こんにちは、ピッコです。
「メイドになったお姫様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
119話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 備え
ソルはずっと以前からラシードに仕えていた。
ラシードは仕えづらい主君ではあったが、長所も多かった。
まず、ラシードは氷のように冷たい外見とは裏腹に、身分の低い者へむやみに暴言を吐くことはなかった。
――ただし、大きな失敗をすれば弁明を聞く前に首をはねられることもあったが。
また、面倒な雑務を押しつけられることもほとんどない。
それは部下を思っての配慮というより、単に「他人に触れられること」を極端に嫌っているからだった。
しかし――何よりも「報酬が過剰では?」と思うほど、気前よく与えてくれる主でもあった。
(それが殿下の一番の長所だよな……。この前だって賞金として一千万ゴールドもくれたし)
それもソル個人だけでなく、彼が率いる騎士団全体に対してだ。
それでも――それでも、
(最近は本当にきつい……)と、ソルは内心で嘆いていた。
机に突っ伏したソルの目の前で、ラシードの顔は妙にきらきらと輝いている。
そんなラシードの手には、一枚のハンカチがあった。
彼はうっとりとした表情でそれを見つめながら言う。
「ソル、これは実に完璧なハンカチだと思わないか?触り心地は柔らかく、織りも精緻で、ほのかにラベンダーの香りまで漂っている。これほど素晴らしいハンカチは見たことがない。」
(いや、普通に何度も見たことあるけど……)と口に出せば、ラシードに冷たい目で見られるのが目に見えていたので、ソルは引きつった笑みを浮かべた。
「おっしゃる通りです。本当に見事な出来ですね、シアナ様の腕前は。」
仕方なく話を合わせただけだったが、ラシードの表情は一気に明るくなった。
「だろう?」
「…………」
「あんなに小さな手で、どうしてこんな精巧な物が作れるんだろうな。もしかして彼女、魔法でも使っているんじゃないか?」
「ええ、そうかもしれませんね。」
(あの氷みたいに冷たい殿下が、ここまでデレるなんて……シアナ様、すごすぎる……!)
――と、思わず言いそうになるのをこらえ、ソルはぎゅっと口をつぐんだ。
(どう見ても、あの二人……付き合ってるよな?)
実のところ、二人の関係がここまで深まったこと自体は、さほど驚くべきことではなかった。
以前からその兆しはあったのだから。
だがソルは、この状況をすんなり受け入れることができなかった。
なぜなら――
(殿下は気づいていなくても、シアナ様は石しか愛せない方だって分かるはずなのに……一体どういうつもりで殿下を受け入れているんだ?)
もしかすると恋に落ちて、シアナも本来の特異性を失ってしまったのだろうか。
(もしそうなら……それはそれで問題だぞ)
そもそも二人の関係が、普通の形で成り立つとは思えなかった。
少なくともどちらか一方は、冷静さを保っていなければならない。
結論から言えば――ソルの心配は杞憂だった。
庭園でお茶を楽しんでいたラシードのもとへ、シアナが尋ねた。
「殿下、ベロニカ姫の件はどうなりましたか?」
ラシードは目を丸くした。
ラクタの判決が下された後、世論は一気にラシード側へと傾いた。
ベロニカは逃げるように南部の領地へ戻っていった。
もっとも、ラシードはそのまま彼女を放置するつもりはなかった。
(あんな卑劣な嘘で私を揺さぶった者を、そのままにしておくわけにはいかない。やられたなら、倍にして返す。それでこそ同じことは二度と起きない)
――それが、長年戦場を渡り歩いてきたラシードの持論だった。
彼はベロニカが妊娠する前の行動を徹底的に調べ上げた。
腹の中の子の父親を突き止めるためである。
もちろん、簡単なことではなかった。
ベロニカがそれまでの痕跡を徹底的に消していたからだ。
しかし執念深い調査の末、ついに一つの手がかりを掴んだ。
ベロニカの側近の侍女を確保することに成功したのだ。
(正確には、身分を偽って近づき、拐かして屋敷の裏に監禁して脅したんだけどな……そこまで詳しく言う必要はないか)
