こんにちは、ピッコです。
「シンデレラを大切に育てました」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
250話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- ダニエル
「こんにちは」
目を開けると、そこには何もない、ただ真っ白な世界が広がっていた。
ここはどこだ?――いや、それ以前に“ここ”とは何だ?
ぼんやりとした意識のまま、私は周囲を見回した。場所の問題ではない。空間という概念そのものが崩壊しているかのような、奇妙な感覚。
「そう。ここはどこでもない。あえて言うなら、“何かに近い場所”かな」
こちらの思考を完全に読み切ったタイミングで、声が響いた。
はっとして顔を上げると、まばゆい光を放つ“何か”が目の前に立っていることに気づき、私は思わず息をのむ。
光が強すぎて輪郭ははっきりしないが、四足ではなく二本足で立っている。そのシルエットからして、おそらく人間なのだろう。
次の瞬間、その“光”がくすくすと楽しそうに笑った。
なんだか妙な気分だ。本当に思考を読まれているのだろうか。
「そうだよ。ちゃんと読めてる」
やっぱりか。
他人の思考を勝手に覗き見るなんて、どう考えても失礼極まりない。せめてやめようという気概はないのか。
そう憤った私は、すぐにその思いを口に出した。
「やめようとすることはできないのか?」
すると、光はまたしても笑った。
どうやら本気で面白がっているらしい。こちらとしては落ち着かないが、不思議と腹は立たなかった。それどころか、胸の奥から妙に懐かしい感覚すら湧き上がってくる――まるで、幼い子どもに戻ったかのような安心感。
怒るべきか、それとも笑うべきか。
私が判断に迷って立ち尽くしていると、頭の中に稲妻のような閃きが走った。まさか、この圧倒的な存在は――。
「そうだよ」
またしても先回りの答えが返ってくる。
だんだん気分が悪くなってきた。私は小さくため息をつき、本質を尋ねることにした。
「……神様か?」
ここはどう考えても現世ではない。目の前にいるのも人間ではなく、神か、それに類する絶対的な存在のはずだ。
しかし、光はあっさりと言い放った。
「違うよ。君たちは私を“妖精”って呼ぶんだ」
妖精?
こんな超常的な空間でそんなメルヘンな存在が出てくるとは思わなかった。夢なのか、現実なのか、あるいは神に近い別物なのか。私は本気で頭を抱えそうになる。
だが、どうしても腑に落ちない。もし本当に彼女が妖精だというなら――いや、もし神のような存在なのだとしたら、ダニエルだって神ということになってしまう。
そう思い至り、私はあたりを見回して彼の姿を探した。
ずっと近くにいたはずなのに、どこにも見当たらない。
私の焦燥を察して、妖精が口を開いた。
「彼はいないよ。この場所には」
「何か言いたいことがあるみたいだね。遠慮しないで、はっきり言えばいいのに」
またからかわれるかと思ったが、今度は違った。確かに思考は読まれているものの、そこには真摯な響きがある。最初からそのトーンで接してくれればいいのに、と私は心の中で毒づいた。
その瞬間、ふとした疑問が浮かぶ。
この妖精が思考を読めるなら――ダニエルも同じように私の心を読めていたのだろうか。
「いや、それは違う」
「へえ、そうなのか」
「勝手に人の考えを読むなよ……」
思わず口を尖らせると、妖精は少し気まずそうに両手を上げた。どうやら彼女なりの謝罪のポーズらしい。
そして、慌てたように弁明を始めた。
「君の思考が読めるのは、ここが“加護の中”だからだよ。しかもその加護は、私のもの」
“加護”――。
久しく忘れていた響きだったが、その意味はすぐに脳裏に蘇った。ダニエルから説明されたときの光景が、まるでつい先ほどの出来事のように鮮明にフラッシュバックする。
奇妙な感覚だった。
今の自分と、もっと若かった頃の自分が同時に存在しているような――まるで二人分の人生の時間を同時に生きているかのような、不思議な錯覚。
