もう泣いてもいいですか?

もう泣いてもいいですか?【33話】ネタバレ




 

こんにちは、ピッコです。

「もう泣いてもいいですか?」を紹介させていただきます。

ネタバレ満載の紹介となっております。

漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。

又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

【もう泣いてもいいですか?】まとめ こんにちは、ピッコです。 「もう泣いてもいいですか?」を紹介させていただきます。 ネタバレ満載の紹介とな...

 




 

33話 ネタバレ

登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

  • 特別な生徒

英才院が大騒ぎになってから一時間後。

クロイスは執務室の中を、焦燥に駆られた様子で行き来していた。

しばらくして廊下から足音が聞こえ、見慣れた宮廷医が部屋へと入ってくる。

「陛下、お連れになったお子様ですが……」

「イビはどうだ!?」

宮廷医が言葉を終える前に、クロイスは食い気味に問いかけた。

「大きな外傷はありません。ただ、まだ肌の柔らかい年頃のお子様ですので、頬を叩かれた跡が青あざとなり、数日は残るかと……」

「それのどこが『大したことはない』というのだ!」

冷静に報告を続ける宮廷医に対し、クロイスは思わず声を荒らげた。だが、すぐに我に返る。

「……すまない。あれほど幼い子が殴られたというのに、大きな怪我ではないと言われて、私も少し取り乱してしまったようだ」

「いえ。私が基準を皇宮騎士団に合わせてしまっていたため、配慮を欠いた物言いをしてしまいました。ひとまず腫れとあざは、一週間ほどでほとんど治まるでしょう。口の中も診ましたが、幸い裂傷はなく、歯のぐらつきもありません。また、女性の宮廷医が全身を診察いたしましたが、頬と同じように数箇所ほど軽い腫れやあざがあるものの、骨には異常ないとのことです」

「……そうか」

一週間ほどで治ると聞き、クロイスはようやく安堵の表情を浮かべた。

「それよりも、ご報告があります」

宮廷医は言葉を区切り、続けた。

「普通、このような目に遭った幼い子どもは、強いショックを受けて気絶したり、ひどく怯えたりすることが多いのですが……思っていたよりも、あの子はとても落ち着いています」

「それはよかった」

「ですが……」

宮廷医は慎重に言葉を選びながら、声を潜めた。

「……こうした理不尽な状況に、慣れてしまっているからかもしれません。話を聞いたところ、孤児院の子どもだそうです。もしかすると、あちらでも日常的に……」

「いや、それは違う」

クロイスは即座に宮廷医の推測を否定した。

「私が何者かも知らなかった頃から、あの子は孤児院の院長を褒めて、かばうことばかりしていた。そんな場所であるはずがない」

「左様でしたか。いずれにせよ、あの子は今落ち着いております。お会いになりますか?」

「ああ」

クロイスは急いで執務室を出ると、皇宮内の医務室へと向かった。

扉をノックして中へ入った、その瞬間――。

「へ、陛下にお目にかかります!」

頬に小さなガーゼを貼ったイビは、両膝をついたまま床に深く額をつけ、ひれ伏していた。

イビは額を床につけたまま、必死に思考を巡らせていた。

『床がふかふかでよかった……』

幸いなことに、足元には英才院の物品室にあるものよりも、ずっと柔らかく厚みのあるカーペットが敷かれていた。そのため、勢いよく額を打ちつけた割には鈍い音がしただけで、それほど痛くはなかった。

だが、今の問題は額の痛みではない。

『こ、これで礼儀作法は合ってるのかな……!?』

英才院では、皇宮で用いられるような高位貴族向けの礼儀作法も教えられる。ただし、それは二学期からのカリキュラムだった。しかも、自分がそんな高貴な礼儀を使う機会など一生ないと思っていたため、イビはこれまでまったく興味を持っていなかった。ルームメイトのアイリンが一度だけ見本を見せてくれたことはあったが、そのときは「なんて複雑なんだろう」と他人事のように眺めていただけだったのだ。

