こんにちは、ピッコです。
「抱かれるたびに泣くくせに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
36話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 黄金色の花畑
エーリッヒの案内を受けながら寝室へ向かっていたクレセンティアは、しきりに後ろを振り返った。彼女の周囲が落ち着かないことに気づいたエーリッヒが、そっと身を寄せた。
「何かお探しですか?」
「ヘレナが見当たらなくて」
クレセンティアは、急に近づいてきたエーリッヒの体温に戸惑い、一歩後ずさった。ここまで来る間、二人は適度な距離を保っていた。初対面の者同士のような距離感だった。
それでもエーリッヒがそばにいるという事実だけで、クレセンティアの心は締めつけられた。彼女は彼を許してはいなかった。エーリッヒもそのことを知っている。だが実際のところ、彼女は彼を憎んでいるわけでもなかった。
そうだった。クレセンティアは、エーリッヒを死ぬほど憎んではいなかった。いつからそうなったのかは分からない。この時間を過ごすうち、いつの間にか――
いつからだろう。あるいは、彼と再会してからなのかもしれない。
けれどエーリッヒを見た瞬間、クレセンティアは悟った。もう彼への気持ちを、たった一つの色で表すことはできないのだと。
かつてエーリッヒは、白と黒しかなかったクレセンティアの世界を色鮮やかに染めてくれた。そして今では、単調だった彼女の感情さえも多彩なものへと変えていた。
クレセンティアは、自分が彼に抱いている感情が何色なのか、まだ分からなかった。それは燃え上がるような赤い怒りでも、青い憎しみでもない、未知の色だった。
クレセンティアの複雑な心を知らないエーリッヒは、いつものように自分を責めた。今も同じだった。彼女が噛みつくと、彼はびくりと背筋を伸ばした。
「あ、ごめん。」
エーリッヒはすぐに謝った。今では彼が謝る姿を見ても、クレセンティアは驚かなくなっていた。彼の変化に、彼女も少しずつ慣れてきていていた。
「ラフィ、こっちへおいで。」
「はい?」
「階段が多すぎるよ。ほら、私に預けて」
エーリッヒは階段の前でラファエルを抱き上げた。クレセンティアをエスコートしながら、もう片方の腕で子供を抱えているというのに、少しも疲れた様子はなかった。
「……ふむ、母上のことだ」
姿勢を正したエーリッヒは、再び本題へと戻った。ヘレナの話をする彼の表情が、ぞっとするほど一変した。
「これまで母上があなたにした過ちを知ることになった。母上はエバルト公爵領へ追放した。これであなたが大公家の女主人だ。あなたが望む限りは」
エーリッヒは小さく肩をすくめ、苦笑した。クレセンティアは階段の手すりをぎゅっと握りしめた。
エーリッヒがヘレナを追放したという。
だとすれば、これまでヘレナが彼女を苦しめてきたことが、エーリッヒの黙認のもとで行われていたわけではなかったのだろうか。
「自分の屋敷で起きていることすら知らなかったなんて。あなたは、私がどれほど情けなく見えただろう」
「私は……あなたが全部知っているものだと思っていました」
「私が無関心だった」
エーリッヒが顔をしかめた。彼は少し離れたところを歩いているラファエルの背中を軽く叩きながら、寂しげに言った。
「あなたを失って初めて、自分がどれほど傲慢な奴だったのか分かった。高い代償を払ったよ」
「……」
「とにかく、これからペテルに行くのはあなたなんだ。あなたの好きなように飾って、楽に過ごせばいい。必要なものがあれば、サジャルかアルフォンスに言って」
いつの間にか、二人の前に大公夫妻の寝室が現れた。エーリッヒは眉をひそめ、扉の前で立ち止まった。
「あなたの気に入るか分からないな」
「何がですか?」
「開けてみて」
クレセンティアは不思議そうにドアノブを握った。そして扉を開けた瞬間、エーリッヒの言葉の意味を理解した。
「これは……」
大公夫妻の寝室は、クレセンティアの記憶とはまるで違っていた。もともとここは彼女の好みとは程遠く、クリーム色と金色で飾られていた。
当時は、エーリッヒに言われたとおりに飾ったのだと思っていた。けれど、あまりにも華やかなその内装は、むしろヘレナの好みに近かった。
