メイドになったお姫様

メイドになったお姫様【133話】ネタバレ




 

こんにちは、ピッコです。

「メイドになったお姫様」を紹介させていただきます。

ネタバレ満載の紹介となっております。

漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。

又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

【メイドになったお姫様】まとめ こんにちは、ピッコです。 「メイドになったお姫様」を紹介させていただきます。 ネタバレ満載の紹介となって...

 




 

133話 ネタバレ

登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

  • 灰燼からの脱出

王宮の炎は、すでに手がつけられないほど広がっていた。

外から赤々と燃え盛る城壁を見上げていたチュチュは、今にも泣き出しそうな顔で声を震わせる。

「もう待ってられないよぉ……! 今からでも中に入って、シアナを連れてくる!」

しかし、グレイスがすぐさまチュチュの大きな体を力強く押し止めた。

「だめよ!」

グレイスとて、本音を言えばすぐにでも炎の中に飛び込み、大切な友を助け出したかった。だが、神秘の花がある隠し部屋へと続く道はあまりにも入り組んでいる。無闇に突入すれば、シアナを救うどころか自分たちが煙に巻かれ、命の危険にさらされるだけだ。

チュチュもそれは頭では理解していた。それでも、必死に訴えを募らせる。

「それでも行きたいです……! 友達があの中で燃えてしまうかもしれないのに、何もしないで見ているなんて無理です……! お願いです、公主様……!」

もがくチュチュを見つめながら、グレイスは悔しさに唇を強く噛み締めた。激しく爆ぜる炎を前に、二人は非情な決断を迫られていた。

そのとき――。

揺らめく紅蓮の炎と、視界を覆う灰色の煙の向こうから、漆黒の鎧をまとった騎士たちが静かに姿を現した。その中心には、しっかりと鉢植えを抱えたシアナの姿があった。

「シアナ!」

二人は同時に駆け出した。

「大丈夫!? けがはないの、シアナ!?」

心配そうに顔を覗き込む二人に、シアナは安心させるように小さく微笑んだ。

「ご心配なく。かすり傷ひとつありません。ブラックシャドウ騎士団の方々が、私を完璧に守ってくださったんです」

「よかった……本当に、よかった……」

グレイスとチュチュは深い安堵の息を吐き、シアナの小さな体を壊れ物を扱うように、けれど力強く抱きしめた。大きくて頼もしい二人の腕の中は、涙が出るほど温かかった。

しかし、シアナにはそこにとどまって安らぎに浸っている余裕はなかった。二人の腕からそっと抜け出すと、きりりと表情を引き締めて告げる。

「今は一刻を争います。すぐにでも火を消さないと。王宮には火災への備えがまったくありません。このままだと、国都全体に手のつけられないほど広がってしまいます」

そう言うと、シアナはすぐさま帝国軍の将軍ダルタンのもとへ向かった。

幸いにも、ダルタンは無事に城から脱出しており、散り散りになっていた兵士たちを広場に集めているところだった。

シアナは迷わずその中へ歩み寄り、凛とした声で口を開いた。

「ダルタン将軍、集めた兵士をすぐに四つの隊に分けてください。王宮の東西南北にそれぞれ配置し、区域ごとに一斉に消火にあたらせるのです」

さらにシアナは、懐から取り出した紙を近くの瓦礫の上に広げ、素早く炭で図を描き始めた。それは驚くほど正確な王宮の簡略図だった。

「東と西の庭園には大きな池があります。そこから水を汲んで回してください。それから、北側の倉庫には火が回ると極めて危険な物資が多く眠っています。ここには厚く兵を配し、特に注意を払ってください」

