こんにちは、ピッコです。
「ヤンデレを演技していたら本物に執着されました」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
50話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 届かなかった指切り
バハート使使節団を歓迎する晩餐会の夜。
私は出発を控えたシャビアンの前に立ち、もう一度静かに問いかけた。
「殿下。本当にご出席なさるのですか?」
私の胸中には、割り切れない懸念が渦巻いていた。彼の家門も、そして何より今夜の会場となる場所そのものが気に入らなかった。そこは、シャビアンがあのテラスから突き落とされた、まさに因縁の「ユリ宮」だったからだ。
「わ、私も晩餐会に行きたいんです」
シャビアンは仕立ての良い濃紺の燕尾服の袖を、不安そうにぎゅっと握りしめた。豪華な装飾品をまとわずとも、彼の美しい佇まいはそれだけで宝石のように輝いている。
「……ほら、皇女殿下も出席なさるでしょう?」
ふむ、と私は内心で息をついた。この前も、私とロザリンの間に北部で何か特別なことがなかったかと、妙に気に懸けるような視線を向けていた。ここで彼を無理に送り返せば、かえって余計な邪推を生み、事態をこじらせてしまうかもしれない。
「分かりました。ただし、危険な場所へは決して近づかないと約束してください」
「はい。テラスは絶対禁止、です!」
ここへ来る前に交わした約束を、シャビアンはしっかりと覚えていたようだ。私がそっと小指を差し出すと、彼は少し頬を赤らめながら、自分の細い小指を私の指に絡めてきた。
ぎゅっと指切りを交わしながら、私は愛おしさを込めて、彼の柔らかな銀色の前髪をそっと撫でる。
「それじゃ、また後で会場で会いましょう」
私はまず皇宮の警備状況を最終確認し、少し時間を置いてから会場へ向かうつもりだった。本当はエスコートして一緒に入場したい気持ちもあったが、そうしなかったのには理由がある。
(またカリオンの目に留まって、余計な騒ぎになるのは御免だわ)
私自身はまったく信じていないのだが、どういうわけかカリオンは私のことを好いているらしい。並んで入場でもすれば、彼がまた何か面倒な騒ぎを起こしかねない。だからこそ、あえて時間をずらす選択をしたのだ。
幸い、晩餐会の会場内は安全なはずだった。カリオンの存在もあるし、何より神殿側からの来賓を迎えるという大義名分がある。警備はいつになく厳重に配置されていた。
(ん? ロザリン?)
シャビアンを送り出し、周囲の警戒にあたっていた私は、ちょうど馬車から降りてきたロザリンと鉢合わせた。
「公爵様? こんなところでお会いできるなんて!」
久しぶりに見るロザリンは心底嬉しそうに顔をほころばせ、当然のように私の隣へとぴたりと寄り添ってきた。もはやそれは彼女の癖のようなものだった。
「お姉様、私、お腹がすいちゃった」
ここは要人だけが通ることを許された専用通路だ。ロザリンは気負う様子もなく、自然な仕草で私の隣を歩く。
(……ここならシャビアンの目もないし、一緒にいても大丈夫かしら。彼に見られたら、また気まずいことになりそうだけど)
「はぁ……。このドレスを着るために、今日一日ずっと食事を我慢していたのよ?」
ロザリンが身にまとっていたのは、胸元が大胆に開いた鮮やかな赤のドレスだった。普段の清楚な皇女としての印象とは一線を画す、妖艶な美しさを放っている。