恋に浮かれて理性を失っているわけではないラシードにも、それくらいの判断力はあった。
ラシードはお茶を一口すすり、口を開いた。
「アンゲルス公爵家の魔獣を扱う魔獣使いと、ベロニカ姫が一晩を共にしたことがあるそうだ」
「……えっ」
シアナは思わず息を呑んだ。
魔獣使い――。
まったく予想していなかった人物だった。
二人のそばで静かに話を聞いていたソルが、ぽつりと口を挟む。
「馬みたいに体が大きくて力も強いですからね。女性の間でも結構人気があるタイプですよ」
満月の夜。ベロニカ公女は殿下に拒絶された衝撃で馬車の中で涙を流し、彼女を慰めていた魔獣使いと目が合い――そのまま……。
「そこまでだ。」
ラシードが短く言葉を断ち切った。
シアナにそんな不快な話を聞かせたくなかったのだ。
ソルも「はい」とだけ答えて、慌てて口を閉じた。
ラシードは淡々と続ける。
「ともかく、有力な容疑者は割れた。あとは身柄を押さえて、いくつか証拠を固めれば終わりだ。ベロニカ公女は詰みだな。」
公爵令嬢が平民、それも公爵家に仕える魔獣使いと一夜を共にし、子を身ごもった。
それだけでも致命的だ。
だが彼女はさらに、その子を皇太子の子だと偽り、国家を揺るがす虚偽まで重ねた。
到底、許される罪ではない。
そして――この件を公にすれば、アンゲルス公爵家も無傷では済まないだろう。
アンゲルス公爵家も、ベロニカ本人も破滅は避けられないだろう。
だが――黙って話を聞いていたシアナが、ふいに口を開いた。
「殿下。その事実、公にしないという選択はありませんか?」
「……!」
ラシードとソルは同時に目を見開いた。
ラシードは眉をひそめる。
「公女に同情しているのか?」
だがシアナは、あっさりと首を横に振った。
「いいえ。私、あなたにあんなことをした人間を憐れむほど優しくありません。」
――私の男に。
その一言で、ラシードの顔はみるみる赤く染まった。
一方でソルは、なんとも言えない表情になる。
まるで温度差のある二人を見比べるように、シアナは平然と続けた。
「私も最初は、ベロニカ公女の相手を公表するのが一番効果的な報復だと思っていました。」
だが、時間が経つにつれて怒りが薄れたシアナは、考えを改めていた。
「でもそれだと、アンゲルス公爵は“家門と娘を潰した原因”として殿下を恨むようになります。」
「別に構わない。」
本心だった。
ラシードにとっては、中途半端に敵意を隠す相手よりも、はっきり敵として現れる相手のほうがよほど対処しやすい。
陰でじわじわと追い詰めるより、二度と立ち上がれないように叩き潰すほうが得意だった。
だが、シアナの考えは違った。
「でも、いくら殿下でも帝国最大の公爵家を敵に回せば厄介です。それなら……彼を“味方にしてしまう”ほうが、ずっと得ですよ。」
ラシードとソルは、意味が分からないというように目を丸くした。
「殿下のおっしゃる通り、ベロニカ公女のお腹の子は本当は魔夫の血筋で、それを殿下の子だと偽ったのは、公爵家が揺らぐほどの大事件です。ですが逆に、その事実を表に出さず握っておけば、アンゲルス公爵を思い通りに動かせる“切り札”にもなります。」
そこでようやくラシードは、シアナの意図を理解した。
つまりシアナは、この件を利用してアンゲルス公爵を従わせようとしているのだ。
もちろん簡単ではない。
いくつか手順が必要になる。
シアナは視線を落としながら言った。
「ただ脅すだけでは通用しません。飴と鞭、両方を用意する必要があります。」
ラシードは考え込む。
――ベロニカ公女が魔夫と一夜を共にした事実を隠すだけで終わらせるのではなく、むしろそれを“庇う”形にしたらどうなるか。
ベロニカ公女が皇太子についた悪質な嘘は、突如としてお腹に宿った子を守るためだっ――そういう筋書きにする。
皇太子の子だと名乗れば、子どもは無事に産める可能性が高いからだ。
もしラシードが「子どもを守るために嘘をついた彼女の事情を理解し、その罪を不問にする」と公にすれば――被害者である皇太子本人の言葉として、それが発せられた瞬間、ベロニカ公女への非難は一気に消える。