兵士たちが把握すべき要点に素早く印をつけながら、的確な指示を付け加えていく。そんなシアナの姿を、ダルタンは深く感心したように見つめ、やがて重々しくうなずいた。

「――姫様のご指示どおりに動こう。全軍、遅れるな!」

ダルタンの号令とともに、統制された帝国軍の兵士たちが一斉に消火活動へと散っていった。

それを見送ったグレイスとチュチュが、焦燥感をにじませて尋ねる。

「私たちは何をすればいい?」

どうにかして役に立ちたいと願う二人に、シアナは即座に役割を与えた。

「グレイス様とチュチュは、私と一緒に負傷者を看るための臨時の治療所を作りましょう」

「わかったわ!」

「任せてくださいぅ!」

二人は力強くうなずき、すぐさま行動に打って出た。

黒煙の届かない安全な広場に毛布を敷き詰め、負傷者を横にできるスペースをまたたく間に確保する。さらに、あちこちの瓦礫の陰でうめいている人々を探し出しては、その強靭な腕で次々と運び込み始めた。

その間にシアナは、生き残った足の速い使用人たちを呼び集め、「町にいるすべての医師と、ありったけの薬をかき集めてきてほしい」と緊迫した声で頼んだ。続いて、無傷だった侍女たちを統率し、負傷者の手当ての差配に当たる。

突然の大火災だったため、運び込まれるけが人の数は想像をはるかに超えていた。

軽傷の者もいれば、熱風に焼かれ、目を覆いたくなるほどの重傷を負った者もいる。

「た、助けてください……お願いです、痛い、痛い……!」

体の半分が焼けただれた若い侍女が、狂ったように悲鳴を上げて泣き叫んでいた。その凄惨な光景に、周囲にいた人々は恐怖で一斉に顔を青ざめさせる。

しかし、シアナだけはまったく動じることなく、その侍女の傍らに膝をつき、冷静に傷口を確認した。

(火傷が深すぎる……。通常の薬では到底間に合わないわ)

シアナは静かに懐から、小さなガラス瓶を取り出した。中には、月の光を溶かし込んだような不思議な色をした液体が入っている。あの日、神秘の花から抽出しておいた聖なる薬だった。

シアナはその一滴を、痛ましく焼けただれた患部へとそっと落とした。

――次の瞬間。

じわじわと光が広がり、焼けただれていた皮膚が、まるで時間を巻き戻したかのように見る見ると再生していく。ほんの数秒の後には、そこには傷ひとつない、なめらかな肌が戻っていた。

半ば錯乱していた侍女は、我が身に起きた奇跡が理解できず、ただ涙を流したまま呆然と立ち尽くした。その光景を目撃した周囲の者たちは、皆あっけにとられて口を開けたまま硬直してしまう。

やがて、我に返った負傷者たちが、救いを求めて一斉にシアナへ向かって必死に手を伸ばした。

「こ、公主様……私にも、私にもその奇跡の薬を……!」

「折れた足が、痛くて堪らないのです……!」

「どうか、私を助けてください……!」

泣きながら訴える声が、波のようにあちこちから押し寄せる。しかし、シアナは悲痛さを胸に秘め、静かに首を横に振った。

「この薬は、今すぐ命に関わるほど、重傷の方にしか使えません。本当の危機にある人のために、どうか譲ってください」

その冷徹とも取れる言葉に、何人かの表情がわずかに曇った。それを見逃さなかったグレイスが、一歩前に出て低く言い放つ。

「文句を言うんじゃないよ。その薬が必要になるほど全身を焼けただらされるより、数日包帯を巻いて済む怪我の方が、何百倍もマシだってことが分からないのかい?」

チュチュも同意するように、深くこくりとうなずいた。

「その通りですぅ」

そう言いながら、二人は包帯を巻いた腕をぐっと膨らませ、自慢の筋肉を誇示した。もう少し力を入れれば、治療どころか骨を容易く砕いてしまいそうなほどの圧倒的な威圧感に、不満を漏らそうとした負傷者たちは、恐怖で一瞬にして口をつぐんだ。



