剣を持った花

剣を持った花【51話】ネタバレ




 

こんにちは、ピッコです。

「剣を持った花」を紹介させていただきます。

ネタバレ満載の紹介となっております。

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又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

【剣を持った花】まとめ こんにちは、ピッコです。 「剣を持った花」を紹介させていただきます。 ネタバレ満載の紹介となっております...

 




 

51話 ネタバレ

登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

  • 回帰した聖騎士

長い闇の果てだった。

神暦1629年3月17日、未明。

ユリエン・ド・ハルデン・キリエは、自室のベッドで唐突に目を覚ました。

彼はしばらくの間、身動きひとつせず横たわっていた。視界に映る見慣れたはずの天井が、いまは酷く見知らぬものに感じられた。何度か深く瞬きを繰り返し、ゆっくりと自身の両手を持ち上げて月明かりにかざしてみる。

窓の外から差し込む淡い月光。その静かな光に照らされた彼の手には、戦場の泥も、守るべき仲間たちの血も、一滴すら付着していなかった。掌には、精霊剣の主たる証である黄金の紋章が、何事もなかったかのように綺麗に刻まれている。

ユリエンはがばりと起き上がった。確かにあの血の噴水広場で、黒い魔剣に無残に貫かれたはずの胸元に触れてみる。しかし、そこには傷一つ、血の滲み一つ残っていなかった。

彼はベッドから降り、手元にあった燭台に火を灯した。

小さな灯火が静かに広がり、暗かった部屋の輪郭を照らし出す。そこは、彼が数年間暮らしていたアジェンカの騎士団長公邸の寝室だった。

「公邸だと……?」

不意に、掠れた独り言が漏れる。

蒼天騎士団には、下級貴族の豪奢な屋敷よりもはるかに立派な宿舎が用意されていた。だが、どれほど設備が整っていようとも、所詮は集団生活のための施設に過ぎない。そのため大半の正規騎士たちはアジェンカの市内に個人の住居を構え、そこから本部へと通勤していた。宿舎にそのまま寝泊まりする者は、家という存在にほとんど執着を持たないユリエンのような少数派だけだった。

ユリエンもまた、一級騎士だった頃はその宿舎で日々を過ごしていた。そして、史上最年少で団長に就任すると同時に、歴代の団長たちに与えられてきたこの伝統ある公邸へ移り住んだのだ。

彼は団長になってからというもの、ずっとこの公邸を生活の拠点にしていた。だが、あの破滅へと向かう1632年の初め頃からは、この公邸の鍵を閉め、騎士団本部の宿舎にある手狭な団長室で寝起きするようになっていた。本部にいれば、地下牢の最深部に囚われている「彼女」の檻の前に、昼夜を問わず頻繁に足を運ぶことができたからだ。

公邸を使わなくなってから、彼自身の体感ではすでに半年以上の月日が流れていた。

なぜ自分が今、この懐かしい場所にいるのか分からなかった。そもそも、どうして自分が五体満足で生きているのかすら理解できない。

確かに自分は、あの広場で彼女の前に敗北し、息絶えたはずだった。

ユリエンは呆然と周囲を見回した後、再び自身の胸元に掌を当てた。心臓を直接貫かれた瞬間の、あの天を仰ぐような激痛と、底のない底冷えする闇へ落ちていく死の感覚が、今も脳裏に鮮烈に残っている。だが、バルデルギオーサに跡形もなく破壊されたはずの彼の心臓は、静寂の中でトクトクと何事もなかったかのように脈打っていた。

彼は自身の右手を見つめながら、魂の奥底にある聖剣の自我へと呼びかけた。

「聖剣よ」

――しかし、聖剣ランギオーサは何も返事をしなかった。

彼は眉をひそめ、もう少し大きな声を意識して再び呼びかける。

「聖剣よ、目を覚ませ。ランギオーサ」

何度その名を呼んでも、いつもなら真っ先にうるさく口を挟んでくる聖剣は、冷たい沈黙を保ったままだった。

ユリエンは壁に掛けられていた鞘から、純白の剣を抜き放った。柄から刃先までが一つの神秘的な金属で形作られた白銀の銘剣は、変わらず周囲を圧倒するような神々しい輝きを放っている。