しかし今は違っていた。重苦しく贅沢だった家具は、居心地のよい愛らしい雰囲気のものへと変わっていた。部屋そのものも、明るい象牙色と淡い黄色で彩られていた。
華やかに飾られた部屋は、まるで陽光をそのまま閉じ込めているかのようだった。半透明のレースカーテンが、壁一面を占める窓からひらひらとなびいていた。
「バルコニーへ行ってみて。」
エーリッヒの低い声がクレセンティアの耳をくすぐった。彼女は何かに導かれるように、彼の言葉どおり足を運んだ。
窓を大きく開けてバルコニーへ出た瞬間、クレセンティアの琥珀色の瞳が驚きに見開かれた。
大公夫妻の寝室からは、庭園を見下ろすことができる。
バルコニーに立ったクレセンティアは、馬車でここへ来る途中には気づかなかった庭園の景色を目の当たりにした。
クレセンティアの目の前には、黄金色に輝く絨毯のような光景が広がっていた。
ラファエルの――エーリッヒの瞳のような……
金色のコインを思わせる金盞花が、風に吹かれてさらさらと揺れていた。
「……どうして?」
クレセンティアは花畑を見つめながら口を覆った。
エーリッヒは金盞花に込められた彼女の想いなど知らないはずだ。彼女の手紙を読んだこともないはずなのに、どうしてこれを知っているのだろう。
「サジャールがあなたの手紙を保管していたんだ。それで……」
エーリッヒはクレセンティアに説明しながら、長いため息をついた。
こうして彼女と一緒に金盞花を眺めていることが、今でも信じられなかった。
クレセンティアが去ったとき。
最初、エーリッヒは怒りに包まれていた。彼女が自分のもとを去ったという事実が信じられなかった。
彼女が寂しい思いをしないよう、すべてしてやったつもりだった。
ヘレナの横暴が原因だったのか。それとも、自分が何か見落としていたのだろうか。
エーリッヒは彼女と過ごしたすべての瞬間を、一つひとつじっくりと思い返した。
だが、いったい何がいけなかったのだろう。
どの瞬間も彼女は悲しそうで、どの瞬間も自分は彼女に冷酷だった。
彼の頭の中に――
そして、過ぎ去った今この瞬間も同じだった。
*(私って、本当に性格が悪かった。笑ったでしょう。花も受け取るなり捨てたし)*
クレセンティアは、自分でもわけの分からないことを口にしながら呆然とした。彼女は彼に金盞花を贈ったと言いかけ、やがて虚脱したように口を閉ざした。
あれは何だったのだろう。いったいいつ、彼女が彼に花を贈ったというのか。
エーリッヒは彼女からもらったものを捨ててはいなかった。たった一つ、手紙を除いては。
幸いにもエーリッヒは、サジャルを通じて糸口を見つけることができた。サジャルは王女が送った手紙を捨てずに保管していた。そのおかげで、エーリッヒは自分が何を見落としていたのかを知ることができた。
エーリッヒが見落としていたのは、ただ枯れてしまった花びらや数通の手紙などではなかった。
彼が見落としていたのは、クレセンティアの真心だった。
その事実に気づいてから、どれほど苦しかったことか。今さら取り戻すことのできない事実が、果てしなく彼の胸を鋭く突き刺した。
だからエーリッヒは、声もなく――
涙がこぼれずにはいられなかった。
エーリッヒは涙が止まるや否や、庭園をひっくり返すような大工事を始めた。執務室と夫婦の寝室から最もよく見える場所に、金盞花を一面に植えさせた。
クレセンティアは金盞花を見ると、エーリッヒを思い出すと言っていた。そして数年後、彼女を失ったエーリッヒもまた、金盞花を見るたびに彼女を思い出すようになった。
庭に種を蒔き、花が咲くのを待ちながら、エーリッヒはクレセンティアを恋しく思った。彼女のいない空虚さを感じ、胸にぽっかりと空いた穴に虚しく笑った。
いつだって、エーリッヒはクレセンティアが恋しかった。
花を植えたあと、暖かな日差しの中で黄金色の花が最初の蕾をほころばせたとき、彼は悲しかった。クレセンティアと一緒に見ることができなかったからだ。
エーリッヒは、彼女の心を永遠に見過ごしてしまったことを悔やんだ。
花は二年目になると、さらに貪欲なほど咲き誇った。それを見つめるエーリッヒの悲しみも、ますます深くなっていった。
翌年も、そのまた翌年も。
花々が黄金色の波を作るように咲いては散っていく姿を、エーリッヒは執務室の――
窓辺に立ち尽くしながら、ずっと見守っていた。
