抱かれるたびに泣くくせに

抱かれるたびに泣くくせに【31話】ネタバレ




 

こんにちは、ピッコです。

「抱かれるたびに泣くくせに」を紹介させていただきます。

ネタバレ満載の紹介となっております。

漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。

又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

【抱かれるたびに泣くくせに】まとめ こんにちは、ピッコです。 「抱かれるたびに泣くくせに」を紹介させていただきます。 ネタバレ満載の紹介とな...

 




 

31話 ネタバレ

登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

  • 偽りの報告書と、小さな産声

庭師のスコップが、庭の乾いた土を静かに掘り返していた。

広々とした大公邸の庭園に、土を穿つ音だけが空虚に響き渡っている。

現在行われている庭園の改修工事は、この大公家にとっても、かつてないほどの規模で進められていた。

「そっちだ! そこに植えろ!」

人夫たちを率いる監督官の声が遠く響く。

エーリッヒは執務室の窓辺に立ち、微動だにせずその工事を眺めていた。だが、その瞳が本当に庭の様子を捉えているのかは、誰にも分からなかった。感情の光を完全に失った黄金色の瞳には、何ひとつ映っていないように見えたからだ。

「……旦那様」

執事のアルフォンスは、静まり返った室内で控えめに咳払いをし、主人に声をかけた。

大公妃クレセンティアが姿を消して以来、エーリッヒは完全に抜け殻のようになっていた。

外見だけを取り繕うなら、彼はいつも通りだった。

以前と変わらず、髪一本乱さず隙のない身なりを整え、重臣会議に出席し、領地視察の出張にさえ赴いている。だが、だからこそ周囲の者たちはなおさら、背筋が凍るような不安を抱いていた。

彼のまとっている空気には、今にも自ら張り詰めた糸を切ってしまいそうな、危うい狂気が宿っていた。邸内の使用人たちは、いつ大公妃の衣装部屋から主人の悲鳴が上がるのではないかと、毎日生きた心地がしなかった。

「旦那様」

アルフォンスはもう一度声をかけた。

すぐそばまで歩み寄っているにもかかわらず、エーリッヒは硬質な彫像のように窓の外を見つめたままだった。まるで、世界のすべての音が彼に届いていないかのようだった。

「お待ちになっていた手紙が届きました」

「……」

「レギナから、手紙が届きました、殿下」

アルフォンスは、今の彼が唯一反応するであろう言葉を慎重に選んで口にした。

その瞬間、それまで氷のように凝固していたエーリッヒの眉が、わずかにピクリと動いた。執事はその好機を逃さず、急いで繰り返した。

「殿下がお待ちになっていた手紙が、レギナから届きました」

エーリッヒが、ゆっくりと首を巡らせた。

その瞳と視線がぶつかった瞬間、アルフォンスは全身の血が凍りつくような寒気を覚えた。

まともな食事も睡眠も取っていない人間の姿を、アルフォンスは知っている。いま目の前にいる主人は、まさしく「生きる屍」そのものだった。

かつて鋭く知的だった目元は深く落ちくぼみ、頬の肉は痛々しいほど削げ落ち、顎の輪郭はナイフのように細くなっている。しかし、その気品高き黄金色の瞳には、かつてないほどの、狂気じみた恐ろしい執着だけがギラギラと揺らめいていた。

それは、何日も獲物を追い続ける、飢えた野生の獣の眼光だった。

痩せこけたにもかかわらず、エーリッヒがまとう気迫は尋常ではなかった。がっしりとした骨格に余分な贅肉は一切なく、全身が鋼の筋肉だけで構成されているかのようだった。いま彼を剣で突いたとしても、刃が通らずに弾け飛ぶのではないか――そんな錯覚すら抱かせる不気味な肉体。

