こんにちは、ピッコです。
「メイドになったお姫様」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
141話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 白亜の牢獄
皇宮の奥深くにそびえ立つ白亜の塔――人々に“罪人の塔”と恐れられるその最上階に、一人の男が両手を縛られたまま座り込んでいた。
ラシードだった。
彼は力なく目を伏せ、かすかにその名を紡ぐ。
「シアナ……」
沈黙が返ってくるだけだった。
「……シアナ」
何度呼びかけても、首に掛けられた魔石が反応を示すことは二度となかった。魔石に宿っていた三度の奇跡は、すでにすべて使い切ってしまっていた。仮に回数が残っていたとしても、彼女の声がここに届くことはない。この塔の最上階は、あらゆる魔力を完全に遮断する特別な結界に守られているからだ。
それでもラシードは、諦めきれずに何度も彼女の名を呼び続けた。ほんの一瞬でもいい、奇跡が起きて彼女の声が聞こえるかもしれないという、あまりにも淡い期待を抱きながら。
ギィ……と、遠くで重い鉄の扉が軋む音が響いた。続いて、静かな足音がこちらへ近づいてくる。やがて鉄格子の向こうに現れたのは――皇后マリアと、その側近である侍女イヴリンだった。
イヴリンが一歩後ろへ下がると、皇后はゆっくりと前へ進み出た。そして、地に伏せるラシードの姿を見据え、冷酷に目を細める。
「本当に、見るに堪えない姿ね。ラシード」
皇帝暗殺未遂の罪を着せられたあとも、ラシードは大人しく捕まるような男ではなかった。武器も持たない徒手空拳の状態で十数人の近衛騎士を叩き伏せ、奪った剣でさらに数十人の騎士を斬り倒したのだ。まさに“皇太子”の名に恥じない圧倒的な武勇だった。
だが、それもそこまでだった。鎧も武器も万全に整えた大軍勢を、ただ一人で相手にし続けることなど不可能に近い。結局のところラシードは捕らえられ、全身に無数の傷を負って血にまみれた無残な姿で、この牢獄へ放り込まれたのだった。
その惨状を見下ろしながら、皇后は鼻で笑い、吐き捨てるように言った。
「最初からおとなしく捕まっていれば、せめて皇太子としての最低限の体面くらいは保てたものを」
ラシードは皇后の辛辣な嘲りには一切反応せず、ただ低く問いかけた。
「……父上のご容体は」
「血をかなり流されて一時は意識を失っていたけれど、今は目を覚ましているわ。しばらく安静が必要だけど、命に別状はないそうよ」
「……そうですか」
わずかな沈黙のあと、皇后は残虐な笑みを口元に浮かべた。
「でも、“助かってよかった”なんて思わないことね。陛下は目を覚ました途端、あなたの首をすぐに刎ねろと大騒ぎなのだから」
鉄格子の前で、彼女は心底愉快そうに笑う。我が子が囚われているというのに、その表情には歪んだ歓喜だけが滲んでいた。
ラシードはそんな実の母親を真っ直ぐに見据え、静かに口を開いた。
「……母上は、父上を愛していらっしゃるのですか」
鋭く突き刺さるような問いだった。しかし、皇后は眉一つ動かさず、あっさりと頷いてみせた。
「ええ、そうよ」
予想通りの答えだった。それでもラシードの胸の奥は、じわりと冷えていく。皇后が皇帝に向ける優しさも微笑みも、すべてが偽りであることなど、とうに気づいていた。だが、ラシードにとってそれは問題ではなかった。皇后が皇帝を愛していようが憎んでいようが、どうでもよかったのだ。
なぜなら――これまでのラシードは、無条件で皇后に従うよう徹底的に調教されてきたからだ。
戦地へ行けと言われれば赴き、皇太子になれと言われればなった。たとえ皇帝に刃を向けろと言われても、かつての彼なら疑いもなく従っていただろう。
(シアナに出会う前なら……)
だが、今は違った。ラシードはもはや、母の手の中で踊るだけの操り人形ではない。彼の魂も身体も、動かせるのは世界でただ一人――シアナだけだった。
だからこそ、一刻も早くここを抜け出さなければならない。シアナのために。
ラシードは迷わず本題を切り出した。
「私にお望みなのは何ですか」
「シアナをこの帝国から追い出しなさい。そして、二度と会わないこと」
「……そこまで彼女がお気に召さないのですか?」
ラシードの問いに、皇后は小さく笑みを浮かべた。