*(……あなたと一緒に花の香りを嗅ぐことができたら、どれほど幸せだったでしょう。)*
クレセンティアが話していた金盞花の花畑を作ったのに、肝心の彼女は彼のそばにいなかった。
クレセンティアと一緒に金盞花の花畑を見ることができたら、どれほど幸せだろう。
彼女と向き合い、彼女と話をし、彼女の手を握ることができたら、どれほど幸せだろう。
金盞花の花畑に白い雪が積もった冬の日。
エーリッヒは冷え切った胸を押さえながら考えた。
どうして、たった数輪の花にこれほど胸が痛むのだろう。
どうして時間が経つほど、クレセンティアへの恋しさは深まっていくのだろう。
答えはすでに分かっていた。
それは単なる恋しさではなかった。
単なる悲しみでもなかった。
その感情は……。
愛だった。
エーリッヒが一生知ることはないと思っていた、その感情。
彼は何度も読み返してぼろぼろになったクレセンティアの手紙に、そっと口づけた。
そして――
心のすべてを込めて、切実に告白した。
愛してる。
愛してる、クレセンティア。
行き場を失った告白が、執務室に虚しく響き渡った。返ってくることのない答えを待ちながら、エーリッヒは大きな体を丸め、嗚咽を漏らした。
そうしてエーリッヒは、苦しい愛の中で四年という歳月を耐え抜いた。そしてついに、彼が贖罪すべき時が訪れた。彼は必ず彼女の痛みを償わなければならなかった。
エーリッヒは自分にできる方法で、クレセンティアに自分の気持ちを伝えるつもりだった。
来年で結婚七年目を迎えれば、エーリッヒはクレセンティアに財産を相続させることができる。
そうすれば彼は、彼女が一生何の心配もなく暮らせるほど莫大な富を遺産として残すつもりだった。
クレセンティアを苦しめていたエーリッヒ・フォン・ペテルが消え、彼の金だけが彼女のもとに残れば、彼女は喜んでくれるだろう。
エーリッヒはそれまで、クレセンティアがどうか自分を追い出さずにいてくれることを願った。
金では到底償うことのできない贖罪を、すべて果たすための時間を与えてほしいと願った。
「気に入った?」
「……とても綺麗です。」
クレセンティアは淡く微笑みながらエーリッヒを見つめた。その柔らかな笑みに、エーリッヒの胸がじんと熱くなった。
クレセンティアがエーリッヒと向き合っている。彼女が彼と言葉を交わしている。どんな夢だって、これほど胸を締めつけることはないだろう。
「……また、見せたいものが……あるんだ。」
エーリッヒは震える声を懸命に整えた。彼女の目に自分が変に映らないよう願いながら、足早に歩き出した。
—
夫婦の寝室の隣にある部屋へ入ったクレセンティアは、目を丸くした。
もともとこの部屋は客室だったが、実際にはずっと使われずに放置されていた。
ところが今では、部屋いっぱいに可愛らしい家具や小物が並べられている。鮮やかな原色は使わず、優しく愛らしい雰囲気で統一されている。
床には、ふかふかで柔らかなラグが敷かれて――
部屋の隅々には柔らかなクッションが敷き詰められ、家具の角という角にもクッションが取り付けられていた。
「ラフィの部屋だよ」
エーリッヒはラファエルを下ろしながら言った。
エーリッヒの腕の中が心地よかったのか、子供は半分眠りかけていた。
ラファエルは床に下ろされるのが怖いのか、もじもじしながらぐずった。
「ラフィ、ここがラフィのお部屋だよ」
「うぅ?」
ラファエルはクレセンティアの説明にぱっと目を見開いた。
そして、ゆっくりと部屋を見回し始めた。
「わあ! わあ!」
ラファエルは一度眠かったのかと思うほど、元気いっぱいに部屋中を走り回った。
クレセンティアは止まることなく部屋の中をぐるぐる駆け回るラファエルの姿に、眉をひそめた。
一度スイッチが入ると、数時間は一人で走り回る。
イゾルデが一緒に遊んでくれればすぐに体力を使い果たすだろうが、彼女はまだレギナにいた。
近所の人たちにきちんと別れの挨拶をしてから、こちらへ来るためだった。
ラファエルの安全が心配だったため、クレセンティアは――
少しでも早くチェカレリを離れなければならなかった。そこで彼女は残念に思いながらも、イゾルデに代わりの挨拶を頼んだ。
しかし今、ラファエルの相手をしてくれるような者はいなかった。
「ラフィ、こっちへ……」
「こうなると思っていました」