慌ただしく、残酷な夜はあっという間に過ぎていった。

王宮の火が完全に消し止められたのは、翌日の明け方、東の空が白み始めた頃だった。

ダルタンが煤まみれの顔で声を張り上げる。

「大火は鎮火した! これでひとまず安心だ!」

その言葉を聞いた瞬間、不眠不休で消火に当たっていた兵士たちや、手当てを続けていた侍女たちは、張り詰めていた糸が切れたようにその場に崩れ落ち、座り込んだ。

グレイスとチュチュもまた、何十人もの巨漢や負傷者を運び、治療を手伝ってきた極限の疲れから、指一本動かすのもやっとの状態だった。

だが、その死屍累々とした広場の中で、ただ一人、未だに動き回っている者がいた。

シアナだった。

彼女は疲れを見せることなく王宮を自ら一周し、火種が残っていないかを細かく確認して回った。その後は、町から手配したばかりの温かいパンや水を、座り込む人々に一人ずつ手渡して歩いている。

その気高い姿を見つめながら、グレイスやチュチュを含む周囲の人々は、思わず息を呑んだ。

(どうして、あんなことができるんだ……?)

人々の脳裏には、この過酷な夜に見たシアナの姿が鮮明に焼き付いていた。

彼女は将軍と兵士たちに的確な指示を出して大火を収め、自ら治療所を整え、多くの命を救った。誰よりも心身ともに過酷だったはずの当の本人が、いまだ休むこともなく、民のために動き続けている。

その献身的な光景は、人々の胸に「感謝」を超えた、畏敬の念すら抱かせていた。

そんな折、広場の向こうから一人の女性が血相を変えて現れた。革命軍のリーダー、ベラだった。

ベラは他地域の革命軍との緊急会談のため、昨夜から首都を離れていたのだ。だが、王宮で異変が起きたという凶報を耳にし、取るものも取りあえず馬を飛ばして駆け戻ってきたのだった。

「なんてこと……」

黒く煤に覆われ、無残に崩落した王宮を見上げ、ベラは小さく息をのむ。そして、広場で民に寄り添うシアナの姿を見つけた瞬間、激しい衝撃に言葉を失った。

シアナの白い顔には黒い煤が容赦なくこびりつき、その小さな手は無数の切り傷や小さな火傷で覆われている。ドレスはあちこちが無残に破れ、誰のものとも知れぬ血の跡まで滲んでいた。

到底、一国の美しい姫君とは思えないほど、痛々しく凄惨な姿だった。

「……こんなの、ひどすぎるわ。これが王女の姿だなんて」

ベラが苦々しく、やるせなさに声を詰まらせると、シアナは感情を交えずに淡々と状況を説明した。

「王宮で不審な火災が発生しました。ですが幸い、迅速な対応により死者は出ていません。火もすでに完全に鎮圧済みですので、ご安心ください」

「……」

「それから、あなたが心配されているであろう、あの“神秘の花”についてもご心配には及びません。私の手で、安全な場所に保管してあります」

その瞬間、ベラの片眉がぴくりと動いた。しかし、シアナはその変化に気づかず、生真面目に言葉を重ねる。

「ただ、一つご報告とお詫びがあります。私の独断により、避難の際、花を一輪使用いたしました」

「……は?」

「本来、花を無断で使用しないという権限委任書を交わしていましたが、その約束を破る結果となりました。申し訳ありません。規約違反に対する責任は、新しい法に基づいて必ず私が負います」

「……っ」

しばらくの沈黙の後、ベラはギリ、と激しく歯を食いしばった。その顔に、隠しきれない怒りと複雑な感情が沸き起こる。

それを見たグレイスとチュチュが、すかさずシアナをかばうように二人の間に割って入った。グレイスはベラの肩にそっと手を置き、なだめるように顔を寄せる。

「ねえ、革命軍の隊長さん。そんなに彼女を責めないであげてよ。シアナは自分の私利私欲のために使ったんじゃないわ。負傷者の状態があまりにもひどくて、命の灯火が消えそうだったから使ったのよ」

