こんにちは、ピッコです。
「抱かれるたびに泣くくせに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
25話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 暴かれた残酷な真実
「ようやく目を覚まされたのね?」
大公妃ヘレナの応接室。足を踏み入れたクレセンティアの姿を認めるなり、ヘレナは張り付いたような作り笑いを浮かべた。クレセンティアが毅然と、しかし穏やかに微笑み返すと、ヘレナの底意地の悪い目がわずかに動揺で揺れる。
「顔色がよく見えて安心したわ。元気な子を産むには、お母さんも健康でなくてはならないものね」
「……ご用件は何でしょうか?」
クレセンティアは、喉元まで出かかったため息をどうにか腹の底へこらえた。ヘレナは不満げな視線を向けると、テーブルの上に置かれた大ぶりな機械――電話機へ手を伸ばした。
「あなたと直接お話ししたいという方がいるのよ」
大公邸では応接室ごとに電話が設置されていた。それは夫であるエーリッヒが、電気の敷設に続いてこの帝国で二番目に普及させた、新しい文明の利器だった。
しかし、その妻であるクレセンティアは、これまで一度も電話を使ったことがなかった。滅びた祖国を離れた彼女には、この帝国に自ら電話をかけるような相手など一人もいなかったからだ。
彼女にとって電話は、時計や花瓶と同じような飾りにすぎなかった。だから、こうして実際に使われる様子を見るのは新鮮で、同時に酷く不気味だった。
「電話ですか?」
「ええ。初めてでしょう?」
ヘレナはクレセンティアの物珍しそうな視線に気づくと、得意げに顎を上げた。交換手が目的の相手につないでくれるのを待ちながら、小さく咳払いをする。
「電話はこうやって使うのよ」
ヘレナは長い柄の上下についた小さなラッパ状の受話口を、耳と口に順番に当てて見せた。上側で相手の声を聞き、下側に向かって話すのだと身ぶりで示す。
クレセンティアは黙ってその様子を見つめた。いったいなぜ突然、誰かと電話をしなければならないのか、全く見当がつかなかった。
その時、交換手が回線をつなぎ、ヘレナの顔が華やかに綻ぶ。
「お嬢様、私です。ようやくクレセンティアが目を覚ましました。お待たせしましたね」
ヘレナは冷ややかにそう言うと、受話器をクレセンティアの目の前へと差し出した。
クレセンティアは戸惑いながらもそれを受け取り、おそるおそる耳に当てた。ザーッという雑音の向こうから、聞き慣れた優しい声が聞こえてくる。
『――大公妃殿下?』
フィリピナだった。
クレセンティアは思わず安堵のため息をつきそうになった。本来、王族は人前で感情を表に出してはいけないと教えられてきた。それでも、反射的に息が漏れてしまう。
先日のティーパーティーの日、エーリッヒはフィリピナの大公邸への出入りを禁じたはずだった。そのため、もう彼女に悩まされることはないだろうと安心していたのだ。
だが、ここは帝国だった。レギナ王国の常識を超え、帝国の人々はクレセンティアの予想もしない方法で近づいてきたのだ。
『殿下、私です。フィリピナです。聞こえますか?』
「……ええ、フィリピナお嬢様。聞こえていますわ」
クレセンティアが答えると、隣ではヘレナが腕を組み、まるで面白い見世物でも眺めるように興味津々な様子で二人のやり取りを見守っていた。ヘレナの前でフィリピナと話すなんて、あまりにも気まずかった。
『ティーパーティーの日、大公殿下とご一緒でしたよね。きちんとご挨拶できなかったので、公爵夫人にご連絡をお願いしたんです』
「……はい」
『もし、あの日に何か耳にされたのなら、ごめんなさい。私、帝国の社交界に友人が多いんです。みんな私を思って言ってくれたことなんです』