そのとき、妖精が再び静かに告げた。
「私の名前、聞いたことがあるはずだよ。向こうの人たちは私を“ベラ”って呼ぶ」
――妖精の女王、ベラ。
私は自分の手元を見つめながら、その偉大な名をゆっくりと噛みしめた。
驚いて顔を上げる。英雄ゼダと妖精ベラの建国神話なら、耳にタコができるほど知っている。だが、彼女のきらきらとした金髪が、本当に物理的な光を放っているなんて知りもしなかった。
案の定、私の思考を読み取ったベラがくすっと笑う。好きに笑えばいい。私は少しむっとしながら、彼女の笑い声が収まるのを待った。
やがてベラは居住まいを正し、語りかけてきた。
「それとここは……いや、これは私の加護の中。私が許した妖精だけが使える場所よ。人間はもちろん、普通の妖精でも簡単には入れない領域なの」
ベラは、私が新しい経験や知識に触れるのが好きだということまで見抜いているようだった。私は改めて、その真っ白な周囲を見回す。
しかし、何と言えばいいのか分からなかった。ただの空っぽな空間だ。物語に登場するような“妖精の森”でもなければ、情緒ある古代遺跡の風情もない。
そう思った瞬間、劇的に世界が変貌した。
一瞬にして、周囲が鬱蒼とした美しい森の中へと切り替わったのだ。
「え!?」と驚いて右往左往する私に、ベラは一本の木の切り株を指さしながら微笑んだ。
「あなたたち人間は、周りに何かがある方が落ち着くんでしょう?」
否定したかったが、否定しきれなかった。私は無言のまま、促される通りに切り株に腰を下ろした。そして、ずっと胸につかえていた疑問をベラにぶつけた。
「私が加護と交わした契約って、もう終わったの?」
ずいぶん昔のことのようでありながら、まるで昨日のことのように生々しく思い出される。私が加護の力によって、この世界に呼び寄せられたこと――。驚くべきことに、それまで失われていた記憶のピースが、急速にカチリと嵌まり始めていた。
もともと、元の世界での私は二十七歳だった。
そして、この世界でミルドレドとして生きていた頃は、さらに十年を重ねた三十七歳。
ベラは、私が記憶の糸を辿るのを、ただ静かに見守っている。
私は一体どんな契約を結び、この世界へ来たのか。
この地に降り立ち、ミルドレドとして生き、子どもたちを育てた。
アイリス、リリー、そしてアシュリー。
愛おしい一人ひとりの顔を思い浮かべるたび、自然と頬が緩む。生まれたばかりの小さな姿と、立派に成長した現在の姿が、脳裏で美しく重なり合った。
「記憶って、不思議よね」
ベラが静かに、しみじみと言った。私は顔を上げて彼女を見つめる。
そうだ――今思い出している膨大な記憶の中には、明らかに“私自身のものではない”不自然な部分が混ざっている。客観的な事実として、私はあの子たちをこのお腹から産んではいないのだから。
そのとき、はっと心臓が跳ね上がった。
今浮かんでいる記憶の中には、アシュリーが産声を上げた瞬間の、あの生々しい感動まで含まれている。これは私の記憶でもなければ、元のミルドレドの記憶でもない。
「形があるわけでもないのに、感情だけははっきり伝わってくるからね」
ベラの言葉が続く。
ふと、かつて抱いたことのある疑問が再び頭をもたげた。当時は日々の生活に追われ、深く考えることのなかった違和感。
――この記憶と、ミルドレドの記憶の境界線は、一体どこにあるのだろう。
自分の本質的な記憶と、ミルドレドとしての記憶が溶け合っていることへの戸惑い。
私はベラをじっと見つめ、少しの躊躇のあと、震える声で問いかけた。
「私がミルドレドの記憶を持っていたから……だから、あの子たちを愛せたの?」
「最初はね」
ベラはあっさりと首肯し、こちらに歩み寄ってきた。光の塊であるはずなのに、不思議ともう眩しさは感じない。彼女は私の目の前にしなやかに腰を下ろし、柔らかく微笑んだ――そんな“気がした”。
不思議だ。彼女の顔も表情も見えないはずなのに、確かに慈愛に満ちた笑顔を感じ取れる。
