こんにちは、ピッコです。
「シンデレラを大切に育てました」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
232話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 結婚式
ミルドレッドとダニエルの結婚式が執り行われたのは、ミルドレッドがめでたく爵位を授かった、その翌日のことだった。
もう少し早く挙げることもできたのだが、「すべての手続きを終え、きちんと爵位を受けてから式に臨みたい」というミルドレッドの希望にダニエルも同意したため、この佳き日に定められたのだ。
結果として、それは素晴らしい選択となった。ミルドレッドの爵位授与を祝うため、地方から多くの親戚や友人たちが上京してきていたからだ。もちろん、地方からわざわざ足を運んだ顔ぶれゆえ、それほど大人数というわけではなかったが、会場は温かな喜びに満ちていた。
「ま、王子殿下……?」
まもなく出産を控えたリリアン・マーフィーは、アイリスとともに式に列席していたリアンを紹介され、驚きのあまり小さな悲鳴を上げた。彼女は慌てて自分の口を押さえ、隣のアイリスに向かって恐縮したように頭を下げた。
「お、お母様、ごめんなさい……! お母様からのお手紙で伺ってはおりましたが、まさか殿下に直接お目にかかれるなんて思ってもみなくて……」
「リリアン、落ち着きなさい」
妻の取り乱した様子に気づき、夫のバーノンがすぐさま駆け寄ってきた。彼はリリアンを優しく庇うようにしながら、アイリスとリアンに向かって恭しく一礼した。
「申し訳ありません、殿下。母からお話は兼ねがね伺っておりましたが、私も妻も、未だに緊張が解けずにおりまして……」
彼の母であるサンドラに似て、すらりと洗練された体格を持つバーノン。そのいかにも生真面目な様子を見て、アイリスは思わずくすりと微笑んだ。リアンもアイリスと視線を合わせて優しく微笑み、それから気遣わしげにバーノンとリリアンへ問いかけた。
「奥方様、お腹がだいぶ大きいようですが、今何ヶ月になられるのですか?」
リアンの問いかけに、周囲の視線が自然とリリアンのふっくらとしたお腹へと集まった。リリアンは少し照れたように戸惑いながらも、愛おしそうに我が子を撫で、おっとりと答えた。
「もう八ヶ月になります」
「それでは、ご出産までこちらに滞在されるのですか?」
続くリアンの質問には、今度はバーノンがしっかりと答えた。
「はい。主治医からも移動に問題はないと太榜判を押されております。あちらの領地は少し冷え込みますので、出産後しばらくは彼女を王都に留まらせ、私が領地とこちらを行き来することになるかと思います」
リリアンの実家はもともと王都にある。これまでは娘の体を心配した彼女の母親がマーフィー伯爵家の領地まで赴いていたが、安定期を迎え、満を持して王都へ戻ってきたのだという。事情を察したリアンは深く頷いた。
「それは素晴らしい。ちょうど良い時期に戻ってこられましたね。私たちの結婚式も――」
「ええ、バンス卿と殿下のご婚礼を、この目で見届けることができますもの」
本当に最高のタイミングだった。嬉しそうに顔を見合わせるバーノンとリリアンの表情に、リアンとアイリスも心からの笑みを浮かべる。リアンは「僕たちの式にもぜひ夫婦で出席してほしい」と温かい挨拶を残し、アイリスの手を引いてその場を後にした。
「あの二人は、もともと王都で暮らしていたのかな?」
人混みから少し離れたところで、リアンが小声で尋ねた。二人の洗練された話し方や雰囲気が、いかにも王都の空気に馴染んでいるように感じられたからだ。
「ええ、その通りよ。リリアンはね、前に一度流産を経験しているの」