「……」
それは表向き、とても誠実で思いやりのある謝罪の体をなしていた。しかしその言葉を聞いて、クレセンティアは忘れかけていたティーパーティーでの出来事を思い出し、受話器を握る手に自然と力が入る。
このまま話を続けても意味はないように思えた。
「お話は分かりました、お嬢様。詳しいことはまた後日……」
『殿下はご存じないでしょうけど』
会話を終えようとした、その時だった。フィリピナの控えめな声が、受話器の向こうから遮るように聞こえてきた。
『実は……私、大公殿下に恋をしていたんです』
クレセンティアの目つきが鋭くなり、その視線はヘレナへ向けられた。電話越しの会話を聞いていたヘレナは、勝ち誇ったように口元を吊り上げていた。
その笑みを見て、クレセンティアは乾いた唾を飲み込んだ。
ここで怒ってはいけない。さっき感情を見せかけてしまっただけでも十分だ。王族としての教育以前に、これは彼女自身の誇りの問題だった。
どこまでも穏やかに、そして気品を失わずに。クレセンティアはすべてを失った王女ではなく、この帝国の大公妃なのだから。少なくとも今はまだ。
「そうだったんですね。知りませんでしたわ」
クレセンティアが落ち着いた声で答えると、予想外の反応にフィリピナは戸惑ったように言葉を詰まらせた。
『……今知っていただければ十分です。とにかく、みんなあなたのことを心配しているんです。まあ、大したことではないんですけど』
「それで?」
『その日、男爵が殿下にすっかり夢中になっているようだったんです。だから私は、ほんの少し助言をして差し上げましたの。大公妃殿下は宝石や服には興味がなさそうだったので、お花なら気に入っていただけるかと思って。……お気に召しましたか?』
フィリピナの告白に、クレセンティアは思わず小さく口を開いた。
――そういうことだったのね。
突然、見知らぬ男爵から花が届いた理由は、フィリピナが裏で手を回していたからだった。
『それにしても、その状況で新しい求婚者まで作ってしまうなんて、本当にすごいですね。私も見習わないと』
「花は……ありがたくいただきました。でも私は既婚者ですから」
『それでも、念のためですよ。殿下も、あの日は男爵にずいぶん親切になさっていましたし』
「それは私が、あの方に失礼をしてしまったからで……」
終始落ち着いて受け答えしていたクレセンティアは、ふっと微笑んだ。その余裕ある態度に、ヘレナは眉をひそめる。クレセンティアは優雅な笑みを崩さないまま、穏やかに続けた。
「私は『大公妃』ですもの。そんなことをするはずがありません。私の夫がどれほど立派な方か、フィリピナ嬢もよくご存じでしょう?」
『……そうですね』
「大公妃」という言葉を強調して口にすると、受話器の向こうからフィリピナの荒い息遣いが聞こえてきた。しかしクレセンティアは、相手の怒りに気づいていないふりをして、穏やかに挨拶を続けた。
「お気遣いいただき、本当にありがとうございました。また今度、大公邸でお会いできると嬉しいです。それでは失礼します」
『……はい、妃殿下』
フィリピナがぎこちなく返事をしたところで、通話は終わった。クレセンティアは静かな表情のまま、ヘレナへ視線を向けた。
「ヘレナ、私に何か言いたいことがあるの?」
「……」
「ヘレナ?」
呆然とクレセンティアを見つめていたヘレナは、ようやく我に返ったように身じろぎした。喉を鳴らし、何か言おうと口を開くが、クレセンティアのまっすぐな眼差しに気圧されたのか、結局何も言えず、ただ不快そうに手を振った。
「ありません。お下がりください」
「分かりました」
クレセンティアは落ち着いて一礼すると、その場を後にした。