『こんなことになるって分かってたら、前もってちゃんと習っておけばよかった!』

教授室で、他の大人たちがクロイスにしていた挨拶を必死に思い出しながら、イビは見よう見まねでその姿勢を真似ていた。

しかし、まだ気が動転しているせいか、思うように体が動かない。

もう一度、額を軽く床につけたあと、イビはおそるおそる顔を上げた。

本には「許可をいただいてから皇帝の顔を見るものだ」と書かれていたが、自分の礼が作法通りだったのか不安でたまらなかったのだ。

顔を上げたイビの目に映ったのは、険しい表情をしたクロイスの顔だった。イビは思わず泣きそうになる。

『やっぱり、挨拶の仕方を間違えちゃったんだ……!』

どうしよう。ここには正解を教えてくれる人もいない。

イビが途方に暮れていると、クロイスが静かに身をかがめた。そして大きな手を差し伸べると、そっとイビの小さな体を抱き起こし、目線を合わせてくれた。

「誰が、お前にそんな挨拶をしろと言った?」

「ひゃっ!」

低く落ち着いた声で尋ねられ、イビは思わず変な声を上げてしまった。だが、どうやら皇帝は怒っているわけではないようだった。

「わ、私がまだ礼儀を習っていなくて、ちゃんとご挨拶できなくて……っ」

怯えたように震えながら言い訳をするイビを見て、クロイスは小さくため息をつき、その険しかった表情をふっと和らげた。

「私の言い方が悪かったな。まだ体調も良くないのだから、そんな堅苦しい挨拶をする必要はない、という意味だ」

クロイスは目を丸くしているイビの頭を優しくなでると、ベッドの端に腰を下ろした。

「まだ痛むだろう。横になっていなくていいのか?」

宮廷医からは、腫れとあざ以外に大きな怪我はないと聞いていた。だが今のクロイスの目には、イビが世界で一番痛々しい子どもに見えていた。それもそのはずで、医師がイビの小さな顔の半分近くを覆うようにガーゼを貼っていたからだ。宮廷医は「小さめのガーゼを貼っただけです」と説明していたのだが――。

まだ幼い子どもゆえ、顔そのものが小さいのは仕方のないことだった。

「本当に大丈夫です! もうすっかり治りました! 全然痛くありません……い、いえ、まったく痛くありません!」

イビは、クロイスに対してどんな口調で話せばいいのか分からず混乱していた。

『もし失礼な言い方をしてしまったらどうしよう?』

そう思うと、結局それ以上は口を閉ざしてしまう。

イビはまだ、この現実を受け入れきれずにいた。

『シアン教授が、皇帝陛下だったなんて……』

思い返せば、不思議なことは最初からたくさんあった。

一人で皇后と皇女の墓の前に座っていたこと。本で見た初代皇帝の肖像画とあまりにもそっくりだったこと。ただの教授でありながら、あの厳格なセラフィナ学長に手紙の仲介を頼めるほどの立場だったこと。

イビは緊張で乾いた喉をひとつ鳴らし、勇気を振り絞って尋ねた。

「教授様……いえ、陛下は、本当に、皇帝陛下なのですか?」

言い終えてから、イビは自分でも妙な質問をしたと後悔した。皇帝本人に向かって、本物かどうかを尋ねるなんて。だが、今のイビはそんなおかしさに気づけないほど、緊張で全身をこわばらせていた。

「ふっ」

その時、クロイスの口元から小さな笑みがこぼれた。

「そうだ。私が現ハルキア帝国皇帝、クロイス・アレルキアン・ハルキア本人だ」

「…………」

その重みのある言葉に、イビは再び言葉を失った。

『これから……どうすればいいんだろう?』

イビはこれまで、自分がクロイスにどう接してきたかを思い返した。大好きな教授だったからこそ、無礼な振る舞いをした覚えはない。それでも、アールセルやルースカはもちろん、学長であるセラフィナでさえ深く頭を下げる絶対的な存在に対して、自分は何をしていただろうか。