チュチュも大きく同意するようにうなずいた。

「そうですぅ! それに、そのままにしてたら全部燃えちゃってたかもしれない花を、シアナが煙の中に飛び込んで、命がけで持ち出してくれたから無事だったんですよ!? 一輪くらい、彼女の判断で使ったってバチは当たらないじゃないですか!」

その言葉が引き金となり、ベラの胸の中で燻っていた感情が、ついに限界を突破した。

ベラは二人を押し退けると、シアナの細い両肩をがっしりとつかみ、これまでにない強い声で問い詰めた。

「それ――本当なの?」

シアナは大きくまばたきをしながら首を傾げた。

「何が本当なのですか? 花を負傷者に使った理由のことですか、それとも……」

「そうじゃなくて! 命をかけてあの炎の中に飛び込んで、花を持ち出したっていうのは、本当なのかって聞いてるのよ!」

「……命をかけたと言えるほど、確かに危険な状況ではありました。ですが、私にしかできないことでしたので」

その淡々とした答えに、ベラは思わず声を荒げた。

「王宮が灰になるほどの大火事だったのよ!? どうしてそんなに平然としていられるのよ!」

燃え盛る王宮の中、小さな体で重い鉢植えを抱え、煙に巻かれながら必死に走るシアナの姿が、ベラの脳裏に鮮明に浮かんでいた。ベラは顔を歪め、胸をかきむしられるような思いで言葉を絞り出す。

「姫様、あなた本当にどうしてそこまでするの……!? もし大怪我でもしたら、いや……そのまま死んでしまったらどうするつもりだったのよ! たかがそんな花、何だっていうのよ……!」

シアナは静かに困ったように眉を下げ、けれど揺るぎない目で答えた。

「ただの花ではありません。これからは、国を奪い合うための道具ではなく……新しい国を優しく照らす、民のための希望の花です」

混じり気のない、澄んだ声だった。

ベラの胸が激しく締めつけられ、目頭が熱くなる。自分よりも頭一つ分近く小さなシアナを見下ろしながら、ベラはぽつりと、掠れた声で呟いた。

「少し前にね……かつて王宮で働いていた平民の人たちに会って、あなたの話を聞いたの」

「……!」

「彼らが言っていたわ。あなたは実の王や王妃に、生まれてから一度も優しい言葉をかけてもらえないまま、虐げられて生きてきたって……。この国で、あんなに不憫で哀れな姫は他にいないって……。皆、そう言って涙を流していた」

「……」

ベラは震える声で続けた。

「もしそれが本当なら、そこまで尽くす必要なんてないじゃない……! 何一つ良い思い出もない、あなたを傷つけるだけだった国のために、どうして命まで懸けられるのよ……!」

シアナは大きく目を見開いたまま、しばらくベラを見つめていたが、やがてゆっくりと視線を落とした。まるで、固く閉ざしていた胸の奥の、最も柔らかい部分をさらけ出すように。

「ベラ様のおっしゃる通り、私は決して幸せな幼少期を過ごしたわけではありません。……正直に言えば、王女としてこの国を守らなければならないという高潔な責任感など、一度も抱いたことはありませんでした。ただ、毎日を生き延びることで精一杯だったのです」

少しの間を置き、シアナは遠くの空を見つめながら言葉を継ぐ。

「ですが……数か月前、アシルンド王国に戻ってきて、初めて目にしたものがあります。何も持たず、それでも目を輝かせて力強く生きている人々の姿。過酷な現実の中でも、未来を夢見て笑い合う人々……。干ばつでひび割れた大地の隙間から、それでも懸命に命を咲かせる小さな花」

シアナは少し照れたように頬を染め、少女らしい笑みを浮かべた。

「私の知らなかったこの国の本当の姿を見て……いつの間にか、愛おしいと思うようになっていたんです。今の私にできるすべてを捧げてでも、守りたいと。そう、心から思えるほどに」

