もう泣いてもいいですか?

もう泣いてもいいですか?【36話】ネタバレ




 

こんにちは、ピッコです。

「もう泣いてもいいですか?」を紹介させていただきます。

ネタバレ満載の紹介となっております。

漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。

又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

【もう泣いてもいいですか?】まとめ こんにちは、ピッコです。 「もう泣いてもいいですか?」を紹介させていただきます。 ネタバレ満載の紹介とな...

 




 

36話 ネタバレ

登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

  • 夏休みの計画

イビィとイズリエラを巡る一連の騒動は、英才院の歴史に残るほどの衝撃をもたらした。しかし、だからといって試験日程が延期されるような奇跡が起きるはずもない。

問題だったのは、英才院の大半の生徒たちがその噂話に夢中になり、普段よりも明らかに勉強がおろそかになっていたことだ。当の本人であるイビィがどれほど平然としていようとも、周囲が浮足立っていたのは周知の事実だった。

そのツケが回ってきたのだろう。成績表が発表される日の朝、寄宿舎には重苦しい空気がどんよりと漂っていた。

いつもなら廊下のあちこちから楽しげな笑い声が聞こえてくるはずなのに、行き交う生徒たちの顔にあるのは、深い緊張と不安ばかり。

そんな中、もちろん期待に胸を膨ませている者もいた。

「私、今回は結構いい点数が取れそうなんだ」

ロビーのソファで成績表の到着を待っていたルスカーは、近づいてきたアルセルを見つけると、ひまわりが咲いたような笑顔を向けた。

「珍しいね。君が試験結果を前にして、そんなにそわそわしているなんて」

英才院に入る前、ルスカーもアルセルと同じように厳格な名門校に通っていた。あの頃のルスカーは、成績発表の日になると朝から地面に穴を掘って隠れたくなるほど緊張していたものだ。ましてや今の英才院は、当時とは比べものにならないほどの重圧がかかる場所である。

それなのに、死にそうになるどころか、これほど晴れやかな笑顔を見せるなんて。

いずれにせよ、ルスカーはアルセルの大切な友人だ。彼の手応えが良いのなら、アルセルとしても悪い気はしなかった。

「今回はちゃんと勉強したからね!」

「つまり、今まではちゃんと勉強していなかったということかい?」

「アルセル、お前ってやつは……本当にいつも正論しか言わないよな」

痛いところを突かれたルスカーは眉を下げてぼやいたが、その表情にはまだ余裕の笑みが浮かんでいた。

「正直さ、勉強ってそんなに面白いものじゃないだろ? わからないところを自分に合うように説明してくれる人を見つけるのも簡単じゃないし。でも今回は、イビィがいろいろと教えてくれたんだ」

「……え?」

「ほら、イズリエラの件が起こる前、お前はアイリーンと一緒に忙しくしてただろ? そのときイビィが、私の数学の勉強に付き合ってくれたんだよ」

「イビィが……?」

「うん。わからないところを聞いたら、本当に説明が上手でさ。英才院に来る前も、地元で友達によく勉強を教えていたらしい。そのおかげで、つまずいていた箇所も一瞬で理解できたんだ。……って、おい。なんでそんな怖い顔で私を見てるんだ?」

はしゃいでいたルスカーは、アルセルの視線が急激に凍りついたことに気づき、思わず勢いよく立ち上がった。

(私、何かまずいことを言ったか?)