だからこそ、誰も今の彼に意見をすることも、逆らうこともできなかった。

「……手紙だと?」

ひび割れた唇の隙間から、低く掠れた声が漏れ出た。

鼓膜を震わせるほど冷徹な低音に、アルフォンスは思わず身をすくめ、一刻も早くこの部屋から逃げ出したい一心で、大急ぎで書状を差し出した。

「……下がれ」

エーリッヒは無感情に命じると、受け取った手紙に視線を落とした。

背後で執事が足早に部屋を出ていく気配がしたが、一度も顔を上げることはなかった。

待ち焦がれていた。狂おしいほどに欲していた。

この薄い紙片こそが、彼を現世に繋ぎ止める唯一の命綱だった。

『エーリッヒ・フォン・ペテール大公閣下 親展』

封筒に記された文字を目にした瞬間、エーリッヒは「はぁ……」と深く息を吐き出した。それは、水底に深く溺れていた者が、ようやく水面に顔を出して息継ぎをしたかのような、切実で痛切な吐息だった。

『エーリッヒ・フォン・ペテール大公殿

ご安心ください。ご夫人は本日も健やかにお過ごしです。一時期落ちていた食欲も、徐々に回復してきております。

ご依頼の通り、先日ご夫人が召し上がった朝食の内容をご報告いたします。

最近の朝食は、主に旬の新鮮な果物が中心です。特に、ヨーグルトに細かく刻んだリンゴを入れて召し上がるのがお好きなようです。

先日、体調を崩されて地元の医師の診察を受けられましたが、単なる軽い食あたりとの診断でした。お母上のお墓参りへ向かう途中で気分を悪くされ、その日の参拝が叶わなかったことを大変残念がっておられました。その後は普段どおり食事を召し上がれるようになっています。

数日前には、無事にお墓参りにも行かれました。

墓前では涙を流されておりましたが、翌日には再びいつもの笑顔を見せておられました。

それから、最近ご夫人の滞在先の周辺で、不穏な動きが観測されています。先週は二人、本日は一人の不審者がご夫人を遠巻きに監視していました。私がすべて隠密に対処(始末)いたしましたが、これ以上の警戒には追加の支援が必要であると思われます。

報告は以上です。

イゾルデ・オスバルト 拝』

エーリッヒはその手紙を、擦り切れるほど何度も何度も読み返した。

ただ事実のみが淡々と綴られた、極めて事務的な報告書だ。それでも、この無機質な文字の羅列があるからこそ、エーリッヒは辛うじて生きていくことができた。

手紙を読んでいる間、チェカレルの穏やかな光の中で暮らすクレセンティアのささやかな日常が、ありありと目の前に浮かび上がるようだった。

朝はヨーグルトにリンゴ。彼女の食の好みは、大公邸にいた頃と少しも変わっていない。

エーリッヒは、以前に届いた報告書の内容を脳裏に思い浮かべた。

『朝食を終えると、たいてい窓辺で刺繍をされています。刺繍をして生活費の足しにしようという、健気な考えのようです』

「……今頃も、刺繍をしているのだろうか」

エーリッヒは上着の内ポケット――己の心臓に最も近い場所――から、一枚の緑色のハンカチを取り出した。クレセンティアが残していったものだ。彼は、その端に銀糸で繊細に施されたイニシャルの刺繍を、壊れ物を扱うようにそっとなぞった。

ハンカチを愛おしそうに握りしめたまま、彼は執務机の引き出しを開け、中にしまわれていた分厚い手紙の束を取り出した。それらはすべて、これまでイゾルデが送ってきた報告書のすべてだった。

エーリッヒがイゾルデ・オスバルトと裏で連絡を取り合うようになったのは、旧王太子アルビンの捜索隊を秘密裏に組織した時期に遡る。

コレニオンの地で腕利きの傭兵として名を馳せていたイゾルデを、大公家の斥候が見つけてきたのだ。当時から傑出した能力を持っていた彼女を、エーリッヒはすぐに引き入れた。

イゾルデは、かつてエーリッヒが求婚のためにレギナを訪れた際、クレセンティアの傍に控えていた忠誠心あふれる王室騎士だった。エーリッヒが「王女を覚えているか」と尋ねると、彼女の瞳には今も変わらぬ王女への絶対的な忠誠が宿っていた。