同時に、公女とアンゲルス公爵家はラシードに対して大きな借りを負うことになる。
さらに――ラシードはいつでも公爵家の名誉を地に落とせる「切り札」を握っている一方で、それを守る側にも回れる。
となれば、アンゲルス公爵の選択肢は実質一つしかない。
皇太子側につくこと。
感謝からでも、恐怖からでも。
「今回の件で評判は落ちたでしょうが、アンゲルス公爵家そのものを守る道は、まだ残されています。アンゲルス公爵家は帝国屈指の名門です。味方につけば、今後あなたにとって大きな力になるでしょう。少なくとも、敵に回したときよりは比べものにならないほど多くを得られるはずです。」
一通り話し終えたシアナは、ぱちりと目を見開いた。
ラシードとソルが、じっとこちらを見つめていたからだ。
「あ……」
小さく声を漏らし、シアナはそっと手を下ろした。
「もちろん、あくまで私の考えです。殿下はベロニカ公女の件で酷い嘘に巻き込まれましたし、無理に受け入れる必要はありません。気が進まないのであれば、どうか私の言葉はお忘れください。殿下のご判断に従います」
「……」
沈黙を守るラシードへ、シアナはおそるおそる声をかける。
「もしかして、私が余計なことを言ってしまいましたか……?」
「……それは違う」
言葉を切ったラシードが、ゆっくりと口を開いた。
「今まで、アリスがずっとこんな気持ちだったのかと思ってな」
「え……?」
きょとんとするシアナを見て、ラシードはふっと笑った。
「決めた」
その一言に、ソルも静かに頷く。
「同感です。正直、今ちょっと鳥肌が立っています」
それは本心だった。
――敵を見つけたら突っ込んで斬る。動かなくなるまで。
そんな単純な戦い方に慣れていた二人にとって、シアナの発想はあまりにも異質で、そして鋭かった。
過剰なほどの称賛に、シアナの頬がほんのり赤くなる。
「……では、その方針で進める、ということでしょうか?」
「そうだ」
ラシードは迷いなく頷いた。
正直に言えば、アンゲルス公爵家の力など欲しいとは思っていなかった。
面倒な相手に気を使い、取り込むなど考えるだけで煩わしい。
――だが。
『シアナが望むなら』
彼女のためなら、どんなことでもやるつもりだった。
それが、名門と手を組むことでも。
あるいは――その名門を叩き潰すことでも。
「魔夫がまだ生きている――それだけで、これ以上ない好機です」
シアナの言葉に、ソルが力強く頷いた。
「その男を押さえておけば、アンゲルス公爵は完全にこちらの手の内です。まさに“詰み”に近い盤面ですね」
「すぐに魔夫を確保……いえ、身柄を保護いたします」
「アンゲルス公爵にこの事実が漏れれば即座に命を狙われる――そう伝えれば、あちらからこちらに転がり込んでくるでしょう」
「はいっ!」
ソルはまるで宝を見つけた子どものように目を輝かせ、そのまま勢いよく部屋を飛び出していった。
――バタン。
扉が閉まった瞬間、ラシードはシアナを強く抱き寄せた。
もう我慢できない、と言わんばかりに。
普段は人前でこうした素振りを見せない彼が、今は隠すこともなく腕の中に閉じ込める。
シアナは少し驚いたように見上げ、やがて眉を下げた。
「……ごめんなさい」
「何が?」
「殿下に、あんな残酷なやり方を提案してしまって……」
自分の言葉が、彼を傷つけてしまったのではないか。
シアナはそう思っていた。
なぜならシアナは、ただの侍女ではなく――彼の恋人なのだから。
「言い方を変えれば、私は他の男に辱められたわけで……」
その瞬間、ラシードの目つきが鋭く変わった。
だがシアナは気づかないまま、言葉を続ける。
「そんなことを利用して、あれこれ利益を取るなんて……きっと、とても嫌な気分になると思うんです」
もっとも、ラシード自身はそこまで気にしてはいなかった。
彼はシアナほど繊細な性格ではない。
それでも――そんなふうに自分のことを考えてくれる彼女が、ただただ愛おしかった。
ラシードはくすっと小さく笑い、問いかける。
「そこまで分かっていて、どうして俺にあんな提案をした?」
「それは……」
シアナは困ったように視線を落とす。
彼女の脳裏に浮かんでいたのは、ラクタの言葉だった。
