来の婿が来ているのだから――」
「未来の婿が用意した料理も、一度は食べてみるべきじゃないかしら? 明日の朝は、ノーマンが作った朝食をいただこうかしらね」
つまり、明日の朝もまた同じことをやらせる、という意味だった。顔をしかめるヘンリーの横で、アシュリーがくすくすと言いながら小声で囁いた。
「お母様、あなたのこと気に入ってるみたいですよ」
ヘンリーの顔はさらに歪んだ。そんなはずがない。
食事を終えたあと、彼はアシュリーだけを人気のない場所へ呼び出して言った。
「アシュリー、お前の母親は明らかに俺のことを嫌っている」
「どうしてですか? あなたの作った料理も食べてみたい、とおっしゃっていたじゃないですか」
「朝食だぞ? 昼でも夕食でもなくて、わざわざ朝食だ。それに、料理人だっているのに、どうして俺の作ったものを食べる必要がある?」
「うちの家の人たちは、もともとみんな料理をするのよ」
「うちの家の人たちは、もともとみんな料理をするのよ。アイリスだって、頭がごちゃごちゃしてるときはクッキーを焼くし」
「それは女だからやることだろ」
「もう、ヘンリー」
アシュリーはヘンリーの言葉に呆れたように笑ったが、それでも特に気にする風でもなく続けた。
「料理は男の人がするものよ」
「は? 何を言っているんだ?」
「有名な料理人ってみんな男性じゃないですか。王宮で働く料理人も男性ですし」
それは一理あった。だが、ヘンリーは不満げな顔を隠そうともせずに言い返した。
「それはお前が裕福に育ったからだろ。俺たちみたいな普通の人間は、使用人や料理人なんて雇えないんだ。奥さんがやるのが普通なんだよ」
すると、アシュリーの表情がすっと曇った。
アシュリーは、ヘンリーのそういうところが凄いと思っていた。自分が知らない世界の現実を、はっきりと指摘してくれるところ。自分より多くのことを知っている姿が、どこか格好よく見えていたのだ。
「笑えるわね」
廊下の奥で二人の会話を盗み聞きしていたリリーが、忌々しげに舌打ちをした。隣にいたアイリスも腕を組み、不機嫌そのものの顔で立っている。
「何が普通よ、普通って。私たちにとってはこれが普通なのに」
「普通がいいなら、その普通の女の人と結婚すればいいじゃない? 自分が好きだからって、普通じゃないアシュリーを選んでおいて」
「むしろ、ああいう古臭い貴族のほうがまだマシね」
「そういうこと言わないの、アイリス。芸術をやってる人だって、十分古臭いわよ」
リリーの遠慮のない物言いに、アイリスは思わず苦笑した。しかし、それでも彼女はなお、ヘンリーのことを――
――心底、嫌いだった。
最初は、ずいぶんと年上の男が、自分より18歳も年下のアシュリーと結婚しようとしていること自体が不愉快だった。だが今は、もっと具体的で生々しい嫌悪感を抱いていた。
「お母様はどうして許したの?」
もしアイリスが母親の立場なら、即座にあの男を叩き出していただろう。リリーは腕を組み、肩をすくめながら言った。
「まさか本当に、あの二人を許すつもりじゃないわよね?」
「当然、違うわ」
二人の背後から、足音もなく近づいてきたミルドレッドが言った。「お母様!」とリリーは驚いて声を上げたが、アイリスは落ち着いた様子で姿勢を正し、尋ねた。
「では、なぜあの人を家に入れたのですか?」
「目の届くところに置いたほうが、監視しやすいでしょう?」
「わざわざ監視する必要なんてあります? さっさと追い出せばいいのに」
「じゃあ、アシュリーが私たちの望む通りに、ノーマンと会わないようにできると思う?」
――できないだろう。
アシュリーは幼い頃からこの屋敷で育ち、隠された抜け道もよく知っている。家族が強制的に会わせないようにすれば、こっそり屋敷を抜け出してヘンリーに会いに行く可能性が高かった。
リリーは納得がいかない様子で唇を尖らせた。
「まさかアシュリーが、そんな危険を冒してまで、お母様の許しもなくあの男に会いに行くっていうの?」
「リリー」