「……」

しばしの厳かな沈黙の後、シアナは思い出したように、ぽつりと呟いた。

「だから……規約を破ったことは、本当にごめんなさい」

ベラは泣きそうな顔を歪めてしかりつけた。

「……何がそんなに、あなたばかり謝ることがあるのよ」

「私はどんな立場であっても、本来なら許される人間ではありませんから」

結局のところ、自分はこの国を困窮させ、民を苦しめてきた王族の血を引く一人であり、さらには敵国の皇太子と手を組んで祖国に軍を招き入れた裏切り者でもある。その消えない罪の事実を、誰よりも自分自身が深く呪い、理解していた。

けれど――。

「……っ!」

次の瞬間、ベラはこらえきれないように、シアナの小さな体を強く、壊しそうなほど激しく抱きしめた。

ドクン、ドクン、ドクン。

シアナの耳にもはっきりと届くほど、ベラの胸の鼓動が野生のドラムのように大きく鳴り響いている。ベラはシアナの肩に顔を埋めたまま、涙混じりの声で口を開いた。

「もう、そんなくだらない、くどくどした謝罪なんてやめなさい。そんな無駄なことを言っている時間があるなら……」

「ベラ様……?」

「私たちのことを、これからもっと、ちゃんと特等席で守り続けなさいよ……!」

それは、まるで幼い子どもが母親に甘え、縋り付くような切実な声だった。

その言葉に、シアナは驚きに大きく目を見開いた。

周囲で見守っていた消火兵や侍女たちも同様だった。とくに、すぐそばで固唾を呑んでいたグレイスとチュチュにいたっては、思わず口をぽかんと開けて間抜けに硬直してしまっている。

まるで、一生に一度見られるかどうかの、冷徹な革命家が心を開いた「奇跡の瞬間」を目の当たりにしたかのように。

ダルタンが、少し気まずそうに咳払いをして口を開いた。

「火はすべて消し止めましたが、宮殿内は煙の被害が凄まじく、しばらくの間は……滞在は到底難しい状況です。王宮近くにある、無事だった貴族の邸宅で、姫様が休める豪華な部屋を今すぐ手配いたしましょう」

その言葉を聞いた瞬間、ベラがぱっと目を見開き、弾かれたように叫んだ。

「うちに来てください、姫様!」

もしここで断られたら、本気でその場に泣き崩れるか、あるいは怒り狂いそうなほどの猛烈な勢いだった。シアナは一瞬きょとんとしたが、ベラの必死な眼差しに気圧され、やがて小さくうなずいた。

「……わかりました。お世話になります」

こうしてシアナは、グレイス、チュチュを伴って、国都の片隅にあるベラの自宅へと向かうことになった。

ベラの家は、革命軍の秘密の隠れ拠点として使われている、うらぶれた酒場の二階にあった。

薄暗い木製の階段を上りながら、ベラが少し照れくさそうに、後ろを歩くシアナを振り返る。

「安心してくださいね。下の下品でボロい一階と違って、二階はちゃんと人間が住める程度には綺麗に整えてありますから。事前にヨハンにも部屋の準備を厳命しておきましたし、あの嫌味な貴族どもの成金趣味の屋敷に泊まるよりは、ずっとマシなはずです」

そう言って、期待を込めて勢いよく扉を開けた瞬間――ベラは硬直した。そして、思わず雷のような声を張り上げた。

「ヨハン!! ちゃんと部屋を最高に整えておけって言ったでしょ!?」

部屋の奥で、せっせと片付けをしていた副隊長のヨハンが、ひどく呆れた顔で振り返った。

「やったって。ほうきも雑巾も使って、何年も積もってた埃は一枚残らず払ったし、カビ臭かった布団もちゃんと洗って干した」

それだけではなかった。ヨハンはベラに言われるまでもなく、近所のジャックの家からは可愛らしい小さな花の鉢植えを借りて窓辺に飾り、エリサの家からは上質なレースのカーテンを調達してきて、くすんでいた木造の部屋を見違えるほど明るく上品に整えていたのだ。