服の裾をつかんで甘えたり、お祭りに連れて行ってほしいとねだったりしていたのだ。

それどころか、その腕に抱かれたまま英才院へ戻るまで、ぐっすり眠ってしまったことさえある。

イビの脳裏に、本で読んだ昔話がよぎった。そこでは、皇帝に対してたった一言でも失言すれば、即座に首をはねられていた。

『この方はそんなことはしないと思うけど……』

イビはおそるおそる、クロイスの顔を伺った。

「…………」

「…………」

二人の間に、長い沈黙が流れる。

先に口を開いたのは、やはりクロイスだった。

「本当に痛くないのか?」

「大丈夫です! このくらい慣れています!」

イビの健気な返事を聞いた瞬間、クロイスの表情が再び曇った。また怯えさせてしまうと思い、その言葉を必死に飲み込んだものの、どうしても口を突いて出てしまう。

「……慣れている、だと」

孤児院については褒めることばかり話していたのだから、そこで慣れたわけではないはずだ。

『孤児院に来る前、この子はどこで、どんな暮らしをしていたのだろうか』

深い知りたさが湧き上がったが、今日それを聞くべきではないと本能が告げていた。まずは、英才院で起きたあの凄惨な出来事を片づけなければならない。

「イビ」

「は、はい!」

「そんなに固くならなくていい」

「でも……陛下の御前ですし……」

イビの口から「陛下」という言葉が出るたび、クロイスの胸にはどこか寂しさが広がった。

少し前まで「先生!」と呼びながら駆け寄り、ためらいなく自分に甘えて抱きついてきた子だった。それなのに今では、まるで最初からそうだったかのように、畏まって明確な距離を置いている。

その瞬間、クロイスは気づいた。

自分が最後まで皇帝であることを隠そうとしていたのは、イビのこれからのためだったのだ、と。

将来に関する問題はいろいろとある。だが、それでもクロイスは、これまで二人で親しく過ごしてきた時間だけは、そのまま汚さずに残しておきたかった。いつか再び正体を知らないふりをして会えたなら、イビが嬉しそうに自分のもとへ駆け寄ってくれるように――。

クロイスは名残惜しさを胸の奥にしまい込み、話題を切り替えた。

「イビ、一つ聞いてもいいか?」

「はい!」

イビは勢いよく頷いた。

「どうして箱の中に、新品を入れなかったんだ? 英才院の物品室に頼めば、鉛筆もノートも、いくらでも新品をもらえただろう」

勉強に必要な物なら、望むだけ支給される。孤児院の友達への贈り物にするつもりなら、もっとたくさん申請して堂々と送ればよかったはずだ。それなのに、どうしてわざわざ他の子たちが捨てた物を拾い集めて送ろうとしたのか――クロイスはそれが疑問だった。

彼の問いに、イビは少しためらったあと、おずおずと口を開いた。

「えっと、その……校則に書いてあるんです。英才院の物品を、個人的な目的で勝手に使ったり、外へ持ち出したりしてはいけないって……。だから、孤児院の友達にあげるために『物をもっとください』ってお願いするのは、規則違反だと思ったんです」

そう答えたイビは、再び深くうつむいた。

イビの言う通りだった。物資の無駄遣いを防ぐため、基本的な校則としてそのような規定が設けられている。

だが、その校則を厳密に気にする生徒など、これまで一人もいなかった。英才院は、皇室が支援するごく限られた特権階級の子どもたちのための教育機関だ。そんな場所では、ノートや鉛筆のような消耗品に制限などなく、どれだけ使っても咎められることはない。

しかも、イビが用意していた箱は、大人の頭ほどの大きさしかなかった。その程度なら、新品だけで簡単に満たすことができたはずだ。

それでもイビは、自分の誇りを捨ててまで、他人が捨てた物を拾い集めた。英才院の規則を破らないために。

クロイスは、それがどれほど難しいことかを理解していた。

誰も見ておらず、誰も気にも留めないようなことでも、自らを律し、規則を守り続ける――それは大人でさえ容易にできることではない。だがイビは、まだこれほど幼いにもかかわらず、社会の規律を理解し、それを守ろうと努力していた。

その瞬間、クロイスの脳裏に、自分が後継者候補として考えている二人の子どもの姿が浮かんだ。

もし同じ状況だったら、アールセルとルースカはどうしただろうか。

二人とも利口だから、無難な解決策は見つけただろう。だが、イビのように最後まで頑なに規則を守り抜いたかどうかは分からない。

イビの持つその高潔な姿勢こそ、自分が次世代の後継者に求める資質そのものだった。

それは、統治者に求める最も大切な資質の一つだった。

『惜しいな……』

もしイビが、他の子たちのように貴族の生まれだったなら、この場で迷うことなく後継者候補に加えていただろう。

「せ、先生……あっ、違う。へ、陛下」

再び「陛下」と呼ばれ、クロイスは思わず小さく眉をひそめた。他の廷臣たちから呼ばれる時は何とも思わないのに、イビにそう呼ばれると、どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。