「いいえ。あの子は利発で、愛らしい子だと思っているわ。ただ――あの子はあなたをあまりに振り回しすぎる。あなたがらしくもなく貴族たちと関わり、自身の勢力を固めたのも、すべてあの子のためなのでしょう?」
婚約式の前からこれでは、結婚後は目に見えている。シアナはラシードを背負い、この自分に立ち向かうつもりなのだ。皇后には、そんな不届きな娘を受け入れる気など毛頭なかった。
「その子と別れれば、お前の罪は不問にしてあげる。皇太子の地位も戻し、すべてを元通りにしてあげましょう」
“元通りに”――その言葉に込められた意味を、ラシードは正確に理解していた。再び、皇后の言いなりの人形に戻れ、ということだ。
ラシードの整った顔に、じわりと怒りが滲む。
現在のラシードの状況は最悪だった。事実がどうであれ、彼は“皇帝暗殺未遂”という現行犯で捕らえられている。皇太子といえど、到底許されるはずのない大罪だ。皇帝が望めば、明日にでも首を刎ねられておかしくはなかった。
もちろんラシードを支える貴族や軍の勢力はある。だが、罪状があまりに明白である以上、彼らも表立って動くことはできない。この絶体絶命の状況でラシードを救い出せるのは、皇帝を完全に掌握している皇后、ただ一人だった。
……それでも、ラシードは皇后の手を取ることができなかった。いや、取りたくはなかった。
彼は低く抑えた声で問いかける。
「私が母上の提案を拒めば、どうなさるおつもりですか」
ラシードは皇后の本心を理解しているつもりだった。彼女は幼い頃から自分を過酷に鍛え上げ、戦場に送り出してきた。すべては彼を“皇帝”の座につけ、自らの権力を不動にするためだ。そんな皇后が、唯一無二の最高傑作である自分を簡単に切り捨てるはずがない――。
だが、その予想は無残に裏切られることになる。
「以前とは違うわ。陛下は今――私の掌の上にいるのだから」
皇后は冷ややかに笑った。
「ええ。あの方がいれば、何も恐れることはないわ。言うことを聞かない人形なんて、捨てて新しいものに取り替えればいいだけでしょう? ――ラシード」
実の母親が我が子に向けるとは到底思えない、冷酷で無機質な言葉だった。それでもラシードの瞳は微塵も揺れなかった。ただ、以前から知っていた残酷な事実を改めて突きつけられた――そんな静けさだけがそこにあった。
その無反応さが、かえって皇后の神経を逆撫でする。彼女は一歩、鉄格子へと近づき、冷たい鉄柱に手を添えた。そして感情の読めないラシードを睨みつけ、告げる。
「そうね。あなたは昔から、自分の命などどうでもいいという顔をしていたわ。でも――シアナが関わっても、同じようにいられるのかしら?」
「……!」
その瞬間、凪いでいたラシードの瞳がはっきりと揺れ動いた。それを見た皇后の瞳に、ぞぞっとするほどの愉悦が満ちていく。彼女はさらに言葉を重ねた。
「ラシード。このまま皇帝暗殺未遂の罪が確定すれば――婚約者であるシアナ姫も、共犯として裁くことができるのよ」
シアナは新アスルンドの宰相であり、ただ一人の王女だ。だが、帝国の絶対的な権威の前では、その立場すら何の意味も持たない。皇后が皇帝を操る限り、彼女の身分も、居場所も、その命さえも――簡単に踏みにじることができるのだ。
――その瞬間だった。
カシャン!と重々しい金属音が響き渡った。ラシードの両手を拘束していた頑強な鎖が、あっけなく引きちぎられたのだ。人間のものとは思えない常軌を逸した力だった。
皇后が反応する隙すら与えず、ラシードは一歩で間合いを詰めた。鉄格子の隙間から長い腕を差し入れ――血に濡れた手で、皇后の細い首を容赦なく掴み上げた。
ラシードは怒気を孕んだ声で、低く、冷徹に告げた。
「シアナの髪一本でも傷つけてみなさい。――その時は、たとえあなたであっても、生かしてはおかない」
「……っ、く」
喉を強固な万力で締め上げられる感覚に、皇后は息を詰まらせた。恐怖と激痛が一気に押し寄せ、視界が急速に暗く滲んでいく。本物の死が、すぐそこまで迫っていた。
「マリア様!!」
イヴリンの悲鳴のような叫び声で、皇后ははっと目を見開いた。
瞬きをした、ほんの一瞬のことだった。
先ほどの出来事は、まるで霧のようにすべて消え失せていた。首を絞めていたはずの手もなく、鉄格子の向こうのラシードは、何事もなかったかのように静かに佇んでいる。
――今のは、幻だったのか。
だが、あの鮮烈な紫の瞳で射抜かれた恐怖だけは、肌に生々しく残っていた。
皇后の身体を慌てて支えたイヴリンが、不安げに問いかける。
「大丈夫ですか、マリア様……?」