それでも、ベラの険しい表情は少しも緩まない。腰に手を当てて怒鳴る。

「ここも、あそこも、まだ柱に黒い染みが残ってるじゃない!」

ヨハンは深く眉をひそめた。

「それは何年も前からある建物の染みだ。何をやっても落ちない。それを消したいってんなら、この建物ごとすべて叩き壊して建て直した方が早いってんだよ」

「だったらそうすればよかったでしょ!!」

「……」

そのあまりにも横暴で理不尽な一言に、ヨハンは完全に言葉を失った。

そして次の瞬間、手に持っていたはたきをぎゅっと怒りで握りしめる。ベラの後頭部を思い切りひっぱたきたくなる衝動が、猛烈に込み上げていた。それほどまでに、今のベラの発言は理性を欠いた的外れなものだった。

だが、時にシアナのことになると理性を失いがちなベラとは違い、ヨハンは極めて冷静沈着な人間だった。そのため、彼は大きく重いため息を吐きながら、はたきを置いて口を開いた。

「公女様をあんな煤まみれのまま通路に立たせたまま、いつまで馬鹿な言い合いを続けるつもりだ?」

その一言で、ようやく我に返ったベラが「はっ」と息を呑む。

見れば、シアナとグレイス、チュチュの三人が、どこか気まずそうな顔で狭い入口に佇んでいた。彼女たちは一晩中、不眠不休で火を消し、その足でここまで歩いてきたばかりなのだ。

「こ、これは……私の配慮が完全に欠けていました! お疲れのところ申し訳ありません! すぐに特製の食事とお風呂の準備をいたしますので、まずはお掛けください!」

そう言うやいなや、ベラはシアナの返事も待たず、嵐のように慌ただしく部屋を飛び出していった。



ベラが去った後の室内には、妙な静けさが漂っていた。

最初に沈黙を破ったのはグレイスだった。

「いや……ちょっと待って。なんで急にああなるわけ? 何かの呪いにでも取り憑かれたの?」

ついさっきまで――いや、今日王宮の広場で会う直前まで、ベラはシアナに対して常にぞんざいで、尖った態度を崩さなかった。公女であるシアナに平気で不敬なタメ口を使い、隙あらば鋭く睨みつけ、王族への敵意と不満を隠そうともしていなかったのだ。

そんな様子を特等席で見てきたグレイスが、信じられないといった様子で続ける。

「それがさ、いきなり広場でシアナに泣きついたかと思えば、その後はまるで忠実な猟犬みたいに態度が変わったじゃない。何なのあれ?」

シアナに対する言葉遣いが極端に丁寧になったのはもちろん、彼女の発言一つ一つに目をこれでもかと輝かせて反応していたのだ。

チュチュもうんうんと深く頷きながら、椅子の強度を確かめるように腰掛けた。

「どう見ても、シアナにベタ惚れって感じでしたよねぇ」

チュチュは半分冗談のつもりで、からかうように言ったのだが、驚くべきことに、まだ部屋の隅で片付けを続けていたヨハンが、真剣な顔でそれに同意した。

「その通りです」

思いがけない男の肯定に、グレイスとチュチュは同時に目を見開いた。ヨハンは「ふぅ」と小さく息を吐き、淡々と解説を始める。

「ですが、ご安心ください。あなたがたの想像するようないわゆる俗な恋愛感情ではありません。ベラは今、シアナ公女殿下を、自らの命を捧げるに値する『至高の指導者』として、深く敬愛し始めたのです」

「……!」

予想外の重い説明に、シアナのエメラルド色の瞳がわずかに見開かれた。ヨハンは無表情のまま、言葉を継ぐ。

「驚かれましたか。私や周囲の者も同じですし、おそらく当の本人すら己の激変に戸惑っているでしょう。ベラはこの国の王族や貴族を、心底から憎悪していましたからね。店を這い回るドブネズミや害虫よりも、奴らの方が不快だと公言してはばからないほどに」