剣の柄を強く握り締め、自らのマナを流し込んでみる。それから、本質を見抜く「正眼(せいがん)」をも同時に発動させてみた。

マナの伝導も、所有者固有の能力も、どれも驚くほど問題なく機能した。ユリエンは今なお、紛れもなく聖剣の主であり続けていた。

だが、聖剣の意思だけが、深い泥のような眠りについてしまったかのように、一切の反応を示さない。その理由は、いくら考えても皆目見当がつかなかった。

やがて夜が明け、アジェンカに眩しい朝の光が訪れた。

そしてほどなくして、ユリエンは今日という日が「神暦1629年3月17日」であることを知る。

1632年の秋にすべてを失って命を落としたはずの彼だったが、目を覚ますと、そこから約三年半前という気の遠くなるような過去へと時間が巻き戻されていたのだ。

地獄の業火に包まれ、死体の山と化していたはずのアジェンカの街は、平和で活気ある日常を完全にその手に取り戻していた。朝の市場には人々が忙しそうに行き交い、笑い声が響いている。

騎士団の本部へ向かえば、まだ正式な騎士見習いにすらなっていない同期のディートリッヒが、なぜそんなに難しい顔をしてのんびり突っ立っているんだと彼を見て舌打ちをし――。

才気あふれるテレサは定例の遠征任務に出ており、副団長バロンは彼の熱心な従者であるヴァラハと共に、活気あふれる訓練場で木剣を振るっていた。

――みな、あの血の広場で、無残に惨殺されて晒されていたはずの者たちだった。

ユリエンには、一体世界に何が起きたのか分からなかった。

彼はこの狂いそうな現実のなかで、必死に状況を整理しようと努めた。彼がまず最初に確認したのは、すべての元凶である魔剣の悪魔についてだった。

「副団長。バルデルギオーサの動向はどうなっている?」

唐突に尋ねられた副団長バロンは、ひどく不思議そうな顔をして首を傾げた。

「バルデルギオーサ、ですか? あれなら、数前の歴史の闇に消えて以来、ずいぶん前から行方不明のままでしょう」

「……まだ、各地に現れてはいないのか?」

「定期的に我が団の遊撃騎士たちが帝国の国境付近を巡回しておりますが、バルデルギオーサに関する不穏な情報は、ここ十年以上まったく入っておりませんよ。団長、何か気になる心当たりでも?」

ユリエンは無言のまま、手元の書類へと視線を落とした。バロンが持ってきた騎士団の公文書には、はっきりと今日の日付が記されている。

――1629年3月17日。

間違いなく彼の記憶の中で、あの凄惨な「魔剣の悪魔」が初めて帝国の南部にその姿を現し、大虐殺を始めたと記録されていた、まさにその当日の日付だった。

(現れた直後だから、まだこの聖地アジェンカまでは情報が届いていないだけなのか……?)

最初はそう考え、張り詰めた面持ちで警戒を続けていた。

だが、数日が過ぎ、一週間が経過しても、魔剣の悪魔に関する不穏な噂は大陸のどこからも一向に聞こえてこなかった。わざわざ個人的に、悪魔が最初に出現したとされる帝国南部の詳細な治安情報まで秘密裏に集めてみたが、大虐殺はおろか、不審な連続殺人事件の報告すら存在しなかった。

まるで、魔剣の悪魔という災害そのものが、この世界には初めから存在していないかのようだった。

世界は驚くほど平穏に、何事もない美しさで回り続けていた。聖剣ランギオーサの意思も、依然として沈黙したままだった。

時間が経つにつれて、ユリエンは次第に己の正気を疑い、失いそうになっていた。

(――あれは、すべて私の独りよがりな夢だったのだろうか。あの凄惨な結末のすべてが)

自分はただ、あまりにも生々しく長い夢を見ていただけなのではないか。己の過ちが招いた、あまりにも恐ろしい主従の悪夢を。そんな救いのある不条理な疑念が、何度も彼の胸をよぎった。

(もしあれが夢だったのなら……ただの哀れな悪夢に過ぎなかったのなら、どんなに救われるだろう)

むしろ、その方がどれほど良かったか。だが、夢として片付けるには、あの死の記憶があまりにも鮮明すぎた。

死の間際、全身から熱が引いて血の気が完全に失せていくあの絶望的な感覚。黒い魔剣に心臓を深く貫かれたときの、あの魂が引き裂かれるような耐え難い痛み。それらは、現実としか思えないほどに恐ろしく、鮮烈だった。