アイリスは静かに語り始めた。深く傷つき、気分が激しく落ち込んでいた時期に、気分転換を兼ねて下っていた領地で、幸運にも二人目の命を授かったのだという。今度こそ無さに産むため、リリアンは出産まで絶対に領地を動かないと心に決め、必要な物資はサンドラやリリアンの実母が細心の注意を払って直接届けていたのだ。
「なるほど……。でも、それほどの大事な話を今まで聞いていなかったということは、あまり親しくなかったのかい?」
無粋とも言えるリアンの純粋な疑問に、アイリスは思わず吹き出してしまった。わざわざ結婚式に招待するほどの仲なのか、と邪推する婚約者の頬を、彼女は悪戯っぽく軽くつねった。
「ふふ、親しくないわけじゃないけれど、だからといって特別な関係でもないのよ。バーノンが結婚したのは数年前だし、当時の私たちは自分たちのことで手一杯で、他所を気遣う余裕がなかったの。それに、やっぱり従兄弟って、お互いに家庭を持つと少しずつ距離ができるものでしょう?」
それに加え、一度目の流産という繊細な事情があったからこそ、周囲も気を遣ってバーノンたちの話題をあえて大っぴらに口にしなかっただけなのだ。
アイリスの説明を聞き、リアンの整った顔立ちがふっと寂しげに曇った。彼はアイリスの華奢な手を包み込むようにきつく握り締め、ぽつりと尋ねた。
「僕は一人っ子だから……兄弟がいる感覚が、時々分からなくなるんだ。僕の弟や妹たちも、やっぱり結婚したら、あんな風に距離ができてしまうのかな?」
リアンの切ない問いかけに、アイリスは一瞬言葉を詰まらせた。彼女はそっと顔をそらし、会場の向こうにいる母ミルドレッドの方へと視線を走らせた。
そこには、側に寄り添うアシュリーと、ケイシー卿にエスコートされて楽しそうに笑うリリーの姿があった。
「兄弟のことは分からないけれど……姉妹は少し違うと思うわ」
「そうかい?」
「お母様とボールドウィン伯爵夫人を見て。あの二人は本当の姉妹ではないのに、まるで実の姉妹のように寄り添って育ったと聞いたわ。私たちも、きっとそうなれると思うの」
母はよく言っていた。姉妹とは血を分けた特別な存在であると同時に、人生でいちばん親しい友人でもあるのだと。初めてその言葉を聞いたときは、あの気難しいアシュリーと自分がそんな関係になれるのかと疑問に思ったものだが、今ならその意味が痛いほどよく分かる。
数々の過酷な試練を、二人は共に乗り越えてきた。アイリスは必死にアシュリーを守ろうとし、アシュリーは不器用ながらもアイリスの力になろうと命を懸けた。血の繋がりなど関係ない。二人の魂の絆は、すでに本物の姉妹そのものだった。
「僕は……」
リアンは一度言葉を呑み込み、少し気まずそうに視線を落とした。アイリスがなぜそんなに強い眼差しをしているのか、完全には理解できないという様子で、ぽつりと続けた。
「さっきね、僕たちにも子どもがたくさんいたらいいな、って思ったんだ」
アイリスやリリー、アシュリーのように、お互いを支え合える仲の良い兄弟姉妹を作ってあげられたら、どんなに素敵だろう。しかし、リアンはすぐにハッとしたように言葉を継いだ。
「便、よく考えたら、それだと君の体が大変すぎるよね。だから……やっぱり一人だけでも十分かなって思い直したんだ」
それで本当にいいのだろうか、とアイリスは思った。だが、リアンの表情を見るに、彼の思考はまだここで終わっていない。彼女は何も言わず、彼の次の言葉を静かに待った。
リアンは少し決まり悪そうに頭を掻きながら言った。
「でも、君が大変そうだからって理由だけで、僕が勝手に子どもの数を決めてしまうのも、なんだか違うよね?」
アイリスは思わずクスリと笑った。こんな短い時間の間に、彼がどれほど段階を踏んで、自分のことを気遣いながら思考を巡らせていたのかが手に取るように分かったからだ。
リアンは彼女の表情を見て、少年らしく照れくさそうに笑った。
彼自身、自分がまだ人間として、そして男として未熟であることを痛感していた。何不自由ない王宮で大切に育てられてきたがゆえに、どこか世間の痛みに疎く、欠けている部分がある。