これほど信頼できる駒はいない。

だからこそ、クレセンティアが大公邸を去ったあの日、エーリッヒは直属の「獅子団」に追跡を命じると同時に、イゾルデを多額の報酬で雇い入れた。

目的は、クレセンティアを影から護衛すること。そして、彼女の日常を逐一報告すること。

イゾルデは主人の望み通り、これまで欠かさず詳細な手紙を送り続けてきた。時に、クレセンティアに肩入れしすぎているような、エーリッヒに対する刺々しい文面が混じることもあったが、彼女の優秀さを考えれば些細な問題だった。

何より、彼女はクレセンティアの命を守ってくれている。

そして、彼女の側に仕える者の忠誠がそれほどまでに深いのなら、それは大公にとっても歓迎すべきことだった。

エーリッヒは今日届いた手紙を束の最後に差し挟み、大切に引き出しにしまうと、鋭い動作で立ち上がった。

「獅子団!」

「はっ、ここにおります」

彼の低音に呼応するように即座に扉が開き、廊下で控えていた直属の騎士が音もなく姿を現した。

「ティアの護衛を、さらに強化しろ」

「かしこまりました。……すでに夫人の周囲には厳重な警備を配しておりますが、さらに増員いたします」

「当然だ。ティアの周囲に、薄汚いネズミどもが群がっている」

エーリッヒは再び椅子に深く腰掛け、吐き捨てるように言った。黄金色の瞳が冷酷な光を放つ。

「ジーク・ブラントナーか、あるいは死に損ないのアルビン・ド・ロドビニか。どちらの手の者か突き止めろ」

「直ちに調査いたします」

返事をしたものの、側近はすぐには退出をせず、少し躊躇うようにその場に留まった。大公の精神が辛うじて正気を保っているうちに、報告しておくべき重要案件がまだあったからだ。

「……殿下、皇帝陛下よりお召し出しがございます。明日中に参内せよとのことです」

「レギナの、エンジン関税の件か」

「はい。おそらくはその件かと」

「わかった。下がれ」

側近が退出すると、執務室は再び深い沈黙に包まれた。

新王ジーク・ブラントナーは、何かとエーリッヒの神経を逆撫でする存在だった。クレセンティアの身を脅かすだけでなく、大公家の基幹事業にも泥を塗ろうとしている。

現在、ペテール大公家はエンジン工場で生産した新型機械を、レギナへと輸出する大々的な計画を進めていた。

商才に長けたフロリアンとダビデは、これを莫大な富を生む好機と捉え、レギナへの新ルートを開拓した。エーリッヒもその計画に署名した。

保守的で新技術を忌み嫌っていたシルラ前国王の時代とは異なり、革新的な新国王ジークの治世であれば、この取引には十分に勝算があると踏んでいたのだ。

しかし、そのジークが一筋縄ではいかない男だった。

ジークはエンジン自体の輸入には合意したものの、問題はその先に課した「関税」だった。彼はペテール大公国の製品に対し、法外な高関税を要求してきたのだ。

関税が跳ね上がれば、レギナ国内での販売価格は本国での価格を遥かに上回る。

古い価値観が根強く、機械に対する警戒心が依然として強いレギナの平民たちが、そんな高価なエンジンを買い求めるはずがない。価格競争力を失った大公国の製品は、輸出されるたびに売れ残り、倉庫に埃を被った在庫の山を築くだけになるのは火を見るより明らかだった。

帝国側もこの関税問題には頭を抱えていた。フロリアンとダビデが先んじてジークと交渉に臨んだものの、無残な交渉決裂に終わっている。昨日もフロリアンが大公邸を訪れ、怒り狂って愚痴をこぼしていったばかりだった。近いうちにダビデも泣きついてくるだろう。

(どうすべきか……)