「カリオンって赤色が好きでしょう? 宮廷の人たちがどれだけ気を遣っているか知ってる? 私なんて、すっかり“カリオン仕様”に仕立て上げられちゃったわ」
「カリオンに押しつけられそうで……」
ロザリンは記憶喪失を口実にしながら、ごく自然に私の腕に手を回そうとした。しかし、その動きが不意にぴたりと止まる。
「あ、そうだわ。今日はお姉様が私のエスコート役じゃなかったのね」
くすっと悪戯っぽく笑いながら、彼女は少し残念そうに唇を尖らせた。
「レシウスったら……」
おいおい、どうしてそんなにレシウスに冷たいんだ。彼が気の毒になってしまう。
「うん、そういうこと。だから先に行って、シャビアンのことを見ていてくれないか?」
「もちろんよ。今回は私がトイレまで付き添って、鉄壁の警護をしてあげるんだから!」
ロザリンは胸を張り、得意げに目を輝かせた。その様子があまりにも愛らしくて、私は思わず声を立てて笑ってしまった。愛おしさに駆られ、綺麗に整えられた彼女の髪飾りを直してやろうと手を伸ばした、その時――。
「今日の皇女殿下のお相手は、この私ですよ」
白い礼装に身を包んだレシウスが、足早に専用通路を横切りながらこちらへ歩み寄ってきた。華やかな金糸の刺繍、そして純金で作られた剣飾りや勲章が、回廊の照明を受けてきらきらと眩い光を放っている。
「ハイレンの太陽にご挨拶申し上げます」
黄金よりもなお輝かしいレシウスは、私を見るなり目を細めて優しく微笑んだ。ロザリンは、いつの間にか私の手が下ろされたのを見て取ると、少し気まずそうにスカートの裾を軽く持ち上げてレシウスへ会釈した。
「ルウェイン、何か忘れ物でもしたのか?」
レシウスは控えている侍従たちの方をちらりと見やり、それから私の耳元へ顔を寄せて、囁くような小声で尋ねてきた。
「何ですって?」
もしかして、今日神殿から来賓が到着することを知っているか、とでも確認するつもりなのだろうか。
「今日、神殿から人が来る件ですか? もちろん知っていますよ」
「いや、それじゃない」
レシウスは小さく含み笑いを漏らすと、懐から一つの勲章を取り出して見せた。それは、私がいつの間にかどこかで落としてしまっていた勲章だった。
――どうしてそれをレシウスが持っているの?
驚く私をよそに、レシウスは私の制服の胸元へ、その勲章を丁寧にピンで留めてくれた。至近距離にある彼の耳の先が、ほんのり赤く染まっているのが見えた。
「それでは行きましょう、お兄様!」
私たちのやり取りを不思議そうに眺めていたロザリンが、弾かれたようにレシウスのもとへ駆け寄った。
「ねえ、お兄様! 私の今日のドレス、どうかしら? あら、お兄様のマントと同じ赤色ね。これって兄妹の絆ってやつかしら? あははは!」
一気にまくし立てたロザリンは、そのままレシウスの腕に自分の腕をこれ見よがしに絡めた。
(カリオンに続いてレシウスまで? それは絶対にダメよ!)
そんな無言の主張を込めて、ロザリンは私に向けて目を大きく見開いていた。もともとレシウスは誰にでも等しく優しい人だ。私は可笑しさを堪えながら、肩をすくめてその気持ちを受け止めた。
レシウスの赤いマントと、ロザリンの赤いドレスの裾が、華やかに翻りながら廊下の向こうへと消えていく。
「ふふ……」
私は庭園へ回り、窓越しに晩餐会の会場内を見渡した。シャビアンの世話は、私が特別に信頼を置いている老婦人・デミアに任せてある。
(カリオンはどこへ行ったのかしら?)