けれど、彼は今、その欠けた部分をアイリスのために必死で埋めようとしていた。アイリスはやわらかな愛おしさを込めて微笑むと、リアンの首にそっと腕を回した。
「ええ、その通りよ。私たちの未来のことは、二人でたくさん話し合って決めましょう」
安督のため息がリアンの口から小さくこぼれた。彼はアイリスの細い体を愛おしそうに抱き寄せ、その心地よい肩口に顔をうずめた。
本当に、ちゃんとやっていきたい。このかけがえのない女性のために。そして、いつかこの国を背負って立つ、真の君主となるために。
生まれて初めて、彼は自分の双肩にのしかかる「責任」という名の重圧を、肌で実感していた。
――いや、待てよ。
リアンはふと、自分と同じくらい、いや、平民の血を引きながら王宮へ上がるアイリスの肩には、これ以上の凄まじい重圧がのしかかるのだという事実に思い至り、息を呑んだ。
胸の奥から、冷たい罪悪感がせり上がってくる。
自分は、とんでもなく間違った選択をしてしまったのではないか。
――最初から、アイリスに求婚などすべきではなかったのではないか。
ただ彼女を自由にし、市井の片隅で、普通に穏やかに生きる幸せを与えてあげるべきだったのではないか。
生まれながらの王子として育った自分と、平民の出でありながらバンス家の長女として過酷な環境を生き抜いてきたアイリスとでは、見えている世界も、他者との接し方もまるで違う。彼女をこの窮屈な世界に巻き込んでしまったのは、自分の我儘だったのではないか。
リアンは込み上げる不安を打ち消すように、アイリスの体を折れんばかりに強く抱きしめた。
「急にどうしたの、リアン?」
「なんだか……僕、ものすごく間違ったことをしてしまった気がするんだ」
「間違ったことって?」
戸惑うアイリスの耳元で、リアンは深く重い息を吐き出し、消え入りそうな声で言葉を紡いだ。
「あなたに、あまりにも重すぎるものを背負わせている気がして……。僕のせいで、君の人生を縛ってしまったんじゃないかって」
一体何を言い出すのかと思えば。
それまで呆れたような顔をしていたアイリスの表情が、一瞬にして凄まじい「あきれ顔」へと変わった。彼女は周囲の華やかな招待客たちの視線を素早く避けると、リアンの美しい金髪をぐいっと容赦なく引っ張った。
「痛っ!?」
どうしてそんな乱暴を、とリアンは涙目でアイリスを見つめた。痛みで潤んだ瞳の婚約者を見上げ、アイリスはため息を深くつきながら、冷徹に問いかけた。
「リアン。まさかとは思うけれど、私にプロポーズしたことを今更後悔しているわけじゃないでしょうね?」
「えっ、まさか! 後悔だなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないよ!」
「なら、どうして私が重荷を背負わされているなんて勝手に憐れむの? これは私の人生で、私が自分の意志で選んだ道よ。正直に言わせてもらうけれど……」
アイリスは一度言葉を切り、腰に両手を当ててリアンをまっすぐに見据えた。そして、大した声ではっきりと言い放った。
「あなたがプロポーズしなかったら、私が王子妃になれなかったとでも思っているの?」
リアンは完全に言葉を失い、口をぐうの音も出ないほどに引き結んだ。
順序が逆なのだ。リアンが求婚したからアイリスが王子妃という重荷を背負うのではない。アイリス自身が「王子妃になる」と覚悟を決めたからこそ、リアンは彼女に求婚する資格を得られたのだ。
アイリスは「人の人生を勝手に可哀想なものだと決めつけるな」と強く言いかけ、辛うじてその言葉を飲み込んだ。リアンに悪気がないことも、決して自分を見下しているわけではなく、ただ純粋な優しさゆえの苦悩だということも分かっていたからだ。
代わりに、彼女はひとつ静かに息をつくと、ふっと柔らかに微笑んだ。
「あなたは私に重荷を背負わせていると心を痛めているかもしれない。でも私はね――重いもの、嫌いじゃないのよ」