ラファエルをなだめていると、一人の男が現れた。部屋に入ってきたマックスがクレセンティアにウインクをした。彼はエーリッヒに目礼すると、ラファエルに両腕を広げた。
「さあ、こちらへいらっしゃい、小公子様!」
広い部屋の中を楽しそうに走り回っていたラファエルが、マックスのもとへ駆け寄ってきた。子供は首を傾げ、目を輝かせた。
「小公子って誰?」
「ラファエル・ドレン様が小公子様でしょう!」
「ラフィは王子様だけど?」
「それなら両方やればいいですね。王子様にもなって、小公子様にもなって!」
マックスは愉快そうに笑いながらラファエルを抱き上げた。子供はくすくす笑い、マックスとじゃれ合った。
レギナでは昼食を待っている間に、大公邸へ到着するまでの間に、ずいぶん親しくなったようだった。
「小公子様は私がお世話いたします。お二人はごゆっくりお話しください。」
「ありがとう、マックス。」
クレセンティアはマックスに礼を言ってから、その場を離れた。廊下へ出た彼女は呼吸を整え、エーリッヒを見つめた。
「エーリッヒ、少しお話ししてもいいですか?」
ずっと心に引っかかっていたことがあった。帝国へ戻ってくる間、彼とまともに話をする機会がなかなかなかった。けれど、これだけは必ずはっきりさせておかなければならなかった。
「もちろん。どうした?」
「あなたに、どうしても言っておきたいことがあります。」
クレセンティアは彼のほうへ向き直り、毅然と言った。エーリッヒを見つめる她的な瞳が、ただならぬ光を帯びた。
「さっきマックスが言っていたこと。あなたも聞きましたよね?」
夫婦の寝室につながる応接室へ入ったクレセンティアは、きっぱりと言った。
周囲に人払いをしたため、二人きりの応接室には静かな風だけが吹いていた。
クレセンティアはバルコニーの窓を閉め、唇を噛んだ。
彼女はわざと黄金色の花畑から目を背けた。
エーリッヒの歓待と反省の気持ちは十分に伝わってきた。
しかし、それとラファエルの問題は別だった。
「ラファエルは王子にもなれるし、小公爵にもなれるってことですよね」
クレセンティアは落ち着いてそう言うと、ソファに腰を下ろした。
大公邸へ戻ると決めてからここへ来るまで、クレセンティアはずっと自分の決断に自信が持てなかった。
またエーリッヒに騙されるのではないか。
彼に利用されるのではないかと不安だった。
しかし、カロルラ海を渡る船の上で、彼は大公の地位を懸けて約束した。
これから一年間、婚前契約書に記された七年間の婚姻期間を全うし、その期間が終わったときには必ず離婚すると。
「クレセンティア。ラフィのためにも、あなたは帝国にいたほうがいい。今の国王が前王朝の血筋をいつまで放っておくか、私にも保証できない」
エーリッヒはクレセンティアを説得しながら、そう言った。
ロドビニ王朝最後の血筋であり、帝国大公の息子。ラファエルの出自は、それ自体がこの子にとって毒となりかねなかった。
クレセンティアもそのことは分かっていた。だからこそ、いつも恐れていたのだ。
アルビンはいまだ王朝の再建に未練を抱いていた。
クレセンティアは、子供が自分の意思とは関係なく、周囲に振り回される人生を送ることを望んでいなかった。
ただ、自分の息子が安全に、そして幸せに生きてくれればそれでよかった。
「あなたは望まないでしょうけれど、帝国へ行ったら、外向きにはラフィが私の子供だと明かさなければならない。そうしなければ、私がラフィを守れないから」
お願いだ。
エーリッヒはクレセンティアに頭を下げながら、そう言った。
以前の傲慢で横柄だった大公と同じ人物だとは、とても信じられなかった。
いったい彼に何があって、これほどまでに変わったのだろう。
クレセンティアには関係のないことだった。
彼とは何事もなかったように一年を過ごした後、それぞれの道を――
……ことになるでしょうから。
だから、まずはエーリッヒとの話を終わらせなければならなかった。彼が彼女の帰還を許可だと勘違いしているのは困る。
「ラファエルをペテル家の小公子として育てるのは一年だけです。離婚したら、元どおりにするつもりです」
「……」
「ラファエルは私の子です。あなたに渡すつもりはありません」
クレセンティアは膝の上で手を組み、きっぱりと言った。今のエーリッヒは大人しく振る舞っているが、離婚を前にして豹変するかもしれない。彼女は彼を完全には信じられなかった。
