抱かれるたびに泣くくせに

抱かれるたびに泣くくせに【30話】ネタバレ




 

こんにちは、ピッコです。

「抱かれるたびに泣くくせに」を紹介させていただきます。

ネタバレ満載の紹介となっております。

漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。

又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

【抱かれるたびに泣くくせに】まとめ こんにちは、ピッコです。 「抱かれるたびに泣くくせに」を紹介させていただきます。 ネタバレ満載の紹介とな...

 




 

30話 ネタバレ

登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

  • 消えたはずの未来の後継者

ガンッ!

国王が激しく机を叩きつけた音に、執務室に控えていた臣下たちは一斉に肩を震わせ、深く頭を垂れた。

ジークは闇のように黒い瞳を怒りにぎらつかせ、ギリッと歯ぎしりをした。

「たかが女一人すら捕まえられず、のこのこと戻ってきただと!?」

ジークの大きな手の中で、報告書がくしゃりと無惨な音を立てて握り潰された。そこに記されていたのは、王女の捕縛に失敗したという無能な結果だった。

彼は苛立たしげに舌打ちをし、獣のような低い唸り声を上げる。

「……そもそも、あれが本物の王女だったのかすら怪しいものだ」

ジークは丸めた報告書を床へ乱暴に投げ捨てた。

銀髪の女がチェカレルに現れた――そんな噂を耳にし、直属の部下たちを送り込んだのだ。しかし、この手の噂は今に始まったことではない。

ロドビニ王家の象徴である『銀髪』は、ここレギナにおいて古くから神聖視されていた。旧王朝時代に建てられた大聖堂の天井画には、銀髪の天使たちが天を舞う姿が描かれているほどだ。だからこそ、しばらく静かになったかと思えば、こうした根も葉もない噂が雨後の筍のように湧き出し、ジークの神経を逆撫でするのだった。

だが、それを完全に無視するわけにもいかなかった。

もしも心の底から見下し、ただ憎むことだけができる相手ならば、どれほど楽だっただろう。

ジークは、己の頭上で燃えるような血のように赤い髪に触れた。どうしても、その忌まわしい現実から目を背けることができない。人々が彼の赤い髪へ向ける恐れの視線――その奥底に潜む明らかな軽蔑の色を感じ取るたび、彼の胸の奥は業火のように煮えくり返った。

「王女など、どうせ今も帝国で大人しくしているのだろう。そんな眉唾の噂よりも、王太子のほうがはるかに重要だ。あの間抜けの足取りはどうなった?」

「まだ……追跡中でございます」

「追跡中なのは分かっている! 居場所は掴めたのかと聞いているんだ!」

ジークは怒りに任せ、再び机を叩き割らんばかりの勢いで殴りつけた。

アルビン・ド・ロドビニ。

金ばかり浪費し、何の役にも立たない無能な王太子だった。だが、それでも必ず見つけ出し、息の根を止めなければならない。あの男が生きている限り、「旧王朝を復活させよう」と企む者たちの声が消えることはないのだから。

「全員、出て行け! 新しい報告がないうちは、二度と私の前に顔を出すな」

ジークは忌々しげに手を振り、家臣たちを部屋から追い払った。侍従たちまでも全員下がらせると、重い息を吐いてソファへ身を投げ出す。

ブーツを履いたままの足をテーブルへ次々と投げ出し、ジークは赤い髪を乱暴にかきむしった。

「リヌス・ブークを取り込むつもりなどなかったのに……」

ロドビニ王朝を確実に滅ぼすため、あまりにも無理な手を使いすぎた。

リヌス・ブーク、そして帝国皇帝。その両陣営と手を組むという綱渡りのような策は、今やジークにとって最大の頭痛の種となっていた。

帝国皇帝からは、早くリヌスを殺した証拠を出せと陰に陽に圧力をかけられている。言葉こそ婉曲だが、要するに「さっさと約束を果たせ」という脅しだ。

リヌスさえ始末できれば、どれほど楽だったことか。だが、あの狡猾な男は泥のようにするりと彼の手をすり抜けてしまった。あろうことか、アルビン・ロドビニまで連れ立って。

かつてジークがクレセンティア王女との婚約に失敗した際、リヌスは激怒した。表向きには、自分こそが王女と結婚できると踏んでいたらしい。ジークは何とか彼をなだめようとしたが、結局リヌスはジークを裏切ったのだ。