かつて、何の力もなく、理不尽な環境でただ耐えるしかなかったあの頃に比べれば、今のこの「重み」はむしろ心地よい誇りだった。それだけの重責を背負うだけの「力」が、今の自分にはあるという証なのだから。
アイリスは、自分の少し愚かで、けれど愛おしくてたまらない婚約者の顔を見つめた。
「だからね、リアン。あなたには罪悪感を抱いて縮こまるのではなく、私を選んだことを誇りに思っていてほしいの。私はできるし、どんな重荷だって完璧にやり遂げてみせるから」
ゆっくりと、リアンの顔にいつもの輝かしい笑みが戻っていった。
彼は、この毅然としたアイリスがたまらなく好きだった。自分を憐れむことも、運命に怯えることもなく、堂々と王妃としての責任を引き受けようとするその気高い姿が。
客観的に見ても、温室育ちの自分より、過酷な現実を戦い抜いてきたアイリスのほうが、よほど未来の王妃としての資質に優れていることを、リアンも痛いほど理解していた。
彼はアイリスの小さな手を取り、その白い手の甲に、誓いを立てるようにそっと口づけを落とした。
「僕は一生、君のことを『すごい女性だ』と敬意を払い続けるよ」
リアンの熱い言葉に、アイリスの頬がほんのりともも色に染まった。そこまで大層なものではない、と否定しようとしたが、それより先にリアンが嬉しそうに悪戯っぽく笑った。
ふっと、アイリスは昔聞いた噂話を思い出した。かつて母ミルドレッドを口説き落とすために、ウィルフォード卿(ダニエル)が禁忌の魔法まで使ったかもしれない、なんてリリーたちが話していたことを。
(このリアンの顔なら、魔法なんて使わなくても、世界を平和にできてしまいそうだわ……)
そんな暢気なことを考えてしまい、アイリスの心はすっかり和らいだ。彼女はリアンの整った頬にちゅっと可愛らしく口づけをすると、その逞しい腕に甘えるように抱きついた。
「子どものことだけれど、私は二人か三人くらいがいいわ」
「え?」
キスされた頬を手で押さえたまま、リアンは突然のセリフにきょとんとした。だが、それが先ほど保留にしていた二人の子どもの話だと気づくと、すぐに嬉しそうにくすくすと笑った。
「僕は、君の負担を考えたら一人でも十分だと思うけれどね」
リアンの両親である現国王夫妻も、彼一人だけを大切に育て上げた。だからこそ、自分たちにも後継者は一人いれば十分なのではないか、というのが彼の率直な考えだった。
しかし、アイリスの現実的な視線は違った。彼女は少し苦笑いを浮かべながら言った。
「私が最初に産む子が、絶対に男の子であるという保証なんてないもの」
本音を言えば、アイリスだって自分が産む最初で唯一の子に、そのまま真っ直ぐ王位を継がせたい。だが、それは彼女一人でコントロールできることではないし、この国の歴史ある法を、自分たちの代で簡単に変えられるものでもないのだ。
リアンもまた、アイリスの言葉の裏にある「王室の現実」を察した。彼は一瞬険しい表情を浮かべ、それから静かに目を伏せた。自分の見通しの甘さを、再び思い知らされたのだ。
「アイリス。君が望むなら、僕たちの最初の子が――」
「……私たちの、立派な後継者になるのよ」
「でも……法や貴族たちの反発を崩すには、僕たちはまだ未熟すぎるね」
王の座がどれほど強大で、同時にどれほど縛られたものか、ようやく理解し始めたばかりの若い王子が、長く続いてきた王家の伝統を覆そうとしても、簡単に受け入れられるはずがない。
リアンはそのとき、なぜ義父となるダニエルが「多くを見て、経験し、学び、圧倒的な力をつけなければならない」と常々口にしていたのか、その真意をようやく理解した。心から守りたいものができたとき、それを手に入れるためには、ただの理想論ではなく「力」が必要なのだ。
「力をつけるよ、アイリス。そして、君が驚くくらいたくさん学ぶ。僕たちの、大切な未来のために」
