こんにちは、ピッコです。
「抱かれるたびに泣くくせに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
26話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 決壊した人形の心
最近のボレンの高級商店街には、誰もが見慣れたある光景があった。
大公の紋章を戴いた黒塗りの馬車が、店舗の前にずらりと停まっている光景だ。
最初はマヒス宝石店だった。当時、周囲の商人たちは店主のデリック・マヒスをひどく羨ましがったものだ。だが、いざ自分たちの番が回ってくると、もう誰も羨ましいとは言わなくなった。
氷のように冷徹な大公エーリッヒの目にかなう一品を用意しなければならないという重圧。万が一、彼の卓越した審美眼を満足させられなければ、店の評判は地に落ちかねない。商人たちにとって、それは名誉であると同時にあまりにも過酷なプレッシャーだった。
「ようこそお越しくださいました、大公殿下。本日は何をお探しでしょうか?」
エーリッヒの鋭い一瞥が、ミルロ衣装店の中を静かに見渡した。彼が陳列棚に飾られたドレスへ視線を向けると、店主のアティナ・ミルロが華やかな笑顔で進み出てきた。
「もしかして、大公妃殿下がお召しになるドレスをお求めでしょうか?」
アティナは他の商人たちとは違い、まるでエーリッヒが訪れるのをあらかじめ知っていたかのように落ち着いていた。その態度に、エーリッヒは細めた目で問いかける。
「商店街に、私が仕立て屋を探していると噂でも広まっているのか?」
「噂は噂ですが……実は私、大公家からのご連絡をずっとお待ちしていたところだったのです」
アティナは陳列棚の奥から、大切そうに保管されていた上質な封筒を取り出した。封筒の表には、凛とした達筆な字で『大公妃殿下へ』と記されている。エーリッヒがその宛名を確認すると、アティナは静かに封筒を彼へと差し出した。
「昨年、大公妃殿下から直接ご依頼いただいた衣装カタログです。レギナ風のものではなく、帝国の最新流行をご覧になりたいとおっしゃっていましたので」
「大公妃が、そんなことを?」
エーリッヒは片方の眉を上げた。結婚して以来、クレセンティアはずっと頑なにレギナ王国の伝統的な服装ばかりを身につけていた。大公妃ヘレナは、それをクレセンティアの「哀れな頑固さ」だと切り捨てていた。滅びた王族としての、せめてものプライドを守るためだろう、と。
しかし今、目の前の店主が語る事実は、それとは全く異なるものだった。
「はい。お二人がご結婚された直後のことですわ。大公妃殿下はわざわざ侍女の方を遣わされ、『大公妃にふさわしい装いを整えたい』とおっしゃいました。それ以来、こうしてカタログは定期的にお受け取りくださっていたのですが……一度も実際のご注文には至りませんでした」
「その、大公妃の意向を伝えに来た侍女の名前を覚えているか?」
「もちろんでございます。すべて帳簿に記録しておりますので」
アティナは落ち着いた様子で手元の帳簿をめくった。そして目的の頁を見つけると、はっきりとその名を口にした。
「ええと……ヒルダ・ブレニケ様、ですね。この方が大公妃殿下の侍女でお間違いありませんか?」
「……ああ、そのとおりだ」
エーリッヒは短い返事とともに、じっと封筒を見つめた。自分が聞かされていた「事実」と、あまりにも食い違う現実に、胸の奥で冷ややかな違和感が広がる。
祖国から連れてきた忠実な侍女を直々に遣わしていたということは、クレセンティアは本当に、この店で帝国の服を仕立てるつもりだったのだ。それも、結婚してまだ間もない、未来に希望を抱いていた頃から。
それなのに、なぜヘレナは「彼女は帝国の流行など一顧だにしない」と言ったのだろうか。
エーリッヒはしばらく沈黙し、思考を巡らせた。やがて封筒から視線を外すと、低い声で店主に告げた。
「ひとつ、頼みがある。もちろん、礼は十分にしよう」
「何なりとお申し付けください、殿下」
