こんにちは、ピッコです。
「シンデレラを大切に育てました」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
231話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 展示会
展示会のオープニングは、実にあざやかに、そして盛大に幕を開けた。
華やかに飾り立てられた会場には、選び抜かれた招待客がひしめき合っている。壇上では王子とその婚約者であるアイリス・バンス嬢が並んで開会の挨拶を述べ、それに続いて楽団の格調高い演奏と美しい舞踏が披露された。きらびやかな衣装をまとった人々が行き交い、会場には高揚した空気が満ちていく。
その賑わいの中に、ジュネーブ・ケイシー侯爵夫人の姿もあった。
「思ったより人が多いわね」
人波を縫うようにして展示会場の廊下を歩きながら、彼女は小さく眉をひそめて呟いた。
初日と二日目は、招待客のみが入場を許される特別公開日である。混雑を嫌う彼女は、当然もっと閑散としているものだと思い込んでいたのだ。
「展示会を支援した大後援者や、出展している芸術家たちを全員招待していますからね。どうしてもこれくらいの人出にはなってしまいますよ」
隣を歩く息子のダグラスが、何気ない調子でそう答えた。
三日目からは一般公開となり、入場料さえ払えば誰でも入れるようになる。その日以降は足の踏み場もないほどの激しい混雑が予想されていた。だからこそ、二人はあえて少しでも落ち着いているはずの今日、足を運んだのだが――。
「これじゃあ、作品をゆっくり鑑賞するのも難しそうだわ」
母の不機嫌そうな一言に、ダグラスは途端に表情を曇らせた。
――こういう時、どうやって母の機嫌を取ればいいのか、彼にはよく分からなかった。
どうすればいいのか、と焦る彼の脳裏に、真っ先に浮かんだのは「母のお気に入り」の人物を連れてくることだった。だが、ダグラスはすぐに心の中で首を振る。
それではいけない。今日、母をエスコートしているのは自分なのだ。これは自分の役目であり、他の誰かに頼るべきことではない。
少し考えを巡らせた後、彼は精一杯の気遣いを込めて口を開いた。
「……何か、冷たいお飲み物でも買ってきましょうか?」
その言葉に、ジュネーブの表情が一瞬だけぱっと明るくなり――しかし、すぐにまた困ったように曇った。
この展示会は安全上の理由から、特別公開日の二日目までは商人の出入りが厳しく禁止されている。つまり、飲み物が欲しければ、わざわざ館を出て外の庭園まで買いに行かなければならないのだ。
「遠すぎるわ」
「確かにその通りですね」と、ダグラスは何気なく同意しかけた。しかし、すぐに思い直す。
――いや、今のは「いらない」という意味ではない。
彼は慌てて思考を組み立て直し、母の言葉を遮るようにして告げた。
「すぐに戻ります。母上は、少しこちらでお待ちください」
「いいわよ、そこまでしてもらうのは。一緒に――」
「いえ、母上。ここで待っていてください」
ダグラスは男らしくそう言い切ると、母の返事を待たずに、長い足で足早に去っていった。
「まあ……」
一人取り残されたジュネーブは、小さくため息をつきながら、息子の後ろ姿を見送った。
確かに歩き回って少し喉が渇いていたのは事実だ。
――よくできた息子だこと。
ふっと口元が緩む。気がつけば、人混みの向こうへと消えていく彼の背中は、もうずいぶん遠くまで行っていた。
容姿も端麗で、細やかな気遣いもできる。誰の目から見ても申し分のない、理想的な花婿候補の息子だ。
そのとき。
「まあ、ケイシー侯爵夫人ではありませんか」
聞き慣れた華やかな声が降ってきた。
振り向くと、ボールドウィン伯爵夫人がにこやかな笑みを浮かべて歩み寄ってくるところだった。親しくしている隣人の姿に、ジュネーブもぱっと表情を和らげる。
