こんにちは、ピッコです。
「抱かれるたびに泣くくせに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
22話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 隔絶された世界
屋敷へ戻ったクレセンティアは、エーリッヒと静かに言葉を交わして別れた。そして寝室へ戻るなり、限界を迎えていた身体を突き動かすように浴室へ駆け込んだ。
「うっ……!」
クレセンティアは便器にしがみつき、激しく胃の中のものを吐き出した。車の不自然な揺れのせいで、さっきからずっと気分が悪かったのだ。
胃の中が完全に空になるまで吐き続けたあと、震える手で口元を拭った。青白い顔のまま、彼女は力なく浴室のタイル床に座り込んだ。
そして、見慣れない新しい世界をゆっくりと見回す。
蛇口をひねれば温かい湯が勢いよく流れ出る浴槽と洗面台。床には隙間なく敷き詰められた滑らかなタイル。そして――あの「自動車」という機械。
帝国で暮らし始めてから新しいものをいくつも目にしてきたが、自動車に乗ったのは今日が初めてだった。これまでは屋敷の外へ出ることがほとんどなく、貴族の移動手段は当然すべて馬車だと思い込んでいたからだ。
『またのご利用をお待ちしております。空港までお送りいたします』
クレセンティアは、かつて博覧会で初めて出会った時のエーリッヒの姿を思い出した。
あの時、彼は今日自分が乗ったあの車のドアを流暢に開けてくれた。あの頃にはすでに、エーリッヒにとって自動車は当たり前の乗り物だったのだ。
クレセンティアが今日ようやく初めて乗ったその高度な機械は、彼にとっては何の珍しさもない、ごくありふれた日常の一部に過ぎない。
彼と彼女の生きる世界は、それほどまでに根本からかけ離れていた。
彼が彼女を真に理解することはない。そして彼女もまた、彼を理解することはないだろう。
(理解する必要もないもの。私たちはもうすぐ他人になるのだから)
クレセンティアは寂しげにそう思いながら、重い身体を起こした。そしてドアノブを回して浴室の扉を開けると、思いもよらない人物が目の前に立っていた。
「ヘレナ……?」
浴室の扉に耳を当てていたヘレナは、扉が不意に開いた拍子に慌てて姿勢を正した。クレセンティアと目が合うと、きまずそうに軽く咳払いをしてから口を開いた。
「吐いていらっしゃるようでしたので」
「ええ……少し乗り物に酔って気分が悪かっただけです。もう大丈夫。心配してくれてありがとう」
「いつからですか?」
「え?」
「いつからそれほど体調が優れなかったのか、とお聞きしているのです」
ヘレナは感情の籠もらない事務的な口調で、もう一度尋ねた。
「こちらへいらしてください」
そう言うと、ヘレナはクレセンティアの手首をつかみ、半ば強引に寝室のソファへ座らせた。そして厚手の毛布をかけながら言葉を続ける。
「先月の月経は、きちんとありましたか? 遅れたりはしていませんか?」
その言葉に、クレセンティアの表情がゆっくりとこわばっていった。
ヘレナは、彼女自身の身体を労わって心配しているわけではない。彼女が血眼になって気にしているのは、ただ一つ――大公家の「妊娠」だけだった。
クレセンティアは、自分でも気づかないうちに、また以前のように「相手が親切にしてくれている」と思い込んでしまっていた自分自身に愕然とした。あれほど傷つき、あれほど無残に裏切られたというのに、まだ昔の甘い癖が抜けていなかったのだ。
「ヘレナ、私は妊娠していません」
「それでも、一度お医者様に診てもらってください」
ヘレナはクレセンティアの明確な否定を聞き流すように言った。すでに呼び出しを受け、控えていた侍女に医師を連れてくるよう冷淡に命じると、再びクレセンティアへ鋭い目を向き直る。