レシウスの登場に合わせて人々がひざまずく中、そこにカリオンの姿はなかった。
ああ、そうか。きっとバハート使節団の動線を確認しているのだろう。カリオンが誰かにひざまずくはずもない。おそらく、あとから別の入口を使って堂々と入ってくるつもりなのだ。
シャビアンだけを先に送り出してしまったことに少しの後悔を覚え、私もそろそろ会場へ向かおうとしたその時――。
「閣下!」
副官のバトゥが、血相を変えて慌ただしく駆け寄ってきた。
同時に会場の入口の向こうでは、レシウスのもとにも伝令が近づき、緊迫した様子で何事かを耳打ちしているのが見えた。不穏な空気が一瞬にして伝播する。
「どうした、バトゥ?」
「皇宮へ向かっていた神殿の馬車が、何者かに襲撃されました!」
「何だと? 神殿の馬車が……っ、負傷者はいるのか!?」
最悪の事態を想定して声を荒らげると、バトゥは慌てて首を横に振った。
「いえ、幸いそのような怪我人は出ておりません」
だったら、なぜそんなこの世の終わりのような顔をしているんだ。紛らわしい。
周囲に盗み聞きする者がいないか素早く確認したバトゥは、私にだけ聞こえるようにぐっと声を潜めた。
「神殿からお越しになった方が……その……」
「……?」
「大神官様なのです」
「大神官――!?」
バトゥの言葉に、私も思わず目を見開いた。
暗黒物質の調査の件で神殿から調査員が派遣されるとは聞いていたが、まさか神殿の長が直々にこの地に足を運ぶなんて、一体誰が予想できただろうか。
神殿における最高位は本来――『神の代理人』、すなわち神の権能を直接受け継ぐ存在だ。だが現在、その座は長らく空位となっており、実質的な神殿の最高責任者はこの大神官だった。
これは例えるなら、ただの事件の通報に対して、警察庁長官が自らパトカーを運転して現場にやって来るようなものだ。
「……護衛体制を根本から組み直さなければな」
ただの派遣神官と大神官とでは、必要な警護の規模が雲泥の差だ。馬車は横転したものの、大神官はすでに別の手配でこちらに向かっており、もうすぐ到着するらしい。それに、のちのち神殿側へシャビアンの身辺警護を正式に依頼するつもりでもあったため、大神官には何としても最高礼を尽くし、丁重に対応しなければならなかった。
(……まずいな。最高のご満悦で迎えるべき相手なのに、到着前に馬車が横転するなんて失態だわ。でも……シャビアンにはロザリンがついているし!)
前回のように、私とロザリンが同時に彼のそばを離れているわけではない。あの中にいれば、不測の事態など起こるはずがなかった。
私はバトゥとともに急ぎ足で控室へと向かい、護衛命令書と移動経路の再編成に取りかかった。
宴が最高潮に達しているユリ宮。
華やかな喧騒の中、バハートの使節たちは、その場を取り仕切っていたヨーゼフ公爵の周囲に怪しい危険がないかを慎重に確認すると、一斉にシャビアンのそばへと集まった。
同時にロザリンは、不自然なほどシャビアンに群がっていくバハートの使節たちを見て、不快そうに目を細めた。
(何よ、あのあからさまな取り巻きは……)
「殿下。陛下がお話ししたいことがあると、奥でお待ちです」
「兄上が?」
シャビアンは怪訝に思いながら周囲を見回した。しかし、使節たちの言う通り、きらびやかな宴会場のどこを見渡してもカリオンの姿は見当たらなかった。外の静かな場所で待っているのだろうか。
(兄上の呼び出しを無視したら、公爵様が後で立場を悪くしてしまうかもしれない……)
シャビアンは釈然としないものを感じながらも、賑やかな宴会場を後にし、彼らの先導に従って歩き出した。
そして、そのすぐ後ろから――。
「皇女殿下、どちらへ行かれるのですか?」
「殿下、こちらは道が狭すぎます。お召し物が汚れてしまいますよ」
不穏な気配を察したロザリンが、毅然とした足取りで後を追っていた。
(こんな夜更けに、どうしてシャビアンをわざわざ連れ出すのよ?)
割って入ろうとしたロザリンだったが、使節たちの表情はあまりにも真剣で、ただの案内には見えなかった。そして彼らが向かう先を目にした瞬間、ロザリンは不快そうに眉をひそめた。
(湖……?)