「最初はそう。加護はあなたを縛ろうとしていたの。でも――そのあとは違う。あなたはちゃんと、あなた自身の意思であの子たちを選び、愛したのよ」
その言葉は、静かに、けれど決定的な重さを持って私の胸にストンと落ちてきた。
「その“後”って、具体的にいつから?」
「うーん……」
少しだけ少女のように考え込んだあと、ベラは顔を上げた。
「あなたがダニエルと出会ってからよ。あの人が、あなたと加護の間に強引に割って入ったの」
理由は、聞かなくても分かっていた。ダニエルがどうしてそんな無茶をしたのか――その深い動機を、私は誰よりも知っているから。
私は小さく息を吐き出し、胸の内に溜まっていた本音をぽつりとこぼした。
「ダニエルに会いたい……」
「さっきまで一緒にいたのに?」
「うん……」
もし彼が私より先に目を覚ましていたら――私のことを心配して、どこか身を切るような思いをしていないだろうか。ついそんな心配をしてしまう。もちろん、彼が病気ひとつしたことがないほど頑健なのは知っているけれど。
私たちは毎晩、同じベッドに並んで、その日にあった他愛のない出来事を語り合っていた。新聞で見かけた子どもたちの活躍、友人から届いた手紙の内容。
使用人たちのクスッと笑えるようなちょっとした失敗――そんな、何でもない日常のひとコマを彼と分け合う時間が、私は何よりも好きだった。
私は心から彼を愛していたし、彼もまた私を深く愛してくれていると確信していた。だって私たちは、いつもその想いを言葉にして伝え合っていたから。
――もう二度と、彼に会えないかもしれない。
そう思った瞬間、驚くほど胸が痛烈に締めつけられた。と同時に、ダニエルに出会い、彼を愛することができた我が人生が、どれほど奇跡的で幸せだったかを今更ながらに実感する。
「契約は終わったんだから、そろそろ対価を受け取る時間よね」
ダニエルの面影を追ってぼんやりしている私に、ベラが立ち上がりながら告げた。
対価? 一瞬、その言葉の意味が理解できず、私は立ち尽くす。
けれど、すぐに記憶が弾けた。――加護と交わした、あの“契約”の全貌を。
ミルドレドとして生き、子どもたちを立派に育てること。その壮大な任務の見返りとしての“対価”。
「……変だな」
思わず、独り言が漏れる。
「私、どんな契約をして……一体何を受け取ることになっていたんだっけ……?」
「思い出せないのは当然よ。だって、その“加護”はもう私が回収しちゃったもの」
「……どうして?」
よく考えれば、加護というのは元々妖精がこの世界に遺したエネルギーの残滓だ。ならば創始者であるベラが回収できても不思議ではない。けれど、なぜ“今”なのだろう。
私の疑問を鋭く察したのか、ベラは静かに、どこか哀愁を帯びた声で答えた。
「私はね、人間の助けになると思っていたの。あの加護が、苦しんでいる人を救って、世界を少しでも良くしてくれるって」
その言葉を聞いた瞬間、かつてダニエルが語っていた言葉が鮮烈に脳裏に蘇った。
――加護が誰かを一時的に救ったとしても、それで世界が良くなるとは限らない。むしろ、不自然な力が加わることで歪みが広がることもある。
「困っている人を助けるのは、本来はそんな超自然的な力じゃなくて、人と人が支え合ってやるべきことだ」
そう、彼は毅然と言っていた。
ベラの静かな後悔と、ダニエルの現実的で血の通った言葉が重なり合い、胸の奥へとじんわりとしみ込んでいく。
「彼の言う通りね。世界を良くするのに、誰か一人の犠牲じゃ意味がない。多くの人が納得して、一緒に動かないと」
ベラの言葉に、私は静かに頷いた。私も、まったく同じ考えだった。どれだけ神がかった才覚を持つ優れた人でも、その人一人だけでは世界を変えることなどできない。
世界を本当に動かすのは、一握りの英雄ではない。
その英雄の背中に共感し、自らの足で一歩を踏み出す“普通の人たち”なのだ。
「それにね、あのバカ……あなたのために、加護の強制力を裏でずっと抑え込んでいたのよ」
呆れたように、でもどこか深い敬意を込めてベラが言う。
……あのバカ?