夢であってほしかった。聖剣が突如として沈黙してしまったことは不気味だったが、それでも夢だったなら、その方がどれほど良かったか。あの凄惨な惨劇が本当にこれから訪れる確定した未来などではなく、ただの愚かな自分の悪夢なのだと信じたかった。もしあれが事実で、これからあのおぞましい未来が再び彼女に訪れるのだとしたら――世界はあまりにも残酷すぎる。

しかし、現実に悪魔が現れなかったことで、歴史の歯車はすでに彼の記憶とは違う方向へ変わり始めているようにも見えた。

だからユリエンは、次第にあれらの恐ろしい記憶を、ただの質の悪い夢だったのだと思い込もうとするようになった。

だが――そんな彼が、どれほど記憶を拒絶しようとも、どうしても脳裏から消し去ることのできない唯一の存在がいた。

――彼女だった。

ユリエンは、目覚めてから彼女の行方を探そうとは決してしなかった。

たった一度、祝賀会の夜に視線を向けてしまったことで、あれほどの大惨劇が生まれたのだ。しかもその原因となる祝賀会は、すでに1628年の冬に、この過去の世界でも起きてしまっている。今さら下手に彼女を探し出して再び関わりを持てば、今度は何が起きるか分からない。それが、底知れず恐ろしかった。

あるいは――彼女という存在そのものが、自分が視た長い夢のなかの、ただの幻だったのではないか。あの誕生祝賀会の夜の淡い記憶さえ、悪夢の一部が作り出した幻影だったのではないか。そんな都合のいい逃避の考えすら浮かんだ。本当に、彼女はただの幻だったのかもしれない。

あの絶望の地下牢の中でも決して折れず、最後の瞬間まで泣きながら抗い続けた、あの美しい魂――。むしろ、あのような気高く強靭な存在がこの現実に実在しているという方が、今の彼には信じ難かったのだ。

そうして、嵐の前の静けさのようなおよそ一ヶ月の月日が、穏やかに過ぎていった。

* * *

1629年4月10日。

この日は、アジェンカ士官学校の入学試験が執り行われる当日だった。

ユリエンが騎士団の行政棟の廊下を通りかかった際、やけに騒がしい声が室内に響いているのを耳にした。若手の事務官たちが窓辺に集まって、何やら一様に顔を上気させて盛り上がっている。

何事かとユリエンが部屋に入って尋ねると、一人の事務官が恐縮しながらも、目を細めて楽しそうに答えた。

「団長。実は今年の受験生のなかに、ちょっと変わった……というか、風変わりな令嬢が交ざっていましてね。不作法だと、つい皆で話題にしていたのです」

「変わった受験生?」

ユリエンが聞き返すと、事務官たちは慌てて窓の外の広場を指差した。

「あそこに……。見れば、団長ならすぐに分かりますよ」

ユリエンは促されるまま窓辺へと歩み寄り、眼下の広場へと目を向けた。そこには、緊張した面持ちで試験の順番を待つ大勢の若い受験生たちがひしめき合っている。

彼は無意識のうちに、瞳の奥で〈正眼〉を開いた。

――その瞬間。

彼の視線は、広場の中央に佇む一人の少女の姿に、完全に釘付けになった。

まるで視線そのものが、目に見えない強固な楔でそこに縫い留められたかのように、どうしても目を離すことができなくなった。

――そこに、燃え盛る「太陽」があった。

陽光が降り注ぐ人々の影の狭間で、ひときわ眩しく、猛烈に燃え上がる魂の輝き。孤独でありながら、周囲の有象無象をすべて掻き消すほどに気高く燃え続ける圧倒的な光。白に近い、淡い紫色の神聖な輝きを纏ったその魂は、世界が滅びようとも決して消えることはないと確信させるほどの、圧倒的な熱量を放っていた。

ユリエンは、一目で分かった。

あの少女だ。

間違えるはずがない。たとえ彼女が顔を布で覆い隠し、誰にも分からぬ姿に変装していたとしても、今の彼なら、世界中の人混みの中からだって彼女を見つけ出せたはずだった。

彼女は、実在していた。

自分がこの一ヶ月間、ただの長い夢ではないかと疑い続けた、あの存在。そもそもこの世界には初めから存在しなかったのではないかとさえ疑った、あの少女が、今まさに目の前の光の中に立っていた。