エーリッヒはわずかに眉をひそめた。

最愛のクレセンティアを脅かし、自らの事業をも阻害するレギナの新王ジーク。あの目障りな男を、どうやって奈落へ引きずり下ろし、始末するべきか。

エーリッヒの長い指先が、トントンと規則的に机の木肌を叩く。

その黄金色の瞳には、獲物を確実に仕留めようとする冷徹な獣の光が、静かに、深く宿っていた。

「うっ……」

クレセンティアは突如として口を押さえた。

処方されたつわり止めの薬を飲んで少しは和らいだものの、やはり未だに食べ物の匂いを嗅ぐだけで、どうしようもない吐き気が胃の腑から競り上がってくる。

「イゾルデ! 外で食べてって言ったでしょ!」

クレセンティアが青ざめて口元を抑えた瞬間、隣にいたヒルダが鋭い悲鳴を上げた。

美味しそうにイチゴを口に運んでいたイゾルデは、両頬をリスのように丸く膨らませたまま、慌てて庭へと飛び出していった。

「ごめんなさい……! 果物なら匂いがないから大丈夫だと思ったの……!」

口の中のものを飲み込んだイゾルデが、窓の外から申し訳なさそうに手を合わせる。

クレセンティアの妊娠が発覚したあの日、打ち明けられたヒルダとイゾルデは、人目をはばからずその場で大号泣した。あまりの泣きっぷりに、当のクレセンティアの方が恥ずかしくなって宥める側に回ったほどだ。

診療所を出てすぐに、クレセンティアは二人に自身の複雑な「嘘」を打ち明けていた。これからの生活で、どうしても口裏を合わせてもらう必要があったからだ。

ヒルダとイゾルデは、静かに、しかしどこまでも真剣な面持ちで彼女の告白を聞き、何があってもこの秘密を命がけで守り抜くと固く誓ってくれた。

その協力を得て、クレセンティアはひとまずチェカレリの近隣住民たちには「残念ながら、お腹の子は流れてしまった」と嘘の報告をした。

しかし、それだけでは防波堤として不十分だった。夫を失ったはずの寡婦(と思われている女性)が妊娠したとなれば、良くも悪くも田舎町では噂が広まってしまう。万が一にでも、その噂がまだ自分に執着しているかもしれないエーリッヒの耳に入ることは、何としても避けねばならなかった。

そこでクレセンティアは、さらに嘘を重ねた。

「元々の婚家(夫の親族)に、この妊娠を知られたくない。もし知られたら、冷酷な姑に子供を無理やり奪い去られてしまうから」と、涙ながらに近所の人々に助けを求めたのだ。

か弱い妊婦の必死な訴えに、情に厚いチェカレリの隣人たちは心を一つにしてくれた。彼らは皆、クレセンティアの「秘密」を守るため、食事時や世間話の際にも徹底して口を噤み、守り手となってくれた。

温かい人々の優しい沈黙と気遣いに支えられながら、クレセンティアはつわりという最初の試練を乗り越えた。初めての懐妊で何もかもが手探りだったが、お腹の小さな命は、彼女の心配をよそにすくすくと育っていった。

そうして時は流れ、出産予定日は翌月へと迫っていた。

「ふぅ……ああ、腰が痛むわ……」

クレセンティアは、手にしていた刺繍枠をそっと傍らの机に置いた。

大きくなったお腹の重みで腰がきしみ、もう長い時間座っていることも難しくなっていた。

妊娠初期の段階では、お腹の膨らみも目立たず、本当に自分のなかに命が宿っているのか実感が湧かないことすらあった。だが臨月が近づくにつれ、お腹は目に見えて大きく張り出していった。夏を迎える頃には、歩くことすら一苦労となり、それまで二階にあった寝室を一階の客間へと移さなければならなかったほどだ。