気づけば、クロイスは言葉を紡いでいた。

「これまで通り、先生と呼んでくれ」

「えっ?」

「今学期が終わるまでは、私がお前の外国語を教える。だから、その間だけでも今まで通り『先生』と呼んでくれないか。もし、それが難しいなら……」

クロイスは少し考え込み、それから悪戯っぽく微笑んだ。

「いっそのこと、名前で呼んでみるのはどうだ?」

もしこの場に他の廷臣がいたなら、「何をおっしゃっているのですか!」と目を丸くして卒倒したことだろう。皇帝を名前で呼べと言うのだから。

皇帝とは、即位した瞬間から、その名を気軽に呼べる者がいなくなる存在だ。帝国の頂点に立つ者を名で呼べる者など、一体誰がいるだろうか。だからこそ、名前で呼ぶことを許されるのは、ごく限られた者にしか与えられない至高の特権だった。

クロイスがこれまでその特権を与えたのは、親友であるケイレン公爵とラグセルブ侯爵の二人だけだ。もっとも、その二人でさえ許可を得ているだけで、実際に名前で呼ぶことは滅多になかった。

その特別な権利を、今、クロイスは目の前の小さな少女に与えようとしていた。

「じゃあ……クロイス様……?」

そう呼んでいいのだろうかと、おそるおそる顔を覗き込んでくるイビ。クロイスは愛おしそうに目を細め、彼女の頭を優しく撫でた。

「それでいい。少なくとも『陛下』と呼ばれるよりは、ずっといい」

イビもまた、「陛下」と呼ぶより、その呼び方の方がずっとしっくりときていた。「陛下」と呼んだ瞬間、自分に優しくしてくれた大好きなシアン先生が、どこか遠くへ消えていってしまったような気がしたからだ。

「もうすぐ侍医がお前の薬を持ってくるだろう。本当はもう少しここで休んでいってほしいのだが……どうやら、お前はここでは落ち着いて休めそうにないな」

その言葉に、イビはおずおずと頷いた。

宮殿は外から見ても十分に壮麗だったが、中へ入ってみると、それ以上に豪華な部屋が次々と現れ、目が回りそうになるほどだった。だから初めてこの部屋へ連れてこられたときも、

「ほ、本当にこのベッドで寝てもいいんですか……?」

と、近づくことさえためらってしまったのだ。

その問いに、侍医や助手たちは、

「怪我をされた方ならどなたでも使える場所ですから、気にせず横になってくださいね」

と優しく答えてくれた。それでも、横になって見上げた豪華絢爛な天井画は、かえってイビを緊張させるばかりだった。

イビは説明を聞いたものの、ますます不思議に思った。誰でも使える病室だというのに、どうして天井にはあれほど繊細で豪華な絵が描かれているのだろう。ベッドも英才院のものよりはるかに大きく、布団も驚くほど柔らかい。イビがこれまで生きてきた中で一番豪華な場所だっただけに、とてもではないが心を休めることなどできなかった。

「英才院から連絡があった。まず、イズリエラをはじめ、お前に暴力を振るった者たちは全員、即座に英才院の別棟へ移されたそうだ」

セラフィナ学長は、最も優先すべき処置から迅速に処理し、皇宮へ報告を入れていた。イズリエラたちは、来年完成予定の新しい寮へ隔離されることになったのだ。

「だから、これから寮であいつらと顔を合わせることはない。それに全員、その建物内で謹慎処分を受けることになるから、他の場所で会うこともないだろう」

懲戒にも正式な手続きが必要なため、即座に退学処分になるわけではない。そのため、学事日程に組まれている試験を受けるための移動だけは最低限許可されるが――。

その移動の際も、英才院の職員が必ず両脇を固めて同行しなければならず、試験が終わればすぐに寮へ戻され、自室から出ることは許されない。それは事実上の監禁処分だった。

だが、加害者たちは自分たちが「誰」に対して暴力を振るったのかをようやく理解したため、今は皆一様に恐怖に怯え、おとなしく処分に従っているという。

クロイスは、彼らがどうなろうと知ったことではなかった。ただ、イビがあの者たちと鉢合わせして傷つくことだけを心配していたのだ。被害者はイビだ。被害者が加害者と顔を合わせて、平然としていられるはずがない。