「……」
皇后は答えず、鉄格子の向こうの男をじっと見据えた。悪魔に魂を売った者でさえ、あれほど底知れない、冷酷な目はしないだろう。その時になってようやく、皇后は思い出すのだ。我が子に付けられた、あの忌まわしい呼び名を。
――“血の皇太子”。
彼女は唇を小刻みに震わせながら、吐き捨てるように言った。
「やっぱり……あの大公の息子ね。忌々しい。いっそ、生まれてこなければよかったのに」
吐き出した呪詛を心奥に飲み込むように、皇后は一度深く息を整えた。そして、氷のように冷ややかに告げる。
「長くは待たないわ。――一週間あげる。それまでに答えを出しなさい」
それは決して“猶予”などではなかった。飢えと渇き、そして全身の傷の痛みで肉体と精神を極限まで追い詰め、従順さを選ばせるための拷問の時間だ。皇后はすでに決めていた。ラシードには、水一滴すら与えるつもりはない。極限の苦しみの中で、誇り高き皇太子も必ずや自分に屈するはずだと信じて。
このまま皇帝暗殺未遂犯として惨めに処刑されるか。
それともシアナを捨て、再び“皇后の人形”に戻るか。
皇后がラシードに突きつけたのは、その二択だけだった。
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一方その頃――。
シアナは皇宮から遠く離れた格式高い邸宅に身を寄せていた。そこはラシードが非常時に備えて水面下で用意していた、最高機密の隠れ家だった。
屋敷の周囲にはラシード直属の「ブラックシャドウ騎士団」が厳重な警戒を敷き、内部にはシアナ付きの侍女たちが控えている。落ち着かない様子で椅子に腰掛けていたシアナは、不安を押し殺すように唇を強く噛みしめていた。
やがて、静かに扉が開き、一人の黒衣の騎士が入ってきた。その姿を見た瞬間、シアナは弾かれたように勢いよく立ち上がった。
「状況はどうなっていますか!?」
騎士は深く一礼し、沈痛な面持ちで告げる。
「皇太子殿下は……皇帝陛下と皇后陛下にお会いになりました。ですが、その謁見の場で、殿下が皇帝陛下に剣を向けられたとのことです。陛下はお怪我をされましたが、幸いにも命に別状はないと発表されております」
それはあまりにも衝撃的な事実だったが、シアナにはそれよりも何よりも早く知りたいことがあった。
「殿下は……殿下はどうなったのですか!?」
「皇帝陛下暗殺未遂の罪により、“罪人の塔”へ幽閉されました」
「……っ!」
シアナの顔から一気に血の気が引き、目の前が真っ暗になった。
罪人の塔――それは、国家転覆や皇家に対する大逆など、極悪非道の罪を犯した皇族だけが閉じ込められる終焉の場所だ。一度入れば誰とも面会できず、厳重極まる監視の下での脱出など絶対に不可能。そして、そこから出られる時はただ一つ――皇帝から下された毒を飲み、冷たい屍となった時だけだった。
信じられないというように、シアナはゆっくりと頭を振った。
「そんなはずありません……! 殿下が皇帝陛下を害そうとするなんて、絶対にあり得ません!」
それは感情的に恋人をかばう言葉ではなかった。ラシードは、自分があのような逃げ場のない場所で犯人に仕立て上げられる状況を予測できないほど浅はかでも、感情に流されるような男でもない。すべては何者かの陰謀なのだ。
しかし、状況を報告していた騎士は困惑した表情で言葉を濁した。
「……殿下は“血の皇太子”という物騒な異名をお持ちです。それにここ最近は、目に見えてご自身の勢力を急拡大させておいででした。そのため宮廷内では、『皇位を狙う皇太子が、ついに我慢できずに暴挙に出たのではないか』という見方が急速に広まりつつあります」
シアナの顔色がさらに青ざめる。長く政務から遠ざかっていたとはいえ、皇帝はこの帝国において絶対的な頂点だ。そんな最高権力者に刃を向けたという疑惑は、帝国の人々の怒りと恐怖を買うには十分すぎた。たとえ戦場の英雄であるラシードであっても、大逆の罪は例外なく極刑に値する。
騎士はシアナの様子を窺いながら、慎重に言葉を続けた。
「……貴族や平民の中には、皇太子殿下であっても容赦せず、即刻処刑すべきだという過激な声も上がり始めています」
あまりにも残酷な現実に、シアナの身体がふらりと大きく揺れた。そばに控えていた侍女のカネットとリナが慌てて彼女の身体を支える。
二人の温もりに支えられながらも、シアナは悔しさに唇を強く噛みしめた。
