こんにちは、ピッコです。
「メイドになったお姫様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
140話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 仕組まれた大逆
「俺にあの話をしてくれたのは、お前だよ、シアナ」
ラシードの言葉は揺るがなかった。あまりにも確信に満ちたその瞳に見据えられ、シアナの心は激しく揺れ動く。
(もしかして……八年前、南部の保養地で出会ったあの子が、本当に皇太子殿下なの……?)
そう思い至っても、どうしても拭えない違和感があった。――ならばなぜ、彼はあの時のことを覚えていないのだろうか。
強い精神的衝撃によって記憶を失う者がいる、という話は聞いたことがある。けれど、あの一件の記憶だけを丸ごと失っているなど、いくら何でも不自然すぎる。
(何かが……絶対におかしいわ)
いくつもの考えが頭を巡る中で、シアナはある一つの恐ろしい仮説にたどり着いた。
八年前、南部の保養地でラシードは何者かに命を狙われた。幸いにも一命は取り留めたが、その後、この事件が世に出ることを望まない“誰か”の手によって、宮廷の記録がことごとく改ざんされたのではないか。
(方法は分からない。でも……もし殿下の記憶まで人為的に消されているのだとしたら――)
シアナの表情が恐怖で強張る。もしそれが事実なら、関わっているのは並の人物ではない。ここまで徹底的に痕跡を消し去り、皇太子の記憶をも操れるほどの権力者。
(例えば……皇帝陛下や、皇后陛下……)
そこまで考えた瞬間、シアナの背筋に冷たい戦慄が走った。
「……まさか」
ラシードは、この帝国の正統なる皇太子だ。皇帝は他の子どもたちには冷淡極まりなかったが、ラシードだけは特別に可愛がっていたはずだ。皇后にとってもそれは同じだった。
「皇后陛下が殿下を思いのままに操りたいと思っているのは事実よ。でも、殿下をお産みになった実の母親でもあるわ」
そんな二人が、わざわざ我が子を陥れるようなことをする理由が見当たらなかった。むしろ、ラシードの命を狙うような事件が起きたなら、それを公にして犯人を捕らえ、二度と同じことが起きないよう見せしめとして残酷な処罰を下すのが道理だ。誰も二度と皇太子に手出しできないようにするために。
シアナの表情が曇る。どう考えても、話の辻褄が合わなかった。
髪をかき上げながら、彼女は小さく呟いた。
「ちゃんと調べる必要があるわね……」
けれど――その願いが叶うことはなかった。
数日後、絶対的な力を持つ皇帝から、突如としてあまりにも不条理な命令が下されたからだ。
「陛下が出征命令を下されたんですか?」
シアナは耳を疑い、目を見開いて尋ねた。
ラシードは静かにうなずく。
「そうだ」
今日、ラシードは皇帝に直々に呼び出された。療養から戻って以来、皇帝はあらゆる政務に無関心で、誰かを先に呼びつけることなど一度もなかった。だからこそ、今回の召集はあまりにも異例だった。
ラシードは視線を落としながら続ける。
「急に呼ばれて、何の話かと思えば……兵を率いてアスランへ向かえ、と」
シアナは息を呑んだ。
アスラン――大陸の最北端に位置する、永久凍土と吹き荒れる雪嵐に閉ざされた過酷な地。誰も見向きもしない、荒れ果てた死の土地だった。
シアナは険しい表情で問いかけた。
「そんな場所に、どうして行けと言うのですか?」
ラシードは淡々と答える。
「『白一色の雪原に、帝国の旗を立ててこい』――だそうだ」
「……!」
一瞬、言葉を失ったシアナだったが、すぐに胸の奥から湧き上がる怒りを滲ませて口を開いた。
「帝国がこれまで滅ぼしてきた国々と違って、アスランには何もありません! 資源もないし、交通の要所でもないし、象徴的な意味すら持たない土地です。そんな場所を占領するなんて、まったくの無意味です!」