自室へ戻り、ようやく一人になると、張りつめていた心が崩れ落ちた。
「……お母様」
淡い桃色の唇から、恋しさがこぼれ落ちる。
もし母シェラが生きていて、王家がまだ健在だったなら――。あんな醜い人たちの本性を知らずに生きていられたかもしれない。そうでなくても、帰る場所だけはあったはずだ。
けれど今のクレセンティアには、帰る場所などない。彼女はベッドにうつ伏せになり、静かに涙を流した。
疲れた。もう、何もかもに。
『アルビン・ド・ロドヴィニの行動追跡報告書』
執務室のデイビッドは、凍りつくような空気の中、主人を見つめていた。
エーリッヒは冷え切った目で、提出された報告書に目を通している。
アルビン王太子の行方は、依然として謎に包まれたままだった。何度か彼に似た人物を見つけたものの、どれも王太子本人ではなかった。
「……」
無意味な報告ばかりが並ぶ報告書を読み進めるうちに、エーリッヒの目つきは鋭さを増していった。最後のページまで目を通した彼は、報告書を机の上に置き、命じた。
「追跡を続けろ」
「かしこまりました。ですが、追跡部隊はいつまで維持なさるおつもりですか?」
「王太子を見つけるまでだ」
エーリッヒは報告書の表紙を指先で軽く叩いた。
アルビン・ド・ロドヴィニ。彼が調べた限りでは、王太子としての評判は、妹のクレセンティアと比べてもひどいものだった。
アルビンは部下をまったく大切にしなかった。気に入らないことがあればすぐに部下を入れ替え、贅沢を好んで毎年国庫を浪費し、不足した資金を補うために奴隷売買にまで手を染めていた。
もしアルビンが次期国王になれば、レギナの奴隷貿易はさらに活発になるのは目に見えていた。その利益が国庫に入るだけならまだ救いはあったが、彼はそんな人物ではない。
つまり、アルビンはジグによる革命を成功へ導いた最大の功労者と言っても過言ではなかった。実際、もしクレセンティアが王太女だったなら、ジグの革命は失敗していただろうという分析もあった。
王女は王太子とは違い、慈悲深く謙虚な人物だった。しかも、美しかった。そんな王女を、国民が愛さずにいられるはずがない。
しかし、年長者を優先して王位継承権を与えるレギナ王国の伝統のため、彼女が王太女になることはできなかった。
それはレギナにとって悲劇であり、エーリッヒにとっては幸運でもあった。
クレセンティアは今でもレギナを愛している。ロドヴィニ王家が滅んだことは、レギナが彼女の家族を見捨てたことの証でもある。だからこそ、彼女は苦しみ続けている。
だが、今のクレセンティアの変化は一時的なものにすぎない。エーリッヒがアルビンの悪行を知らせれば、彼女もきっと目を覚ますはずだ。そうすれば、クレセンティアを引き留めることができる。
だから、何としてでもアルビン・ド・ロドヴィニを見つけなければならない。いつしかエーリッヒは、自分のその思い込みを真実だと信じ込んでいた。
「捜索を続けろ。死体であっても見つけ出せ」
――クレセンティアを引き留められると信じる、そのむなしい希望にすがりながら。
大公妃と侍女を乗せた馬車がゆっくりと動き出した。
執事や使用人たちに見送られながら、四輪馬車は走り始める。広い庭園の道を進む馬車を送り出すため、大公邸の重厚な門が左右に開かれた。
馬車に乗ったクレセンティアは、小さな窓から広大な屋敷を振り返った。無数にある窓のどこかから、ヘレナがこちらを見ているのだろう。彼女は、本当にクレセンティアが教会へ向かうのか確かめたいはずだ。外出すると言った時、疑いに満ちた表情を浮かべていたのだから。
だが、クレセンティアは本当に教会へ向かう。ただし、その目的は祈りでも懺悔でもない。
だからこそ、クレセンティアはあらかじめ護衛騎士のリーナスを別の任務へ向かわせておいた。彼をまくことで、密かに抜け出すためだった。