かつての記憶のなかの姿よりも、なお眩しく。

なお美しく。

そして、なお強くその魂を輝かせながら。

その瞬間、言葉では到底言い表せないほどの強烈な感情の奔流が、ユリエンの胸を容赦なく貫いた。

安堵、衝撃、狂おしいほどの喜び、そして胸を焼き尽くす罪悪感と後悔、さらには神への祈りにも似た感情――。幾つもの相反する感情が一度に押し寄せ、彼の全身の血を激しく駆け巡った。

彼はしばらくの間、呼吸をすることすら忘れて窓外を見つめていた。立っていることさえつくなり、ユリエンは支えを求めるように窓枠を握る手にぐっと力を込めた。

忘れようと必死に蓋をしていた、あの凄惨な記憶が一気に脳裏によみがえり、溢れ出す。

血と死体と醜悪な悪意に満ちた、あの地獄のようなアジェンカの光景。そして、その絶望のなかですら、最後まで諦めずに倒れなかった彼女の気高い姿。彼が死の瞬間を迎えるまで、その目に焼き付けていた、あの光景のすべて。

かつて地下牢の奥で見たときには、まだ小さな、今にも消えそうな「火種」に過ぎなかった彼女の魂は、この世界では悪意に飲み込まれて消えるどころか、逆に信じられないほどの力を蓄えて燃え上がり、いまや網膜を焼くほどの眩い「太陽」へと完全な変貌を遂げていた。

どうしようもなく、彼の胸が激しく揺れ動いた。

そして、同時に確信した。あの記憶は、決して自分が創り出した都合のいい夢などではない。夢という言葉で簡単に片付けていいものではなかった。

彼女の存在も。そして、いま彼女を見た瞬間に彼の胸を支配したこの狂おしい感情のすべてが、現実としてあまりにも鮮烈すぎた。

「いやはや、まさかアジェンカ士官学校の厳格な実技試験に、よりによってフリルのついたドレス姿の受験生が現れるとは思いませんでしたよ。世間知らずにも程がある」

隣で事務官が呆れたように面白がって話している声が、遠くでようやく彼の耳に入ってきた。

その声によって、ユリエンは辛うじて自身の冷徹な現実へと引き戻された。

掌に食い込む、古い木製の窓枠の感触。窓の外から聞こえる受験生たちのざわめき。彼の頬を優しく撫でる、穏やかな春の風。

そして――〈正眼〉のなかに眩しく映り続ける、彼女の圧倒的な魂。

そこでユリエンは、思考を巡らせ、ハッと動きを止めた。

――待て。今、あの事務官は彼女が何だと言った?

「……受験生、だと?」

「ええ。士官学校を一体何だと思っているのでしょうね……。お高くとまった世間知らずの我が儘なお嬢様にしか見えませんよ。あれでは一次の実技で即不合格でしょう」

士官学校の受験生。彼女が、いま、ここで試験を、受けているというのか。

これほどまでに眩しく、神聖な太陽のように輝いているというのに、隣の事務官は彼女が実技で不合格になるのは当然だという口ぶりだった。その彼女を何も知らずに軽んじるような言い方に、ユリエンの胸の奥に思わず冷たい苛立ちが込み上げた。

誰も、彼女を見下してはならない。彼女は、そのような不当な扱いを受けるべき人間では断じてないのだ。

気づけばユリエンは、いつもの冷静な彼らしからぬ、少し棘のある鋭い声で事務官に問い返していた。

「君は……あの女性が、不合格になると本気で思っているのか?」

「え? あ……その、あ、いえ! 団長、必ずというわけでは……その、失礼いたしました!」

彼のただならぬ威圧感に、事務官は顔を真っ青にして慌てて言葉を濁した。

ユリエンは瞳の奥の〈正眼〉を静かに閉じた。そして、肉眼の視界で彼女の姿を真っ直ぐに見つめ直した。

彼は知っていた。彼女がこれから、試験官を相手にどれほど圧倒的な剣を振るうのかを。

そして――彼が知るあの滅びの未来において、彼女という存在は誰よりも強く、そして誰よりも最後まで、決して折れずに戦い抜いた規格外の存在であったことを。

彼が知る未来では、この頃の彼女はやがて魔剣に呑まれて悪魔となり、大陸中で虐殺を繰り返すはずの悲劇の存在だった。だが今、目の前にいる彼女は、かつて祝賀会の夜に初めて見かけたときと同じように、美しいドレス姿のまま、ただ一本の訓練用の剣をその手に握り締めている。