ミルドレッドは愛おしそうに微笑みながらリリーを抱き寄せ、もう片方の腕を伸ばしてアイリスも引き寄せた。
「愛の力を甘く見てはいけないわ。どんなに臆病な人であっても、信じられないほどの勇気を出させてしまう――それこそが魔法のような力なのよ」
「お母様は、あれが愛だと思っているのですか?」
「じゃあ、あれは何なの?」
「よく分からないまま、そう思い込んでしまうものよ」
「それだって愛は愛よ。誰もが完璧に賢く、正しいやり方だけで恋に落ちるわけじゃないでしょう?」
愛はただの愛でしかない。その後にどう行動するかで、その人が正しい人間かどうかが決まるだけだ。
「じゃあ、アシュリーのことはこのまま放っておくの?」
リリーの問いに、アイリスは小さくため息をついた。彼女も気になって仕方がないのだ。ヘンリーを監視している理由は理解できた。彼がアシュリーを連れて駆け落ちでもしたら、その方がよほど面倒なことになる。だからひとまず認めるという形で、屋敷の中に囲い込んだのだ。
だが、このままでは本当にアシュリーがヘンリーと結婚してしまいかねない。
「ひとまず、様子を見るしかないわね」
ミルドレッドはそう言って、子どもたちを腕から離した。今、アシュリーは騙されているのかもしれない。だが、若いからといってその感情を軽んじたくはなかった。五歳の子どもだって、誰かを「好き」という感情は理解できる。人は失敗をし、その失敗から何かを学びながら成長していくものだ。
ある日突然、完璧な判断力と成熟した心を持てるようになる人間など、どこにもいない。ミルドレッドはアイリスの頭を優しく撫でながら尋ねた。
「アイリス、昔あなたがウェブスター警と結婚しようとしていたのは、間違いだったと思う?」
その言葉に、アイリスの顔が瞬時に真っ赤になった。彼女は少し戸惑いながら、蚊の鳴くような声で答えた。
「はい……正直、そう思います」
「本当に? そのときのあなたにとっては、それが最善の選択だったからそうしたんじゃないの?」
「それは……そうですが」
「アシュリーも同じよ。あの子も今の時点で――」
「自分にできる中で、一番いい選択をしていると思うのよ」
誰だってそうなのだ。リリーだってダグラスと結婚するのが最良の選択ではないと分かっていながら、かつてはやめようとしなかった。人は後から振り返れば激しく後悔するかもしれないけれど、その瞬間は、それが最善だと思って選択し、生きている。
もし同じ条件の過去に戻ったとしても、アイリスはまたウェブスター警と結婚しようとするだろうし、リリーもダグラスとの結婚を迷うはずだ。
アシュリーだって同じ。ヘンリーのどこかに魅力を感じて、そこに強く惹かれたのだ。それは間違いでもなければ、愚かなことでもない。
「でも、お母様はあの人とアシュリーを結婚させるつもりはないんですよね?」
ミルドレッドの深い言葉にも、リリーはまだ納得できない様子で問い返した。ミルドレッドは困ったように肩をすくめた。
「どれだけ強い感情であっても、時間が経てば落ち着くものよ。アイリスが結婚したあとでも、アシュリーの気持ちがそのままだと思う?」
ミルドレッドは、そうはならないだろうと考えていた。アイリスも母の意見に頷いたが、リリーだけは違った。彼女は不安げな表情を浮かべ、再び尋ねた。
「もし……もし、そのままだったら?」
彼女自身、似たような思いでダグラスの求婚を断った過去がある。だが最近、少しずつ彼のことが気になり始めているのも事実だった。母と父だって、初めて会ったときより、今の方がずっと愛し合っているのではないだろうか。
「一年経っても気持ちが変わらないなら、結婚させてあげればいいわ。もしかしたら、ノーマンの本当の一面を見つけて、彼を認めるようになるかもしれないでしょう?」
そんなことは万に一つもない――。アイリスとリリーは同時にそう確信したが、あえて口には出さなかった。
もちろんヘンリーは、その翌日から朝食の席に起きてこなくなった。