「お嬢様――いいえ、クレセンティア」
ロドビニ王家が没落して以来、ヘレナは初めて彼女を「王女」の敬称ではなく、ただの名前で呼んだ。これまで曖昧に避けてきた呼び方を、ここで明確に切り替えたのだ。そこには、かつて保たれていた最低限の敬意すら存在しなかった。
「クレセンティア。なぜ私が、本来なら立ち入るべきではない夫婦の寝室にまで入ってきたのか、お分かりですか?」
ヘレナは侮蔑を孕んだ冷たい視線をクレセンティアへ向けた。まるで、彼女が決して許されない大罪でも犯したかのような高圧的な態度だった。
「先ほど連絡を受けました。フィリピナ令嬢のティーパーティーで、ずいぶんとはしたない騒ぎを起こされたそうですね。ペテル家の名に泥を塗ったと。だから、この家の年長者として、黙って見過ごすわけにはいかなかったのです」
「連絡を……受けたのですか?」
クレセンティアは言葉を失った。フィリピナが陰険な人物だということは痛いほど知っていた。だが、あの場からほんのわずかな時間しか経っていないというのに、すでにヘレナにまで歪められた話が伝わっていたとは思ってもみなかった。
「そうです。フィリピナ令嬢がわざわざおっしゃっていましたよ。『ペテル大公家は、コレニオン産のお茶一つ満足に用意できないほど困窮していらっしゃるのですか』と! 私はそれを聞いて、どれほど恥ずかしい思いをしたことか!」
「ヘレナ、それは誤解です……」
「年長者がお話ししているのですよ。口答えをするつもりですか? まだ自分が、あの傲慢な王女様だとでも思っているのですか?」
ヘレナは呆れたように大きなため息をつき、大袈裟に首を左右に振った。クレセンティアはそのあまりにも露骨な侮辱に言葉を失い、口を開いたまま固まった。
(どうして、人はここまで残酷に変わってしまうの……?)
ヘレナの態度は、以前の温厚だった頃とは比べものにならないほど冷徹に尖っていた。クレセンティア自身は何一つ変わっていない。変わったのはただ一つ、ロドビニの王女という後ろ盾を失ったことだけだった。それだけで、人はここまで他者を軽蔑し、見下すようになるのか。
「……おっしゃりたいことは分かりました。ですが」
クレセンティアは震える顎を必死に押さえ、一度深く息を吸った。そして静かに荒れ狂う気持ちを落ち着かせると、ヘレナをまっすぐ見つめて毅然と言い放った。
「私はもう王女ではありません。ですが、今もなおエーリッヒの妻であり、このペテル家の大公妃です。大公家では……大公妃をこのように侮辱的に扱うのが習わしなのですか?」
「な……っ、今の私への不遜な態度が、それなのですか!?」
「ティーパーティーでは、確かに私にも落ち度がありました。ペテル大公妃として、もっと慎重に振る舞うべきでした。それでも、あの方々は私を直接追い返しはしませんでした。ですが、ここは私とエーリッヒの夫婦の寝室です……」
「それが何だというのです! 私が、自分が守ってきたこの家で、立ち入りを禁じられる場所などあるとでも言うのですか!?」
ヘレナはクレセンティアの反論を乱暴に遮り、金切り声を荒らげた。嫁を見下すような傲慢な目で睨みつけ、きっぱりと言い放つ。
「私は大公の母です。エーリッヒを産み、この手で育て上げた人間なのですよ! 夫婦の寝室に入ったくらいで何が問題なのですか。いい加減にしてください。少し叱責されたくらいで、いつまで被害者ぶっているつもりですか!?」
ヘレナは美しく整えられた眉を吊り上げ、激しく怒鳴り散らした。クレセンティアはあまりの理不尽な言葉に呆然とし、反論したくても次の言葉が出てこなかった。
ヘレナは、どれほど正当な理由を説明したところで、最初から耳を貸すつもりなど毛頭なかったのだ。彼女はもう、クレセンティアを一人の人間としてすら尊重していなかった。その高圧的な態度が語っていることは、ただ一つ――「黙って私の言うことに従いなさい」という絶対的な支配だった。