「お久しぶりですわ、伯爵夫人。お元気でした?」
実は昔、ボールドウィン伯爵夫人の娘とダグラスを結婚させようという話が、身内の中で持ち上がったことがあった。だが、正式な縁談として調う前に、その娘がネルス男爵と熱烈な恋に落ちてしまい、話は自然と立ち消えになったのだ。
「ええ、おかげさまで。侯爵夫人もお変わりありませんこと?」
そう尋ねられ、ジュネーブは優雅に頷いた。
――結果的に、あの縁談は流れて良かったのかもしれないわ。
ふっと、そんな思いが胸をよぎる。ダグラスとの縁談が持ち上がった家は、不思議となぜか後から問題を抱えたり、関係がぎくしゃくしたりすることが多かった。もし正式に進めていた中で娘が他の男と恋に落ちたとなれば、ケイシー家としても面目が丸潰れだっただろう。
当時は「惜しい縁談を逃した」と思ったこともあったが、今こうして伯爵夫人と気まずさもなく親しく言葉を交わしていられるを見れば、むしろこれで正解だったのだと思えた。
「そういえば、お嬢様のエイミーは元気にしていらっしゃいますの?」
ジュネーブの問いに、ボールドウィン伯爵夫人は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに溢れんばかりの柔らかな笑みを浮かべた。 miniature そして、ジュネーブの手を優しく叩きながら、どこか誇らしげに言った。
「それがね、少し前に二人目を身ごもったのよ。本当は今日、一緒に連れてきたかったのだけれど、さすがに体が重いからとお留守番をさせてね」
「まあ……! そうなのですか。それは本当におめでとうございます」
もう、二人目だなんて――。
ジュネーブの脳裏に、かつて見た結婚前のエイミーの愛らしい姿がぼんやりと浮かんだ。
息子と同じ年頃の娘が、すでに温かい家庭を持ち、母となり、さらに次の命まで授かっている。それに比べて、我が息子はいまだに婚約すら決まっていない。
思わずこぼれそうになる重いため息を必死で飲み込みながら、ジュネーブはなおも続くボールドウィン伯爵夫人の話に耳を傾けた。夫人は、上の子である初孫がいかに愛らしいか、やんちゃで困ってしまうといった話を、本当に楽しそうに語っている。
その幸せそうな姿を見送った後、ジュネーブの表情は次第に、冷たく引き締まっていった。
胸の奥で、静かな焦りが黒いシミのように広がっていく。もう、こうした話題を「他人事」として優雅に受け流せる年齢ではないのだ。
ふっと周囲に耳を澄ませば、会場のあちこちから同じような会話が聞こえてくる。
「毎週のように息子夫婦が孫を連れて訪ねてきてね」「お嫁さんと一緒に食事の準備をするのが楽しくて」「孫がやんちゃで手がかかるけれど、本当に可愛いのよ」――。
そのたびに、ジュネーブは言葉を失った。
何も言い返せない自分自身が情けなく、胸の奥からじわじわと、やり場のない苛立ちがせり上がってくる。
どうして自分は、こんな思いをしなければならないのか。アンド、どうして自分の息子は、世間の誰もが当たり前のようにしている「結婚」すらできないのだろうか。
我が家より家柄の劣る家でさえ、きちんと婚約を調え、婚礼を挙げている。息子より容姿も能力も劣っているように見える男たちでさえ、難なく伴侶を得て家庭を築いているというのに。
「……私が、悪かったのかしら」
ぽつりと浮かんだその自問は、一瞬で彼女の心をさらに重い暗がりへと沈めていった。
もしかして、自分が母親として意地を張りすぎていたのではないか。ケイシー家に舞い込んできた数多の縁談の中から、もっと早く、どれか一つを選び取って決めてしまうべきだったのではないか。貴族としての無駄な誇りなど、いっそ捨ててしまえばよかったのに。
そんな後悔にも似た思いが、容赦なく胸を締めつけた。
「まあ、こんなところでお会いするなんて!」