「アントンはアルビンを見つけたかしら?」
クレセンティアは、期待と不安が入り混じった声で、ヒルダに尋ねた。
今朝、アントンはヒルダを通じて伝言を寄こしていた。アントンは、ボレン北端にある「南の湖の聖堂」で待っているという。なぜ屋敷へ戻ってこなかったのか、アルビンを見つけたのかについては何も書かれていなかった。そのためクレセンティアは不安を抱えながら、屋敷を抜け出す機会をうかがっていたのだ。
エーリッヒはイヤリングを贈って以来、ほとんど毎日のように彼女を抱いた。クレセンティアが「一日一回まで」という条件を強く主張したおかげで、最初の頃のように激しく求められることはなくなった。
それでも毎回あまりにも執拗だった。昨日などは、関係を終えて寝室を出ようとした彼女を引き止め、かつての愛称である「ティア」とまで呼んだ。
だからこそ、彼の頬を叩き、ひどい言葉を浴びせたのだ。
『あなたなんて最低。ほんの一時でもあなたを愛したことを後悔してる』
揺れる馬車の中で、クレセンティアは唇を強く噛んだ。言い過ぎだっただろうか。あそこまで言わないほうがよかったのだろうか。
「違う」
しばらく考え込んでいたクレセンティアは、小さく首を振った。昨日のエーリッヒの振る舞いに比べれば、自分の言葉などまったく行き過ぎではない。彼は彼女を傷つけ、挑発したかったのではないか。
エーリッヒは彼女を「娼婦」と呼んだ。娼婦や売女――そんな嫌悪感を抱かせる言葉ばかりを口にした。そうすることで、クレセンティアに嫌悪感を植え付けようとしているようだった。
『だから私のもとを去るのか? だから子どもだけ産んで、私を捨てるつもりなのか』
なぜエーリッヒは、日に日にクレセンティアをひどく苦しめるようになったのだろう。それでも昔は、たとえ見せかけだけでも彼女に優しく接していたのに。
「もう、その必要すらないってことね」
クレセンティアは平らな腹にそっと手を当てた。今月はまだ月経が始まっていない。けれどもともと生理不順だったことを思えば……。
「王女様、着きました」
物思いにふけっていたクレセンティアは、ヒルダの声に顔を上げた。馬車は鬱蒼とした森の中に停まっていた。聖堂の前で馬車が止まると、クレセンティアは大きく深呼吸をした。
乾いた小枝が靴の下でぱきぱきと音を立てた。
深くフードをかぶったクレセンティアは、警戒するように周囲を見回した。リーナスを撒いてここまで来たとはいえ、いつ彼が現れるかわからない。彼は優秀な騎士なのだから。
(まだ大丈夫なはず)
たとえリーナスが全力で追ってきても、ここへ着くまでには三十分はかかる。クレセンティアは気持ちを落ち着けると、聖堂へ向かって歩き出した。
都の外れに建つ古びた聖堂は、長年放置されていたかのように荒れ果てていた。壁の一部は崩れ落ち、残った壁には青々とした苔がびっしりと生えている。
クレセンティアはマントの前を合わせた。この場所の空気は、どこか一段と冷たく感じられた。
(帝国にもこんな場所があるのね)
白い吐息を漏らしながら、クレセンティアは思った。帝国のすべては華やかで、きらびやかなものばかりだと思っていたからこそ、このような一面があることに驚かされた。
クレセンティアはヒルダとともに、慎重に聖堂の中へ足を踏み入れた。
「……誰かいますか?」
「王女様」
小声で呼びかけると、柱の陰から待ち望んでいた顔が現れた。
「アントン!」
相手の姿を認めたクレセンティアの表情が、ぱっと明るくなった。彼女は嬉しそうに微笑み、アントンのもとへ駆け寄った。
「元気だった? 怪我をしたり、体を悪くしたりしていない?」
「私は大丈夫です」
真っ先に自分を気遣う挨拶に、アントンは柔らかな笑みを浮かべた。ぶっきらぼうに話すその顔は、少しやつれて見えた。