まさか、あのアルビンまで味方につけてしまうとは。

リヌスとアルビンには、ともに保守派という共通点があった。ジーク自身も穏健な保守派を自負していたが、あの二人は筋金入りの保守派だ。そして、あの二人が手を組んだという事実は、レギナと帝国の保守派たちを勢いづかせるのに十分すぎるほどの劇薬だった。

(奴らの勢力を、これ以上拡大させるわけにはいかない)

ジークは焦燥感に駆られ、己の爪をガリガリと強く噛んだ。

王座にさえ就けば、すべてが自分の思い通りに進むと信じていた。だが、現実はまったく違った。王座を脅かす厄介者たちを排除するため、頭も心も休まる暇など一瞬たりともない。

せめて王女が帝国で大人しく暮らしていてくれることだけが、唯一の救いだった。国民から絶大な人気を誇る彼女が、もし保守派の神輿として担ぎ上げられれば、ジークにとっては致命傷になる。

(王女の近況を、念のために確認しておかなければ)

床に散らばった報告書を冷ややかに見下ろしたジークは、ゆっくりと立ち上がった。

執務机に向かい、上質な便箋を取り出すと、あくまで気取らない文面を装って近況を尋ねる手紙を書き始める。

白い便箋の上に、黒いインクが冷徹な文字を一つずつ綴っていった。

「ふぁ……」

クレセンティアは、気持ちよく大きなあくびをしながら目を覚ました。

清々しい目覚めに、ゆっくりと体を起こす。窓から差し込む柔らかな朝の日差しがまぶたをくすぐる、とても心地よい朝だった。

彼女は目をこすりながら、部屋をぐるりと見回した。

最近よく眠れるようになったせいか、ほんのりとした眠気がまだ体に残っている。クレセンティアが使っている部屋は、レンガ造りのしっかりとした一軒家の二階にあった。温かみのあるクリーム色の壁紙に、濃い茶色のアンティーク調の木製家具がよく馴染んでいる。とても落ち着いた、居心地のよい家だった。

「ティア、起きましたか?」

ベッドの上で肩をもみほぐしていると、控えめにドアをノックする音が聞こえた。

クレセンティアがドアを開けると、エプロン姿のヒルダが立っていた。

「今起きたところよ。ヒルダもよく眠れた?」

「はい。朝食の準備ができていますから、顔を洗ってゆっくり降りてきてくださいね」

ヒルダが微笑んで言い終えるや否や、一階の台所の方から『ドタン!』と派手に何かが転がる音が響いた。

ヒルダは「あっ」と額に手を当て、深い深いため息をつく。

「もう……火の周りは絶対に触らないでって言ったのに……!」

そう言うと、ヒルダは慌てた様子で階段を駆け下りていった。

イゾルデの家で暮らし始めて、早くも一ヶ月が経とうとしていた。

最初は素性の知れない元騎士を警戒していたヒルダだったが、今ではすっかり打ち解け、実の姉妹のように仲良くなっている。もっとも、イゾルデがあまりにも快活で大ざっぱな性格なため、姉妹というよりはやんちゃな兄と小言の多い妹のような雰囲気だったが。

「もう、何をやってるの! ああ、イゾルデ! 火のそばには行かないでって言ったでしょう!」

「でも、ヒルダ……せっかくだから卵を焼こうと思って……」

「だからって、炭みたいに焦がしちゃう人がどこにいるのよ!?」

一階から聞こえてくる二人の賑やかなやり取りに、クレセンティアは思わずくすりと笑い声を漏らした。

イゾルデはサバイバルなどの生活力は高いものの、料理だけは絶望的に苦手だった。しかも本人に悪気がまったくないため、彼女が台所で騒ぎを起こすたび、後始末はいつも料理上手なヒルダの役目になっている。

「あ、ティア! よく眠れましたか?」

ヒルダに小言を言われてしゅんと頬を膨らませていたイゾルデが、階段を降りてきたクレセンティアに気づいてパッと表情を明るくした。

彼女が姿を見せると、ヒルダも呆れたように肩をすくめ、お説教を切り上げて新しい卵を取り出した。クレセンティアがイゾルデに対してとことん甘いことを、ヒルダはよく知っているのだ。

