影の皇妃【９７話】ネタバレ

「殿下、一体何が書かれているのですか？」

「伯爵・・・、私は先に帰る」

「殿下」

シアンは手紙を綺麗に折って胸の中に入れ、月の光さえ当たらない路地に身を任せた。

皇居に戻る途中、シアンの目つきは激しく揺れていた。

（私の知っているルシア令嬢は偽物だったのか？）

カストル商会主のエミリオの娘ルシアは、北方熱病を患い、学術院の入学手続きを終えるや否や再び故郷に戻って治療を受けたという。

そして、今は奇跡的に回復して、元気に過ごしているそうだ。

これが事実なら、これまで自分と向き合って対話をしていた女性は誰だというのだろうか？

分からない。

一体、何がどうなっているのか。

まるで幽霊に取り憑かれたような気持ちだった。

書簡によると、エミリオは１年以上帝国の首都にいると書かれている。

「・・・」

彼ならばルシアの正体を知っているのではないだろうか？

ふとそんなことを考えたシアンの目つきが沈む。

考えてみれば、シアンはルシアについて何も知らなかったのだ。

心の中で彼女の存在がこれほど大きくなったにもかかわらず。

「あなたが誰であろうと構わない」

しかし、シアンがこれまで知っていたルシアが偽物であれ本物であれ、それ自体は重要ではなかった。

そんなことを知るためにエミリオの元を訪れる気はなかった。

「・・・会いたいな」

首都はシークレットサロンの話で持ちきりだった。

特に「サロンの女主人L」は、話題の中心そのもの。

公開討論でLが見せた学識と知性は、学界の高名な学者たちを驚かせたのだ。

帝国の歴史上、一度も目にしたことのない女性に、人々はLを指して「新女性」と口を揃えた。

彼らは妙齢のLを見ようと毎日のようにサロンを訪ねる。

美貌を問わず知的で決断力のある投資を披露した「L」は、人々を魅了させる神秘的な雰囲気の持ち主だったのだ。

しかし、保守的な中年貴族たちは、そのようなLの存在を快く思っていない。

社交界の何人かの令嬢たちも、Lの陰口を叩いて批判する。

しかし、全員がそうではなかった。

令嬢たちは、「新女性」と評されるLを羨望の対象にして熱狂していたのだ。

これまで女性という限界を乗り越えようと努力したにもかかわらず、偏見と外圧でその限界は明確だった。

ところが、Lは長い間帝国に根付いてきた慣習の枠を破ってしまう。

女性たちはそんなLの後を追って、自分たちの分野で独立した主体となって認められることを願うようになる。

「殿下が来られたのですか？」

「はい、恩人。深夜に、殿下は私を訪ねてきました」

「・・・」

（私が知っている殿下は決してそんな無礼を犯すような方ではないのだけれど・・・）

エレナが知っているシアンは、誰よりも上品で紳士らしい男性。

深夜に訪ねてくる姿は想像もつかなかった。

「殿下がなぜ？」

「恩人を探しておりました」

「・・・！」

エレナの目が満月みたいに大きくなる。

「３カ国連合まで人を送って調べたようです。私の娘がそこに住んでいるという事実まで知っていました。それと、あなたの体調について詰問されました」

「そこまで・・・」

心の片隅がヒリヒリする。

病気を口実に休学してしまい、シアンに心配をかけたと思うと、申し訳ない気持ちになったのだ。

「この年になるまで怖いという感情を知らずに生きてきましたが、生まれて初めて恐怖という感情を経験しました」

「すみません、私のせいで・・・」

「殿下から１０日の猶予を与えられています。それまでに恩人についての知らせを与えなければ、自分がどう出るか分からないとも仰っておりました」

「・・・信じられない」

戸惑うエレナを見ながら、エミリオが低い声で話しかけてくる。

「恩人、殿下は私に恩人が誰なのか一度も聞かれませんでした。彼は、恩人が私の実の娘ではないことを分かっているはずなのに」

「・・・」

「本気で心配していたからこそ、あれほど怒っていたのでしょう」

「心配」

声が詰まって何も話せない。

「恩人も、もっと素直になってみたらどうでしょうか？」

「・・・エミリオさんの言う通りです。伝えることを避けるのはできない」

以前の人生のシアンは、近づこうとしても近寄り難い人物だった。

そんな彼の性格を誰よりも知っているエレナだったので、変わってしまった今の関係に戸惑っていたのだ。

「手紙を送ってください、サロンに来てくださいと。その日に殿下とお会いしますので」

「よく決心されましたね、恩人」

決断をしたエレナの表情はいつもより輝いていた。

これまでとは違って、虚偽の身分と名前を前面に立たせずに、本来の姿で会えることが嬉しかったから。

以前の人生でも一度も見せたことのない自分の姿を見せることが出来るだけでも浮かれていたのだ。