いくら記憶を掘り起こしても、「今回の成績は良さそうだ」と少し自慢したこと以外に思い当たる節はない。

しばらく必死に考え込んでいたルスカーだったが、やがてポンと手を叩き、アルセルの機嫌が悪くなった「決定的な理由」に気づいてニヤリと笑った。

「ねえ、どうして君の機嫌が悪いのか分かっちゃった」

「え?」

ルスカーの言葉に、アルセルはわずかに身をこわばらせた。

確かに、今の彼は猛烈に機嫌が悪かった。だが、その理由を言い当てられるのは非常にまずい。その嫉妬にも似た本心だけは、絶対に気づかれたくなかった。

アルセルは緊張の面持ちでルスカーを見つめる。

するとルスカーは、さらに自信満々に胸を張り、アルセルをビシッと指差した。

「隠そうとしても無駄だよ! ついにこの私が、君の成績を追い越してしまうんじゃないかって怯えてるんだろ!」

「……」

的外れすぎる推理を聞かされたアルセルは、しばらく虚無の表情で無言を貫いたあと、深い溜息とともにつぶやいた。

「ルスカー。お前は時々、救いようのないほど間の抜けたところがあるな」

「そうそう、私のこの天才的な頭脳が……って、え? 間の抜けたところ!? おい、それどういう意味だよ!」

ルスカーが「ちゃんと説明しろ」とアルセルに詰め寄っていると、タイミングよくロビーに分厚い封筒の束を抱えた職員が入ってきた。英才院では、年末の最終試験を除き、成績表はプライバシーに配慮して一人ひとりに個別で手渡される手はずになっている。

「今回の試験の成績表を配布します。名前順に並んで、順番に受け取ってください」

待機していた男子生徒たちが、一斉に職員の前へ殺到した。それぞれが名前を告げ、アルファベット順に整理された封筒の中から自分の成績表を受け取っていく。

やがて、ルスカーとアルセルもそれぞれの封筒を受け取った。

「ううっ……やっぱり開けるのが怖い……」

先ほどまでの自信はどこへやら、ルスカーは手にした封筒をまるで呪いの手紙でも見るかのように見つめ、ガタガタと身を震わせた。

「無理だ、ここで開ける勇気なんてない! ご飯をしっかり食べて、精神を安定させてから開けることにする。早く食堂に行こう!」

ルスカーは封筒をズボンの後ろポケットに乱暴に突っ込むと、足早に寮を飛び出して食堂へ向かった。

本当はその場ですぐに開封するつもりだったアルセルも、ルスカーの様子に苦笑しつつ、封筒の端を丁寧に整えて上着の内ポケットへとしまい、彼の後を追った。

食堂に入ると、二人はイビィとアイリーンがどこに座っているかを探す必要すらなかった。

「今日もすごい騒ぎだね」

「あの一件から、もう二週間も経つというのにね」

イズリエラが校則違反によって英才院を退学処分となり、彼女と行動を共にしていた他の生徒たちもそれぞれ重い懲戒処分を受けた。結局、そのうちの三人までもが自ら退学の道を選び、一連の騒動は幕を閉じたはずだった。

しかし、生徒たちの関心はすでに去った者たちにはなかった。皆の視線は、今や完全にイビィへと向いていたのだ。

皇帝に選ばれた特別な子供であり、さらには次期後継者候補の筆頭だという噂は、今や学院内だけでなく皇宮や貴族社会全体を揺るがす大騒動へと発展していた。

その証拠に、広々とした食堂の中で、イビィとアイリーンが座る周囲のテーブルだけが異様な熱気に包まれていた。

誰もがイビィに取り入ろうと機会をうかがっていたが、アイリーンが鉄壁のガードを見せ、しつこく近づく者たちを鋭い視線で次々と追い払っていた。

「イビィ、アイリーン」

「あ、二人ともおはよう!」

「おはようございます、アルセル様、ルスカー」

アルセルとルスカーが席に近づくと、隙をうかがっていた周囲の生徒たちは、これ以上は近寄れないと察して渋々離れていった。

ルスカーはズボンのポケットからくしゃくしゃになった封筒を取り出すと、テーブルの上に小気味よく置いた。

「来たぞ、勝負の紙が!」

「ルスカー、成績表はもう確認したのですか?」

イビィが親しげに「ルスカー」と名前を呼んだ瞬間、アイリーンの眉がぴくりと跳ね上がった。そしてその隣では、アルセルの表情が目に見えて硬くなる。

試験期間のドタバタで気づかない振りをしていたが、いつの間にかイビィはルスカーを「ルスカー様」ではなく、親しみを込めて呼び捨てにしていたのだ。

(ルスカー、だと……? 私を差し置いて、いつの間にそこまで距離を縮めたの?)