クレセンティアは優しく微笑むと、イゾルデを手招きした。

「こっちへいらっしゃい、イゾルデ。ヒルダの邪魔にならないように、私たちはおとなしくしていましょう」

「はいっ!」

イゾルデは元気よく返事をすると、クレセンティアの隣の椅子へちょこんと腰を下ろした。三人の中では一番年上のはずなのに、その無邪気な振る舞いはまるで末っ子のようだ。

「ティア、今日の具合はどうですか? お腹はもう痛くありませんか?」

「ええ、あなたたちのおかげで、だいぶ良くなったみたいよ」

「それは良かったです!」

クレセンティアを見つめるイゾルデの瞳は、まるで主人の回復を喜ぶ大型犬のようにきらきらと輝いていた。そのあまりにも純粋で憧れに満ちた視線に、クレセンティアは少し照れくさそうに微笑む。

数日前、三人でワインを開け、夜更けまで語り合った日のことだ。

酔いの回ったイゾルデは、王室騎士団の末端に所属していた頃から、ずっとクレセンティアに強い憧れを抱いていたと打ち明けてくれた。いつか立派な騎士団長に昇り詰め、王女の専属護衛になるのが彼女の最大の夢だったのだという。

その夢は理不尽な追放によって一度は絶たれてしまった。それでも、今こうして別の形で彼女をお守りするという夢が叶ったことが、イゾルデにとっては本当に嬉しいらしかった。鼻先も目元も真っ赤にしながら熱弁を振るう彼女の姿に、クレセンティアは胸を打たれたものだ。

「目的地までは結構歩きますからね。しっかり食べて体力をつけてください!」

ヒルダが手際よく作った温かい朝食を頬張りながら、イゾルデが張り切った声で言った。

今日、三人はシュライとスジャンの墓参りに向かう予定だった。イゾルデは、二人がチェカレルを訪れた本当の理由を聞くと、すぐさま自らの足を使って墓の正確な場所を突き止めてくれたのだ。

革命の混乱で墓地は荒れ果て、探すのは容易ではなかったはずだ。彼女が地元の出身でなければ、もっと途方もない時間がかかっていただろう。

「ティア、もし歩くのが辛くなったら遠慮なく言ってくださいね。私がすぐにおぶって差し上げますから!」

「ふふ、ありがとう、イゾルデ」

頼もしい言葉にクレセンティアが小さく笑うと、向かいに座っていたヒルダがわざとらしく眉をひそめた。

「ちょっと、イゾルデ。それじゃあ私は? 私はおぶってくれないの?」

「ヒルダは元気いっぱいだから大丈夫でしょ」

イゾルデが白い歯を見せてにやりと笑うと、ヒルダが軽く頬を膨らませる。そんな他愛のないやり取りを見守っていた、その時だった。

「――っ」

クレセンティアは突然、両手で強く口元を押さえた。

胃の奥底から、どうしようもないほどの激しい吐き気が強烈に込み上げてきたのだ。

「ティア!?」

異変に気づいた二人が同時に声を上げる。だが、彼女は返事をする余裕すらなく、椅子を蹴立てて裏口から森の奥へと駆け出した。

「うっ……おえっ……!」

手近な大木の幹にもたれかかり、クレセンティアは激しく嘔吐した。

胃の中のものをすべて吐き出しても、不快な波はまったく収まらない。幹を掴む手は血の気を失って真っ白になり、顔色も蒼白だった。

「ティア、大丈夫ですか!? 痛いところはありませんか?」

慌てて駆け寄ってきたヒルダが、青ざめた顔で彼女の背中を優しくさすってくれる。その温かな手のひらの感触に、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻したクレセンティアは、震える手でゆっくりと口元を拭った。

(どうして……?)