またしても響いた聞き慣れた声に、ジュネーブははっと顔を上げた。
振り向けば、案の定――先ほどのボールドウィン伯爵夫人に、あの“例の婦人”が声をかけているところだった。
顔を合わせれば決まって、機関銃のように息子自慢と嫁自慢を繰り出す厄介な相手。悪気がないのは分かっている。分かっているが、今のジュネーブにとっては、これ以上ないほど顔を合わせたくない天敵のような存在だった。
ジュネーブはたまらず立ち上がると、人混みの少ない、ひっそりとした廊下の奥へと逃げるように足を向けた。
ようやく見つけた静かな展示室の、壁際に用意されていた休憩用の椅子に腰を下ろし、深く大きなため息をつく。
その瞬間になって初めて、自分が取った行動のあまりの滑稽さに気づき、自嘲気味な苦笑がこぼれた。
――いい年をした一国の侯爵夫人が、一体何をしているのかしら。
息子の結婚の話題から逃げ出したい一心で、知人の姿を見つけては逃げ回るなんて、まるで泥棒のようではないか。
「子どもを育てていたつもりが、これじゃあもう敵みたいね」
半ば自嘲するように呟く。
お腹を痛めて産み、慈しみ、ここまで立派に育て上げてきたというのに――人生の最終盤になって、結婚ひとつでこれほどまでに心を乱され、追い詰められることになるなんて。
胸の奥に澱のように溜まったもやもやを吐き出すように、彼女はもう一度、深く息を吐いた。
まさに、その通りだった。我が子への感情が、まるで手のひらを返したように変わってしまった自分自身に、彼女は呆れたように小さく笑うしかなかった。
ふっと、そのとき、最近出会った風変わりな娘――リリーのことが頭をよぎった。
――もしかすると、あの子の方がよほど賢い人生を送っているのかもしれないわね。
「結婚」という縛りを自ら捨て去り、自分の望む道を進むということ。
ひとたび貴族の婚姻を結べば、まずは跡継ぎとなる息子を産むために心身を張り詰め、産めば今度は立派に育てるために心を砕く。やがてその子が大きくなれば、今の自分のように結婚適齢期の我が子に頭を悩ませることになるのだ。そして無事に結婚すれば、今度は孫のこと、家の存続のことで、死ぬまで気を揉み続ける。
リリーと出会い、彼女の家族の風変わりで自由な在り方を見てから、ジュネーブは時折、これまでの人生で一度も考えなかったような仮定を抱くようになっていた。
――もし私が、結婚しない人生を選んでいたら、どうなっていただろう。
これまで彼女は「ケイシー侯爵夫人」として生きることに命を懸けてきた。その立場そのものを疑ったことなど一度もないし、疑う必要すら味わわなかった。
けれど――いくら考えても、やはり彼女は、自分がもし侯爵夫人にならなかったとしても、今より良い人生を送れたとは思えなかった。
彼女は由緒正しき貴族の娘として生まれ、いずれしかるべき家に嫁ぐためだけに教育され、育てられてきたのだ。もし結婚をしなかったとしたら、一体自分に何が残っていただろう。
「……きっと、領地の実家に引きこもって、死ぬまで刺繍でもしていたでしょうね」
ジュネーブは小さく呟きながら、気持ちを切り替えるように、ぼんやりと壁に掛けられた作品へ視線を向けた。
彼女が逃げ込むように入ったこの小さな展示室は、高名な大家の作品ではなく、まだ世に出て間もない若い新人たちの作品を集めた特設スペースのようだった。
だが、その部屋の真ん中で、ひときわ異彩を放つ一枚のタペストリーが、彼女の目を強く惹きつけた。
実に見事な出来栄えだった。思わず息を呑み、歩みを止めてしまうほどの圧倒的な技量。
不思議な引力に手繰り寄せられるように、彼女はゆっくりと椅子から立ち上がり、その作品へと近づいていった。
壁一面を覆うほどの大規模なタペストリー。
そこに織り上げられていたのは、建国神話の勇敢な騎士ジェダが、麗しきベラの手を引きながら、真っ赤な炎を吐き散らす巨竜へと剣を構える――そんな劇的でダイナミックな名場面だった。