久しぶりの再会に、クレセンティアの目には涙がにじんだ。
「この間、ずいぶん痩せたわね。苦労したでしょう……」
「苦労なんてしていません。私は元気です」
アントンは力強く答えた。クレセンティアは忠実な騎士の返事を聞き、静かにうなずいた。気を緩めれば、これまで必死に押し殺してきた弱い心があふれ出してしまいそうだった。
隣でヒルダがすすり泣く。侍女の涙声を聞き、クレセンティアは気持ちを落ち着かせた。ここで取り乱してはいけない。彼女はまだ、この二人にとっての、信じ、従ってくれる王女なのだから。
クレセンティアは小さく息を吐き、より落ち着いた口調で尋ねた。
「でもアントン、どうして大公邸へ戻ってこなかったの? ここで会おうと言った理由は?」
「実は……」
アントンは言葉を濁し、自分が隠れていた柱のほうへ視線を向ける。クレセンティアもつられてそちらを見た。
しばらくして、柱の陰に人影を見つけた彼女は息をのんだ。
「アルビン!」
ずっと会いたかった淡い銀髪が、柱の影で静かに揺れていた。クレセンティアは思わず駆け出し、柱のほうへ走っていった。
「ティア」
やはりアルビンだった。彼女は兄の姿を見た瞬間、勢いよく抱きついた。
「うっ、アルビン……」
クレセンティアの目から熱い涙があふれ落ちた。腕の中に感じる温もりに胸を打たれ、彼女は天に感謝した。本当はもう死んでしまったのではないかと思っていたのだ。長い間まったく消息がなかったから。けれどアルビンは生きていた。
「よ、よかった……本当に……」
「ティア……」
アルビンもまた感極まったように声を詰まらせた。肩が大きく震えていた。
「ほら、顔を見せて……」
「この間ずっと、どこでどうしていたの?」
「助けてくれた人がいたんだ。その人がいなかったら、私も命を落としていただろう」
「その人は……誰なの?」
クレセンティアは思いもよらない話に、そっと問い返した。革命後、レギナではジグによる新王朝が樹立され、急速に国内は安定へと向かっていた。旧王朝を懐かしむ者は現れず、人々は新しい王朝を受け入れているようだった。そんな中で、アルビンを助ける者がいたというのだ。
「それは後で詳しく話すよ。今はその時間がない」
アルビンは周囲を警戒しながら、小声で言った。クレセンティアは湧き上がる疑問をひとまず飲み込み、小さくうなずく。
「わかったわ」
「それよりティア、驚かずに聞いてくれ」
アルビンはクレセンティアの両肩をしっかりとつかんだ。これまで見たこともないほど真剣な表情だった。初めて見る兄のその厳しい眼差しに、クレセンティアは思わず息をのんだ。
心臓が大きく脈打った。嫌な予感がした。
「……何?」
「……お前の夫のことだ」
「エーリッヒが……?」
突然出たその名に、クレセンティアの心臓が激しく脈打った。
アルビンは妹を見つめながら、静かに口を開いた。
「ティア。お前の夫、エーリッヒ・フォン・フェテレは……人殺しなんだ」
「……え?」
「……あいつが、お母様を殺したんだ」
クレセンティアの瞳が大きく見開かれた。あまりにも衝撃的な言葉に、頭の中が真っ白になる。
「それ……どういうことなの……?」
かすれるような小さな声で問いかけるが、アルビンは黙ったままだった。その険しい表情を見たクレセンティアは、思わず口元を押さえる。
(まさか、冗談……? そうよ、きっと冗談だわ)
アルビンは子どもの頃から悪戯好きだった。でも、これは冗談にするにはあまりにも悪質すぎる。エーリッヒがお母様を殺したなんて。
「……冗談、でしょう?」
怯えたような笑みを浮かべたクレセンティアは、涙ぐみながらアルビンの肩を軽く叩いた。
「驚いたじゃない。どうしてそんな冗談を言うの」