食堂へと降りてきたアシュリーは、朝食を用意したのがヘンリーではなく、いつも通りの料理人だったことに少し戸惑っていた。そして食事が終わるまで彼が姿を現さなかったため、終始落ち着かない様子だった。ミルドレッドとダニエルは、こうなることが分かっていたので、あえて何も言わなかった。
「あの……ヘンリーはもともと朝が弱いみたいで。夜明けまで詩の構想を練っていたそうなんです……」
ぎこちないアシュリーの言い訳に、最初に吹き出したのはリリーだった。彼女も夜遅くまで絵を描くことはあるが、それでも朝食には必ず顔を出す。バンス家は皆がそれぞれ忙しいため、朝食を共に取らないと、数日間も顔を合わせないことすらあるからだ。
アイリスにいたっては、朝から急ぎの用事がある日でさえ必ず食堂に顔を出し、お茶を一杯だけでも飲んでから出かけるのが鉄則だった。
そしてアイリスは、完璧に無表情のまま、冷ややかに尋ねた。
「お母様の言うことも聞かない男が、あなたの言うことを聞くと思うの?」
その辛辣な一言に、アシュリーの顔は瞬時に真っ赤に染まった。
「アイリス」
ミルドレッドはたしなめるように娘の名を呼んだが、アイリスは不満げな表情でぷいと顔を背けた。どうしても気に入らないのだ。結婚の許しをもらいに来て、いずれ義父母になる人たちと同じ屋根の下で暮らす身でありながら、二日目から寝坊を決め込むとは何事か。
「……気をつけるように、私から言っておきます」
アシュリーの消え入るような言葉に、ミルドレッドは何も言わずにただ微笑んだ。すでにアシュリーは十分に努力しており、ストレスも感じている。これ以上圧力をかければ、かえって反発して家を出ていくかもしれない。
「礼儀も、根気もないのね」
食事を終えて食堂を出ると、リリーがアイリスにだけ聞こえる低い声でぼやいた。だが、感情を露わにするリリーとは対照的に、アイリスは相変わらず冷徹な無表情だった。彼女はリリーのほうを振り向き、耳元で密やかにささやいた。
「今日、リアンに会うの」
「それで?」
「殺させる」
「……リアンを?」
「嫌だって言うなら、リアンも殺すわ」
「何が嫌なのよ」と、リリーは一瞬戸惑ってアイリスの顔を見つめ、それから意味を理解して思わず吹き出した。つまり、アイリスはリアンに命じてヘンリーを暗殺させるつもりなのだ。
リリーは笑いすぎて出た涙を指先で拭いながら、小声で言った。
「お父様に頼めばいいじゃない、どうして?」
アイリスは相変わらず真顔のまま、小さく頷いて答えた。
「お父様はお母様の味方でしょ。お母様が様子を見ると言えば、お父様だってそうするはずよ」
それは確かにその通りだった。リリーは鼻を鳴らして腕を組み、口を開いた。
「お姉ちゃん、私たちも少し様子を見るのはどう?」
その言葉に、アイリスの顔が不快そうに歪んだ。怒りを抑えた低い声で問い返す。
「まさかあなたまで、あの男の味方をするつもりじゃないでしょうね?」
「心配しないで。この家から追い出していいって許可が出たら、真っ先にあのバカの部屋に蛇を放り込んでやるから」
その物騒極まりない提案に、アイリスの機嫌は少しだけ直った。彼女も本気でヘンリーを殺そうとしていたわけではない。ただ、身の程をわきまえさせるために、軽く痛い目を見せてやろうと考えていただけだ。
『年の差が十歳以上あるカップルは、結婚できない』――。
――なんていう法律でも作るべきね、とアイリスは本気で思いながら口を開いた。
「で、私にどうしろっていうの?」
「少し待ってあげて。お姉ちゃんには、アシュリーがまだ未熟で考えの浅い子に見えるのは分かる。でも、あの子ももう17歳よ」
「もうすぐ18でしょ」
「だからこそよ」
リリーは深く頷きながら言葉を続けた。
「アシュリーが自分で考えて、自分で答えを出す時間をあげてほしいの」
「自分で考えて出した答えが、今のこれじゃない。今さら他に何をさせるの?」
「私が言ってるのは、自分の選択をちゃんと見直して、やり直す機会をあげてってこと。お姉ちゃんが一生、あの子の面倒を見るわけじゃないならね」