リアンの力強い言葉に、アイリスの顔にひだまりのようなやわらかな笑みが浮かんだ。彼女は再びリアンの首に腕を回し、愛を込めてその体を抱きしめた。
「ええ。期待しているわ、私の王子様」
「よくお休みになれましたか?」
翌朝。食堂に姿を現したダニエルを見て、アイリスはぱっと立ち上がり、背筋を伸ばして挨拶した。
確かに母と正式に結婚した相手ではあるが、どうにも“父親”という実感がわかず、朝一番に彼をなんと呼べばいいのか分からなかったのだ。
「父上」と呼ぶべきなのだろうか。
アイリスとリリーの視線が、空中で複雑に交錯する。すると、娘たちの迷いを見透かしたかのように、ダニエルが席に着きながらあっさりと言い放った。
「好きに呼べばいい」
「でも、いきなり“お父様”と呼ぶのは、お互いにちょっと……」
思わず口を挟んだリリーに、ダニエルの冷徹な視線が向けられた。彼は眉をひとつ上げ、肩をすくめながら言った。
「気まずいだろ」
かつてフレッド・バンスが母と結婚した当時、アイリスは13歳、リリーは12歳だったが、今や二人は19歳と18歳の立派な大人の女性だ。
正直に言えば二人とも、ダニエルに対して“父親”というよりも、“母を溺愛する夫”あるいは“底知れない恋人”のような印象のほうが遥かに強かった。
…そして、それはダニエルにとっても全く同じだった。彼にとってアイリス、リリー、アシュリーの三人は、あくまで「愛するミルドレッドの愛娘」であって、自分の子どもという感覚は微塵もなかった。もちろん、人生の年長者として、また彼女たちの母親を妻に迎えた責任として、最初から全力で面倒を見るつもりではいたが。
「呼び方などどうでもいい。好きにしろ。それよりも――」
子どもたちが彼をどう呼ぼうと、彼自身は全く頓着していなかった。ウィルフォード卿でも、ダニエルでも構わないし、なんなら「おじさん」でもいい。公式の場なら「殿下」でも問題はなかった。
しかし、ダニエルには、それよりも今この場で、最優先で片付けておかなければならない大事な話があった。
彼は口を開きかけ、ふと厨房の方へと視線を向けた。そしてアイリスとリリーに来るよう手招きすると、長い足で先に厨房へと歩き出した。
「それより、って何かしら?」
リリーは彼の後ろを小走りでついていきながら、アイリスの耳元で小声でささやいた。
「呼び方より大事なことって何? 私たち、師匠から父親に呼び方を変えるべきかどうか、一大決心の最中だったんだけど!?」
だが、ダニエルは本当に呼び方なんてどうでもよかったのだ。リリーが彼を「先生」と呼ぼうが、「おじさん」や「おじいさん」と呼ぼうが、彼の心は1ミリも揺るがない。
「本当は王都の屋敷に戻ってから、腰を据えて話すつもりだったが、今がちょうどいいタイミングだと思ってな」
そう言いながら、ダニエルは上着の袖を無造作にまくり上げ、手際よく小麦粉と卵を取り出して調理台の前に立った。
一体、何が始まるというのか――アイリスとリリーは完全に狐につままれたような顔で顔を見合わせた。
手伝うべきか、それとも見守るべきか迷っているうちに、ダニエルは驚くべき手際で卵白だけを別のボウルに分け、恐ろしい速度で泡立てながら、何気ない調子で話し始めた。
「証書を用意してある」
ダニエルの大きな手の中で、卵白はあっという間にツノが立つほどの真っ白な泡へと変わり、ふわりと膨らみ始める。
――え、ちょっと待って、今この人、メレンゲを作っているの……!?
アイリスとリリーは思わず目を丸くした。目の前のハイスペックな調理風景に脳のキャパシティを奪われ、“証書”という不穏な単語に反応する余裕がなかった。
「その証書は、すでに私の信頼する弁護士に預けてある。弁護士の事務所は……」
そう言いながら、残った砂糖を数回に分けて加え、さらに手際よく滑らかなメレンゲを仕上げていくダニエル。彼は、自分の個人弁護士が誰なのか、事務所が王都のどこにあるのかを、淡々と説明し始めた。
――ちょっと待って、本当に何の話!?