本当なら、今すぐ皇宮へ乗り込んでラシードの無実を叫びたかった。だが、今の彼女にそれは許されない。皇宮ではすでにラシードの反逆に加担した疑いで、シアナの身柄も指名手配されているからだ。もし今捕まれば、その先の運命は火を見るより明らかだった。それどころか、シアナが捕まれば、彼女はラシードを意のままに動かすための最悪の“人質”として利用されてしまう。
最悪の事態だった。それでも、何もせずにただ涙を流しているわけにはいかない。どうにかして彼を救い出さなければ。
シアナは自室に戻ると、すぐさま机に向かって手紙を書き始めた。ラシードがこれまで味方につけてきた有力貴族たちへ、助力を求めるための嘆願書だった。書き上げた手紙は、ブラックシャドウ騎士団の手によって密かに都へと送り届けられた。今いる場所は絶対の機密であるため、返事を待つ余裕はない。それでも、少しでも早く彼らの心を動かす必要があった。
貴族たちが結束して殿下の無実を訴えてくれれば――いや、そこまで大それたことでなくてもいい。「本当に皇太子が陛下を害そうとしたのか」、公の場での正式な再調査を求めてくれるだけでよかった。それだけで、ラシードが“いつ処刑されてもおかしくない”という最悪の猶予なき状況から、一歩でも遠ざかるはずだったからだ。
しかし、数日後――。
「……貴族たちが皆、沈黙しているのですか?」
皇宮の動向を探って戻ってきた騎士の報告に、シアナの声が震えた。騎士は静かに頷く。
「はい。事件直後、皇帝陛下は負傷されたお体のまま主要な貴族たちを緊急招集し、こう宣言されたそうです。『ラシードは朕の命を狙った明白な反逆者である。あれを擁護する者がいれば、同じく反逆を企てた罪人とみなし、三族すべてを処刑する』と……」
怒りと狂気に満ちた皇帝の宣言に、居並ぶ貴族たちは息を呑み、誰一人として反論の口を開けなかったという。それも無理のないことだった。近頃の皇帝は以前にも増して苛烈で、まるで飢えた獣のように激しい凶暴性を見せていた。逆らう者がいれば、どれほど名門の貴族であろうと容赦なく没落させる――そんな恐怖政治の空気が宮廷を完全に支配していたのだ。
シアナは顔を伏せたまま、低く呟いた。
「……つまり貴族たちは皆、己の身を守るために口を閉ざしたのですね。皇帝陛下が恐ろしいから」
だが、理由はそれだけではなかった。貴族たちが今必死に行っているのは、冷酷な天秤の品定めだった。大逆の罪を着せられて明日をも知れぬ身となった皇太子と、再び圧倒的な権力を取り戻しつつある皇帝――果たしてどちらにつくのが得策か、彼らは静かに静観しているのだ。
シアナは拳を強く握りしめ、悔しさに全身を震わせた。
(これまで、あれほど膨大な時間をかけて貴族たちを味方につけてきたのに……!)
だが、決定的に足りなかったのだ。ラシードが圧倒的に不利な状況に追い込まれた今、一族の破滅という狂気の危険を冒してまで動いてくれるほどの絶対的な信頼を、彼らから勝ち得ることはできていなかったのだ。胸の奥に、どうしようもない無力感と絶望が広がっていく。このままでは――処刑までに間に合わない。
それを見て、騎士はどう声をかけていいか分からなかった。彼はアシルロンド王国の頃から長くシアナに仕えてきた家臣だ。いつも穏やかで聡明な微笑みを絶やさなかった彼女が、これほどまでに脆く、激しい苦悶の表情を見せるのは初めてのことだった。
やがてシアナが、少し掠れた声で重い口を開いた。
「……軍の様子はどうですか」
ラシードの力の根幹は貴族ではなく、他ならぬ軍部にあった。長く最前線の戦場に身を置いてきた彼は、多くの将兵や騎士たちから神の如き絶大な信頼と忠誠を得ている。だが、その強固な力にも致命的な弱点があった。
騎士は言葉を選びながら、慎重に答えた。
「多くの兵が殿下に忠誠を誓っているのは事実です。ですが……その軍の力が、良くも悪くも『ラシード殿下個人』に集中しすぎていたのが仇となりました」
ラシードという絶対的な“核”を失った今、軍は統制を失い、完全に機能停止に陥っていた。指揮官を突然奪われた巨大な軍隊は、動くに動けない状態なのだ。
「それに……現状で軍が独断で動けば、それはそのまま『皇帝に対する軍事クーデター』と見なされます。帝国と皇家に忠誠を誓う騎士たちにとって、大義名分のない反乱はあまりにもハードルが高すぎるのです」
そこまで話を聞いたシアナの顔が、みるみるうちに歪んでいった。
(そんな形式的なことなんてどうでもいい! 今すぐ動いて殿下を助けてよ……!!)