リリーの正論に、アイリスの表情が硬くなった。彼女は腰に手を当てて――
三つ違いの妹をまっすぐに見つめ、そして王女らしい厳かで、揺るぎない声で答えた。
「私は一生、あなたとアシュリーの面倒を見るつもりよ。あなたは私の妹だから」
その言葉を聞いた瞬間、なぜかリリーの目にじわりと涙が浮かんだ。彼女は照れ隠しに、わざとアイリスをからかうように笑いながら言った。
「分かってる。でもね、私たちはアシュリーに、自分の足で立つ機会をあげるべきだと思うの」
ほんの少しだけ、アイリスもリリーの気持ちが分かった気がした。かつて「どうしてこんなに早く結婚するのか」と、母に対して不満と寂しさを抱いたときの感情に、それはよく似ていた。
いつも自分の後ろをちょこちょことついて回っていたリリー。そして、何とかして話しかけたくて、遠巻きに周りをうろついていた幼い頃のアシュリーの姿が、アイリスの脳裏に鮮明に浮かび上がった。
――もっと、優しくしてあげればよかった。
アイリスは顔を両手で覆い、小さくため息をついた。初めて出会った、あの日――。
――あの時、彼女が13歳で、アシュリーがまだ11歳だった頃。もっと優しく接してあげればよかった。私の方が2歳も年上なのだから、家族をすべて失って傷ついていたあの子に、私の方から先に声をかけるべきだったのに。
「アイリス……」
言葉を失って悔やむアイリスに、リリーがそっと近づき、その身体を優しく抱きしめた。アイリスもリリーを強く抱き返し、切なげに息を吐き出す。
「悔しい……悔しくてたまらないわ……」
それはリリーも全く同じ気持ちだった。彼女はアイリスの肩に顎を乗せ、静かに目を閉じた。あの集まりに、アシュリーを連れて行かなければよかった――そんな、今さらどうしようもない後悔がまた胸を締め付けた。
「だめです」
その出来事は、思いもよらない場所で、唐突に起きた。
アイリスとリリーが母の言葉に従い、様子を見ると決めてから一週間が過ぎていた。空腹に耐えかねて、キッチンへ夜食を調達しようと廊下を横切っていたリリーは――
そのきっぱりとした拒絶の声に驚き、思わず足を止めた。
「ダメ? なんでダメなんだよ!」
続いて聞こえてきたのは、ヘンリーの苛立った声だった。一体、何が起きているのだろうか。リリーは慌てて壁の陰に身を寄せ、声のする方へと視線を走らせた。
そこには、背筋をピンと伸ばして立つ初老の執事ジムと、その向かいで不満げに足を開いて立つヘンリーの姿があった。
「この屋敷はご主人様の許可なく、誰であろうと立ち入ることはできません。ましてや、ご友人方を招いてのパーティーなど――到底認められません」
「認められない? あんた、何様のつもりだ? どうせこの家で働いているだけの使用人だろ?」
ヘンリーは、自分より20歳ほど年上の執事に向かって、噛みつくように怒鳴り散らした。怒りが収まらないのか、床をドンと乱暴に踏み鳴らしながら続ける。
「どうせ俺がこの家の令嬢と結婚したら、あんたも俺の使用人になるんだ。そのくらいの立場、分かってるんだろうな?」
はあ……と、リリーは呆れ果てて深いため息をついた。
この一週間、ヘンリーはまるでバンス家の人々を避けるかのように、昼近くに起きては出かけ、夜遅くに帰ってくる生活を繰り返していた。当然、外出や帰宅の際に、ミルドレッドやダニエルに挨拶をすることなど一度もなかった。アイリスとリリーは「私たちを避けているのね」とひそひそ話し、アシュリーは「ただ仕事が忙しいだけよ」とかばい続けていたのだ。
「何をおっしゃっているのか分かりかねます。私を雇われたのはバンス伯爵様です。そしてこの屋敷もまた、伯爵様のものです」
「あぁ、その伯爵が、この家を俺にやるって言ったんだよ! だからお前も、大人しく俺の言うことを聞けばいいんだ!」
ヘンリーのあまりに強引で傲慢な言い分にも、執事ジムはまったく動じなかった。彼はこの邸宅の品格を守る執事であり、仕えるべきはあくまでバンス家の正当な血筋だけだ。彼から見れば、ヘンリーはまだアシュリーと結婚もしていない以上――