私は一瞬きょとんとしてから、恐る恐る尋ねた。
「それって……ダニエルのこと?」
「そうよ。相当な負荷だったはずなのに、よく耐えてたわ。あれは本当に大したものよ」
「私の加護を……吸収してくれていたの?」
まさか、と思って思わず両手を胸の前で強く握りしめた。
ダニエルが、私の知らないところで、私のためにそんな命懸けの裏工作をしていたなんて――。
何も知らなかった。彼はいつだって涼しい顔をして、そんな苦労は一言も口にしなかったから。
……本当に、どこまでもダニエルらしい。
私は熱くなる顔を両手で覆いながら、彼の不器用な優しさに想いを馳せた。
今すぐ会いたい。強く抱きしめて、ありがとうと、愛していると、掠れるほどの声で伝えたい。
「ちょっと待って、それって“報酬”ってこと?」
ふと浮かんだ本質的な矛盾をそのまま口にすると、ベラは「やっぱりそこに気づくよね」とでも言いたげに、いたずらっぽく、くすくすと笑った。
「そうよ。あの子、あの世界で三十年以上もたった一人で過酷に生きてきたのに、誰にも救われなかったの。……だから、それ相応の“対価”をもらう資格が、あの子にはあるのよ」
その言い方がやけにしっくりときて、私は改めて思い知らされた。
――ああ、この眼前にいる存在は、確かに人間の理(ことわり)を超えた“妖精”なのだ、と。
人間とは全く違う価値観を持ちながら、しかしどこか絶対的な筋が通っている。
どうして昔の人々が彼女たちを畏怖を込めて“妖精”と呼んだのか、ようやく理解できた気がした。
「超自然的な力を持っているからじゃない。もし人間に近い精神構造だったなら、きっと“聖女”とか“魔女”って呼ばれていたはずだもの」
でも、彼女たちは明らかに“人間ではない”異質の存在なのだ。
「気になることは全部わかったでしょ? じゃあ、そろそろ対価をもらうね」
当然のように私の思考を先回りしたベラが、軽い調子でそう告げた。
……いや、まだ全部ではない。
私が反論の口を開く前に、ベラはまたしても先手を打つ。
「うん、それ。どうしてあなたが選ばれたのか、でしょ?」
そう。まさにそれが、私の心に残り続けた最大のトゲだった。
どうして“加護”は、よりによって凡庸な私を選んだのか。
黙って深くうなずくと、ベラは大したことではないというように小さく肩をすくめて答えた。
「ミルドレッドが……本当のミルドレッドが息を引き取ったときね。そのとき世界で一番絶望していて、同時に、彼女を一番強く愛していたのが、あなただったからよ」
「……そういうこと」
「“愛が多い”ってこと。正直、何のことかよく分からなかった?」
呆然と立ち尽くす私を見て、ベラは小さくため息をつき、私の前に座り直した。
「私たち妖精はね、そういう人間の割り切れないところが好きなの。愛情っていうか……言い換えれば卓越した共感力とか、無償の思いやりとか、そういう尊いものね」
――それは、少し衝撃的な真実だった。
でも同時に、どこかストンと腑に落ちてしまう自分もいた。
私は次に何を聞けばいいのか分からなくなって、ただベラを凝視する。
もっと知りたい、もっと聞きたいのに、魂の境界が薄れていくようで頭がうまく回らない。
すると、ベラは満足そうにくすっと笑った。
「じゃあ、そろそろ元に戻してあげる。約束どおり、手術は成功するわ。それに、おまけでちょっとだけ今後の運もつけてあげる」
――それこそが、私と“加護”が交わした本物の契約だったらしい。
私が、こちらの世界で生き残ること。
白髪の主治医が、必死に私に希望を持たせるように説明していた姿が脳裏をよぎる。
――まだ若いから、手術の成功率は非常に高いですよ、と。
「……子どもたちは、どうなるの?」
最後に、私は消え入るような声でベラに縋った。
アイリス、リリー、アシュリー――私の愛しい子どもたち。
ジェネビーブやアドリアンも、きっと大丈夫だろうとは思う。
でも、人間のエゴとして、どうしても気になるのはやっぱりあの三人の未来だった。
「どうせ覚えていられないのに、知ってどうするの?」
ベラがそう冷徹に告げた瞬間、彼女が放つ光が一変して一段と強くなった。
網膜を焼き尽くさんばかりの激しい光に、目を開けていられない。
それでも私は、本能的な恐怖に駆られて叫んでいた。
「忘れるって……!? なんでよ!?」
「向こうで一生分の記憶を持ったまま戻ったら、人間の心じゃ逆に辛くなるだけよ」
遠ざかっていくベラの声は、最後のほうは世界のノイズに紛れてほとんど聞き取れなかった。
「ふざけないでよ……!」
思わず、全霊の力で怒鳴りつける。
――この、最低の妖精……!
「患者さん、病室に移動しますね」
ぼんやりとしていた意識が、機械的な声によって少しずつ現実の世界へと引き戻されていく。
泥のように重たいまぶたをかろうじて持ち上げると、蛍光灯のまばゆい光が一気に視界へと流れ込んできた。
ここは……どこだ?