そう大声で叫びたかった。兵力を率いて罪人の塔を破ってでも、彼を救い出してほしかった。けれど、彼女は必死にその感情論を飲み込んだ。ここで怒りをぶつけたところで、状況は何一つ好転しないと痛いほど分かっていたからだ。
シアナは押し殺した声で言った。
「……分かりました。もう下がってください」
「……御身を大切に、シアナ様」
騎士は静かに一礼し、部屋を出ていった。
パタンと扉が閉まった瞬間、シアナは糸が切れたように崩れ落ち、椅子へと身を預けた。膝の上に置いた両手が、小刻みに震えて止まらない。
(それでも……皇帝陛下と皇后陛下は、殿下の実のご両親なのに。こんな理不尽な濡れ衣を着せて、我が子を処刑するなんて、人間のすることじゃない……)
いや、それすらもシアナの甘い希望に過ぎなかったのだ。普通の親であれば、実の子にあそこまで残酷な仕打ちはできない。だが彼らにとってラシードは血の繋がった愛すべき息子などではなく、都合よく従順に従うべき「優秀な飼い犬」に過ぎなかったのだ。その犬が自分たちの制御を離れ、牙を剥く兆候を見せた――だからこそ、今のうちに徹底的に排除しようとしているのだ。
その底知れない冷酷さに、激しい怒りが込み上げる。同時に、敵の陰謀を見抜けず、どこかで余裕をぶら下げていた自分自身の浅はかさに、猛烈な苛立ちが湧き上がった。
……今は何よりも、敵の手中にあるラシードのことが気がかりでならなかった。
(ここまで完璧に事を進めた以上、皇帝と皇后が殿下をいつまでも生かしておく理由はない。時間をかける意味がないのなら、今すぐにでも――)
首を刎ねられる彼の姿が脳裏をよぎり、背筋が凍りつく。込み上げてくる涙を、シアナは必死に堪えた。
「だめ……泣いている場合じゃない。こんなこと考えてる場合じゃないわ……!」
今この瞬間、シアナに必要なのは無力な涙ではなく、冷徹な理性だった。彼女はこれまで、祖国で王妃から理不尽な仕打ちを受けた時も、帝国軍に家族を奪われた絶望の淵でさえも、泥をすすりながら生き延びる術を見つけてきたはずだ。だから今回も、この最悪の状況を打開する奇策が必ずあるはずだ――。
――はずなのに。
(どうしよう……何も思い浮かばない……)
いくら思考を巡らせても、頭に浮かぶのは血にまみれて冷たくなっていくラシードの姿と、その前で冷酷にほくそ笑む皇后の顔ばかりだった。想像しただけで心臓が押し潰されそうになる。
シアナは絶望に染まった表情のまま、ただ深く、深くうつむくことしかできなかった。
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皇后の冷酷な二択とラシードの拒絶
皇帝暗殺未遂の濡れ衣を着せられ、満身創痍で“罪人の塔”に幽閉されたラシードに対し、皇后は「シアナと別れて再び自分の操り人形に戻るか、大逆罪で処刑されるか」という二択を迫る。ラシードはシアナへの脅迫に激しい怒り(幻影)を見せつつも、彼女への愛を貫き皇后の提案を拒絶する。
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孤立無援のシアナと貴族たちの沈黙
秘密の隠れ家に逃れたシアナはラシードの幽閉を知り、彼を救うため味方の貴族たちに助力を求める手紙を送る。しかし、激怒した皇帝による「擁護する者は三族処刑する」という恐怖政治の宣言の前に、貴族たちは我が身可愛さに静観を決め込み、誰一人として動こうとしなかった。
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軍の機能停止とシアナの絶望
ラシードの最大の強みであった軍部も、彼という絶対的な統制の“核”を失ったことで動くに動けない状態に陥っていた。これまでの人脈や軍の力さえも封じられ、打つ手なしの最悪の状況に追い込まれたシアナは、ラシードを失う恐怖と自身の無力感から深い絶望に囚われる。