怒りで頬を紅く染めたシアナをじっと見つめ、ラシードが静かに問いかける。
「俺が行くのが嫌か?」
シアナは即座に声を張り上げた。
「嫌に決まってます!」
本当のところ、シアナはただラシードと離れること自体が寂しくて不安だから反対しているわけではなかった。寂しさや悲しみに押し潰されるほど、彼女の心は弱くはない。それでも――彼を行かせたくないと思う決定的な理由があった。必要なことなら、どれだけでも待てた。
「でも、アスランに行く理由がまったく納得できません!」
それがすべてだった。あの地は、ただ足を踏み入れるだけでも命の保証がないほど寒く厳しい場所だ。シアナはラシードをそんな無価値な危険地帯へ行かせたくなかった。
普段の冷静さを失い、焦りを隠せない表情のまま、彼女はすがるように続ける。
「陛下にお会いできるよう手配してください。私が必ず説得してみせます。この意味のない出征命令、絶対に取り消していただきます!」
「……」
ラシードは一瞬、意外そうに目を見開いた。そして、ふっと愛おしそうに笑みを漏らすと――ためらいなく、シアナの小さな体を強く抱きしめた。
「そこまでしなくていい。私が父上に、出征しないとお伝えするから」
その言葉に、シアナは一瞬口を閉ざし、ゆっくりとラシードの顔を見上げた。
「……本当に、大丈夫ですか?」
これまでラシードが皇帝の命に逆らったことは、ただの一度もなかった。いや、それはラシードに限った話ではない。この皇宮にいる皇族は、誰一人として皇帝の言葉に背くことなど許されなかった。それほどまでに皇帝の権威は絶対だったのだ。
だが――。
「今は違う」
静かに、しかし確信を持ってラシードは言った。
皇帝が病を理由に政務から距離を置き、宮中で静養している間、ラシードは最前線の戦場で血を流し、軍を完全に掌握して実権を手にしてきた。その過程で、多くの有力な貴族たちも彼の側に就いている。
ラシードは、低く落ち着いた声で続けた。
「今の私は……いくら父上であっても、軽々しく扱える存在ではない」
「……」
シアナは複雑な表情で唇を噛んだ。ラシードの言う通りだった。今や皇帝と皇太子の力は拮抗している――いや、わずかにラシードの方が上回っているかもしれない。衰えていく皇帝とは違い、ラシードには若さと圧倒的な未来がある。そして時間が経つほど、その差はさらに広がっていくだろう。
それでも――皇帝という存在は、決して軽んじていい相手ではないのだ。
(殿下が命令に逆らえば、陛下はきっと激怒する……そうなれば、殿下が危険にさらされるかもしれない)
そこまで考えて、シアナは小さく息を吐いた。それでも彼女は、ラシードを止めることができなかった。――いや、止めたくはなかった。
代わりに、そっと彼の首に腕を回し、静かに告げる。
「簡単なことではないでしょうけど……どうか、陛下とはできるだけ穏やかに話してください。たとえ陛下が激昂されても、どうか真っ向からぶつからず、受け止めてください……お願いします」
その言葉に、ラシードはゆっくりと眉を下げた。シアナの声が、あまりにも切実だったからだ。
ラシードには分かっていた。彼女がそこまで深く心配する理由が。
「私と父上が、致命的に衝突するかもしれないと怖いんだな」
「……はい」
シアナは正直に頷いた。
ラシードはその不安を否定しなかった。たとえ以前ほどの力がなくなっていたとしても、皇帝は皇帝だ。もし本気でぶつかれば、それは国を揺るがす激しい争いになる。
ラシードは視線を落とし、そっとシアナを見つめる。その丸い瞳には、不安が色濃く宿っていた。
「そうなったら、お前は少しも幸せじゃいられないだろう」
シアナの穏やかな日常は、粉々に壊れてしまう。しかも、婚約式を目前にして。ラシードは、そんな過酷な時間を彼女に味わわせたくはなかった。
だから彼は、目を細めて静かに頷く。