「今から公爵夫人――ヘレナに一本、電話を入れてほしい。できれば、私にもその会話が聞こえるようにな。頼めるか?」
「難しいことではございませんわ。私は夫人に、何とお伝えすればよろしいでしょうか?」
「『大公妃殿下が以前ご注文された衣装カタログを、これよりお届けに伺います』と。……夫人がどんな反応をするのか、この目で見てみたい」
「かしこまりました」
アティナはすぐに深く一礼すると、壁際の受話器を手に取った。エーリッヒは腕を組み、彼女が交換手と話す様子を、冷徹な眼差しで静かに見守った。
「セリー伯爵……?」
教会での緊迫した密会を終え、大公邸へと戻ったクレセンティアを待っていたのは、思いがけない来客だった。大公妃の応接室で所在なさげに待っていたフロリアンは、彼女の声を聞くや否や、弾かれたように立ち上がった。
「お久しぶりです、大公妃殿下」
「ええ、お久しぶりですね」
クレセンティアは迎え出たヒルダに帽子を預けながら、ソファへと歩み寄った。そして、少し頬を赤らめて緊張しているフロリアンのために、温かいお茶を用意するよう命じる。
「どうぞお掛けになって。長らくお待たせしてしまいましたね。少し外出しておりましたの」
「いえ、突然お伺いした私の方こそ、非礼をお許しください」
フロリアンは軽く会釈をして着席した。侍女がお茶を用意するために部屋を退くと、クレセンティアも対面のソファへ優雅に腰を下ろす。フロリアンは、目の前に座る麗しき大公妃を見つめながら、意を決したように静かに唾を飲み込んだ。
「実は本日、どうしても殿下にお伝えしたいことがあり、不躾ながら参上いたしました」
「何でしょうか?」
手袋をゆっくりと外しながら見つめるクレセンティアの視線を受け、フロリアンは上着の内ポケットから一通の重みのある封筒を取り出した。
「こちらです……」
差し出された封筒を受け取った瞬間、クレセンティアの表情が微かに険しくなった。厚手の紙に押された美しい封蝋には、帝国皇室を象徴する厳格な紋章が刻まれていた。
「本日は、皇帝陛下の使者として参りました。どうぞ、お改めください」
フロリアンの硬い表情と真剣な声音に、クレセンティアは胸をざわつかせながら、ペーパーナイフで封を切った。
兄アルビンに会い、あの残酷な疑惑を聞いて帰ってきたばかりだというのに、今度は皇帝からの使者だという。あまりにも出来過ぎたタイミングに、嫌な予感が皮膚を刺す。
だが、広げた手紙に書かれていた内容は、拍子抜けするほど簡潔なものだった。
――近いうち、大公妃を宮殿の昼食会に招待したい。
ただ、それだけが記されていた。
「陛下のお招き、謹んでお受けいたしますわ。ですが……少し不思議ですね」
クレセンティアは手紙から顔を上げた。フロリアンは相変わらず緊張した面持ちのままだ。彼女は手紙を丁寧にたたみながら、どうしても拭えない疑問を口にした。
「なぜ皇帝陛下は、大公夫妻ではなく『私だけ』をお招きになったのでしょうか? 私にだけお話ししたい特別なことがあるのですか? それとも、何かの手違いでエーリッヒの名前が抜けてしまったのでしょうか?」
「……手違いではございません」
フロリアンは、ついにその時が来たというように静かに息をのみ、膝の上で両手を丁寧に重ね直した。
「皇帝陛下は、大公妃殿下と『お二人きり』でお会いになることを強くご希望されているのです」
「陛下が、私と……?」
クレセンティアは驚きに目を見開いた。
皇帝が自分と二人きりで会いたがっている理由など、全く思い当たらなかった。ましてや、自分がつい先ほど古びた聖堂でアルビンと密会したことなど、皇帝が感知しているはずもない。
(……いいえ、落ち着きなさい)
ふと浮かんだ最悪の懸念を、クレセンティアは理性で振り払った。彼女が教会でアルビンと会ったのは今日のこと。しかしフロリアンは、彼女が戻るよりも前からこの屋敷で待っていたのだ。
つまり、この招待状はクレセンティアが外出するより前に、すでに皇宮で認められていたもの。
(それなら、どうして……?)