ある日、ふと思い出したのは――皇后の顔だった。
人払いが済み、静まり返った神殿。
結界が張られ、ゆっくりと姿を現した皇后は、ラシードとシアナをまっすぐ見据えた。
そして、冷たく言い放つ。
「分を弁えなさい。越えてはいけない線があることくらい分かっている子だと思っていたのに……失望したわ」
その言葉には、隠そうともしない敵意が込められていた。
言い終えると同時に皇后は背を向ける。
皇位を継いだばかりの息子に向けてさえ、祝いの一言もなかった。
ただ、自分の思い通りに進まなかった現実への苛立ちだけが、そこにあった。
――その姿を見て、シアナは確信する。
(皇后陛下は……決して、世間で言われているような「温和な方」ではない)
そういう方なら、ここまでして息子を突き放すはずがない。
他の人には分からないかもしれないが、少なくともラシードにとってはあまりにも残酷な存在であることは明らかだった。
シアナの中で曖昧だった皇后の印象が、はっきりと色を帯びていく。
――黒。
皇后は、いつラシードの喉元に食らいつくか分からない敵だった。
だからこそ、備えが必要だ。
シアナは指を一本ずつ組みながら、考え込むラシードを見て口を開いた。
「今の政務は、皇帝陛下が直接ご覧になっているんですよね?」
「そうだ」
ラシードが代行していた業務は、すでに主へと戻されていた。
「宮中の内政を取り仕切っているのは、皇后陛下ですよね」
ラシードは、静かに頷いた。
皇帝と皇后の権力は絶大だった。
もちろんラシードにも、それに劣らない力があった。
それは――強力な軍だった。
「あなたは皇太子の地位をただ継いだわけではありません。5年間も戦場を駆けたことで、忠実な騎士団と兵を手に入れたのです」
だが、それだけでは不安だった。
権力というものは、武力だけで成り立つものではないからだ。
「あなたは“皇太子”という大きな地位をお持ちですが、それに対して政治的な基盤があまりにも弱いのです」
ラシードは長い間宮廷を離れ、戦場で過ごしてきた。
そのため名声は高いものの、貴族たちとの関係は深く築かれていなかった。
貴族たちはラシードを敬遠し、あるいは恐れていた。
もちろん彼を支持する者も多かったが、それは帝国最高権力者である皇帝と皇后に連なる皇太子だからこそ、という側面が強かった。
「そんな状況で、もし皇帝陛下や皇后陛下があなたと距離を置くようなことになったら、どうなると思いますか?かなりの確率で、彼らはあなたから離れていくでしょう。だからこそ、アンゲルス公爵の力を手に入れる必要があるんです」
シアナと指を絡めたまま、ラシードが軽い調子で言った。
「皇帝になるために?」
しかしシアナは、何を言っているのかというように眉をひそめた。
「いいえ。人々の前で、私たちが堂々と並び立つためです」
「……」
その瞬間、ラシードの呼吸が止まった。
シアナはそれに気づかないまま、絡めた指を見つめて続けた。
「私は、あなたとお付き合いしていることを隠すつもりはありません。でも、だからといって人にあれこれ非難されたり、見下されたりするのは嫌なんです。きちんと認められたいんです」
「……」
「そのためには、力が必要です」
力があれば、決して軽んじられることはない。
分かっていながらも、以前の私はそのために必死に努力しなかった。
しようとしても、すぐに諦めてしまっていた。
あまりにも孤独で、つらい道だったから。
――でも、今は違う。
シアナは顔を上げ、ラシードと視線を合わせた。
丸いエメラルドの瞳に自分が映った瞬間、ラシードはふっと意識が揺らぐような感覚に襲われた。
腕の中で自分と共にいたいと願う彼女の姿が、あまりにも愛おしい。
(もっと強く抱きしめたい)
けれど、そうして潰してしまったらどうする。
(それでも、抱きしめたい)
だめだ。
どうしていいか分からず混乱しているラシードに、シアナはさらに優しい声でそっと囁いた。
「それでなんですけど、殿下」
「……うん」
「殿下、私たち……しましょうか?」
シアナの言葉に、ラシードは目を大きく見開いた。
そしてすぐに、ぱっと明るい笑みを浮かべる。
まるでこの世で一番嬉しい言葉を聞いたかのように。