「分かった。父上が『よくも私の命令に背いたな』と杖を振り回して、俺の顔に唾を吐きかけてきても、ただ『申し訳ありません』と頭を下げておくよ」
そのあまりに極端な想像に、シアナは思わず顔をしかめた。ひどい光景だったが、ラシードはくすりと笑う。彼女が望むなら、それくらいの屈辱はどうということはなかった。
ラシードはきちんと身なりを整え、皇帝宮へと向かった。
皇帝宮の前に立つ護衛騎士ソルは、緊張した面持ちで深く頭を下げた。
「それでは、行ってらっしゃいませ。殿下」
ラシードは軽く頷き、そのまま宮殿の中へと足を踏み入れた。公的な場ならともかく、皇帝は私的な会話の際に他人が同席することを極端に嫌っていた。そのため、皇帝に会うときは家臣を連れず、必ず一人で向かわねばならなかった。
高い天井にずらりと並ぶ荘厳な柱。黄金に輝く皇帝宮の中を歩きながら、ラシードはふと過去に思いを馳せる。
皇帝には、四人の息子と七人の娘がいた。だが皇帝は子どもたち全員に冷淡で、なぜかラシードにだけは異様なほどの寵愛を注いでいた。
ラシードが生まれた日、皇帝は国中に祝日を宣言し、莫大な量の黄金と絹を神殿に捧げた。無事にこの世に生まれた息子の誕生を祝うためだ。それだけではない。ラシードが宮中で何不自由なく暮らせるよう、惜しみない支援が与えられ、毎年の誕生日には盛大な宴が開かれた。
(父上から数え切れないほど多くのものを与えられたのは事実だ。……だが、父上の愛はそこまでだった)
ラシードには、皇帝との温かい思い出がほとんどなかった。皇帝が幼い息子のもとを訪ねることなど、滅多になかったからだ。
ただし、週に一度、皇帝が後宮を訪れて食事を共にする際には、時折ラシードも呼ばれた。いつも一人で食事をしていた幼いラシードにとって、父と母と囲む食卓は、何よりも胸が高鳴る時間だった。
三人は長いテーブルを挟んで向かい合って座っていた。
皇后は柔らかな微笑みを浮かべながら、ラシードを褒めちぎる。
「先生方が口を揃えて、ラシードは聡明で、運動能力も非常に優れているとおっしゃっていましたよ」
そのたびに皇帝は満足げに頷き、ラシードの頭を撫でた。ラシードはその瞬間が嬉しくてたまらず、この時間がずっと続けばいいのに、と心から願っていた。
だが、ほどなくして――それが叶わぬ願いだと知ることになる。
食事を終えた皇帝が席を立ち、皇后は微笑みながら見送った。皇帝が後宮を出ていった、まさにその直後――皇后の体がふらりと揺れた。
「母上!」
ラシードは驚いて皇后に駆け寄った。小さな手でその体を支えようとした、その瞬間――。
「触るな!」
鋭い叫びとともに、皇后はラシードの手を激しく払いのけた。突然の痛みに目を見開いたラシードを、皇后は一瞬呆然と見つめ――やがて我に返ったように口を開いた。
「ご、ごめんなさい、ラシド……体調が優れなくて、つい……。少し休むから、あなたは部屋に戻りなさい」
声音はいつもの優しいものに戻っていた。だが――ラシードは決して忘れていない。あのとき自分に向けられた、皇后の目の光を。そこには、抑えきれないほどの激しい怒りと憎悪が宿っていた。まるで――幼い息子の首を、今すぐ締め上げてしまいそうなほどに。
苦い記憶を思い出したラシードの美しい顔から、一切の表情が消えた。
(……もう、すべて過去のことだ)
ラシードはもはや、両親の愛を求めて目を輝かせる無力な子どもではなかった。皇后に少しでも認められようと必死だった時期も、とうに終わっている。か弱い少年から、一人の男へと成長した彼にとって――今、大切なのはただ一人の女性だけだった。
シアナ。
彼女の丸い顔と、優しいエメラルド色の瞳を思い浮かべると、胸の奥がじんわりと温かくなる。ようやく、こわばっていたラシードの表情に、わずかな笑みが戻った。
(父上との話は、早く終わらせて戻ろう)