理由がわからない。多忙を極める帝国の最高権力者が、自らの親友でもあるセリー伯爵を使者として送り、大公を排除して自分だけを招く理由。
クレセンティアはフロリアンをじっと射すように見つめながら尋ねた。
「理由を教えていただけますか、セリー伯爵」
「それは……」
「伯爵も、私の立場はよくご存じでしょう。以前とは状況が大きく変わりました。私にとって、気に掛けなければならない不穏なことが増えているのです」
「そのお気持ちはよく理解しております。しかし、陛下は――」
「……陛下ご自身のご用件ですので、臣下である私が軽々しく口にすることはできません」
「私の味方になってくださると、以前そうおっしゃいましたよね?」
クレセンティアは手紙を膝の上に置き、姿勢を正してフロリアンをまっすぐに見つめた。
「セリー伯爵。隠さずに教えてください。お願いします」
「……」
フロリアンは困惑したように首筋へ手をやった。クレセンティアは焦ることなく、ただ静かに彼の返事を待つ。
フロリアン・セリーはエーリッヒの重要な事業の協力者であり、彼自身も大公に劣らず多忙な身の上だ。そんな男が、たった一通の招待状を届けるためだけに、わざわざ自ら大公邸へ足を運ぶだろうか。皇宮の使者を立てれば済む話だ。つまり、彼は自ら志願してこの役目を引き受けたのだ。
そして、先ほどから終始見せているこの過剰な緊張。それは彼が、この手紙の背後にある「真実」を知っているからに他ならなかった。
クレセンティアは、かつて自分に好意を示してくれたフロリアンの誠実さに、最後の望みを託した。
「教えてください、伯爵。なぜ皇帝陛下は、私だけにお会いになろうとしているのですか?」
「それは……」
フロリアンはしばらく激しくためらったあと、目の前に置かれた冷たい水を一口含んだ。そして、覚悟を決めたように深く息を吐き出す。
「皇帝陛下は……大公妃殿下に、謝罪なさりたいのです」
「謝罪……ですか?」
予想外の単語に、クレセンティアは小首をかしげた。彼女が本当に何も知らない様子であることに戸惑いながらも、フロリアンは言葉を絞り出すように続けた。
「先の、狩猟場で交わされた『あの会話』についてです」
「ああ……」
クレセンティアは、フロリアンの言葉の意味を察して、小さく息を漏らした。あの狩猟場で、皇帝が彼女の心を深く傷つけるような不躾な発言をしたことを、後から気に病んでいたのだろう。わざわざ伯爵を遣わしてまで謝罪の場を設けようとするとは、一国の主としては異例の配慮だった。
――それでも、私が本当に謝ってほしい相手は、別の人なのに。
クレセンティアはどこか寂しげな微笑を浮かべ、手紙をテーブルの上に置いて言った。
「それなら、お気持ちだけで十分です。謝罪の意思はありがたくお受けします。ですが、私が本当に謝罪を望む相手は、皇帝陛下ではありませんから」
「……それから、殿下」
「はい?」
フロリアンはクレセンティアを痛ましげに見つめたあと、すっと視線を落とした。まるで、このまま重要な事実を伏せたまま帰ることを、彼の良心が許さないかのように。
「その件とは別に……大公妃殿下には、知るべき、そして正式な謝罪を受けるべき『権利』があります」
「まだ、何かあるのですか?」
フロリアンは重々しくうなずくと、もう一度水を口にしてから、震える声で話し始めた。
「本来、レギナ王国の新国王となったジグ・ブラントナーは、我が帝国の皇帝陛下に対して、旧王国の保有していた莫大な援軍を約束していました。陛下はその約束を信じ、私たちもそれを前提として、ジグの反乱軍を裏から支援していたのです。ですが、ジグはその約束を反故にしました……」
「その、反乱軍への『支援』というのは――」
フロリアンの説明を遮るように、クレセンティアの声が冷え切った響きを帯びる。
「……武器の支援、ですか?」
「どうして、それをご存じなのですか……!?」
クレセンティアの核心を突いた問いに、フロリアンの瞳が恐怖に大きく揺れ動いた。