アイリスとリリーは再び激しく顔を見合わせた。
ちょうどそのとき、遅れて朝食のために降りてきたアシュリーも、厨房から聞こえるダニエルの低い声につられて入ってきたが、調理台の前に立つ彼の姿を見て、同じように目を丸くして固まった。
「戻ったらすぐに弁護士をこちらへ呼び、もう一度きちんと三人に説明させるつもりだ」
「……あの、ウィルフォード様」
ダニエルの話が一段落したところで、それまであっけに取られて黙っていたリリーが、ついに耐えかねて口を挟んだ。アイリスとアシュリーの疑問を代弁するように、一歩前に出る。
「その“証書”というのは、一体どういうものなのですか?」
その瞬間、完成したメレンゲをふんわりと生地に混ぜ合わせていたダニエルの手が、ピタリと止まった。
――あれ、まだこいつらには説明していなかったか? というような怪訝な顔をした後、彼は混ぜ終えた特製の生地をおたまで一すくいし、あらかじめ温めておいたフライパンの上へと、美しく丸く流し入れた。
それから、エプロンもつけないまま腰に手を当てて、三人の娘たちを振り返った。
「お前たち三人に向けた、特別な証書を用意してある。ある一定の条件を満たしたとき、それぞれにまとまった額の金を支払う、という内容だ」
「一定額って……一体どれくらいですか?」
リリーの声が、かすかに上ずった。ダニエルの真剣な眼差しから、ただ事ではない異様な空気を感じ取ったのだ。それはアイリスも同様だった。後ろにいたアシュリーだけが、まだ事態の深刻さを完全には理解できず、きょとんとしている。
「つまり……私たちにお金を遺してくれるという、証書ですか?」
「閣下、まさかそれって……遺言書のようなものではございませんよね?」
「違う」
ダニエルは即座に否定すると、ぷつぷつと表面に細かな気泡が立ち始めた生地を、鮮やかな手捌きでひっくり返した。そして、端に寄せて空いたスペースに、さらにもう一枚分の生地を流し込みながら言葉を続ける。
「私の死は関係ない。……いや、私が死んだ場合も条件の一つとしては含まれているが、本質は違う。これは、お前たちの身に“何かあったとき”のための保険だ」
「ウィルフォード様……」
ここで、アシュリーがたまらず声を上げた。
アシュリーは不安そうにアイリスとリリーの顔を見比べた後、再び調理台の前のダニエルへと視線を戻し、眉をひそめて問いかけた。
「おっしゃっている意味が、どうしても分かりません。どうして私たちにお金を渡すような証書を、わざわざ作られたのですか? それに、その条件とは一体……?」
その真っ直ぐな言葉でようやく、ダニエルは自分の説明が致命的に足りていなかったことに気づいた。本来なら新婚旅行から戻った後、邸宅の書斎に弁護士を呼び、書類を広げて順を追って説明するつもりだったのだ。
だが、彼は今日の昼にはミルドレッドとともに新婚旅行へと出発し、彼女が新たに爵位とともに受け継いだ地方の領地へと向かわなければならない。しばらく王都を離れる前に、どうしても最低限の安心だけは伝えておきたかった。
「旦那様、そちらは私がやりましょうか?」
見かねたお抱えの召使いが、恐る恐る調理を代わろうと口を挟んだ。しかし、ダニエルは片手をすっと上げてそれを制した。
これは、他の誰にも譲れない。どうしても自分の手でやりたいと、前から心に決めていたことだった。
「これは奥方様の朝食だ。私が作るから、お前は向こうの仕事へ戻れ」
「気にしなくていい」と付け加えられた冷徹な声に、召使いは一礼して退がった。
――え、あれ、お母様の朝食なの!?
アイリスとリリーは同時に目を丸くしてフライパンを見つめた。ダニエルの前にあるフライパンには、普通の家庭では見たこともないほど、分厚く、信じられないほどふっくらと大きく膨らんだ生地がのっている。
「……あれって、もしかしてパンケーキ?」
後ろからアシュリーが感心したように小声でつぶやいた。朝に小麦粉の生地を焼いているのだからパンケーキに違いないが、普通はあんなに極厚のタワーのようにはならない。
「そうみたいね……」
リリーが呆然と相槌を打つのと同時に、ダニエルは二枚目の生地も完璧な焼き色でひっくり返し、フライパンにぴったりと蓋をかぶせた。
そして、くるりと完全に子どもたちの方へと向き直る。
「話を戻すが、あの証書は前から用意していたものだ。お前たちが将来結婚するときに、不自由のないよう『持参金』として使えるようにと思ってな。ただ、証書を作った当時と今とでは、お前たちの環境がだいぶ変わってしまった」
「だから、当時の条件を少し現代に合わせて変更しなければならない。戻ったらすぐに弁護士を呼んで、内容を調整するつもりだ」
ダニエルの口から出た「持参金」という単語に、三人は思わず息を呑んだ。
リリーは目を見開いたまま、恐る恐る尋ねる。
「“前から”って……一体、いつ頃から用意してくださっていたのですか?」
ダニエルの端正な口元に、わずかに悪戯っぽい笑みが浮かんだ。彼はアイリスを一瞬だけ意味深に一瞥してから、再びフライパンへと視線を戻す。
「お前たちの母親が、あの忌々しいウェブスター卿(フレッド・バンス)を屋敷から叩き出した、ちょうどその直後くらいだな」
――そんなに、そんなに前から……!?