(どうしてルスカーだけが……)

アイリーンの目に嫉妬の炎が灯り、アルセルもまた暗いオーラを纏いながら席に腰を下ろした。

そんな二人のただならぬ空気にまったく気づかないルスカーだけが、無邪気な笑顔を浮かべる。

「いや、まだ見てない! せっかくだから、みんなで一斉に成績表を開けようよ!」

その提案に、対抗心を燃やすアイリーンとアルセルは、それぞれの封筒をテーブルの上へ「バンッ!」と激しい音を立てて叩きつけた。

「いいよ、望むところだ」

「構わない。受けて立とう」

二人はルスカーを鋭く睨みつけながら言った。

「どうせ私のほうが上でしょうけど」

アルセルは淡々と自信をのぞかせたが、実のところ、アイリーンの胸は不安でどきどきしていた。

というのも、ルスカーが最近、尋常ではないほど猛勉強していたのを知っていたからだ。以前は「自分はアルセルほど器用じゃない」と弱音を吐いていたルスカーが、今回の試験前は一切の愚痴を封印し、ひたすら真剣に机に向かっていた。

その姿に焦りを感じたからこそ、アイリーンも負けじと死に物狂いで勉強したのだ。

(……考えてみれば、あのバカだって腐っても英才院の生徒なんだよね)

普段の言動があまりにも間抜けたものだから忘れてしまいがちだが、彼だって紛れもない天才の一人なのだ。

(ルスカーより順位が下なのもプライドが許さないけど、何より35位以内には絶対に入らないと……!)

校則の冊子によれば、2学期からは成績順に35人ずつクラスを分けて行う実戦授業や特別活動が大幅に増える。つまり、学年順位が35位以下になれば、イビィとクラスが離れてしまうのは確実だった。

(そんなの絶対に嫌! ルームメイトのイビィは私が守るんだから!)

最近、ルスカーは妙にイビィのそばにぴったりとくっついているし、イビィも彼に心を許しているように見える。アルセルだけでも十分気が気でないというのに、これ以上ライバルが増えてはたまらない。アルセルにいたっては、ことあるごとにイビィが好みそうな希少な本を実家から取り寄せてプレゼントするという、あまりにもスマートなアプローチを仕掛けてきているのだ。

このハイレベルな戦いの中で、自分だけが別クラスに取り残されるわけにはいかない。

アイリーンは祈るような気持ちで、テーブルの上の封筒を見つめた。

四人がそれぞれの封筒を並べ終えると、イビィも自分の封筒をそっとその上に置いた。イビィとアイリーンも女子寮で受け取ってから、緊張のあまり開けられずにここまで持ってきていたのだ。

「私は何位くらいなのでしょう……」

正直なところ、イビィは今回の試験にまったく自信が持てずにいた。

試験直前にあのような大きな事件があり、さらに突然、周囲の生徒たちの自分に対する態度が手のひらを返したように変わってしまったため、戸惑うことばかりで勉強に集中しきれなかったのだ。

イビィがふと周囲を見回すと、食堂の隅の席を選んだにもかかわらず、周りのテーブルは不自然なほど人でぎっしりと埋まっていた。彼らは四人の成績表の結末を何とか盗み見ようと、遠くからひそひそ話をしながらこちらを窺っている。そしてイビィと目が合うと、ぎこちなく微笑んだり、親しげに手を振ってきたりした。

すべては、イビィが皇帝の後継者候補だと知られてから始まった変化だった。

(みんなが私を歓迎してくれたら嬉しいと思っていたけれど……)

いざその渦中に立たされてみると、待っていたのはただただ押し寄せる疲労感だった。

「どうして以前, アイリーンが他の生徒たちと一緒にいるときに、あんなに気疲れしたような顔をしていたのか、今ならよく分かります……」

どこへ行っても視線が集まり、人が寄ってくるというのは想像以上に体力を消耗する。しかも相手は悪意ではなく、過剰なほどの好意を持って近づいてくるのだから、冷たくあしらうわけにもいかない。

「でも、こうしてみんなと一緒にいると、むやみに話しかけられないので本当に助かります」

イビィがほっとしたように笑うと、アルセルがその意図を察して、周囲のテーブルへ冷徹極まりない視線を走らせた。

ついさっきまでこちらを盗み見ていた生徒たちは、まるで死神と目が合ったかのように一斉にサッと首をそむけた。アルセルの目が「これ以上不躾な視線を送るなら相応の覚悟をしろ」と雄弁に物語っていたからだ。

今日はさらに、ルスカーも声を張り上げた。

「それにしても、なんだか周りがずいぶん騒がしくないか? テーブルって、もともとこんなに距離が近かったっけ?」

ルスカーが不思議そうに周囲を見回した瞬間、無理やり椅子を寄せていた生徒たちは蜘蛛の子を散らすようにそそくさと元の位置へ戻っていった。おかげで周囲には十歩以上のディスタンスができ、四人のテーブルは完全に独立した空間となった。