その見開かれた目が、何よりの証拠だった。これ以上、彼に哀れな説明を続けさせる必要はなかった。
(本当に……エーリッヒは、ジグに銃を送っていたのね……)
クレセンティアは目眩を覚えるような絶望の中で、微かに眉をひそめた。
先ほど聖堂でアルビンの口からその告発を聞いたとき、彼女は心のどこかで「嘘であってほしい」と縋っていた。大公邸へ戻る馬車の中でも、「アルビンが自分を味方につけるために話を大げさに歪めたのだ」と、何度も何度も自分に言い聞かせ、最悪の現実から目を背けようとしていたのだ。
エーリッヒがジグの反乱を資金的・政治的に支援していたことは、以前から知っていた。その事実だけでも十分に胸が張り裂けそうだった。これ以上に苦しい現実などないと思っていた。
しかし――現実は、彼女の想像を遥かに超えて残酷だった。
エーリッヒは単なる間接的な後援者ではなかった。
彼は、敵の手に直接、「凶器」を握らせていたのだ。
エーリッヒ・フォン・フェテレは、母シェラの死に直接加担していた。ジグが母に向けて放ち、その命を奪った忌まわしい銃は、他でもない彼女の夫が提供したものだった。
否定しようのないあまりにも凄惨な真実が、クレセンティアの胸を容赦なく締めつける。
『ティア。お前の夫、エーリッヒ・フォン・フェテレは……人殺しなんだ』
アルビンが怒りと憎しみに震えながら叫んだ言葉が、いま目の前のフロリアンの動揺によって、完全な「事実」として彼女の胸に突き刺さった。
フロリアンと向かい合って座るクレセンティアの口の中は、からからに乾ききっていた。溢れそうになる痛みを飲み込み、ようやく声を絞り出す。
「もしそれが事実なら、やはり私に謝るべき相手は皇帝陛下ではありませんわ。皇室が直接、その銃を送ったわけではないのですから」
「ですが、大公妃殿下……!」
「申し訳ありません、セリー伯爵」
クレセンティアは視線を落とし、テーブルの上の手紙を見つめた。
彼女は白く細い指でその手紙を手に取ると、中央を掴み、何のためらいもなく真っ二つに引き裂いた。
ビリッ、と静かな応接室に紙の裂ける冷酷な音が響く。彼女は破れた手紙をテーブルへ乱暴に戻し、凍てつくような口調で告げた。
「このご招待は、お受けいたしかねます」
フロリアンを見つめるクレセンティアの桃色の瞳には、一切の情が消え失せていた。
「私の母の死に手を貸した方々と、平然と食事などできませんわ」
呆然と立ち尽くすフロリアンをその場に残し、クレセンティアは一べつもくれずに応接室を後にした。廊下を歩く彼女の横顔には、悲壮でありながらも、決して揺るぎない冷徹な決意が浮かんでいた。
大公夫妻の主寝室の扉が、激しい音を立てて内側から開け放たれた。
室内を掃除していた侍女たちは、大公妃のあまりにも取り乱した突然の登場に、一斉に肩を震わせた。これほど感情を剥き出しにし、血の気を失った彼女の姿を見るのは、誰もが初めてのことだった。
「全員、出ていって」
鋭い拒絶の声に、侍女たちは持っていた道具を片付ける暇もなく、慌てて部屋を飛び出していった。
クレセンティアは、幽霊のように白い顔のまま、奥のドレスルームへと向かう。迷いのない大股で歩いていた彼女だったが、不意に足元が大きく崩れ、視界が激しく歪んだ。
「王女様!」
ちょうどドレスルームの整理を終えて出てきたヒルダが、悲鳴のような声を上げて駆け寄る。
クレセンティアは支えきれず、そのまま冷たい床の上へと崩れ落ちた。頭が激しくくらくらとする。世界全体が、まるで悪意を持ってぐるぐると回転しているようだった。
フロリアンの前で気を失わなかったのが、我ながら不思議なほどだった。自分でも、どうやってあの応接室からここまで歩いて来られたのか分からない。人間の肉体とは、心が死にかけていても動くようにできているらしい。
「……お嬢様! しっかりしてください、大丈夫ですか!?」
「ヒルダ……」
クレセンティアは深く冷たい息を吸い込み、涙に濡れた侍女の顔を見つめた。