そこは聖なる「神の涙の湖」ではなく、皇宮内に造られた広大な人工湖だった。
バハートの使節たちは、暗い湖面の中央にぽつりと浮かぶ、離れの庭園を指し示した。
「陛下は先にあちらでお待ちです」
「兄上が、あんな場所に?」
「はい。陛下は現在お忍びの身であらせられますので。会話の内容が外に漏れることを懸念されたのです」
バハートの使節の一人が、恭しい態度を装いながら、シャビアンの背をそっと湖の桟橋の方へ促した。
(ルウェインと、危険な場所へは行かないと約束したのに……)
公爵との約束は何よりも大切だった。けれど、自分の我が儘のせいで彼女が困る状況になるのは、それ以上に耐え難かった。
(この人たちが、ただの悪ふざけで私を試している可能性もある)
バハートにいた頃も、歓迎を装った陰湿な嫌がらせを受けることは日常茶飯事だった。だが、もしこれが本当にカリオンの命令だった場合、従わなかった時のリスクの方が大きすぎる。
シャビアンが覚悟を決めて桟橋へ足を踏み出そうとした、その時――。
「まあ、殿下。こんなところで何をなさっているのですか?」
ロザリンが、何食わぬ顔で楽しげに近づいてきた。にこやかに目を瞬かせる。
「その離れの庭園へ行かれるのですか? でしたら、こちらへいらっしゃいませんか?」
彼女は湖畔の、別の安全な散策路を指差した。
「いいえ。お会いしなければならない方がいるんです」
相手が本当にカリオンかどうかは分からない。だが、どんな事情があろうとも、自分はあの小舟に乗らなければならないのだと、シャビアンの瞳が語っていた。
ロザリンはそんな彼の頑なな決意を瞬時に察した。止められないのであれば、選択肢は一つしかない。
「でしたら、私もご一緒してよろしいですか?」
ロザリンは冷たく黒い湖面を見つめながら、わずかに震える手でドレスの裾を整えた。
(私、水は本当に大嫌いなんだけど……!)
それでも、この幼いシャビアンだけをあの小さな舟に乗せて送り出すわけにはいかなかった。
二人の動向を見て、バハートの使節たちの顔色がさっと青ざめた。慌てて二人を止めようとしたが――。
「手を貸していただけますか?」
水を極限まで恐れるロザリンは、退路を断つようにシャビアンへ手を差し出した。シャビアンはその小さな手をしっかりと取る。
ロザリンはぎゅっと目を閉じたまま、意を決して小舟へと飛び乗った。
「ふふ。夜の舟遊びというのも、なかなか風情があって素敵ね」
ロザリンは星明かりを冷たく映した黒い湖面を見つめながら、引きつった笑みを浮かべた。
魔法の触媒によって自動で駆動する小舟は、音もなくゆっくりと滑り出す。
暗い湖の中央へと向かって――。
急ぎ足で警備計画の再編成を終え、宴会場へ戻ってみたものの、そこにシャビアンとロザリンの姿はなかった。
胸騒ぎを覚え、周囲の侍従たちに尋ねて回った結果、二人が向かった場所をようやく突き止めた。
「どうしてこんな夜に湖へ行ったんだ。危ないだろう!」
「閣下、どちらへ!?」
「ちょうどいいところに来た、バトゥ。灯りを持てるだけ持ってついて来い!」
私は暗闇を切り裂くような速歩で歩き出し、提灯を掲げた警備兵たちを引き連れて湖畔へと急行した。
すでに湖の周囲には、ただならぬ人だかりができていた。シャビアンの侍従たちとロザリンの侍女たちが必死に明かりを掲げ、その周囲にはバハート使節団の面々も固まっている。
(何だ、これは……?)
そして湖面へと目を向けた瞬間、心臓が跳ね上がった。
(どうして二人が一緒にいるの!?)
二人は小さな舟の上にいた。こんな夜更けに。
何よりも、ロザリンは水が大の苦手なはずなのに――。
私が連れてきた衛兵たちの灯りが加わり、闇に包まれていた湖面が一気に明るく照らし出された。平静を装ってはいるものの、恐怖のあまり青ざめ、ガタガタと震えているロザリンの唇がはっきりと見て取れた。
「……どうして、あんな真似を……」
私は強い不安に駆られながら呟いた。
ロザリンは以前、この湖に溺れたあとに目を覚ました。その出来事が強烈なトラウマとなり、彼女は水を極端に恐れているのだ。
詳しい状況を確認しようと、近くにいる者たちへ歩み寄ろうとした、まさにその時――。
「えっ!?」
「あ、危ない!」
周囲の人々から悲鳴が上がった。
小舟が不自然にわずかばかり傾いたかと思うと――次の瞬間、激しくひっくり返った。
まるで、最初からそうなるように誰かが冷酷に仕組んでいたかのように。
人は極度の動揺と恐怖に直面すると、頭の中が完全に真っ白になるものらしい。
私の脳裏には、ただ一つの事実しか浮かばなかった。
――ロザリンは、泳げない。
「公爵様! お待ちください!」
バトゥたちの制止する声も耳に入らなかった。私は即座に地面を蹴って駆け出し、そのまま冷たい湖へと身を投げた。
冷水が全身を包み込んだことで、皮肉にも少しだけ冷静さを取り戻した。水中で素早く状況を判断する。
この人工湖は、ただの穏やかな池ではない。大雨の際に水を逃がすための巨大な排水水門が設けられている。つまり、水面は静かに見えても、水中には確実で容赦のない流れが存在しているということだ。
シャビアンは左側――湖の中央にある離れの庭園へと続く緩やかな流れに乗っていた。
「た、助けて……っ! ぷはっ!」
一方でロザリンは、水流が最も強くなる排水水門の方向へと、みるみるうちに流されていた。
(シャビアンは“神に愛された子”だ……!)