クレセンティアは何も言わず、静かに唇を閉ざした。どうせ、この冷え切った屋敷には彼女の味方など誰もいない。ここで感情的に言い争っても、自分が無駄に疲弊するだけだ。
ちょうどその時、緊迫した寝室の扉が静かに開き、呼び出された医師が入ってきた。
「お呼びでしょうか、大君母様」
「ちょうどいいところへ来ました。こちらへ来てすぐに診察をなさい。この子が、大公の後継ぎを身ごもっているかどうかを」
医師はヘレナの異様な勢いに気圧されるようにして、クレセンティアのほうへ向かった。クレセンティアは完全に冷めきった表情のまま、言われるがままに診察を受ける。
エーリッヒは彼女に子を授けてなどいない。その冷酷な事実を彼女自身が知っているのだから、診察を受けようが受けまいが、結果は初めから決まっていた。
しかし、その裏の真実を知らないヘレナだけが、下卑た期待に満ちた表情を浮かべて医師の手元を凝視していた。
しばらくして、慎重に診察を終えた医師が静かに結果を告げると、その身勝手な期待は一瞬で崩れ去ることとなる。
「……ご懐妊ではありません。ご結婚されてまだ日も浅いですし、大公殿下ご夫妻はまだお若いですから。焦らず、もう少し様子をご覧になってはいかがかと」
「もういい、下がってください!」
ヘレナは医師を鋭く睨みつけ、遮るように退出を命じた。周囲にいた使用人たちまで全員を部屋から下がらせると、不機嫌そうに腕を組んで口を開いた。
「クレセンティア。大公妃としてのまともな待遇を受けたいのであれば、一刻も早く後継ぎを産みなさい。それだけが、今のあなたに残された大公妃としての務めです。分かりましたか?」
「……努力は、しています」
「その努力が全く足りないから言っているのです!」
ヘレナは不快そうに舌打ちをし、頬をぴくりと引きつらせた。本当なら、もっと痛烈でひどい言葉を浴びせてやりたかった。
しかし、目の前のクレセンティアの表情は、どれほど侮辱されてもピクリとも揺らがなかった。落ち着いて答えているはずなのに、その伏せられた眼差しには、どこか冷徹で鋭い光が宿っている。
ロドビニ王族特有の圧倒的な気高さが、没落した今なお、彼女の骨の髄に宿っていた。
結局、ヘレナはそれ以上言葉を続けることができず、悔しそうに唇をきつく結んだ。
(王家が滅びてしばらく経つというのに、どうしてまだあの忌々しい威厳が消えないの……)
声を荒らげることもないのに耳に心地よく響く、上品な声。相手を無言で圧倒する静かな威圧感。王族という強大な後ろ盾を失ってなお、クレセンティアは依然として不可侵なほどに気高かった。
さっきもそうだった。自分の非を凛とした態度で指摘する彼女を前にして、ヘレナは本能的にその場にひざまずきそうになってしまったのだ。
本能的に王族の前でへりくだろうとする奴隷のような自分を必死に抑え込むため、ヘレナはわざと声をさらに冷たく尖らせた。クレセンティアの空気に飲まれないよう気持ちを強引に落ち着かせると、言い捨てるように口を開く。
「もっと死に物狂いで努力なさい。後継ぎさえ無事に産めば、大公妃にもこの屋敷の鍵を『分けて』あげますから」
譲るのではない。哀れな者に「分けてあげる」のだ。
クレセンティアは、恩着せがましく言い放たれたヘレナの言葉の裏にある醜悪さを感じながら、心の中で苦笑を深く飲み込んだ。
王女ではなくなった今の自分は、ヘレナにとって「大公家の後継ぎを産むための生殖機械」に過ぎないのだ。だからこそ、大公妃としての最低限の人間的な扱いすら受けられない。
――でも、もう本当に、どうでもよかった。
一日でも早く離婚してこの呪われた家を出てしまえば、ヘレナの醜い顔を見ることも二度となくなるのだから。