ちょうどその時、小気味よいノックの音とともに皇宮医が部屋へ入ってきた。彼が恭しく運んできた盆の上には、黒ずんだ色をした、いかにも苦そうな液体が入ったカップが載っている。

「一飲みにしてください。そうすれば腫れたところも早く引きますよ」

誰が見てもまずそうな薬を前に、イビは思わず顔をしかめた。それでも覚悟を決めたように、小さな両手でしっかりとカップを持ち上げた。

イビは両手でカップを包むと、そのまま一気に流し込んだ。

ごくっ、ごくっ、と喉が鳴り、カップの中の怪しげな液体はみるみるうちになくなっていく。

プハ、と息を吐き、イビは顔を思い切りしかめながら、空になったカップを盆の上へ戻した。

「苦かったでしょう? これでもどうぞ」

皇宮医は予想していたと言わんばかりに、一緒に持ってきた飴をイビへ差し出した。だが、その飴は上質な紙で丁寧に包装されていた。顔には大きなガーゼが貼られ、あまりの苦さに頭がぼんやりしていたイビの手元はおぼつかず、包み紙をうまく開けることができない。

それを見たクロイスが自然な動作で飴を受け取り、手際よく包み紙をはがすと、そのままイビの小さな口元へと運んだ。

「ほら、口を開けて」

イビは素直に小さな口を開けて、飴を迎え入れた。

口いっぱいに広がる甘さに、イビの表情がほっと緩む。その微笑ましい様子を特等席で見ていた皇宮医は、思わず口元を綻ばせた。

今の皇帝とイビの姿は、どう見ても仲睦まじい実の親子のようだった。

もちろん、皇宮医はそんなことを口に出すほど愚かではない。皇帝にとって「娘」という話題がどれほど繊細で、触れてはならない聖域であるか、誰よりもよく知っていたからだ。

クロイスは「よく頑張ったな」と言うように、もう一度イビの頭を優しく撫でると、名残惜しそうにその場から立ち上がった。イビもそれに続いて慌ててベッドから降りる。

『そろそろ戻らないと……』

これ以上本宮に長居するのは気が引けたし、何より戻ってルームメイトのアイリンに会わなければならなかった。もし自分がイズリエラたちに殴られていた時、アイリンが危険を顧みずに駆けつけてくれなかったら、もっとひどい目に遭っていただろう。

『それに、勉強もしなきゃ』

イビの試験は来週に集中している。だから戻って、すぐにまた試験勉強を再開しなければならないのだ。

「あっ」

そこでイビは、自分の最初の試験科目が「外国語」だったことを思い出した。

「どうした?」

イビの小さなため息を聞き逃さず、前を歩いていたクロイスが驚いて振り返った。

「もしかして、どこか別の場所も痛むのか?」

「いえ、そういうわけじゃなくて……」

イビは力なく肩を落とし、消え入るような声で答えた。

「その……試験勉強をしなきゃいけないんです。最初の試験が、外国語なので……」

「ああ」

イビの生真面目な理由に、クロイスも納得したように声を漏らした。外へ出ようとしていた彼は、扉の前でしばらく考え込むと、振り返ってイビに提案した。

「私がいつも授業で使っている本と同じものが、この先の部屋にもある。もしよければ、少し勉強していかないか? 前回、時間がなくて説明できなかったところも、今なら教えてあげられるが」

そこまで口にした瞬間、クロイスは自分が怪我をしている子どもに対してとんでもない提案をしていることに気づき、片手で顔を覆った。痛々しい姿の怪我人に「勉強していくか」などと言うなんて、自分はどうかしていた。

そう思い直して謝ろうとした、その時――。

「やります! ここで勉強して帰ります!」

困るだろうという予想に反し、イビは目をキラキラと輝かせて即答した。

クロイスは少し気まずそうにイビから視線を外すと、傍らに控える皇宮医へ尋ねた。

「イビの体調で、勉強をしても問題はないか?」

「……座って行う程度でしたら問題はありませんが……」

――本当にこの状態で勉強をするつもりなのですか?