それは、シアナと初めて出会った最初の夜も同じだった。

しかし――。

「公女様と過ごす時間が長くなるほど、ベラの中の『王族への憎悪』の軸が揺らいでいきました。それでも認めまいと意地を張って反抗していましたが、昨夜のあなたの覚悟を目の当たりにして、ついに敗北を認め、自分の本当の気持ちに正直になったのでしょう」

思いもよらない忠誠の告白に、シアナは少し頬を赤らめ、気恥ずかしさに思わず小さな手で口元を押さえた。そんな愛らしい彼女の反応を冷ややかに見ながら、ヨハンは淡々と続ける。

「これからベラは、公女様のために自分ができることすべてを尽くして、その狂信的な気持ちを示してくるはずです。あの人は極めて単純で、遠回しなアプローチが一切できない不器用な性格ですから」

――覚悟なさってください。

ヨハンの無言の目が、そう物語っているようだった。

やがて、一階の酒場から「食事の準備ができた」というベラの元気な知らせが入り、シアナたちは階段を降りていった。

初めて足を踏み入れた二階の居住スペースとは違い、一階の酒場はシアナにとってもこれまで何度も目にしてきた、見慣れた場所だった。

だが――シアナは入り口で思わず足を止めた。

いつもは乱雑にグラスが放置され、汚れが目立っていた粗末な食卓が、磨き上げられて見違えるほどきれいに整えられていたからだ。しかもその中央には、黄金色に油を滴らせた、巨大なイノシシの丸焼きが豪快に乗せられていた。

ベラがどこか誇らしげに、しかし少し落ち着かない様子で胸を張る。

「腕利きの狩人モリが最高のイノシシを仕留めたっていうから、譲ってもら……いえ、力ずくで奪って、あ義理でいただいてきました! 本当は宮廷料理のようなものを用意したかったんですが、さすがに我が家の台所ではそこまでの余裕がなくて……」

そう言いながら、ベラは肉切り包丁を手に取り、香ばしく焼き上がった極上の肉を豪快に切り分け、シアナの前に置かれた大きなお皿へ山のように盛り付けた。

「それでも、近所で一番料理が上手いって評判のおばあちゃんから、秘伝のタレと特製の調理法を叩き込まれて作ったんです。味は私が保証しますよ。さあ、冷めないうちにどうぞ召し上がってください!」

「……お、お招きいただき、いただきます」

シアナはつややかに輝くジューシーな肉を見つめ、小さく切り分けておずおずと口に運んだ。

その瞬間、あまりの美味しさに思わず表情がパッとほころぶ。

「わあ……イノシシのお肉って、生まれて初めて食べましたけど……すごく柔らかくて、美味しいですね!」

「本当ですか!?」

ベラは弾かれたように顔を輝かせ、嬉しさのあまり、今度はイノシシのあちこちの希少な部位を次々とナイフで切り分けては、シアナの皿にこれでもかと盛りつけていった。

「ならこの赤身もぜひ食べてみてください! 脚の肉は特に引き締まっていて歯ごたえが絶品なんです! 最初はそのまま肉汁を味わって、次はあの岩塩で、最後は私が煮詰めたトマトベースの特製ソースをたっぷり絡めてどうぞ! イノシシ肉の真髄がよく分かりますから!」

その怒涛の給仕ぶりを、席についたグレイスとチュチュは呆れ半分、感心半分で見守っていた。シアナは口いっぱいに広がる豊かな肉汁を感じながら、お腹をすかせていたこともあり、ゆっくりとその温かいもてなしを味わった。

――しかし、ベラの過剰なまでの“愛情表現”は、食事だけでは終わらなかった。

食事を終えると、シアナは一階の奥にある特設の風呂へと案内された。

そこには、一般の家庭用とは思えないほどの木製の大きな浴槽が据えられており、湯面には、色とりどりの野生の花びらが水面を埋め尽くすほど惜しげもなく浮かべられていた。

思わず目を丸くして固まるシアナを見て、ベラが後ろからどこか得意げに、けれど少し耳を赤くして言った。

「帝国の高貴なお嬢様方は、こうやって花を浮かべて優雅にお風呂に入るって小耳に挟んだので、真似して用意してみました。今日の夕方、山で見つけた綺麗な花をすべて根こそぎ摘んできたんです」