暖炉には赤々と薪が燃えているというのに、身体の芯がひどく寒い。彼女は小刻みに震える手で、ヒルダの腕をきつく、痛いほどに掴んだ。
「全部……本当だったの。全部よ……」
「えっ……?」
「アルビンが言っていたこと……あのおぞましい告発は、すべて本当だったのよ」
クレセンティアは魂が抜け落ちたような声で呟いた。力なく、自嘲的な笑みを浮かべ、震える唇を強く噛みしめる。言葉にならない絶望が、胸の奥底を執拗にかき乱していた。
――どこまでが嘘で、どこからが真実だったのだろうか。
皇帝がジグに王国の援軍を求めたという話は、本当に事実なのか。それとも、フロリアンが皇帝やエーリッヒの冷酷な行動を正当化するためについた、国家的な嘘なのだろうか。
(もう、誰も信じられない)
クレセンティアは充血した目を一度強く閉じ、ふらつきながらも壁を伝って立ち上がった。
(自分の目で、直接確かめなくては)
彼女は深く息を整えると、毅然とした足取りで部屋の扉へと向かった。部屋を出ようとする彼女の前に、ヒルダが慌てて立ちはだかる。
「お嬢様、お出かけになってはなりません! 今はどうかお身体を休めて……」
「いいえ、ヒルダ。どうしても今、行かなければならないの」
クレセンティアはズキズキと割れるように痛む頭を片手でおさえながら答えた。心配そうに潤んだ目で自分を見つめる侍女に、彼女は告げる。
「執務室よ。エーリッヒの執務室で、確かめたいことがあるの」
幸いにも、エーリッヒは今、この屋敷にはいなかった。大公妃の「教会への外出」の報告を受け、あるいは別の公務のために、ちょうど皇宮へ向かったところだった。護衛騎士のリーナスもその随行に追われているはずだ。
クレセンティアは本来、今日の残りの時間を自室で静養する手はずになっていた。だからこそ、エーリッヒとリーナスという二人の鋭い目が完全に席を外している今こそが、最初で最後の絶好の機会だった。
一歩、また一歩と廊下を進むクレセンティアの身体は、寒さで小刻みに震え続けていた。全身の皮膚がぞくぞくと粟立つ。まるで――。
まるで無数の汚らしい虫が、衣服の下を這い回っているかのような、耐え難い嫌悪感。
かつては自分を保護してくれる温かな場所、居心地の良い安住の地だと思っていたこの大公邸が、今や血に塗れた蜘蛛の巣か、忌まわしい虫の巣窟のように感じられた。彼女は自分の両腕を乱暴にさすりながら、激しい吐き気をこらえて顔をしかめる。
どうやって歩いてきたのかも記憶にないまま、彼女はついに大公の執務室の前へとたどり着いた。
扉を守っていた屈強な護衛の騎士たちは、大公妃の突然の来訪に驚いたが、彼女が躊躇なくドアノブに手をかけようとすると、困惑した表情でその前に立ちはだかった。
「申し訳ありません、大公妃殿下。こちらは大公殿下の特別な許可がある者以外、何人たりとも立ち入りはできません」
クレセンティアはゆっくりと顔を上げた。その瞳に宿る凄絶な光に、騎士たちは一瞬息をのむ。彼女は自分を遮る彼らの腕を無視してさらに扉へとにじり寄ると、冷え切ったナイフのような声で言い放った。
「エーリッヒに報告しなさい。『大公妃が無理に押し入った』と」
「だ、大公妃殿下……!」
「それとも、私を力ずくで排除する? ――ここで私を殺しても構わないわよ」
ただならぬ大公妃の覇気と、死を恐れぬ不穏な言葉に、護衛たちは完全に気圧されてたじろぎ、思わず道を開けた。
重厚な扉を押し開け、クレセンティアはついに、禁忌とされていた大公の執務室の中へと足を踏み入れた。
彼女はぼんやりと周囲を見回した。
初めて入るその空間は、あまりにも無機質で、どこか見知らぬ異国の土地のように感じられた。
それも当然だった。エーリッヒは、彼自身の日常の欠片さえ、これまで一度として彼女と共有してこなかったのだから。
クレセンティアは視界が涙でかすむのも構わず、まっすぐに大きな執務机へと向かった。引き出しを開け、乱暴に書類を次々とめくっていく。