せいぜい、この屋敷に無断で転がり込んでいる、ただの居候に過ぎなかった。
「でしたら、伯爵様の許可をお取りください」
「許可? なんで俺がそんなことをしなきゃいけないんだ! 使用人はお前だろうが! お前が聞いてこい!」
「承知いたしました」
執事はその程度ならと軽く頷き、踵を返した。どうせ旦那様に直談判したところで、即座に叩き出されるだけだ。物陰から様子を見ていたリリーも、母や父がそんな要求を許可するはずがないと確信し、思わず冷笑をこぼした。
だがその時、ヘンリーが立ち去ろうとするジムの腕を乱暴につかみ、激高した。
「どこへ行く! まず謝れ!」
「おっと……!」
不意に腕を強く引っ張られたせいで、ジムはバランスを崩し、その身体がぐらりと大きく傾いた。リリーが思わず息を呑んだその瞬間――ジムは硬い床へと、激しく倒れ込んだ。
「謝ってから行くのが筋だろう!」
ジムが床に倒れ伏しているというのに、ヘンリーはなおも怒声を浴びせかけていた。何なのだ、この男は。リリーはあまりの怒りに理性を失い、物陰から飛び出して叫んだ。
「何をしてるんですか!」
「は?」
突然現れたリリーに、ヘンリーはぎょっとして動きを止めた。誰も見ていないとでも思っていたのだろう。彼が動揺して固まった隙に、リリーは急いでジムの元へ駆け寄り、屈み込んだ。
「ジム、大丈夫ですか!?」
「ええ、なんとか……」
――全然、大丈夫ではなかった。
転倒した拍子に腰をひどくひねったのか、ジムは苦しそうなうめき声を上げ、顔を歪めて再び床に横たわってしまった。
「誰か! 誰か来てください!」
リリーが声を限りに叫ぶと、ヘンリーはみるみる青ざめ、後ずさりした。彼女が人を呼び始めたことに、完全に動揺しているようだった。
騒ぎを聞きつけて、屋敷のあちこちで働いていた使用人たちが、一斉に階段を駆け上がってきた。その騒がしい足音の中に、アシュリーの姿もあった。
「ジム、大丈夫ですか?」
「ええ、腰が少し……」
腰を押さえたまま起き上がれないジムを見て、体格の良い庭師のモクが手際よく彼を背負い上げた。メイドのアナは急いでジムの部屋の扉を開けに先回りし、家令のルインは医者を呼ぶために馬車へと走っていく。
「一体、何があったの……?」
最後に駆けつけたアシュリーが、信じられないものを見るような目で尋ねた。怒りに満ちたリリーが、ヘンリーを射殺さんばかりの視線で睨みつけているのが目に入る。
するとヘンリーは、気まずそうに視線を泳がせながら、ボソリと口を開いた。
「……そいつが、勝手に転んだんだよ」
「嘘をおっしゃい!」
リリーは怒りで顔を真っ赤にし、今にも掴みかからんばかりの勢いで怒鳴りつけた。
「あなたがジムの腕を無理やり引っ張って転ばせたんでしょ! どこが“勝手に”よ!」
「ジムを引っ張った……? ヘンリー、どうしてですか?」
驚愕したアシュリーの問いに、ヘンリーはどう答えていいか分からない様子で、リリーとアシュリーを交互に見つめた。まさかリリーに見られていたとは思っていなかったらしく、その動揺は誰の目にも明らかだった。
「いや、違うんだ。こいつが俺に対して無礼な態度をとって、そのまま立ち去ろうとしたから……」
「嘘ばかり言わないで! あなたの言うこと、全部嘘じゃない!」
リリーの烈火のごとき口調に、アシュリーは思わず目を見開いた。騒ぎを聞いて集まった他の使用人たちも、冷ややかな視線で状況を察している。ヘンリーは焦りから、必死に弁解をまくしたてた。
「本当なんだ、アシュリー! あなたのお姉さんが誤解しているだけだ。俺はただ、執事にちょっとした頼みごとをしただけなんだ。それを一方的に断られたから……」
「どんなお願いをしたというのですか?」
「ただ……友達を二人ほど呼んで、一緒に食事をしてもいいかって……」
――本当に、息をするように嘘をつく男だ。
リリーは呆れ果てて腰に手を当てた。どこまで見苦しく嘘を重ねれば気が済むのだろうか。