「よし、これで落ち着いたね。それじゃあ、せーので同時に出そう。もし見せたくない人がいたら、今言ってね」

ルスカーの言葉に、残る三人は互いに顔を見合わせた。当然、誰一人として今さら引くような者はいない。

「私は賛成です!」

イビィにとっては、こうして友達と競い合うように成績表を見せ合うこと自体が初めての経験で、純粋にワクワクしていた。

その無垢な笑顔につられるように、他の三人も深く頷いた。

それぞれが封筒から中身を引き抜き、互いの目を見つめ合う。

「せーの、一、二、三!」

掛け声とともに、四枚の成績表が一斉にテーブルの上へと開示された。

「えっ!?」

「わあ……!」

「ふむ、なるほどね」

「やったぁぁぁ!」

四者四様の歓声が食堂の片隅に響き渡った。

イビィはまず、自分の最終順位に目を落とした。

【学年2位】

「高い……! 入学したときの順位とほとんど同じです!」

「英才院の試験を受ければ、本当の実力が白日の下に晒される」という他の生徒たちの言葉を、彼女がどれほど恐怖混じりに気に病んでいたことか。みんなと離れたくないという気持ちはもちろん、イビィにはどうしても良い成績を維持しなければならない現実的な理由があった。

(ここを卒業したら、しっかり働いてお金を稼がなきゃいけないから)

クライス院(孤児院)への贈り物の件で改めて痛感したが、自分にはこの学院へ来た明確な目的がある。少しでも多くの知識を学び、優秀な成績で卒業して良い仕事に就き、自分を育ててくれたクライス院を経済的に支えること。そのためには、常にトップクラスの成績を収め続けることが絶対条件だったのだ。

(本当によかった……!)

ここまで支えてくれた友人たちや、親身になってくれる先生方の顔が浮かぶ。自分の努力が報われた嬉しさに、イビィは小さく拳を握りしめた。

ホッと胸をなでおろしたイビィがみんなの成績を見ようと顔を上げた瞬間、隣にいたアイリーンがものすごい勢いで彼女に飛びつき、その体をぎゅっと抱きしめた。

「やったわイビィ! 2学期もまた、あなたと全く同じ教室で授業を受けられる!」

興奮冷めやらぬアイリーンが指さした彼女の成績表には、【学年16位】という立派な数字が刻まれていた。大勢の天才が集まる英才院において、文句なしの上位ランカーである。アイリーンは感極まった様子で、しばらくイビィの頬に自分の頬をすり寄せて喜んでいた。

ようやく解放されたイビィの髪は少しクシャクシャになっていたが、アイリーンはすぐにかばんから愛用の携帯ブラシを取り出し、まるでお姫様を扱うように優しく手際よくイビィの髪を整えてあげた。

「なんだか、僕の成績には誰も興味を持ってくれないみたいだね」

少し寂しそうな、しかし余裕を崩さない声でアルセルが言った。

イビィは席から身を乗り出し、彼の成績表を覗き込んだ。そこには――

『学年首席』

あまりにも予想通りで、ぐうの音も出ないほど完璧な結果が記されていた。

となると、残るはあと一人。

この四人の中で、現在進行形で一番怪しく浮かれている人物――ルスカーだ。

「ふふ、ふふふふ……」

ルスカーはこれ見よがしに腕を組み、椅子の背もたれにふんぞり返って足を組むと、得意げに顎を突き出した。

「見よ、この私の輝かしいリザルトを!」

自分自身の健闘に酔いしれるようにくすくす笑うルスカーに、アイリーンは内心冷や汗をかきながら冷ややかに言い放った。

「いやあ、その態度だけ見たら、あなたが首席だと勘違いしそうだわ」

まさか本当に追い抜かれたのではないかという一抹の不安を抱えながら、三人の視線がルスカーの成績表へと集中する。

そこには、太字ではっきりとこう書かれていた。

【学年35位】

クラス分けの境界線、まさにラスト一枠への滑り込みセーフ。あと一つでも順位が下であれば、二学期からは三人とは別のクラスへ隔離されるところだった。

それを見たアイリーンは、ルスカーに負けないくらい得意げに自慢の髪をかき上げた。

「なーんだ。とにかく、私の勝ちね」

それで十分だった。アルセルやイビィが怪物なのは分かっている。だが、いつも剣ばかり振っているこのお調子者の幼馴染にだけは、テリンス家の名誉にかけて負けるわけにはいかなかったのだ。