「ティア、私もう全部食べ終わったから入ってもいい? 本当にごめんなさい、嫌な思いをさせてしまって」

庭から戻ってきたイゾルデが、すっかり平らげた皿を手に、眉を下げて入ってきた。

「いいのよ、昨日まではイチゴの匂いなんて平気だったんだから。イゾルデが謝ることじゃないわ」

腰をさすりながら、クレセンティアは穏やかに微笑んだ。

イゾルデは照れくさそうに頭を掻きながら、彼女の椅子のそばに歩み寄った。そして、ここ数ヶ月、毎日のように繰り返しているお決まりの質問を、少年のように目を輝かせながら口にする。

「ねえ、ティア。今日も、お腹を触ってもいい?」

クレセンティアは愛おしげに彼女を見上げ、優しく頷こうとした――その、瞬間だった。

「――っ?」

下腹部に、経験したことのない奇妙な圧迫感を覚えた。

と同時に、太腿の内側を、温かい液体が堰を切ったように流れ落ちていく感覚がした。

「ヒルダ! 清潔な布をもっと持ってきてくれ! それから、お湯を早急に!」

「はい、ただいま!」

地元の老医師の切羽詰まった叫び声に、ヒルダは目に涙を溜めながら、うず高く積まれた白い布を抱えて部屋へと駆け戻った。

彼女が布を置いたベッドの周囲には、すでに真っ赤な血に染まったシーツや端切れが、恐ろしいほどの山を築いていた。

クレセンティアは、ベッドの天井から吊るされた頑丈な引き込み縄を、両手で血がにじむほど強く握りしめていた。

痛みに耐えるため、清潔な白い布を奥歯で噛み締め、全身の力を振り絞って踏ん張る。

「はっ……う、あぁ……!」

「ティア様、もう少しです! 赤ちゃんの頭が見えてきました、あと一息だけ力んで!」

医師の力強い励ましが、朦朧とする意識の奥底に響く。

その日の朝、予定日より一ヶ月も早い、突然の破水だった。

これまで定期検診で赤ん坊は極めて順調に育っていたため、医師は「無事に出産できれば母子ともに大きな問題はない」と楽観視していた。

だが、本当の闘いはそこからだった。

陣痛が始まってから、すでに十時間が経過していた。

クレセンティアは、終わりの見えない裂けるような激痛に、たった一人で耐え続けていた。顔色は死人のように真っ白に染まり、全身からは滝のような汗が溢れて髪を濡らしている。

時間が経つにつれ、疲労と激痛から、彼女の意識は何度も暗闇の向こうへ遠のきそうになった。

(けれど、ここで諦めるわけにはいかない……!)

彼女は天井の縄にすがりつくようにして、顔を真っ赤に染めながら、人生のすべてを賭けるように最後の力を込めた。

お願い。神様。

どうか、この子を無事に生まれさせて。私のかけがえのない、この子を――。

「う、うあああぁぁッ!」

クレセンティアの視界が真っ赤に染まり、限界を超えた力を振り絞った、その刹那。

――おぎゃあ! おぎゃあ!

静まり返ったレンガ造りの家の中に、張り裂けんばかりの、高らかで元気な産声が響き渡った。

「生まれました! 見事な男の子です!」

医師が生まれたばかりの赤ん坊を慎重に取り上げ、歓声を上げた。手際よく産湯を使い、後処理を済ませると、小さな命を柔らかな白いおくるみで優しく包み込む。

出産を傍らで支えていたヒルダが、震える両腕でそっとその重みを受け取り、ベッドの枕元へと歩み寄った。そして、涙をボロボロとこぼしながら、クレセンティアの腕の中へと差し出した。

「ティア、見て……元気な、本当に元気な男の子よ……」

遠のいていく意識を必死に繋ぎ止めながら、クレセンティアは弱々しく両腕を広げ、我が子を抱き上げた。

おくるみの端をそっとめくると、そこには、まだ赤く湿った小さな皮膚を震わせ、もぞもぞと動く赤ん坊の姿があった。生まれたての世界の光が眩しいのか、小さな両目をぎゅっと固く閉じている。