するとヘンリーはアシュリーの方へと向き直り、これ以上ないほど困り果てたような、哀れな表情と口調で必死に訴えかけ始めた。
「アシュリー、俺のことを信じてくれないのか? 本当に友達を二人呼んで、楽しく食事をしたいと言っただけなんだよ。それなのに、この家の人間でもないくせに勝手に客を呼ぶなとか、あれこれ酷い文句を言われてさ……。俺が侮辱されるのは百歩譲っていい。だけど、俺を侮辱するということは、君を侮辱するのと同じことだろう? だから、俺は君のために腹が立っただけなんだ」
その様子を見るリリーの目が、すっと冷酷に細くなった。
――こういう男だったのか。
あの集まりで、彼が得意げに語っていた華々しい武勇伝の数々も、すべて中身のない作り話だったのではないかと思えてくる。
もしかすると、全国で売れているという彼の詩集でさえ、誰かの盗作か何かなのではないか――。
「アシュリー」
ヘンリーは、アシュリーがショックのあまり何も言えずにいるのを見ると、彼女の華奢な腕を掴み、すがるような声を絞り出した。その表情は本当に悔しそうで、事情を知らなければ、思わず信じてしまいそうになるほどの迫真の演技だった。
アシュリーはどうしていいか分からず、激しく戸惑っていた。ヘンリーとリリーを何度も交互に見つめながら、何を言うべきか迷い、唇を震わせている。すると、ヘンリーはさらに畳みかけるように口を開いた。
「この家の人たちは、最初からみんな俺のことを嫌っている。……俺の味方は、もう君しかいないんだ、アシュリー。まさか君まで、俺を見捨てたりはしないよな?」
その言葉は、アシュリーの心の最も脆い部分を激しく揺さぶった。彼女にもかつて、この広い屋敷の中で、誰も自分の味方をしてくれないのではないかと、孤独に震えた記憶があったからだ。
アシュリーはぼんやりとした目でヘンリーを見つめたあと、リリーへと視線を移した。そして、混乱に引き裂かれそうな表情のまま、ぽつりと口を開いた。
「……そうです、ヘンリー。私は、あなたの味方です。だから、心配しないで」
「あぁ、よかった……」
「ありがとう、アシュリー。そう言ってくれて、本当に気が楽になったよ」
――本気で言っているの、この子は?
リリーの眉が、ピクリと不快そうに跳ね上がった。
ヘンリーが席を外した瞬間にでも、アシュリーの肩を掴んで「本気であんな男を信じるつもり!?」と問い詰めてやるつもりだった。しかし、ヘンリーはその場を立とうとはしなかった。それどころか、リリーを勝ち誇ったように一度ちらりと盗み見てから、アシュリーに向かって言った。
「君が俺の味方だと言ってくれるなら、どうしても受けてほしい頼みがあるんだ」
「え……何ですか?」
戸惑うアシュリーを見て、ヘンリーの唇の端が、にやりと醜く歪んだ。
「さっきは流そうと思ったけれど、やっぱり気が収まらない。俺を無視するということは、君を無視するのと同じだ。あの執事には、さっき俺に対して無礼な態度を取った件について、きっちりと謝罪してもらわなければならない」
「何ですって!?」
リリーはカッと頭に血が上ったが、ヘンリーはそんな彼女を完全に無視した。すでにアシュリーは自分の味方をすると宣言したのだ。それに、アシュリーと結婚すればこの莫大な資産を持つ家を与えると、バンス夫人も言っていたではないか。
どうせ彼が機嫌を取るべき相手は、目の前のアシュリーただ一人だ。ヘンリーには、自分より遥かに若い小娘三人にへつらうつもりなど最初から毛頭なかった。プライドを捨ててでも取り入る相手は、御しやすいアシュリー一人で十分だったのだ。
「あの年寄りの使用人に、俺に謝るよう、君から言ってくれ」
命令に近いその傲慢な言葉に、アシュリーの瞳が細かく揺れた。怪我をして運ばれたジムのところへ行き、「ヘンリーに無礼を働いたことを謝れ」と言えというのか。どうすればいいのか分からず立ち尽くす彼女のもとへ、リリーが慌てて駆け寄った。
「適当に流しておきなよ! どうしてそんな面倒で理不尽なことを、アシュリーにやらせるの!?」