ラシードは重厚な扉を押し開けた。その瞬間――彼は思わず目を見開く。黄金と宝石で飾られた皇帝の謁見室に、二人の人物が座っていたからだ。
皇帝と――皇后だった。
「母上が、なぜここに……」
ラシードを見すえ、皇后は冷ややかに眉をひそめて口を開いた。
「陛下があなたと話があるとおっしゃるので同席したのです。最近は私の宮にも顔を出さないでしょう? 顔を見るのも難しいのではなくて?」
「……」
「無駄口は慎みなさい、ラシード。陛下の命に従いなさい」
――アスランへ出征せよ、という話だった。
皇后を見つめたまま、ラシードは低くつぶやく。
「……ちょうど五年前と同じですね」
五年前。十三歳の息子の腕を強く掴み、皇后はこう言ったのだ。『兵を率いて出征しなさい、ラシード。戦で手柄を立てれば、一気に皇太子として認められるわ』と。
ラシードは何も言わず、その命令に従った。休む間もなく剣を振るい、人の命を奪い続けた。腐臭の漂う死体の中で食事を取り、そのまま泥のように眠りにつく日々。地獄のような時間だった。
だが――皇后の言葉どおり、見返りは確かにあった。戦場から帰還したラシードは、わずか十五歳にして英雄として称えられ、ついには皇太子の座に就いたのだから。
ラシードは眉をひそめ、皇后を見据えた。
「……ですが、今はあの時とは状況が違います。アスランを占領したところで、帝国にも私にも、得るものは何もありません」
皇后は一歩も引かない。
「それを決めるのはあなたではありません。皇帝陛下が命じたのなら、黙って従いなさい。それが皇太子の務めです」
――務め。その言葉に、ラシードは思わず冷めた笑みをこぼした。どれほど従順を装おうとも、彼はすべてを分かっていた。母が心の底から望んでいるのは――ただ一つ。
「ここにいるのは父上と母上、そして私の三人だけですから、正直に申し上げます。お二人は、北の見捨てられた土地がどうなろうと、本当は気にも留めていらっしゃらないのでしょう」
「……!」
「お二人が本当に望んでいるのは、私が来るべき婚約式を挙げられず、皇宮を去ること――そういうことではありませんか?」
ラシードの痛烈な指摘に、皇后の顔色が一瞬で変わった。皇帝は何も言わず、ただ虚ろな目でラシードを見つめている。
息の詰まるような沈黙の中、やがて皇后がゆっくりと不敵に頷いた。
「……そうね。あなたの言う通りだわ」
皇后がシアナを認めざるを得なかったのは、彼女が幾度となく試練を乗り越えてきたからだった。そしてその試練の結果は、たとえ皇帝であろうと覆すことはできない。それが建国以来の古くからの掟だったからだ。
皇后は不機嫌そうに顔をしかめて吐き捨てる。
「でも私は、やっぱりあの子が気に入らないの。今からでもその子との婚約を破棄してほしいわ。それが無理なら、婚約のない遠征に出るのでもいい」
それが皇后の本音だった。だが五年前とは違う。今のラシードはすでに成人し、巨大な力を持つ皇太子だ。たとえ相手が皇后であり実の母であっても、ここまで露骨に人生に干渉される筋合いはなかった。
それでもラシードは反論も怒りも見せず、ただ静かに目を伏せた。
そして――。
「……っ!」
皇后が目を見開く。
ラシードが、皇帝と皇后の前で床に膝をついたのだ。頭を垂れたまま、彼は静かに口を開いた。
「父上、母上。私は彼女を心から愛しています。だから彼女を残して遠くへ行くつもりはありません。それが国にとっても私にとっても益にならないのなら、なおさらです。……遠征には行きません。どうか私の意思をお認めください」
静かで、しかし決して揺るぎない声だった。
「……」
皇后はしばらく言葉を失った。ラシードは皇帝と皇后の嫡子であり、幼い頃から次期皇帝として完璧に育てられてきた。だからこそ彼は、これまで誰に対しても膝を折ることも、頭を下げることもなかったのだ――たとえ皇帝と皇后の前であっても。
(あの子が、あんな女のために、あんな姿を見せるなんて……!)