「冗談じゃない、ティア。本当なんだ。本当に、お前の夫が――!」
「違う!」
クレセンティアは顔をしかめ、叫ぶように声を上げた。エーリッヒは一度も帝国を離れたことがない。それなのに、帝国にいた人間が、どうしてレギナにいたシェラを殺せるというのか。アルビンの勘違いに違いない。
「違うわ」
もし本当にエーリッヒがシェラを殺したのだとしたら――クレセンティアは彼を決して許せない。かつて彼を愛していた自分自身でさえ、許すことはできなかった。
「きっと、な、何か誤解があるはず……」
視界がぐらりと揺れ、耳の奥では甲高い耳鳴りが響く。彼女は両耳を押さえた。
「誤解よ……」
「ティア! お前の夫は……!」
アルビンはもう一度大声で叫んだ。しかし、その言葉はクレセンティアの耳にはまったく届かなかった。彼女は耳鳴りを振り払おうとするように、激しく首を振る。
「ま、待って……」
「エーリッヒ・フォン・フェテレ――あいつがジグに武器を渡した。その銃で、ジグはお母様を撃った。あの銃で……!」
「やめて!」
クレセンティアはアルビンから身を引き、頭を抱えた。後ずさりしながら、両耳をさらに強く塞ぐ。耳鳴りに混じって、聞きたくない音が聞こえる。
「クレセンティア・ド・ロドヴィニ! しっかりしろ!」
現実から目を背けようとする妹に向かって、アルビンは声を張り上げた。血走った目で彼女を見据え、力強く言う。
「夫を捨てろ。実質、私と一緒に来るんだ。私はお前が必要なんだ。お前さえいてくれれば、ロドヴィニ家は再興できる」
「……え?」
涙を流し続けていたクレセンティアは、呆然と兄を見つめた。ロドヴィニ家を再興するなど、そんなことできるわけがない。息が詰まり、彼女は苦しげに胸を押さえながら首を振った。
「そんなこと……できるわけない……」
「いや、できる」
アルビンの瞳は自信に満ちて輝いていた。
「お前が先頭に立てば、レギナの民は俺たちを支持してくれる。お前さえ力を貸してくれれば、勝機はある」
夢を見るような言葉が、途切れることなく次々と紡がれる。クレセンティアは悲しげに微笑んだ。子どもじみたアルビン。そんなのは、ただの理想論に過ぎない。
滅びた王朝の王族を歓迎する者などいない。クレセンティアでさえ理解している現実を、どうして兄はわからないのだろう。もし人前に姿を現せば――石を投げられずに済めば、それだけでも幸運なはずだった。今、生きているだけでも奇跡だった。だからこそ、生き延びたことに感謝し、身を隠して暮らさなければならない。
アルビンは革命の渦中にいたのに、こんな現実離れした話をするなんて。誰かに都合のいい夢でも吹き込まれたのだろうか。
クレセンティアは胸を痛めながら首を振った。
「いいえ、それは違うわ」
きっぱりと否定した彼女は、涙をたたえた瞳でアルビンを見つめた。アルビンは首をかしげる。
「違うって?」
「ロドヴィニは、もう終わったの」
「……もう一度言ってみろ」
現実を突きつけるクレセンティアの言葉に、アルビンの顔が険しくゆがんだ。自分の思い通りにならないときに見せる、怒りに満ちた顔。幼い頃のクレセンティアなら、その表情を見るたびに兄へ譲歩していた。だが、今は違う。兄にも現実を受け入れてもらわなければならなかった。
「ロドヴィニ王朝は、もう歴史の中へ消えたの。もうアルビンは王太子じゃない。私も、王女ではない」
「……そう」
「私たちはもう、何者でもないの」
「ティア、お前は……!」
怒りに駆られたアルビンがクレセンティアへ詰め寄ろうとした、その時だった。
「王女殿下! 大公妃殿下!」
遠くから護衛騎士リーナスの叫び声が響く。クレセンティアが思わず顔を上げると、ざわり、と葉擦れの音が鳴り、アントンとアルビンの姿は一瞬で消えていた。
そして、ほぼ同時に――。