最近、少し胃の調子が悪いとは思っていた。でも、ヒルダやイゾルデと同じものを食べているのに、どうして自分だけがこんなにも激しい症状に襲われるのだろう。

「このままではいけません。背中に乗ってください」

遅れて駆けつけたイゾルデが、真剣な表情でクレセンティアの前に背を向けてしゃがみ込んだ。

「さあ、遠慮しないで」

クレセンティアが残る吐き気を必死にこらえていると、イゾルデは気遣うようにゆっくりと彼女の体を支えて立たせた。

「どうしますか? このまま家へ戻りますか。それとも……無理をしてでも、お墓参りを済ませてから帰りますか?」

イゾルデの問いに、クレセンティアは答える前にヒルダへと視線を向けた。

今日向かう予定だった墓には、シルラだけではなく、ヒルダの母であるスジャンも眠っている。ヒルダもまた、母に会えるこの日をずっと心待ちにしていたはずなのだ。

「……もうすぐ着くって言っていたわよね。お墓だけは、お参りして帰りましょう」

クレセンティアが痛む腹部を押さえながら静かに言うと、ヒルダは意外にもきっぱりと首を横に振った。

「私は反対です」

ヒルダは腕を組み、強い口調で言い切った。

「お母さんは残念に思うかもしれません。でも、仕方ありません。今日は帰りましょう。ティアが少しでも早くお医者様に診てもらうことのほうが、ずっと大切です」

「でも、ヒルダ……」

「お墓は逃げません。元気になってから、またみんなで来ればいいんです」

ヒルダは優しく微笑み、組んでいた腕をほどいてクレセンティアの背中を支えた。

親友の深い思いやりに、クレセンティアはやむなくうなずいた。三人は墓参りを延期し、そのまま町医者のもとへと向かうことにした。

小さな町の診療所で、年老いた医師は慎重な表情でクレセンティアを診察していた。

カルテに何かを書き込みながら、彼は小さく首をかしげた。

「おかしいですね……」

「あの……何か悪い病気なんでしょうか?」

クレセンティアは不安に駆られて尋ねた。

せいぜい、疲れからくる胃腸炎か何かだろうと高を括っていたのだ。だが、医師はすぐには診断を下さず、食欲や睡眠、その他の体調の変化について次々と質問を重ねていく。

診察時間が長引くにつれ、彼女の不安は雪だるま式に大きくなっていった。

「ティアさんは、イゾルデの従妹だったね。……ティアさん、あなたは結婚していますか?」

突然の質問に、クレセンティアは目を瞬かせた。

このチェカレルのような小さな町では、八百屋から医者に至るまで、住民全員が顔見知りだ。だから、医師が彼女を『イゾルデの従妹』として認識していること自体は不思議ではない。

だが、病状の診断に「結婚の有無」が関係してくる理由が分からず、彼女は戸惑いを隠せなかった。

「どうして……そんなことをお聞きになるんですか?」

「あなたの症状からすると、これは病気ではありませんよ」

医師はそう言いながら、もう一度カルテに目を落とし、それから穏やかな笑みを浮かべて彼女を見つめた。

「おめでとう、ティアさん。あなたは妊娠しています」

――え?

医師の決定的な言葉を聞き、クレセンティアは信じられないものを見るように目を大きく見開いた。

無意識のうちに、まだ平らな自分の腹部へと手が伸びる。お腹を包み込む指先が、かすかに震えていた。

妊娠……?

私が、子どもを……?

あれほど望んでも、どんなに祈っても授からなかった子どもが、大公家を捨てた今になって宿ったというのか。

なんという残酷な皮肉だろう。

クレセンティアはそっと指先を動かした。当然、まだ命の胎動など何も感じられない。それなのに、自分の体の中で確かに新しい命が芽吹き、育っているという。

エーリッヒの子を身ごもった。

その事実に、クレセンティアの胸には言葉にできないほど複雑な感情の嵐が押し寄せた。

あの美しいエーリッヒの血を受け継ぐ子どもが、私のお腹の中にいる。その事実に、密かな胸の高鳴りを覚えたのは事実だった。

しかし同時に、彼がこの事実を知ることへの身の毛もよだつような『恐怖』が、黒い影となって湧き上がる。

彼にもう愛されていないのに、子どもだけを宿してしまったなんて。

だが、その混乱もほんの一瞬のことだった。

言葉では言い表せないほどの、純粋で絶対的な喜びが、彼女の心と体を温かく満たしていった。

(私が……お母さんになるなんて)

実のところ、クレセンティアはもう一生子どもを授かることはできないと諦めきっていた。過去に大量に出血したうえ、帝国最高の医師から「子宮が弱い」と宣告されていたからだ。

きっとエーリッヒも、そう思っていたのだろう。だからこそ、離婚を突きつける際の残酷な条件として「後継ぎを産め」などと、不可能に等しい要求を迫ったのだ。

(絶対に、エーリッヒにだけは知られてはいけない……!)