並の母親であれば、生まれて初めて見る息子のその必死な姿に、胸が締めつけられる思いを抱くだろう。あるいは、自分の望みを真っ直ぐに口にする息子の成長に感心するかもしれない。
だが、皇后は違った。胸の奥に押し込めていた昏い怒りが、嵐のように噴き出した。
皇后は険しい表情でラシードを見下ろし、低くつぶやいた。
「私は確かに、最後の機会を与えたわ。それを自分で手放したのは、あなたよ」
「……?!」
意味のわからない言葉に、ラシードは目を見開く。その瞬間、これまで静かに座っていた皇帝が、操り人形のように勢いよく立ち上がった。
「それはだめだ、ラシード。母上の言うことを聞くんだ。お前は良い子だろう?」
皇帝は、すぐ近くにいるラシードにも聞き取れないほど小さな声でぶつぶつと呪詛のようにつぶやくと、懐から何かを取り出した。
「……っ!」
ラシードは目を見開いた。皇帝の手には、冷たく光る短剣が握られていた。刃は小ぶりながら鋭く、ひと刺しでも人を致命的に傷つけるには十分だった。
剣を手にした皇帝と視線がぶつかった瞬間、ラシードは直感する。
(父上は……私を傷つけるつもりなのか?)
もしそうなら――ラシードは、自らの体をあえて差し出す覚悟すらあった。ここで皇帝に傷を負わせてしまえば、逆に自分が皇帝に取って代わる最大の大義名分を得てしまう。それだけは避けなければならない。
――だが。ラシードの瞳が大きく揺れた。皇帝の手にあった刃が、予想もしなかった方向へ動いたのだ。
パッ――!
鋭い音とともに、刃が肉を裂く。皇帝の自身の身体から、鮮血が噴き出した。
カラン――。
乾いた音を立てて、短剣が床に落ちた。同時に、皇后が計算通りの鋭い悲鳴を上げる。
「陛下――!!」
その悲鳴を聞いて、扉の外に控えていた騎士たちがなだれ込んできた。皇帝直属の近衛騎士たちだった。皇帝の脇腹から滴る鮮血を目にした瞬間、彼らの顔が一斉に強張る。
「い、いったい誰がこのようなことを……!」
青ざめた顔で、皇帝が震える手を持ち上げた。その指先が明確に示した先――そこにいたのは、膝をついたままのラシードだった。
皇帝が叫ぶ。
「今すぐあやつを捕らえよ! 余を害そうとした、大逆の罪人だ……!」
あまりにも唐突で理不尽な展開に、ラシードはゆっくりと瞬きをした。そして、見てしまう。
皇帝の背後で――わずかに口元を歪めて邪悪に微笑む者の姿を。
――皇后だった。
ほんの一瞬、目が合う。その瞳には、先ほどまで見せていた動揺や焦りなど微塵もなかった。ただ静かに――冷たく、勝利を確信して笑っていた。
(……やはり、そうか)
ラシードはすべてを悟った。最初から仕組まれていたのだ。遠征の命令も、婚約の破棄を迫る言葉も、そして今この瞬間も――すべてが彼を大逆罪の罠に陥れるための布石だったのだと。皇帝のあの異様な様子、まるで何かに操られているかのような動き……。
近衛騎士たちが一斉にラシードへと剣を向ける。しかしラシードは一切抵抗しなかった。ただゆっくりと立ち上がり、再びその場に膝をついた。
「……よい。縛れ」
自らを差し出すように、静かに告げる。その声には、怒りも焦りもなかった。ただ――この理不尽な運命を覆すための、静かな覚悟だけがあった。
一方、皇太子宮で待つシアナは、胸を騒ぎに襲われていた。
相手は絶対的な権力を持つ皇帝だ。シアナはこれまで皇帝とまともに言葉を交わしたことがほとんどなく、その人物像をよく知らなかった。だが宮中で暮らす中で、皇帝の気まぐれで激しい気性については嫌というほど耳にしていた。『陛下は朝は炎のように激しく、昼は氷のように冷たく、夜は秋風のように穏やかになる方だ』と――。
そんな予測不能な皇帝の命令をラシードが拒めば、一体どんな恐ろしい反応が返ってくるのか、想像すらできなかった。
シアナは祈るように両手を胸の前で握りしめる。
(どうかこのまま何事もなく終わって……)
その時だった。シアナははっと目を見開いた。首にかけていたドングリのペンダントが、かすかに神秘的な光を放ったのだ。
驚いたシアナはそれを強く握りしめ、思わず声を上げた。
「ラシード……!」