「……承知いたしました」
クレセンティアは静かに短く答え、完全に目を伏せた。ヘレナは、その抵抗を止めた落ち着いた返事を聞いて、ようやく満足したように寝室を後にした。
漆黒の高級車が、静かな、しかし力強い走行音を立てながら、夜の街を貴族クラブへと向かっていた。
クレセンティアを大公邸まで送り届けたエーリッヒは、息をつく間もなくその足で貴族クラブへ向かわなければならなかった。彼にはまだ、今日中に処理すべき重要な予定が残されていたからだ。
「どこへ行っていたんですか! アニス侯爵が大騒ぎして怒っていらっしゃいますよ!」
車が滑るようにクラブの門前で止まるなり、落ち着きなく足踏みしていた補佐官のシャザルが、慌てて助手席の窓へ駆け寄ってきた。
エーリッヒは、半ば泣きそうになっている有能な補佐官を一瞥することもなく、冷淡に言った。
「もう少し待たせておけ」
「もう二十分もお待ちなんですよ! あの気難しい古狸を引き止めておくのに、私がどれだけ胃の痛む苦労をしたと思っているんですか!?」
エーリッヒはシャザルの必死の文句を聞き流しながら、バックミラーで自分の顔を見つめた。ゆっくりとシャツの袖口を整える大公の姿に、シャザルは大きくため息をつく。
「今日は本当にどうしたんですか。予定の時間にはそれこそ秒単位できっちり来る人だったのに!」
「お前が頼んだとおりにしただけだ。私に『妻を大事にしろ』と散々説教しておいて、いざ実行したら今度は文句を言うのか」
「え? 何を……あっ!」
エーリッヒの思いがけない返事に目を丸くしていたシャザルだったが、すぐに合点がいったようにぽんと手を打った。そして、車を降りたエーリッヒの隣に素早く並びながら小声で言った。
「サークボロへ行ってこられたんですね? フィリピナ令嬢のティーパーティー会場ですよね」
「そうだ」
「それなのに、どうしてこちらへ? 本当なら、そのまま大公妃殿下のお側に付いていて差し上げるべきでは?」
クラブの門番に軽く会釈して通り抜けながら、エーリッヒはシャザルの的外れな小言に片眉を上げた。呆れたように補佐官を見やる。
「では、アニス侯爵との交渉はどうする? 今日でなければ、あの廃鉱山『ベティシャー』は買えないと息巻いて騒いでいたのは、他でもないお前だろう」
「あっ……そうでした」
シャザルは首筋をかきながら、気まずそうに声を縮めた。
エーリッヒは、アニス侯爵家が所有する価値のないはずの廃鉱山を買い取るため、侯爵との極秘の約束を取り付けていた。その廃鉱山「ベティシャー」は、過去に凄惨な落盤事故が相次いだため、数年前に完全に閉山している。
だが、エーリッヒはその広大な土地を安値で買収し、一大リゾート地として大規模に開発する国家的な計画を水面下で進めていた。カロラ海に面したベティシャーは、新たな一大保養地として十分すぎるほどの巨万の富を生む可能性を秘めていたのだ。
事業パートナーであるフロリアンとも、すでに具体的な事業計画の細部まで練り上げていたが、最大の問題はベティシャーの所有者であるガブリエル・アニス侯爵をどう説得するかだった。
保守派の重鎮であるアニス侯爵は、新進気鋭の改革派であるエーリッヒに対して、平素から激しい反感を抱いていた。かつてエーリッヒがロドビニのレギナ王女――クレセンティアと結婚した際には、王室との繋がりを求めて一時的に友好的な態度を見せたものの、それはほんの束の間のまやかしだった。ロドビニ王朝が革命によって無残に崩壊すると、侯爵は手のひらを返すように、再びエーリッヒへ敵意をむき出しにするようになったのだ。
「殿下がご結婚なさるまではすべて順調に進むと思っていましたが、まさか王朝が滅びた途端、侯爵があそこまで態度を硬化させるとは思いませんでしたね」