「これを見てみろよ」
自分に向かって毅然と言い返すリリーを睨みつけ、ヘンリーは偉そうに腰に手を当てた。そして、アシュリーに向かってあからさまな被害者を装って言った。
「ほら見ろ、アシュリー。君の姉だって、俺をこんな風に頭ごなしに無視している。どう考えても俺の方が年上なのに、こんな扱いはあんまりじゃないか?」
「あなたがジムを突き倒したことは、どう説明するつもりよ!」
リリーの鋭い反論に、ヘンリーの顔に明らかな苛立ちが浮かんだ。彼は腕を組み、不機嫌そうに言い返す。
「それは不可抗力の事故だったって、さっきから言っているだろう。アシュリー、見てみろ。君の家族はこうやって、俺のちょっとしたミスをいつまでも責め立てて、俺を追い詰めようとするんだ」
自分がどれほど不当な苦労を強いられているかを切々と訴えるヘンリーの言葉を聞きながら、アシュリーの表情が奇妙に揺れ動いた。言葉にできない、じっとりとした違和感が胸の奥底に広がっていく。
何かが、おかしい――。
自分が重大な何かを勘違いしているような、冷たい不安が背筋をよぎった。
その不快な感覚と同時に、目の前にいるヘンリーという男が、どこか全く見知らぬ不気味な存在のように感じられた。彼にこんな、醜く狭量な一面があったのだろうか。それは新しい発見ではあったが、決して歓迎できるものではなかった。
その時、ヘンリーが素早くアシュリーの肩を優しく抱き寄せ、耳元で囁いた。
「でもアシュリー、今回は君の立場もあるし、君の顔を立てて俺が我慢してあげるよ」
さっきまで漂わせていた威圧的な態度は、まるで何事もなかったかのように綺麗に消え去り、元の「優しい彼」へと戻っていた。アシュリーは彼を見上げ、張り付いたような笑みでぎこちなく微笑んだ。
やはり、自分が何かを勘違いしているだけなのだろうか。
ヘンリーはいい人だ。自分のことを誰よりも大切に思ってくれて、色々な広い世界を教えてくれる。彼が自分にひどいことをするはずがない――。
「行こうか」
ヘンリーはそのまま、アシュリーの肩を親密そうに抱いたまま向きを変え、歩き出した。
(あれ、本気で連れて行っちゃうの……?)
リリーはどうしていいか分からないという、呆然とした顔で振り返り、ヘンリーに操られるように連れ去られていくアシュリーの後ろ姿を、ただ見つめることしかできなかった。
リリーは、深いため息をついた。
さっきは「アシュリーのために様子を見よう」とアイリスを必死に説得したが、今の状況を見て、完全に考えが変わった。
――今夜、あの男のベッドの中に、おぞましいヒキガエルと毒蛇でも放り込んでやろう。
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【ヘンリーの人間性と家族の嫌悪】
歳の離れたアシュリーの婚約者ヘンリーは、家事に対する古い男尊女卑の価値観を持ち、不誠実で傲慢な態度が目立つ。母ミルドレッドは駆け落ちを防ぐためあえて屋敷に囲い込んで監視し、姉のアイリスとリリーは彼を激しく嫌悪している。
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【執事への暴行と見苦しい言い訳】
ヘンリーは屋敷に友人を招く要求を断った高齢の執事ジムの腕を乱暴に引っ張って転倒させ、重傷(ギックリ腰)を負わせた。現場を目撃したリリーに追及されると、悲劇のヒロインを装って「勝手に転んだ」「自分は家族から迫害されている」と嘘と論点すり替えを重ねた。
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【アシュリーの盲信と、募る違和感】
孤独を恐れるアシュリーは、ヘンリーの巧みな誘導により「私はあなたの味方」と宣言して彼を庇ってしまう。しかし、執事への謝罪要求などヘンリーの醜く狭量な本性を目の当たりにしたことで、胸の奥に拭いきれない冷たい違和感と不安を抱き始めている。