クレセンティアは、震える両腕で我が子を自身の胸へと強く、優しく抱き寄せた。

密着した肌を通して、トクトクトクと、小さくも信じられないほど力強い脈動が直に伝わってくる。

それは、この子が確かに生きている、心臓の音だった。

クレセンティアの胸の奥から、堰を切ったように感情が溢れ出し、彼女はきつく唇を噛み締めた。

言葉では表現しきれないほどの深い感動と、押し寄せる圧倒的な愛おしさが、彼女の魂を隅々まで満たしていく。

これまでの二十数余年の人生で、一度も味わったことのない、絶対的な幸福の感覚だった。

クレセンティアは、小さな口をもぐもぐと動かす我が子を見つめ、涙に濡れた顔で微笑みかけた。

「こんにちは、私の可愛い赤ちゃん。……お母さんよ」

「あぅ……あぅ……」

まるで、母親の声を聞き分けたかのように、赤ん坊は小さな四肢を小さく身じろぎさせた。

クレセンティアは愛おしさに胸を震わせながら、赤ん坊の湿った額にそっと不変の誓いを込めて口づけを落とし、安らかに瞼を閉じた。

ついに――クレセンティアとエーリッヒの子供が、この世に誕生したのだ。

新しい命がチェカレルの地に産声を上げ、その響きが家中に広がった、まさにその時。

家の敷地から少し離れた鬱蒼とした森の木陰で、茶色の髪をした一人の青年が、その産声を聞いて両拳をぎゅっと固く握りしめていた。

大公邸の護衛騎士、マックス。

彼は、クレセンティアの陣痛が始まったその瞬間から、こうして遠く離れた場所で、息を潜めて彼女の無事を祈り続けていた。本当は建物のすぐ傍で、あるいはその手を取って支えてやりたかったが、大公の命を帯びた「護衛」という立場である以上、それは叶わぬ望みだった。