本来、ジェダとベラの物語を少しでも嗜んでいる者なら、この構図がどれほど歴史を誇張されたものかすぐに分かる。騎士ジェダが生きた時代には、すでに地上から竜の血絶えて久しかったのだから。
けれど、ジュネーブの心を奪ったのは、そんな史実の整合性などではなかった。このタペストリーの糸一本一本に込められた、凄まじいまでの職人技に、彼女は完全に圧倒されていたのだ。気づけば、先ほどまでの焦燥も時間も忘れ、ただその織り目の美しさに見入っていた。
タペストリーは、緻密な機織りによって作られる。貴族の令嬢として育った彼女は、針仕事の刺繍こそ嗜めど、織機など触れたこともなかった。
けれど幼い頃、一度だけ、織物で何か大きなものを作ってみたいと親に口にしたことがあった。その時、「そんな卑しい職人のようなことをしてどうするのです」と一蹴された苦い記憶が、ふっと脳裏をよぎる。
「……一度くらい、挑戦してみればよかったわね」
ぽつりと呟きながら、彼女は名残惜しそうに一歩下がった。
あの頃は、親に否定されればそれですべてが終わりだった。織機の前に座ることは、すなわち貴族としての自分の人生を閉ざしてしまう不名誉なことだとさえ思い込んでいた。
――けれど、今なら分かる。それは違かったのだと。
ケイシー侯爵夫人として激動の半生を生き抜いてきた今だからこそ、ようやく気づける境地だった。
もしあの時、別の道を選んで夫人の座に就いていなければ、今のような何不自由ない豊かな暮らしも、愛する夫や息子との出会いもなかっただろう。
けれど、だからといって、別の道を選んだ彼女の人生が、絶対に惨めで不幸なものになっていたとは限らない。
もしかすると――夫の弟であるケイシー卿のように、家督の重圧から離れ、自らの趣味に没頭し、絵画や芸術を愛でながら、気ままに穏やかに生きる道だってあったのかもしれないのだ。
そこまで考えて、ジュネーブは小さく首を振った。
いや、それも違う、と。
どれだけ時代が変わろうと、結婚しなかった女の自分が、男性であるケイシー卿のように自由で裕福な独身生活を送ることは、当時の社会では到底不可能だったはずだ。
彼女はひとつ深く息をつき、すっと背筋を伸ばした。
何度思考を巡らせても、やはり自分が歩んできたこの道こそが、自分にとっての最善だったのだ。
ケイシー侯爵夫人として生きてきたことは、決して間違いなどではない。夫は誠実で不器用ながらに自分を愛してくれたし、息子は少し頼りないところもあるが、誰よりも優しい子に育ってくれた。
さっきまで胸を黒く占めていた暗い焦りや苛立ちが、心地よい芸術のシャワーを浴びて薄れていくにつれ、ジュネーブの心は目に見えて軽くなっていった。
少し気持ちに余裕を取り戻した彼女は、ふと、先ほど心を奪われたタペストリーを購入しようと思いついた。せっかくこうして足を運んだのだから、まだ無名の新人作家の支援も兼ねて、気に入った作品をいくつか買い取るのも悪くない。
「これ、なかなかいい出来映えだな」
彼女が壁に掛けられた他の作品を一通り見終え、今度は部屋の隅にある、最も気に入った小さな絵の前に立っていたときのことだった。
何人かの男たちが、賑やかにその展示室へと入ってきた。彼らは、彼女が最初に魅了されていた大作のタペストリーの前で足を止め、ひそひそと品評を始める。
「見事なものだ」
「このレベルの密度で織り上げるには、相当な時間がかかっているはずだぞ」
「ああ、最低でも三か月は根を詰めないと無理だろうな」
――その通りよ。よく分かっているじゃない。
ジュネーブは心の中で、我が事のように誇らしく頷いた。
そのとき、男の一人が作品の横に添えられた小さな名札に目をやり、作者名と題名を確認した。その瞬間、彼は「おや」と小さく息を呑んだ。
事情を知っている風な口ぶりで、その男が仲間に告げる。