あの高いテラスから落ちた時でさえ、彼は無傷で生き延びた。しかも、このまま庭園側へ流されれば、岸辺の石垣や植物に引っかかって自然と助かる可能性が非常に高い。現にシャビアンのいる場所は流れも緩やかで、大きな怪我をすることもないはずだった。
だが――。
(ロザリンは、水を死ぬほど恐れている!)
過去の記憶のせいで、ロザリンは完全にパニック状態に陥っていた。本来なら力を抜いて水に身を任せた方が浮力を得られる状況なのに、今の彼女にそんな冷静な判断ができるはずもない。もがけばもがくほど、容赦のない水流は彼女をさらに底無しの深みへと引きずり込んでいく。
「た、助け……っ」
ロザリンの美しい金色の髪が一瞬だけ水面に揺らめき、そして吸い込まれるように沈んだ。それきり、いくら待っても浮かび上がってこない。
その瞬間、私が選んだのは――。
「ロザリン――!」
私は深い水中へと沈んでいくロザリンの、今にも消え入りそうな青白い手を強くつかみ取った。その華奢な肩を抱き寄せ、必死に水を掻いて岸へと向かう。
すでに意識を失い、私の腕の中でぐったりとしているロザリンの呼吸は、恐ろしいほど弱々しかった。
(だめだ……だめよ、死なせない……!)
私は必死に彼女の体を抱きしめた。
もし、このままロザリンが目を覚まさなかったら?
目を覚ましたとしても、私のことをすべて忘れてしまっていたら?
(また……あの孤独な世界に戻ってしまうの?)
水に落ちたことが引き金となり、この世界へとやってきたロザリン。もし彼女が再びこの水の中へと消えてしまったら――彼女は、再びあの場所へ戻ってしまうのではないか。
これまで何度も命を懸けて失敗を重ねてきた経験が、私の心を恐怖で支配する。それでも、失うことが何よりも怖かった。ロザリンは、今や私にとって、この世界で唯一無二の「家族」と呼べる存在なのだから。
口の中に流れ込んできた不快な湖水のせいか、それとも今にも泣き出しそうな胸の痛みのせいか、息が詰まるような窒息感に襲われた。
その時、ふと視線を感じて目を向けると、そこにはシャビアンの青い瞳があった。
「……」
流れに乗って無事に離れの庭園へと辿り着いたシャビアンは、冷たい石垣の岸辺にしがみついていた。全身をずぶ濡れにしたまま、言葉にできないほどの衝撃を受けた表情で、じっと私を見つめている。
(私は……)
仕方がなかった。
私はシャビアンに対して猛烈な申し訳なさを感じながらも、それを振り切るようにさらに強く腕を動かした。
仕方がなかったのだ。
君は助かると分かっていた。神の加護がある。
けれど、ロザリンは――彼女は本当に、今ここで死んでしまうかもしれなかったのだから。彼女は、私がこの見知らぬ世界でようやく見つけた、大切な家族なのだから。
「閣下!」
「皇女殿下はご無事ですか!?」
ようやく水面から這い上がり、腕の中で冷たくなっているロザリンを地面に横たえた。今にも命の灯火が消えそうな彼女の姿に、私は迷うことなく心肺蘇生を開始した。胸骨の位置に正確に手を当て、己の体重を乗せて規則正しく圧迫する。
「皇女殿下!」
「早く治癒術師を呼んで来い、何をしている!」
騒然となる周囲の悲鳴や怒号を背に受けながら、私はロザリンの青白い顔へと向き直った。
人工呼吸が必要だ。
見ている人間の目は多い。身分や醜聞を騒ぎ立てる者もいるだろう。だが、今はそんな高貴な建前を気にしている場合ではなかった。何よりも、彼女の命の方が重い。
私はロザリンの鼻を指でつまみ――。
その唇が触れそうになった、まさにその瞬間。
「ごほっ……! げほっ!」
ロザリンが激しく咳き込み、肺に溜まっていた大量の水を吐き出した。