どうしても、確たる証拠を見つけなければならなかった。
――エーリッヒが母シェラの死に関わっていなかったという、一縷の救いとなる証拠を。
あるいは……彼が完全に黒であるという、引導を渡すための証拠を。
「お嬢様……これを……」
夢中で引き出しの奥を探るクレセンティアの傍らで、共に潜り込んでいたヒルダが、激しい勢いで床に落ちた書類の束を拾い上げた。
クレセンティアが弾かれたように振り向くと、ヒルダは青ざめた顔で、戸惑いながらその紙束を差し出してきた。
「これ……ご覧になった方がよろしいかと思います……」
クレセンティアはゆっくりとヒルダから書類を受け取り、その表題に目を通した。
『アルビン・ド・ロドヴィニ 行動追跡報告書』
その文字を目にした瞬間、背筋に強烈な悪寒が走った。何度瞬きをして読み返しても、印字された冷酷な題名は変わらない。
クレセンティアは、自分がまたしても「何か別の誤解であってほしい」と現実から目を背けようとしていたことに気づき、喉の奥で自嘲気味に笑った。あまりにも夫を信じたがっていた自分が滑稽で、哀れでならなかったからだ。
もう、これ以上否定したところで何になるというのだろう。
エーリッヒは、裏で執拗にアルビンの行方を追跡させていた。しかも、定期的に詳細な報告書まで受け取りながら、神経質なほど徹底的に。
その目的は、一体何だ?
(母に続いて……今度は、私の唯一の兄まで殺そうというのね……?)
その結論にたどり着いた瞬間、クレセンティアの端正な顔が激しい苦痛にゆがんだ。書類を握りしめる指先が小刻みに震え、深い絶望の重圧に床へ崩れ落ちそうになる。
――どうして、ここまで残酷なことができるの?
――どうして、私をここまで地獄に突き落とすの?
「私は……」
それでも、私はあなたを愛していた。
どれほど冷たくされても、心の一番深い場所には、今なおあなたを愛する情けない気持ちが残っていたというのに。
けれど、エーリッヒは違った。彼は以前、自分の口からあれほどはっきりと冷酷に告げたではないか。
――一度もお前を愛したことはない、と。
クレセンティアは裏切られた悲しみに悶えながらも、なお彼への微かな未練を断ち切れずにいた。だからこそ、必死に心を殺して大公妃としての役割を果たそうとしてきたのだ。
しかし、エーリッヒは最初から最後まで一貫していた。
一貫して彼女を欺き、人形のように扱い、その裏で彼女の家族を破滅させていたのだ。
何のためらいもなく、自分の愛を、祖国への裏切りという「罪」へと変えられた。その血を吐くような事実を悟った瞬間、クレセンティアの目の奥が熱くなった。喉の奥に、焼けた炭でも詰め込まれたかのような、凄絶な苦しさが込み上げる。
もし自分がエーリッヒ・フォン・フェテレという男と結婚していなければ、レギナ王国はもっと違う形で平和を迎えていたかもしれない。少なくとも、母シェラはあんな冷たい戦火の中で死なずに済んだはずだ。その事実に、胸が押し潰される。
――どうして、私の純粋な愛を罪に変えてしまうの。
――どうして、私をこんな大罪人にするの。
クレセンティアの手の中で、カサカサと書類が音を立てて震えた。彼女は涙を拒絶するように目を見開き、震える手で報告書の先を読み進めた。もしここに、アルビンの命を今すぐ危険にさらすような足取りが記されているのなら、この書類を破り捨てるか処分しなければならない。
しかし幸いにも、直近のページに決定的な居場所の記述は見当たらなかった。どうやら、アルビンを密かに匿い、助けている外部の人物は、非常に用心深く狡猾に行動しているようだった。
神経質なほど慎重に頁をめくっていたクレセンティアの指先が、ある一か所の記述でぴたりと止まった。
まるで糸の切れた人形のように完全に動きを止めた彼女を見て、隣にいたヒルダが恐る恐る顔を覗き込んできた。
「……お嬢様? 何をご覧になっているのですか……?」