「まあいいさ! 勝負には負けたが目的は達成した! とにかく、私だけ仲間外れにされなければそれでいいんだ。この成績表、すぐに実家に送らないとな。兄さんたちが『我が家に眠れる天才が現れた!』って大騒ぎするぞ!」

ルスカーは嬉しさを隠しきれず、終始ニヤニヤしながら成績表を封筒へ戻した。そして、キラキラした目をイビィに向けた。

「イビィがたくさん勉強を教えてくれたおかげだよ、本当にありがとう。そういえば試験も終わって、もうすぐ夏休みだろ? もしよかったら、その期間中に私の家に遊びに来ないか?」

「ルスカーのお家に、ですか?」

「うん! この前、兄さんたちに君のことを話したら、『凄く気になるから一度遊びに来てほしい』って言ってたんだ!」

イビィが興味を示すと、ルスカーはさらに声を弾ませた。

「我が家のラグセルブ領は首都からそんなに遠くないし、大きな牧場や農場がたくさんあるんだ! 牧場には帝国一と言われる名馬がいてね。父さんも兄さんも、とにかく馬に乗るのが大好きなんだよ」

「馬……ですか?」

「あれ、苦手だった? もしかして怖いかい?」

「いいえ! 大好きです!」

孤児院で暮らしていた頃、凍えるような冬になると、イビィはこっそり隣の馬小屋へ忍び込ませてもらったことがあった。干し草と馬糞の匂いが漂う場所は決して快適とは言えなかったが、心優しい馬の大きな体にそっと寄り添って眠ると、その温もりのおかげで冷え切った体がじんわりと温まり、一時だけでも寒さを忘れることができたのだ。

もう何年も馬に触れる機会はなかった。ルスカーの家に行けば、またあの優しい温もりに触れられるだろうか。

「じゃあ決まりだ! 夏休みの間、ずっと我が家に泊まっていきなよ。部屋は余るほどあるから、好きなだけいていいからさ!」

「うーん、でも……」

「どうしたんだ? もしかして、実家に帰る予定があるのかい?」

“「いえ、今回は帰らないつもりなんです」”

最初はクライス院に帰ろうとも考えていた。しかし、2学期に向けて予習しておきたい専門書がたくさんあったし、夏休みの間に正式開館する中央図書館や皇宮の博物館など、学べる場所へ足を運びたかったのだ。

「英才院では、夏休みに寮に残る学生向けに、首都の見学ツアーも企画していると聞きましたし」

それなら安全に、かつ無料で首都の歴史ある場所を見て回ることができる。

もちろん、クライス院の子供たちが恋しくないわけではない。久しぶりに戻って、かつて同じ部屋で過ごした友達の顔が見たいし、院長先生や他の先生方にも甘えたかった。

それでも帰省を諦めた一番の理由は、現実的な「旅費」の問題だった。ここから地方の孤児院までの馬車代は、子供の小遣いで払える額ではない。そのうえ、イビィが学院の外へ本格的に外出するには、保護者である院長先生がわざわざここまで迎えに来て、同伴しなければならない規則になっていた。

(でも、孤児院は夏が一番忙しい時期だもの)

冬に備えて畑に種をまき、暑さで大量に出る洗濯物を片付ける。毎日、日が暮れるまで総出で働いている彼らに、時間的にも金銭的にもそんな余裕があるはずがない。それが痛いほど分気ているからこそ、イビィは迎えに来てほしいと我が儘を言うことができなかった。

だからこそ、あらかじめ手紙で「今回の夏休みは学院に残って勉強します」と伝えてあったのだ。

(まだ、陛下の件は手紙に書いていないけれど……)

もしそんな大ニュースを書いて送ってしまえば、院長先生は腰を抜かして、どんなに忙しくても無理をして飛んできてしまうに違いない。

イビィがそんな健気な思考を巡らせていると、隣からアイリーンがすかさずイビィの肩を抱き寄せ、ルスカーをキッと睨みつけた。

「ちょっとルスカー、何勝手に決めてるのよ! イビィはまず、私たちの家に遊びに来る約束なんだから! この前街へ出たとき、次は絶対に一緒にお出かけしようって約束したでしょ? イビィ、覚えてるよね?」