クレセンティアは思わず、自分のお腹をかばうように強く抱きしめた。

本能的な母性が、まだ見ぬ我が子を外界の脅威から守ろうと警鐘を鳴らしていた。

もしエーリッヒが彼女の妊娠を知れば、あの執念深い男は地の果てまで追ってきて、必ずこの子を奪おうとするだろう。彼があれほどまでに執着し、望んでいた血の繋がった『後継者』なのだから。

クレセンティアが逃げ出して以来、エーリッヒは一度も彼女を追ってこなかった。今こうして穏やかな日々を送れていることが、彼が自分を捨てた何よりの証拠だ。

彼はもう、クレセンティアの代わりとなる都合のいい身代わりを見つけているはずだ。

けれど、後継者の存在を知れば話はまったく別だ。

大公の狂気にも似た執着は、クレセンティアではなく、この子――未来のペテール大公国後継者へと向けられるに違いない。

だからこそ、クレセンティアはこの子の存在を何としても隠し通さなければならなかった。彼らの世界には最初から存在しなかったかのように、この小さな町でひっそりと、愛情を注いで育てなければならない。

「まだ初期段階です。お腹が出てくるのはこれからですし、今はつわりが始まったばかりの辛い時期ですよ」

「……」

「ティアさん、大丈夫ですか? もしかして……その、お腹のお子さんのお父さんとは……」

ぼんやりと考え込んでいたクレセンティアは、医師の心配そうな声でハッと我に返った。

医師は、彼女の反応の薄さから『望まない妊娠』――つまり、父親が責任を取れないような複雑な事情があるのではないかと気を揉んでいたのだ。

「ご心配いただき、ありがとうございます」

クレセンティアは医師の温かい気遣いを察し、安心させるようにやわらかく微笑んだ。

そして、愛おしそうにお腹をそっとなでながら、震える声で、しかしはっきりと答えた。

「私は結婚しています。私には……愛する夫がいます」

「おお、そうでしたか! それはおめでたいことですね。すぐにご主人へ知らせてあげなくては」

「いいえ」

嬉しそうに手紙を勧める医師へ、クレセンティアは静かに、けれど悲しげに首を横に振った。

彼女は伏し目がちに、ゆっくりと嘘の口実を紡ぎ出す。

「私は……夫に会うことができません。革命の混乱で、私は彼の中で、この世で死んだ人間ということになっているんです」

「ああ……そうだったのね……」

彼女の苦しげな告白を聞き、医師は痛ましいものを見るような気の毒そうな表情を浮かべた。

現国王ジークは革命を起こした際、ロドビニ王朝の関係者を徹底的に粛清した。そのため、この国では革命の余波で生き別れたり、家族を失ったりした者が決して珍しくなかったのだ。

「そんな辛い事情があったとは知らなくて……申し訳ないことを聞いてしまったね」

イゾルデが元王室騎士団の出身であったこともあり、医師はクレセンティアの悲痛な説明を少しの疑いもなく受け入れた。さらに、クレセンティアが幼い頃の苦労で白髪になり、いつも頭巾を被って隠しているという「設定」も、その過酷な身の上話に十分な説得力を与えていた。

クレセンティアは、寂しげに微笑んだ。

これは、まったくの嘘というわけではない。

エーリッヒは、彼女の心の中では、もう完全に死んだ人なのだから。

これから先、彼女がエーリッヒに会うことは二度とない。

そしてエーリッヒも、この子に会うことはない。

――永遠に。



 

 

  • 王ジークの焦燥と旧王朝への警戒

    現国王ジークは、チェカレルに現れた「銀髪の女」の噂(クレセンティアの捕縛失敗)や、逃亡中の無能な王太子アルビンの行方に神経を尖らせていた。さらに、不本意ながらも帝国皇帝の圧力や保守派の不穏な動きに包囲され、王座の危うさに苛立ちを募らせていた。

  • イゾルデの家での穏やかで賑やかな日々

    元騎士イゾルデの家に身を寄せたクレセンティアとヒルダは、まるで本物の家族のように仲良く暮らしていた。墓参りに向かう準備を整えるほどに心が安らいでいたクレセンティアだったが、出発の間際に突然の激しい吐き気に襲われ、墓参りを急遽延期して医者のもとへ向かう。

  • 悲痛な覚悟を伴う、新たな命の宿り(妊娠)

    医師から告げられた診断は、望んでも授からなかったはずのエーリッヒとの子を身ごもるという「妊娠」だった。クレセンティアは驚きと喜びに満たされながらも、執念深いエーリッヒに後継者として子を奪われる恐怖から、「夫はこの世で死んだ」と嘘をつき、子供の存在を永遠に隠し通す決意を固める。

 

 

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