クレセンティアはラファエルを守らなければならなかった。ラファエルは彼女のすべてなのだから。彼女の幸せそのものなのだから。
「ラファエルにはペテルの姓を与えません。ラフィを大公家の後継者として育てるつもりはないということです」
「……」
「エーリッヒ?」
険しい表情で話していたクレセンティアが顔を上げた。
彼は笑った。
エーリッヒは穏やかな表情で耳を傾けているだけだった。
クレセンティアが唇をきゅっと結んだとき、ようやく彼は口を開いた。そして少し間を置いてから話し始めた。
「あなたは、ラファエルがあなたの子だと言った。私たちの子ではないと」
エーリッヒは上半身を前に傾け、両手を組んだ。
クレセンティアをまっすぐ見つめる彼の表情は真剣だった。
「あなたが正しい。私は父親として失格だ。ラファエルの父親を名乗る資格がないことくらい、よく分かっている。それに私は……」
エーリッヒは大きく息を吸い込んだ。広い肩がゆっくりと上下した。
「たとえラファエルの父親が私でなくても構わない。あなたの子であることに変わりはないのだから」
「……」
「私がラファエルを大切に思うのは、あなたの子だからだ。大公家を継ぐ血筋だからではない」
クレセンティアの喉が熱くなった。
膝の上に置いた指先が震えた。
なぜ胸がざわつくのか分からなかった。
こんな言葉を聞きたかったのだろうか。
エーリッヒから――
エーリッヒがこんなふうに言ってくれることを、本当は望んでいたのだろうか。
クレセンティアは震えを隠すために手を握りしめた。幸い、エーリッヒは彼女の動揺に気づいていなかった。
「あなたからあの子を絶対に奪ったりしない。望むなら誓約書も……いや」
エーリッヒはゆっくりと言葉を止め、首を横に振った。そして真摯な口調で言い直した。
「あなたが望まなくても、誓約書を書くよ。そのほうが安心できるだろう?」
「……」
「クレセンティア?」
「……ありがとう」
クレセンティアはかろうじて口元を引き上げた。緊張しすぎたせいだろうか。全身の震えが止まらなかった。
「どうしてそんなに震えてるんだ。寒いのか? 暖炉に薪をもっと入れようか?」
「いいえ、大丈夫です」
クレセンティアは席を立とうとするエーリッヒを引き止めながら笑った。
彼は心配そうに立ったまま彼女を見つめ、それから呼び鈴のほうへ歩いていった。
「お茶が冷めたから、温かいお湯を足してくるよ」
「エーリッヒ」
クレセンティアは顔を上げ、エーリッヒを見つめた。喉元まで、いくつもの言葉が込み上げてきた。
どうして今になって私に優しくするのですか。
どうして私を苦しめたのですか。
どうして私たち家族を殺そうとしたのですか。
どうして私を弄び、裏切ったのですか。
こんなにも優しくできたのに、どうして……。
「ん?」
エーリッヒは、クレセンティアが唇を動かしただけで何も言わないのを見ると、首を傾げた。
彼女は唇を固く結び、視線を落とした。
「……何でもありません」
クレセンティアは苦笑を浮かべながら、ティーカップへと手を伸ばした。すっかり冷めてしまった紅茶を飲みながら、彼女は熱く高鳴る心臓が静かに落ち着いていくことを願った。
無駄にまた、余計な勘違いをして苦しまないように。
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寝室の改装と金盞花の真実:かつての面影をなくし、明るく温かな雰囲気へと生まれ変わった寝室と、窓から見える一面の金盞花の花畑を通して、エーリッヒが抱き続けていた深い後悔と変わらぬ愛を知る。
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ラファエルの部屋と揺らぎない母の決意:ラファエルのための安全で愛らしい子供部屋が用意される中、クレセンティアは一年後の離婚とラファエルを絶対に渡さないという意思をエーリッヒにはっきりと伝える。
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父としての覚悟と秘めた想い:ラファエルの血筋ではなく「クレセンティアの子であること」を重んじ、誓約書すら書くと誓うエーリッヒの誠実な姿に、クレセンティアの心が激しく揺り動かされる。