さっきまで自分が何をしていたのか、どうしても思い出せない。
ただ、自分がベッドの上に横たわっていることだけは理解できた。
清潔な布団に包まれている温かい感触。それなのに、なぜか指先だけは氷のように妙に冷たかった。
ガラガラと無機質な音を立てながら、ベッドごと廊下を運ばれているのが分かった。
すぐ近くでは、バタバタと人の気配が慌ただしく動いている。
口の中は砂漠のようにひどく乾いているのに、声を出す気力さえ湧かない。私はただ、なすがままにじっと横たわっていた。
やがて少しずつ、ここがどこで、自分が何をしていたのかの輪郭がはっきりし始める。
――そうだ、私は手術台の上にいたのだ。
麻酔が効いていく瞬間の、あのひんやりとした冷たさを感じた感覚が、私の最後の記憶だった。
頭の中では、さっきまで何かが溢れんばかりに押し寄せていた気がするのに、今はもう、引き潮のように静かに沈んで消えていく。それが一体何だったのかは、どうしても思い出せない。
ぼんやりしたまま、看護師の指示に従って手術用のストレッチャーから病室のベッドへと体を移されると、彼女は水がいつから飲めるか、食事がいつから可能なのかを、手慣れた様子で丁寧に説明し始めた。
……ひどく奇妙な感覚だった。
何か人生を揺るがすような、途方もなく大事なものが確かにそこにあったはずなのに、それが指の間から砂のようにさらさらとこぼれ落ちていってしまったような、強烈な喪失感。
すごく変な感じだった。
とてもいい夢を見ていた気もするのに、その内容は、断片すら何一つ思い出せない。
手術の麻酔のせいだろうか。体の奥にぽっかりと巨大な穴が空いたみたいで、妙に虚しくて――そして、やけに寂しい。
「もう少ししたら主治医の先生が来て、術後の説明がありますからね」
看護師がそう言って静かに部屋を出ていくと、私は耐えかねてまた目を閉じた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。すごく長い旅をしていたような気もするし、ほんの一瞬の出来事だった気もする。
この胸を焦がすような空っぽな感覚も、全部手術の副作用なのだろうか。
痛み止めの影響か、再び心地よい眠気がじわじわと波のように押し寄せてくる。
さっき医者が来るって言っていたけれど……このまま寝てしまっても大丈夫かな。
看護師に確認した方がいいかもしれない、と思って重い目を開けた、その時だった――。
病室のドアのそばに、誰かが静かに立っているのが見えた。
……まさか、お迎えの死神とかじゃないよね。
いや、大丈夫。まだそんなブラックジョークが頭に浮かぶくらいには、私の意識はちゃんとしている。どうやら、私は無事に生き残ることができたみたいだ。
私は自分の生命力に小さく苦笑し、薄く目を開けた。
眠気のせいで視界はひどくぼやけていたけれど――次の瞬間、私は息を呑み、思わず目を見開いた。
なに見間違い……? めちゃくちゃイケメンじゃん。
これまでの人生で、こんなに彫刻のように整った顔の男性、一度も見終えたことがない。
その整いすぎた容姿を持つ男性は、どこか不思議そうな、そして今にも泣き出しそうな複雑な表情でこちらをじっと見つめている。その佇まいはどこか不安げで、ひどく落ち着かない様子だった。
「ダニエル」
その名前が、思考を経由せずに口からこぼれ落ちた瞬間、私ははっとして、脳の芯まで一気に覚醒した。
……え? 今、私、初対面のはずのこの人の名前を呼んだ?
すると、私の声を聞いた彼の表情が、まるで世界に光が灯ったかのようにぱっと明るくなった。
彼は大きな一歩で劇的に距離を詰めると、愛おしそうに身をかがめながら、私に囁いた。
「はい」
要点を3つにまとめます。
-
妖精ベラとの対話と契約の真実
手術室に向かう意識の狭間で、主人公は“妖精の女王”ベラと出会います。ベラから、自分が加護に選ばれた理由が「世界で一番絶望し、ミルドレッドを一番強く愛していたから」であることや、ダニエルが裏で加護の強制力をずっと抑え込んでいたという事実を聞かされます。
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記憶の消去と現実への帰還
ベラとの対話が終わり、対価として「手術の成功」と「今後の運」を受け取る代わりに、主人公は向こうの世界での記憶(一生分の記憶)を失うことになります。激しい喪失感を抱きながらも、彼女の意識は無事に現代の病院のベッドへと戻ります。
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現実でのダニエルとの再会
手術を乗り越えて目を覚ました主人公の病室には、見知らぬはずの彫刻のように整った顔立ちの男性が立っていました。初対面のはずの彼を見た瞬間、無意識に「ダニエル」と名前を呼ぶと、彼は安堵と愛おしさに満ちた表情でうなずくのでした。