ベラは少し不安そうに、シアナの顔色をうかがう。

「お、お気に召しましたか……?」

「……ええ、とっても綺麗ですね。ありがとうございます」

シアナは引きつりそうになる笑みを必死に堪えて答えた。

――少し、というか、かなりやりすぎだけれど。

花びらの密度が高すぎて、もはや下に湯があるのか、それともただの生花の山なのか分からないほどだった。それでも、花の甘い香りが漂う温かい湯に深く浸かり終えた頃には、凝り固まっていた体は見違えるように軽くなり、ここ数か月の極限の疲れが嘘のように抜けていた。

(煙と煤で汚れてた体が、すっかりさっぱりした……本当に、気持ちいい……)

シアナは濡れた長い髪を白いタオルで拭きながら、二階の自室へと戻った。

部屋に入ると、先に入浴を済ませていたグレイスとチュチュが椅子に腰掛け、何やら非常に真剣な表情でヒソヒソと話し込んでいた。

「ねえ、あのベラって人、シアナに対する気持ちが尊敬なのか恋なのかは知らないけど……ちょっと愛情表現の熱量が過剰すぎない?」

「本当ですよぉ。さっき食堂で隣に座ってたら、当てられすぎて腕に鳥肌が立ちましたからね」

グレイスは木の椅子の背もたれに体重を預けながら、真剣な顔でうなずいた。

「今の様子を見る限り、そのうちシアナのドレスの裾を掴んで泣きながら、『帝国に帰らないで、ずっとここで私と一緒に暮らそう』とか言い出しても、私は微塵も驚かないレベルよね」

「ええ〜、それは本気で困りますよぉ。帝都の皇宮では、シアナ様の帰りを首を長〜くして待っている、あの恐ろしい皇太子殿下が控えているんですから」

「困るも何も、シアナが万が一こっちの情熱を選ぶなら仕方ないでしょ。大きな国を成し遂げる女が、男一人の顔色に振り回されてちゃダメよ」

部屋の真ん中で好き勝手な妄想を膨らませる二人を見て、シアナは呆れたように目を細めた。

「絶対にそんなことはしません。殿下を置いていくはずがありませんから、いい加減なことでからかわないでください」

「もうやめてください、お二人とも」

かなり呆れ果てた調子で釘を刺したが、グレイスはまったく気にする風もなく、楽しげに続けた。

「シアナ、そんなに頑なに断言しないで、もっと男の選択肢を広く考えなよ。今はあのお兄様が世界一素敵に見えるかもしれないけど、人間、時間が経てば好みの気持ちが変わるかもしれないでしょ?」

「それでも、ラシド殿下よりかっこよくて完璧な人に出会うのって、この先の人生で客観的に見ても難しくないですか?」

「まあ、それは確かにそうだけどねぇ……」

耳元で、賑やかな二人の恋バナ(?)がずっと続いていた。

しかし、シアナはもう、それに対して気の利いた反論を返すことができなかった。

湯上がりの心地よい温かさと相まって、強烈な睡魔が凄まじい勢いで一気に押し寄せてきたからだ。昨夜は一晩中、大火の中で休まず動き回っていたのだから、当然の限界だった。

(あ……殿下に、無事を連絡しないといけないのに……)

シアナは半分閉じた朧げな目のまま、首にかけたどんぐりのペンダントを指先で愛おしそうになぞり……そのまま意識を手放すように、ふかふかのベッドへと倒れ込み、深い眠りに落ちていった。

不思議なことだった。

かつて暮らした、金銀で豪華に飾られていたはずの王宮のどの部屋よりも――天井が低く、窓の隙間から夜風が少し入り込んでくるような、この下町の古びた木造の部屋の方が、今のシアナにとってはよほど心地よく、安心して眠ることができたのだった。

 



 

 

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