そう言われて、イビィは「あ」と思い出した。あの時、一人で街へ行ってしまったことを申し訳なさそうにしていたアイリーンが、次は必ず一緒に行こうと指切りをしてくれたのだ。

イビィがコクリと頷くと、アイリーンは勝ち誇ったように微笑み、ルスカーに向けてシッシッと手を振った。

「というわけだから、あなたは順番待ちをしてなさい。私はイビィを連れて最高のショッピングに行くし、首都の近くの綺麗な川で水遊びもする予定なの。それに、テリンス家のタウンハウスの庭で、毎晩豪華なバーベキューパーティーも開催するんだから!」

「わあ、バーベキュー!? 美味しそう! 私も行く!」

「……って、違うわよ! あなたは来ないで!」

「なんでさ! 私も行きたい! 誘ってよ!」

「なんで私があなたみたいなむさ苦しいのを招待しなきゃいけないのよ!」

「バーベキュー」という単語に秒速で食いついたルスカーを、アイリーンが全力の拒絶で押し返す。

二人がいつものように騒がしく言い争う中、アルセルはふとイビィと目が合うと、いつもは見せないほど優しく目尻を下げて、ふわりと微笑みかけた。

彫刻のように整った彼の顔がこれほど柔らかく綻ぶ破壊力は、凄まじいものがあった。

あまりの眩しさに、イビィが思わず視線を泳がせていると、アルセルは耳に心地よい落ち着いた声で囁いた。

「そういえばイビィ。この前君が読んでいたあの紀行文、続きが読みたいと言っていたよね? 実はあの本の全巻が、我が家の書庫に揃っているんだ。それにちょうど夏休みの間に、海外から取り寄せた珍しい新刊も届く予定になっている。私の家へ遊びに来てくれれば、誰にも邪魔されずに特等席で読むことができるよ……?」

「えっ、じゃあ私――」

本という最大の好物に釣られ、イビィが思わず「行きます!」と言いかけたその瞬間。

異変を察知したアイリーンが猛烈なスピードでイビィを我が身へと引き寄せ、アルセルに向かって叫んだ。

「ちょっとアルセル! 横入りなんて卑怯です! それは完全な反則行為よ!」

「うぅ、ずるいぞアルセル。その天性の美貌を交渉の道具に使うなんて……!」

ルスカーまでアイリーンの加勢に入り、二人がかりで首席の男を責め立てる。アルセルは呆れたように軽く舌打ちをして顔を背けたが、それでもイビィへ向ける極上の笑みだけは崩さなかった。

イビィの胸は、期待でトクトクと高鳴っていた。

みんなの提案はどれも魅力的で、どこへ行っても最高に楽しそうだ。幸いにも、英才院の夏休みはたっぷりと長い。

「それなら……みんなのお家に、順番に遊びに行きます!」

イビィの出した名案に、言い争っていた三人は一瞬だけ動きを止め、それから互いに顔を見合わせてフッと不敵に笑うと、声を揃えて宣言した。

「「「それでも、一番楽しいのはうちだけどね!」」」



  • 試験結果とそれぞれの成績

    騒動による混乱の中でも試験は予定通り行われ、アルセルが首席、イビィが2位、アイリーンが16位、そして猛勉強したルスカーがクラス分けの境界線である35位に滑り込み、4人全員が2学期も同じクラスで過ごせることになりました。

  • イビィの決断と事情

    皇帝の後継者候補として周囲から過剰な注目を浴びて疲弊していたイビィは、夏休みに実家(クライス院)へ帰省することを望んでいましたが、忙しい孤児院への配慮と旅費の負担を考え、学院に残ることを決めていました。

  • 夏休みの招待合戦

    イビィの予定を知ったルスカー(牧場での馬乗り)、アイリーン(ショッピングやバーベキュー)、アルセル(貴重な本が揃う書庫)の3人が、それぞれ魅力的な提案でイビィを我が家に招待しようと激しいアプローチを繰り広げ、最終的にイビィは全員の家を順番に訪ねることにしました。

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