「ソリンか。あいつの作品には、いつもどこかに龍が描かれているんだ」
「有名な画家なのか?」
「いや、去年ブイ氏が発掘してきたばかりの新人さ。年齢はそれなりにいっているらしいが、まあ、芸術に年は関係ないからな」
男の説明に、隣の仲間も納得したように深く頷いた。
二人はそのまま、展示室の作品を眺めながら、ゆっくりとジュネーブが立つ側へと歩いてくる。彼女がさりげなく場所を譲ろうとしたとき、男たちは先ほどまで彼女が見つめていた「その作品」のタイトルと作者名を確認し、再び熱心に会話を続けた。
「なるほど、生活に余裕のある画家の作品ってわけか」
「どういう意味だ?」
興味を示した仲間に、詳しい男は軽く顎を引いて説明を続けた。
「最近、急に評価を上げてきた作家でね。どうやらケイシー卿が後ろ盾になって見出したらしいんだ。かなり将来を期待されているみたいだぞ」
「ケイシー卿が?」
男の言葉に、連れは驚いたように改めてその絵を見直した。
それは、同じ貴族の庭園を「昼」と「夜」という異なるシチューションで描いた、対になる連作だった。描かれている場所は全く同じなのに、光と影の表現の違いだけで、まるで別の世界のように見える見事な演出だ。
「シリーズ作品か」
「俺は、光が燦々と降り注ぐ『昼』のほうが好きだな」
「俺も同感だ。華やかでいい」
男たちの会話を背中で耳にしながら、ジュネーブは無意識のうちに胸の前で細い腕を組んだ。
――私は、『夜』の方が断然好きだわ。
暗く深く沈んだ藍色の色合いの中に、かすかに、けれど確かに浮かび上がる一輪の青い花。どこか見る者の不安を誘うのに、同時に不思議と心を凪いでくれるような、静謐で深い魅力がその絵には宿っていた。
「で、買うのか?」
しばらく絵を眺めていた男の一人が、隣の仲間に声をかけた。
画家に詳しそうな男は、少し顎に手を当てて考える素振りを見せた後、先ほどのタペストリーの方へと視線を戻して言った。
「ソリンのタペストリーは、今のうちに買っておいて損はない。買いだ」
「こっちの連作は買わないのか?」
仲間の問いに、男は苦笑しながら昼と夜の絵を見比べ、小さく肩をすくめた。
「繊細で、女にしては悪くない出来だけどな。まあ、もう少し様子見といったところだ。まだ若すぎる」
「ふむ、なるほどな」
仲間は納得したように頷き、再び連作を一瞥してから、目的のタペストリーへと視線を移した。彼は芸術にそれほど造詣が深いわけではなく、ただ友人に誘われてついてきただけのようだった。
「よし、行こう」
「作品の購入手続きって、どこですればいいんだ?」
「普段なら係の者がどこかにいるはずだが……今は席を外しているみたいだな。たしか入口の左手に事務室があったはずだ。そこへ行こう」
男たちが足早に部屋を去っていくと、静寂を取り戻した展示室で、ジュネーブは再び昼と夜の連作の前へと戻った。そして、誰もいない空間でゆっくりと二つの絵を見比べる。
やはり――何度見ても、彼女は『夜』のほうが好きだった。
「母上」
しばらくして、銀のトレイに冷たい飲み物を載せて戻ってきたダグラスが、展示室の入口付近で母の姿を見つけ、ほっとしたように歩み寄ってきた。
先ほど別れた場所に姿がなかったため、この広い館内を探すのに少し手間取ったのだろう、額にわずかな汗がにじんでいる。
「ありがとう、ダグラス」
ジュネーブはいつもの優雅で穏やかな笑みを浮かべ、息子から冷たいグラスを受け取った。
先ほどまでの、あの世界を呪うかのような重苦しさが嘘のように、彼女の表情はどこかすっきりと晴れやかだった。
――何か良いことでもあったのだろうか。
ダグラスは一瞬だけ不思議そうに母の顔を覗き込んだが、紳士として、あえてその理由を詮索することはしなかった。ただ、母の機嫌が直ったことに安堵しながら、その美しい横顔を見守るのだった。