「いいかい、マックス。絶対に、このことを公爵(エリヒ)様に報告するんじゃないよ」

背後から、マックスを見張っていたイゾルデが、冷徹な声音で釘を刺した。

無事の出産に感極まり、目元を潤ませていたマックスは、深く大きな息を吐き出して彼女を振り返った。

「わかっている。いい加減に俺を信じろ、イゾルデ。本当に大公に報告するつもりなら、お前が仕掛けてくる前に、とっくにそうしているさ」

「……本当に頼むよ。あんたを信じてるからね」

イゾルデは短く告げると、クレセンティアたちをサポートするため、足早に家の方へと戻っていった。

彼女は、マックスがその職務から「出産・妊娠」の決定的な事実を大公へ伝達しないよう、文字通り命がけで彼を監視し、牽制していたのだ。

マックスは「早く行ってやれ」と促すように、イゾルデの背中へ軽く手を振った。

彼は一人、静まり返る森の中で息を潜め、木々の隙間から見えるレンガ造りの屋敷の窓を見つめながら、静かに目を細めた。

「……おめでとうございます、殿下」

彼の心からの祝福は、誰に届くこともなく、チェカレルの澄んだ秋空へと静かに溶けて消えていった。

この秘めたる想いは、クレセンティアに伝わることは決してない。それでよかった。

マックスは、クレセンティアの直属護衛となって以来、ずっと彼女の陰に隠され続けた、数々の悲しみと不条理のすべてを間近で見守ってきた。

ヘレナの浅薄な陰謀に陥れられ、理不尽に傷つけられた時も。

他国の社交界で「生贄の王女」と蔑まれ、冷たい視線に晒された時も。

そして何より、冷酷な夫エーリッヒの冷遇と執着に苛まれ、人知れず涙を流していた時も。

どんな過酷な時であっても、彼女の背後には、常に影のように佇むマックスの姿があった。

最初の頃、マックスにとってクレセンティアは、単に「守るべき高貴な王族」の一人に過ぎなかった。

気高き血を引くレギナの王女であり、ペテール大公妃殿下。だからこそ、主君であるエーリッヒの命令に従い、職務として彼女を護衛していただけだった。

しかし、時を重ねるにつれ、彼は彼女の抱える深い孤独と苦しみに、一人の人間として深く共感するようになっていった。

誰もいない部屋で、細い肩を震わせ、声を殺して静かに泣き崩れる彼女の姿に、故郷に残してきた自分の妹たちの面影が重なって見えて仕方がなかったのだ。

マックスには四人の姉妹がいる。幼い末の妹を除き、全員がすでに嫁いでいた。

もし、自分の愛する姉妹たちが、嫁ぎ先でクレセンティアのように孤独に、息もできないほど苦しめられていたとしたら――そう想像するだけで、彼の胸は引き裂かれるように痛んだ。

ましてや、クレセンティアの受けていた苦しみは、それ以上に過酷なものだった。

マックスには、イゾルデのような戦士としての鋭い直感や、ずば抜けた才覚はない。ただ、彼は一人の男性として、一人の騎士として、ただひたすらに彼女が気の毒で、幸福になってほしいと願うばかりだった。

だからこそ、マックスはあの日、わざとクレセンティアに「騙されて」やったのだ。

彼女が聖堂へ向かう直前、自分を撒こうとしていることに気づいていながら、何も気づかない愚鈍な護衛のふりをして、全く別の方向へと歩いていった。彼女の拙い言い訳に、あえて騙されたふりをして、その背中を見送ったのだ。

大公の命令で逃亡した彼女を追跡した時も、全く同じだった。

マックスは他の追跡隊から意図的に距離を置き、わざと大幅に遅れて合流した。もし、大公が本気で彼女を捕らえようとしたならば、自らの手で彼女を密かに逃がすつもりでいた。

もしその裏切りがエーリッヒに露見すれば、その場で容赦なく首を撥ねられていただろう。

だが、いつの間にかマックスにとっての真の「主君」は、大公ではなく、クレセンティアただ一人になっていた。本物の騎士である彼は、己が認めた主君の幸福のためなら、その程度の死線など、喜んで受け入れる覚悟ができていたのだ。

イゾルデと協力関係を結んだのも、必然だった。

マックスとイゾルデ。立場こそ違えど、二人の胸にあるのは「クレセンティアの幸せを掴み取る」という、唯一無二の共通の願いだった。だからこそ二人とも、大公への定期報告から「彼女の妊娠」という最大の事実を完全に消し去り、握り潰した。

こうして今日、多くの人々の優しい欺瞞と、命がけの信頼に守られながら、クレセンティアの愛する新しい命がこの世に誕生した。

(あの子は……きっと、この温かい場所で幸せに育つだろう)

マックスは、秋の訪れを告げるようにしおれ始めた庭の花々を静かに見つめ、優しく微笑むのだった。



 

 

  • エーリッヒの執着とレギナとの関税問題

    大公妃クレセンティアを失い「生きる屍」のようになったエーリッヒは、イゾルデからの監視報告(朝食や墓参りの様子、不審者の始末など)を唯一の命綱として執着しています。同時に、大公国の事業であるエンジン輸出を阻むレギナ新王ジークの関税要求に怒りを募らせ、対抗策を練っています。

  • クレセンティアの「優しい嘘」と出産

    チェカレリに潜伏するクレセンティアは、つわりに苦しみながらも、子供が奪われるのを防ぐため周囲に「流産した」「婚家に知られたくない」と偽って協力を得ます。そして予定日より1ヶ月早く破水し、10時間の死闘の末に無事元気な男の子を出産しました。

  • 協力者たちの欺瞞と誓い

    大公邸の護衛騎士マックスとイゾルデは、クレセンティアの幸せのために協力し、大公への定期報告から「妊娠・出産」の事実を完全に隠蔽し続けています。マックスはかつて意図的に彼女の逃亡を助けた自らの選択を振り返り、新生活と赤ん坊の誕生を陰から静かに祝福しました。

 

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