「だが、こうして今も部屋で待っているということは、まだ完全に望みが絶たれたわけではない」
エーリッヒは腕時計で時間を確認しながらシャザルを振り返った。気がつけば、アニス侯爵が待つ最高級応接室の扉の前まで来ていた。クラブの従業員たちは、若き大公の威厳ある姿を認めるなり、音もなく速やかに扉を開け放った。
部屋へ足を踏み入れる直前、エーリッヒはシャザルを振り返り、軽く身を寄せて短い密命を授けた。その冷徹な命令を聞いたシャザルの顔に、不安から一転してぱっと明るい血色が戻る。
エーリッヒは満足そうにうなずき、深く一礼して一足先に立ち去る補佐官の背中を見送ってから、応接室へと足を踏み入れた。
「時間には本当に几帳面だな、大公殿下。これだから成り上がりの育ちは隠せない」
ガブリエル・アニス侯爵は、エーリッヒの姿を見るなり、煙草の煙と共に鼻でせせら笑った。
エーリッヒはそんな侮辱にも平然とした表情を崩さず、上質な革張りのソファに深く腰を下ろすと、懐から重厚な時計のケースを取り出した。それは最近、帝国の最高権力者たちの間で爆発的な流行を見せている、コレニオン製の最高級機械式時計だった。
ケースに刻まれた特有のロゴを見たガブリエルは、途端に目を細める。エーリッヒは極めて優雅な動作で、その時計ケースを大理石のテーブルの上へ静かに置いた。
「コレニオンから、つい先ほど特別な船便で届いた一級品です。侯爵が血眼になってお探しだと風の噂に聞き、私が港まで直接取りに行って赴いていたため、少々遅れました」
「ほう……っ」
ガブリエルは先ほどまでの傲慢な態度を忘れ、感嘆の声を漏らしながら吸い寄せられるように時計ケースを手に取った。異国風の美しい極楽鳥が細工された銀のケースを開くと、精密に仕上げられた職人の結晶たる時計が妖しい姿を現した。
国宝級の貴重な時計を手にしたガブリエルの目は、子供のように爛々と輝いていた。いつの間にか、エーリッヒが二十分遅刻したことへの不満など脳内から綺麗に消え去り、時計の魔力に完全に夢中になっている。
エーリッヒは、そんなガブリエルの様子を冷徹な切れ者としての目で静かに観察していた。
保守派の無能な貴族どもは、いつの時代も見栄――すなわち稀少な贅沢品や、過去の権威の誇示に目がない。激動の改革の時代を大公として生き残る最善の方法は、その底浅い欲望を網のようにうまく利用することだった。保守派の貴族にとって、他者へ圧倒的な豊かさを見せつけることこそが、この時代における唯一の権威の証明なのだから。
「ぜひ、お手元でお試しください」
エーリッヒが流れるように勧めると、ガブリエルは待っていましたと言わんばかりに最高級の葉巻を取り出し、火をつけた。エーリッヒは煙を燻らせるガブリエルを冷ややかに眺めながら、本題をゆっくりと切り出す。
「では、かねてより進めていたベティシャーの買収件について、最終的な詰め話をしましょう」
「ああ、それなんですな……。実はな大公殿下、少々厄介なことになりましてな」
ガブリエルは葉巻を深く吸い込み、ねっとりとした白い煙を吐き出した。室内に不快な煙が漂う中、エーリッヒの鋭い眼差しだけが、獲物を狙う鷹のように暗闇ではっきりと光っていた。
「厄介なこと、とは?」
エーリッヒは微かに眉をひそめて問い返した。彼の知るアニス家は、先祖の遺産と過去の栄光にしがみついて生きる、実質的には没落寸前の古い貴族だ。代々の遺産を少しずつ切り売りしながら、どうにか周囲への体面を保っている哀れな家系だと掴んでいた。こちらが提示した額なら、飛びついて売るはずだったのだ。
「実は、あなたよりも遥かに素晴らしい新しい買い手が現れましてな。大公殿下の提示額の『二倍』の現金を一括で支払うと言ってきておる。ですから、我が家としてはそちらへ売ろうかと思っております。今日は、そのお断りの話をするためにお待ちしていたのですよ」