そんな疑問が、皇宮医の表情にはありありと浮かんでいた。

無理をしていることは、イビもクロイスもよく分かっていた。それでも、二人にとってはやらなければならないことだった。

イビは、少しでも多くクロイスから学びたいと思っていた。そしてクロイスもまた、少しでも多く自分の知識を、この愛おしい子に授けてあげたいと願っていたのだ。

「できるか?」

「はい!」

イビは待っていましたと言わんばかりに元気よく答えた。本宮は決して落ち着ける場所ではなかったが、それでもクロイスと一緒なら、どんな場所でも大丈夫な気がした。

それに、クロイスは「今学期いっぱいだけ」外国語を教えてくれると言っていた。つまり、それ以降は彼から直接学べる機会はほとんどなくなるということだ。もしかすると、これが本当に最後になるかもしれない。だからこそ、この貴重な機会を絶対に逃したくなかった。

『今日だけは、私のシアン先生なんだ』

イビの健気な反応に、クロイスは嬉しそうに微笑んだ。そして以前の授業がそうであったように、イビへ向けてそっと手を差し伸べる。イビは当然の権利のようにその大きな手をぎゅっと握りしめ、二人は仲良く部屋を後にした。

その後ろ姿を見送っていた皇宮医は、しばらくぽかんと口を開けて目を丸くしていたが、二人の足音が完全に消えてから、ようやく我に返った。

「陛下が……あんな風に、心から笑っていらっしゃるなんて……」

数ヶ月前までは、国務大臣たちに向けて「皇帝陛下の鬱状態が日に日に悪化しております」と、深刻な顔で報告書を提出していたのが嘘のようだった。ところがここ最近、誰の目にも分かるほど皇帝の表情が明るくなっていた。その理由が一体何なのか、ずっと首を傾げていたのだが――。

『あの子だったのか』

皇宮医は、二人が出て行った扉を静かに見つめた。

主の心が救われたことは、医師として何よりも喜ばしい。だが……。

『これからは、あの小さな子が大変になるな』

話を聞く限り、皇帝はあの子を守るために、自らその絶対的な正体を明かしたらしい。そうなれば、やがて社交界の誰もがその事実を知ることになるだろう。

『あの子の人生は、今日を境に大きく変わる』

それは、持たざる平民の子にとっては過分なほどの幸運でもある。ほんの数時間前までは、ただ勉強がよくできる孤児院の平民にすぎなかった。しかし今や、皇帝が特別に目をかける唯一無二の存在となったのだ。それは、皇族であるアールセルやルースカとほぼ同等の立場に引き上げられることを意味していた。

だが、イビには後ろ盾となる家族がいない。

その空いた「特別な席」を利用し、皇帝との強力なつながりから利益を得ようと、これからどれほど多くの狐狸妖怪たちが近づいてくるだろうか。

『それでも……』

皇宮医は、しっかりと手を繋いで部屋を出ていった二人の、あたたかな後ろ姿を思い浮かべた。

ここ一年ほど見たことがないほど、皇帝は不器用ながらも優しい笑みを浮かべ、あふれる喜びを隠しきれずにいた。イビもまた、ついさっき恐ろしい目に遭って疲れ果てているはずなのに、そんな様子は微塵も見せず、嬉しそうに小走りで皇帝の後を追っていった。

皇帝も、イビも。

周りの思惑など届かない静かな世界で、二人はこのかけがえのないひとときを、心から楽しんでいるようだった。



 

  • 皇帝の正体発覚と二人の新たな関係

    シアン教授の正体が皇帝クロイスだと知り驚くイビに対し、クロイスはこれからも「先生」と呼ぶこと、そして特別に「名前(クロイス様)」で呼ぶ許可を与え、二人の絆はより深いものになりました。

  • イビが示した「後継者」としての高い資質

    誰も見ていない場所でも「孤児院の友達のために英才院の新品を私物化してはならない」と厳格に校則を守り抜いたイビの姿勢に、クロイスは自身が後継者に最も求める重要な資質を見出しました。

  • 皇帝の救いと、イビの激変する未来への予兆

    イビの存在が皇帝の心を救っていることが宮廷医の視点から明かされる一方、皇帝の寵愛を受けることで、今後は家族のないイビを利用しようとする大人が群がり、彼女の人生が激変していくことが暗示されています。

 

 

 

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