周囲から一斉に地を揺るがすような安堵の声が上がる。
ロザリンはうっすらと、弱々しく目を開いた。何かを必死に訴えかけようとして唇をかすかに動かしたが、まともな声にはならない。そのまま安堵したように、再び意識を失ってぐったりと力を抜いた。
「……」
周囲は、一瞬にしてしんと静まり返った。
近くで凝視していた者でなければ、この暗闇と角度のせいで、私とロザリンが深い口づけを交わしたかのように見えたかもしれない。
「何をしている。早く毛布を持って来い!」
私の鋭い一喝で、急激に体温を失っていくロザリンの体を、侍女が慌てて持ってきた厚手のショールで包み込んだ。その声で我に返った人々が、一斉にロザリンの周囲へと駆け寄ってくる。温かな毛布が何枚も彼女を覆い、侍女たちが震える手でその体を必死にさすり始めた。
ようやく、私は一息ついて我に返った。
(シャビアンは……)
恐る恐る、シャビアンの方へと視線を向けた。
彼もまた全身をずぶ濡れにしたまま、いつの間にか岸へと上がっていた。どうやら冷宮の侍従の一人が機転を利かせたらしく、騎士の助けを借りて湖を泳ぎ渡り、シャビアンを速やかにこちら側へと連れ戻してくれたようだった。
「……殿下」
誰かが遠慮がちに声をかけた。
私は侍女に支えられて小さく震えているシャビアンのもとへ、重い足取りで歩み寄った。
彼に、一体どんな言葉をかければいいのか分からなかった。
――お前は神に愛されているから、放っておいても死なないと信じていた。
そんな冷徹な理屈を、この傷ついた子供に言い訳したところで何の意味もない。
(……私の心が、ロザリンへと傾いているのは紛れもない事実だ)
シャビアンのことも、心から大切に思っている。けれどロザリンは、もはや私にとって命を分かち合う家族同然の存在だった。あの一刻を争う極限の状況下で、数え切れないほどの理屈や言い訳を頭の中で並べ立てながらも、結局のところ私がロザリンを助けに向かったのは――彼女が私にとって、それほどまでに絶対的な存在だったからに他ならない。
「……私は大丈夫です」
シャビアンは力なく、小さく頭を下げた。濡れそべった銀色の髪から、冷たい水滴がぽたぽたと芝生に落ちていく。
そして、彼はゆっくりと顔を上げ、私を見つめた。
その潤んだ青い瞳と視線が交わった瞬間、私は彼の胸の奥にある感情を、残酷なほどはっきりと理解してしまった。
「……行ってください。皇女殿下のところへ、行きたいのでしょう?」
その静かな言葉には、どうしても隠しきれない、深い恨みと絶望が滲んでいた。
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【因縁の場所での罠】
かつてシャビアンが突き落とされた「ユリ宮」の人工湖で、バハート使節団の誘導によりシャビアンとロザリンが小舟に乗せられ、何者かの策略によって湖に転落した。
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【残酷な選択と救出】
水流の激しい水門側へ流された「泳げないロザリン」と、流れの緩やかな庭園側へ流された「神の加護を持つシャビアン」。主人公は葛藤の末、唯一無二の家族であるロザリンを優先して救った。
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【シャビアンの絶望】
自力で生還したシャビアンは、主人公がロザリンを必死に救う姿(口づけを交わしたように見える救命措置まで)をすべて目撃し、主人公に見捨てられたという深い恨みと絶望を抱くに至った。