呪文を唱えようとした瞬間、ドングリからラシードの切迫した、しかし優しい声が響いた。
(シアナ)
シアナが答える前に、声は一方的に続く。
(驚かないで。怖がらないで。心配しなくていい。ちゃんと食べて、ちゃんと眠るんだ。すぐにあなたのところへ戻るから)
「それってどういう……!」
(愛してる)
――それが最後だった。ドングリからあふれていた光はすっと消え、声も完全に途絶えた。
シアナがもう一度狂おしく呼びかけようとしたその時、バン!と勢いよく扉が開いた。入ってきたのは近衛騎士のソルだった。その尋常ではない険しい表情を見た瞬間、シアナの心臓が凍りつく。
ソルが切迫した声で叫んだ。
「殿下が、皇帝陛下暗殺未遂の容疑で拘束されました!」
「……っ!!」
あまりにも突然の衝撃的な知らせに、シアナは息を呑んだ。
ソルが言葉を荒げて続ける。
「激怒された皇帝陛下が、皇太子宮にいる者を全員拘束せよと命じられました。反逆と共謀の疑いだと言って……!」
「そんな……馬鹿げています! 下働きの侍女に何が分かるというのですか!」
「馬鹿げているのは承知の上です! 皇帝が本当に狙っているのは――シアナ様、あなたです!」
「私が……?」
「あなたを手中に収めれば、皇帝にとっては殿下を最も簡単に操れる最高の“駒”になる。今すぐこの宮をお離れください、シアナ様! 殿下は『何が起きてもシアナ様の安全を最優先に』と厳命されていました!」
ソルは矢継ぎ早にそう言うと、シアナに向かって手を差し出した。その瞬間、見えない場所に潜んでいた皇太子の影――ブラックシャドウ騎士団が次々と姿を現した。
黒い甲冑に身を包んだ騎士の一人が、シアナを躊躇なく抱き上げる。
「ご無礼をお許しください。お足が不自由なのは承知しておりますが、緊急事態につき我々がお連れいたします」
シアナはすぐにでもその腕を振りほどきたかった。このまま逃げてしまえば、無実の罪をすべて背負わされたラシードを一人置いて行くことになる。――そんなこと、絶対に模したくない。
けれど、どうすることもできなかった。
(ここに残っても、今の私にできることは何もない……)
ソルの言う通りだった。ここで捕まって人質になれば、それこそラシードの致命的な足枷になってしまう。シアナは叫びたい言葉を必死に飲み込み、血がにじむほど唇を強く噛んだ。
そして抱き上げられたまま、騎士の首にそっと腕を回した。
その悲痛な様子を見つめながら、ソルが静かに頭を下げた。
「どうかご無事で、シアナ様」
それが、彼女が皇太子宮で聞いた最後の言葉だった。
直後、ブラックシャドウ騎士団はシアナを連れ、稲妻のような速さで夜の闇へと消え去った。
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ラシードの確信と過去の改ざん疑惑
ラシードの強い確信により、シアナは8年前に出会った少年が彼だったと気付く。同時に、彼がその記憶を失っていることから、事件を隠蔽したい皇帝や皇后などの強大な権力者によって、宮廷の記録とラシードの記憶が徹底的に改ざんされたのではないかと推測する。
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理不尽な出征命令とラシードの決意
皇帝から最北端の無価値な土地「アスラン」への出征を命じられたラシードは、これが婚約式を阻止し自分を遠ざけるための皇后の罠だと見抜く。シアナの身を案じるラシードは、彼女のために初めて皇帝と皇后の前で膝をつき、命令を拒絶して彼女への愛を貫く覚悟を示す。
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仕組まれた大逆の罠とシアナの逃亡
拒絶された皇帝は自傷行為に及び、ラシードを暗殺未遂の罪で拘束する。すべてが皇后の陰謀だと悟ったラシードは抵抗せず拘束されつつも、魔法のペンダントを通じてシアナへ愛と安全を伝えた。シアナはラシードの足枷にならぬよう、彼の直属たる「ブラックシャドウ騎士団」に連れられ、涙をのんで皇太子宮から脱出した。