アイリスとアシュリーは思わず顔を見合わせた。それはまだ、季節が夏を迎える前のことだ。
つまり、ミルドレッドとまだ正式な恋人同士にすらなっていないその時点で、ダニエルはすでに彼女の娘たちの将来を憂い、莫大な持参金を用意しようと動いていたことになる。
(私たちのことを、血も繋がっていないのに、そこまで想ってくれていたの……?)
その計り知れない深い情愛に、三人の胸がじんと熱くなりかけた――その瞬間、リリーが我に返ったように慌てて口を開いた。
「端、どうしてですか!? 当時はまだ、お母様と結婚すると決まっていたわけでもなかったのに!」
ダニエルはフライパンの蓋を開け、中のパンケーキの完璧な蒸し焼き加減を確かめていた。数日前にミルドレッドから「初夜の翌朝の朝食」についての希望を聞いたときから、これだけは自分の手で、最高のクオリティで作りたかったのだ。
彼は温められた皿に、まるで雲のようにふわりと大きく膨らんだパンケーキを移し、手際よく極上のバターと、艶やかなフルーツコンポートを添えた。そして、至極当然のことのように言った。
「そうして先にお前たちの将来を保証してやれば、お前たちの母親が、何の憂いもなく、安心して俺と恋愛できるだろうからな」
「はぁ?」
アシュリーの口がぽかんと開いた。
さっきまでの壮大な感動はどこへやら、あまりにも純粋で、あまりにも直球すぎる「母親への溺愛」が理由だったことに、完全に拍子抜けしてしまったのだ。
その隙に、現実的なアイリスがすかさず問いかけた。
「では、お母様はこのことをご存じなのですか? 閣下が私たちのために、それほどの証書を用意してくださっていることを」
「いや、知らない」
ダニエルは相変わらず、愛する妻の朝食を仕上げるために忙しく手を動かしていた。別のフライパンで香ばしいソーセージを焼きながら、手際よく自分用のパンケーキまで焼き始めている。
(それにしても、料理がものすごく上手だわ……)
さっきまでの戸惑いも忘れて、アシュリーは思わずその鮮やかな手つきに見入ってしまった。母を誰よりも大切に思っていることも、顔が恐ろしくいいことも知っていたが、まさかここまで家庭的な事柄まで完璧にこなす器用な男だとは思っていなかったのだ。
――この人、本当にできないことなんてあるの?
ふと、そんな畏怖に近い疑問が彼女の頭をよぎる。
「お母様がご存じないのなら、私たちはそれを素直に受け取っていいのか分かりません」
アイリスが静かに、生真面目な口調で告げると、ダニエルは手を止めずに、あっさりと答えた。
「ここへ向かう馬車の中で、君たちのお母様にはすべて話すつもりだ。ただ、その前に、当事者であるお前たちにも事前に知っておいてほしかっただけだ」
「でも、お母様がなんて仰るか……」
「自分の夫が、最愛の娘たちにお金を残すと言って、嫌がる母親がこの世にいると思うか?」
ダニエルにそう整った顔で正論を言われれば、返す言葉もなかった。三人の視線が自然と重なる。
それでも、やはりどこか申し訳ない、身に余るという気持ちが残る。ダニエルはあくまで「母の夫」であって、自分たちの実の父親ではないのだ。これまでにも十分すぎるほど危機を救ってもらい、助けてもらっているのに、その上、将来の資産まで受け取っていいのだろうか。
正直、アイリスは妹たちの未来を思えば、ありがたく受け取りたい気持ちもあった。たとえ自分が王子妃になったとしても、王室のお金を妹たちのためにどれだけ自由に融通できるかは分からない。持参金が潤沢にあれば、リリーもアシュリーも、家柄に左右されず本当に好きな相手と対等に結婚できるだろう。
――それでも、やはり素直に「ありがとうございます」と受け取るには、貴族としての矜持が少しばかり抵抗していた。
そんなアイリスの複雑な表情を、ダニエルは見逃さなかった。