「……その買い手とは、一体誰だ?」
「それについては、契約上の守秘義務がありまして明かせませんな……」
ガブリエルは急に口ごもり、視線を泳がせて言葉を濁した。エーリッヒの反応を恐る恐るうかがいながら、再び葉巻を口に運ぶ。
「値段ももちろん魅力ですが、私の保守派としての立場としては、あちらの強力な後ろ盾からの申し出を断るわけにはいかないのです。それだけは、大公殿下にもご理解いただきたい」
「立場、だと?」
エーリッヒは顎に手を当て、ガブリエルの不自然な言葉を脳内で反芻した。
エーリッヒは現大公として帝国貴族の事実上の頂点に君臨し、さらに皇帝からも並ぶ者のない厚い信頼を得ている。その絶対的な権威と軍事・経済への影響力は帝国随一だ。そんな自分からの国家規模の申し出を、一介の没落貴族がリスクを冒してまで断らなければならないほどの「立場」や「後ろ盾」とは、一体この帝国に誰が存在するというのか。
「つまり、ベティシャーは私ではなく、他の者に売るということですね」
「人聞きが悪いですな! エジャス家に売るくらいなら、別の高貴な相手に譲った方がアニス家の名誉にかなうと判断したまでのこと。あれは我がアニス家の正当な所有物なのですから、誰にいくらで売るかは私の自由でしょう?」
保守派の薄汚い古狸は、自分に都合のいい言い訳だけを一気にまくしたてると、エーリッヒから贈られた時計と葉巻だけを強欲に手にして、逃げるように応接室から立ち去っていった。これ以上話を続ければ、大公の圧迫感に圧し折られ、自分に不利になると本能で察したのだ。
だが、ガブリエルの懸念とは裏腹に、エーリッヒが彼を呼び止めて責めることも、権力で追及することもなかった。彼はガブリエルが座っていた無人の席を冷たく見つめながら、深い思索の闇へと沈んでいった。
(あの保守派の、金に汚い古狸を完全に動かせるほどの人物……。そして大公である私を敵に回すことを恐れない影……)
もしかすると――かつて失脚したはずの、リーナス・ブークかもしれない。
もし彼が未だ世界のどこかで生きて蠢いているのなら、その可能性は十分に肥大する。しかし、リーナスには現在、そのような莫大な財産はないはずだ。辺境へ惨めに追放され、皇帝の慈悲によってかろうじてその日暮らしができる程度の財産しか与えられていないはず。大公の提示額の二倍という、国家予算並みの大金を一瞬で支払えるはずがなかった。
(だとすれば、まさか……あの国が絡んでいるのか……)
エーリッヒの夜の海のような瞳が、鋭く細められた。
リーナスの最近の不穏な足取りが最後に判明した場所は――旧ロドビニ、現「レギナ」だった。
レギナの新国王であり、鮮血の逆賊革命を起こした張本人、ジグ・ブラントナー。ジグはかつて革命を起こす前、リーナスを利用するために、闇の武器商人であるデイビッドと裏で冷酷な取引を交わしていた。ジグがデイビッドから大量の最新銃器を提供する見返りに、邪魔なリーナスを始末してやる――そう約束していたはずだった。
(もし……あのジグ王が、リーナスを殺さずに生かして利用していたとしたら?)
ジグは、クレセンティアを含めたロドビニ王族の命を無駄に奪わなかった。だが、ジグが「ロドビニの血をこれ以上流さない」と宣言した平和的条約など、自らの都合でいくらでもあっさり反故にする男だということも、エーリッヒは知っている。ならば、リーナスを確実に始末したというあの冷徹な男の約束だけを、一体誰が100%保証できるというのだろうか。
エーリッヒは、鍛え上げられた大きな身体をソファからゆっくりと起こした。
どうやら、ただの利権争いでは済まない、きな臭い戦争の足音が近づいているようだった。その真相を、一度自らの手で徹底的に確かめてみる必要がありそうだった。