不思議そうな表情で近づいてきたヒルダは、クレセンティアが凝視している一行を目にした途端、息をのんで言葉を失った。
『……シェラ・ド・ロドヴィニの墓地 ― チェカレリ村』
チェカレリ。そこは、母シェラが幼い頃を過ごした美しい別荘がある土地だった。アルビンも、そしてクレセンティア自身も、幼少期の最も幸福だった時間をそこで過ごしている。
報告書には、その地域を徹底的に捜索したもののアルビンの姿は発見できず、これ以上の潜伏の可能性は低いため、チェカレリを今後の捜索対象から除外する――という旨が淡々と記されていた。
クレセンティアは、報告書に刻まれた亡き母の名前を、じっと見つめ続けた。
長い、あまりにも長い沈黙のあと、彼女はゆっくりと、しかし信じられないほど静かな声で口を開いた。
「私……ここを出よう」
思わず口から漏れたその言葉に、クレセンティア自身がハッとした。だがそれは、彼女の心の最奥から溢れ出た、偽りのない本音だった。
――そうだ。ここを去ろう。
この血と嘘に塗れた地獄から、今すぐ離れよう。
もう、私がこれ以上この屋敷に留まる理由など、どこにもないのだから。
この場所に残る理由も、あの冷酷な夫に淡い期待を抱く理由も、完全に消え失せた。
これまでクレセンティアの心は、表面張力でどうにか溢れ出さずに保たれている、水で満たされたコップのようだった。絶望の淵で、泣き叫びたい衝動を必死に耐えてきた。
だが、たった今。そのコップに、容赦のない「最後の一滴」が落とされたのだ。
張り詰めていた水は、ついに決壊し、激しく溢れ出した。
「ここを出るわ、ヒルダ」
クレセンティアは確かな決意を込めて、もう一度そう口にした。それは従順な侍女へ向けた指示であると同時に、自分自身に刻みつける不退転の誓いでもあった。声に出したことで、その決意はいっそう揺るぎない鋼のものとなる。
クレセンティアは書類を何事もなかったかのように元の位置へと美しく片づけ、静かに執務室を後にした。
気づけば、先ほどまで頬を濡らしていた涙は、跡形もなく乾ききっていた。
当然だった。地獄を自らの意志で去る者に、哀れな涙など必要ないのだから。
クレセンティアの薄桃色の唇が、妖艶に、そして冷酷に弧を描いた。
――今度は、私がエーリッヒを裏切る番よ。
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エーリッヒ大公が知る「食い違う事実」
エーリッヒは仕立て屋の店主から、妻クレセンティアが結婚直後から「大公妃にふさわしい帝国の流行服」を注文しようとしていた事実を知らされます。「彼女は帝国の流行に興味がない」という公爵夫人ヘレナの言葉と決定的に食い違う現実に冷ややかな違和感を抱いた大公は、真意を確かめるため店主にヘレナへ電話をかけさせました。
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フロリアン伯爵の告白と「銃の支援」という残酷な真実
大公邸を訪れたフロリアンは、皇帝からの単独の昼食会への招待状を届けた際、良心の呵責から「帝国(エーリッヒ)がレギナ王国の反乱軍へ武器(銃)を直接支援していた」という事実を暴露。母シェラを殺した銃が夫エーリッヒの手によって提供されたものだと知ったクレセンティアは、絶望の中で皇帝の招待状を引き裂き、宮廷との絶縁を宣言しました。
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大公の執務室への侵入と「今度は私が裏切る番」という決意
不在の大公の執務室に無理やり押し入ったクレセンティアは、引き出しから兄アルビンの捜索報告書を発見し、そこに亡き母の墓地がある「チェカレリ村」の記述を見つけます。夫が自分を人形のように欺き、家族をも破滅させようとしている現実についに心のコップが決壊した彼女は、涙を乾かせ、「今度は私がエーリッヒを裏切る番よ」と地獄のような屋敷を出る不退転の決意を固めました。