彼は完成した朝食の皿を丁寧にトレーに移し終えると、調理台をゆっくりと回り込み、三人の娘たちの前に立った。そして、胸の前で堂々と腕を組み、まっすぐにその瞳を見据えて言った。
「あの証書はな、たとえ将来、私や君たちのお母様に万が一の事態が起きたとしても、お前たちが結婚するときには『絶対に』金が支払われる仕組みにしてある。……たとえこの私であっても、一度預けたその金には二度と手を出すことはできない。私の言っている意味が、お前たちなら分かるな?」
――あ。
アイリスは思わずハッと口を開いた。
ダニエルは、すべてを分かっていたのだ。かつてフレッド・バンスがミルドレッドの莫大な財産をすべて浪費し尽くし、そのせいでアイリスたちが「自分たちには持参金がないから、まともな結婚などできないかもしれない」と、深い絶望と不安を抱えていたことを。
だからこそ、彼は何よりも先に、その傷を完全に塞ぐための「絶対に奪われない盾」を用意してくれていたのだ。
たとえ将来、ダニエルの事業がすべて失敗して破産しようとも、あるいは万が一、ミルドレッドと上手くいかなくなって離別することになったとしても――。
彼が遺したその証書さえあれば、子どもたちが結婚するときの持参金として、確実に、誰の手にも汚されることなく大金が彼女たちの手元に渡る。
あまりの深い配慮と優しさに、アイリスの頬が熱い感動で赤く染まった。すぐにリリーとアシュリーの顔にも、言葉にならないほどの感動が波のように広がっていく。
「旦那様……一度だけ、一度だけでいいので、抱きしめてもいいですか?」
アイリスの切なる願いに、ダニエルは眉をひそめ、反射的に「断る」と言おうと唇を動かした。だが、彼が声を出すよりも早く、リリーとアシュリーの二人が弾かれたように目の前に飛び込んできた。
「旦那様――っ!」
「先生!」
二人は遠慮も躊躇もなく、ダニエルの逞しい体に思い切り抱きついた。ダニエルの端正な顔が、見たこともないほどの困惑の色で歪む。もしこれが他人の娘だったなら、とっさに体術でかわすか、容赦なく手で押しとどめていただろう。
だが――この目の前で泣きそうな顔をしている少女たちは、世界でいちばん愛するミルドレッドが命を懸けて産んだ、大切な娘たちなのだ。
やがて、感極まったアイリスまでもがその輪に加わると、ダニエルは観念したように小さくため息をつき、片手でそっと額を押さえた。
「……よし、もう三秒経った。いい加減に離れろ」
きっちり心の中で三秒数えたところで、ダニエルは容赦なく、さっと子どもたちの体を自分から引き離した。そして、なおも瞳をきらきらと輝かせながら見つめてくるリリーとアシュリーを完全に無視するようにして、調理台から朝食のトレーをスマートに持ち上げた。
そのまま、振り返ることもなく、大股で上の階へと去っていく。
少しそっけない、いかにも彼らしい態度だったが、感動に胸を震わせている三人にとっては、そんな不器用な冷たささえ愛おしかった。
アイリスとリリー、アシュリーは、ダニエルの頼もしい背中が見えなくなるまで見送ると、お互いの顔を見合わせてくすくすと幸せそうに笑い合い、くるりと振り返った。
そして、呆然と突っ立っていた給仕の召使いに向かって、満面の笑みで声を揃えた。
「ダニエル様が作ってくださったあの残りの生地で、私たちにも、あのふわふわのパンケーキを焼いてちょうだい!」
上の階の、柔らかな朝の光が差し込む寝室。
静かにドアを開けて戻ってきたダニエルは、豪奢な朝食のトレーをそっとサイドテーブルに脇に置き、ベッドの端に静かに腰を下ろした。
そして、白いシーツの中でまだ心地よさそうに眠っている最愛の妻――ミルドレッドの元へゆっくりと身をかがめ、そのなだらかな肩口に、愛を込めてそっと口づけを落とした。
「……奥様。愛しい我が妻よ、朝食をお持ちしました」