「大公妃殿下!」
リーナスが駆け込んできた。礼拝堂へ飛び込んできた彼は、立ち尽くすクレセンティアを見つけると、翻るマントをなびかせながら駆け寄ってきた。
クレセンティアは慌てて涙をぬぐう。だが、目元の赤みまでは隠しきれなかった。
「大公妃殿下、どうされたのですか……いえ……」
息を切らしたリーナスは言葉を濁した。クレセンティアとヒルダの表情を見た彼は、何かを察したように目を見開く。
「何かあったのですか?」
クレセンティアはゆっくりと顔を横へ向けた。その時、彼女の視界に、アントンとアルビンが身を潜めている柱が映った。
(見つかってはだめ)
そう思った瞬間、彼女は反射的に手を前へ伸ばした。
「リーナス!」
クレセンティアはリーナスの腕をつかみ、慌てて叫んだ。周囲を見回していた彼は、不思議そうな表情で大公妃を見た。クレセンティアは、リーナスが再び柱のほうへ目を向けないよう、必死に言葉を続けた。
「ひ、秘密にしてほしいの」
「え? 何のお話ですか?」
「その……だから……私が……泣いてたことを……」
言い訳を探していたクレセンティアは、うつむきながら口ごもった。
「人目を避けて、一人で少し時間が欲しかったの。少し疲れてしまって」
大公妃は顔を隠すように両手で頬を覆った。その仕草を見て、リーナスは小さく息を漏らした。
「あ……はい。そういうことでしたか」
リーナスはいつも彼女のそばにいた。だからこそ彼は、クレセンティアが人前で涙を見せたがらないことをよく知っていた。そして、彼女の涙が乾く日などないことも。
クレセンティアの小さな頭を見下ろすリーナスの瞳は、静かに沈んでいた。彼は申し訳なさそうな表情を浮かべ、口を開いた。
「もう少しお時間が必要ですか。お許しいただけるのでしたら、私が見張っております」
「ううん」
クレセンティアは首を横に振った。赤くなった目元をハンカチで拭いながら、リーナスを見つめる。
「振り回してごめんね。大変だったでしょう」
「いいえ。私が気が利きませんでした。本当は、こういう時間が必要だったのでしょうに」
リーナスは穏やかに微笑んだ。その笑顔を見たクレセンティアも、かすかに微笑み返した。
(ごめんね、リーナス)
いつか――。
いつかすべてが終わる日が来たら。その時は、きちんと謝ろう。そう心に誓いながら。
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大公妃としての毅然とした対応とフィリピナの策略
クレセンティアは大公妃ヘレナの応接室で、電話を通じて敵対的な令嬢フィリピナから挑発を受けます。しかし、大公妃としての気品と余裕を崩さずに毅然と応対し、フィリピナが裏で手を回して自分に男爵からの花を届けさせていた事実を突き止めます。
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エーリッヒの執着とアルビン捜索への執念
夫のエーリッヒは、クレセンティアを精神的に追い詰めながらも彼女を自分の元に引き留めたいという歪んだ希望を抱いており、彼女の兄であるアルビン王太子の悪行を暴いて現実を突きつけるため、執拗に彼の行方を追跡させ続けています。
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荒れ果てた聖堂での再会と、明かされた残酷な真実
護衛を撒いて「南の湖の聖堂」へと向かったクレセンティアは、騎士アントンと兄アルビンに再会します。そこでアルビンから「エーリッヒが母の仇(革命軍に武器を渡した黒幕)である」という衝撃の真実を告げられますが、現実離れした王朝再興を語る兄の狂気と、夫への不信感の間で彼女の心は激しく揺れ動きます。