「私なら……彼女が首席で合格することに、全財産を賭けるがな」

ユリエンが呟くと同時に、広場の彼女が動いた。風を切り、鮮やかに剣を振るったのだ。

そこにあったのは、どす黒い魔剣の悪意に蝕まれた魂でも、血に飢えて狂った怪物の姿でもなかった。

距離はかなり離れていたが、大陸最高峰の達人であるユリエンの目には、彼女のすべてがはっきりと見えた。

透き通るような、美しい白い肌。その身を翻すたびにふわりと揺れる、淡い桃色の髪。強い生命力と意志を宿した、輝く紫色の瞳。そして、戦いを前にして、わずかに不敵に上がった愛らしい口元。

それは、正眼で見つめた魂の形と寸分違わぬ、本来あるべき彼女自身の“本当の姿”だった。

かつての地獄の中で、彼はずっと知りたいと願い続けていた“人間の彼女”が、いま、確かにそこにいた。

魂の輝きを見る能力など使わなくとも、肉眼の視界だけで、どうしようもなく心を奪われた。ユリエンは感情に突き動かされるまま、思わず窓際から身を乗り出した。

もっと、近くで彼女を見たい。直接、彼女という人間に会ってみたい。そして、その声をこの耳で聞いてみたい。

なぜなら――彼はあの滅びの未来の最期の瞬間まで、本当の彼女の声を、ただの一度も聞くことができなかったのだから。魔剣に呑まれた後の、あの獣のような咆哮や、魂が引き裂かれる悲鳴ではなく、一人の人間としての、彼女自身の本当の意味ある言葉を。

唸り声ではなく、意味のある言葉を話す彼女の声は、一体どんな響きを持っているのだろう。

ユリエンは、自分がいつの間にか我を忘れて窓から大きく身を乗り出していたことに気づき、ハッとして慌てて体を室内へと引いた。

どうせ彼が手を貸して見守らなくとも、士官学校の入学試験程度、彼女の敵であるはずがなかった。難なく首席で突破するだろう。彼女が幻ではなく、この現実に確かに実在していることも分かった。しかも、今や彼女は自分のすぐ足元で、士官学校の受験生として剣を握っているという。

彼女が士官候補生になれば、これから自然と、自分のすぐ近くの領域に身を置くことになるはずだ。

あの冷たい鉄格子の向こうで、ただ終わりなき苦痛に喘ぎ続けていた哀れな魂ではなく――生きて、自分の意志で息をしている彼女が、この同じ街にいる。

ただその厳然たる事実だけで、彼の胸の奥が不思議なほど甘痒く、激しくざわついた。

高鳴る鼓動をどうにか理性で抑え込み、彼は窓辺を静かに離れた。そのまま何事もなかったかのように行政室を立ち去ろうとしたが、ふと思いつき、足を止めて考えを変えた。

そして、先ほどの事務官へと厳かに命じた。

「――あのドレスの受験生の、願書をここに持ってこい」

これまで、彼女について詳細に調べることは意識して避けてきた。過去の記憶を頼りに彼女の素性を知ろうとすること自体が、何か歴史の歯車を再び狂わせて、あの悲劇を引き寄せてしまうようで恐ろしかったからだ。

だが、実際にその生きた姿を目にし、何の汚れもなく生きていることをこの目で確かめた今――彼の胸にあったその恐れは、以前ほど大きくはなくなっていた。

受験生の願書を、ただ一目確認する程度だ。何の問題もあるはずがない。ここは帝国の管轄する息苦しい皇宮ではなく、聖地アジェンカ――すなわち、蒼天騎士団長たるユリエン自身の絶対的な領域なのだから。

事務官たちが机の上の書類の山を大慌てでひっくり返しながら、彼女の願書を探し出している間、ユリエンは表面上はいつもの完璧な静寂を保っていた。しかし、その胸の内は、今までにないほど激しく収縮し、揺れ動いていた。

無理もない。もうすぐ、ずっと焦がれていた彼女の名前を、ついに知ることになるのだから。

やがて、一枚の願書が彼の手元へと恭しく運ばれてきた。

ユリエンはそれを受け取り、視線を落とした。他のどんな細かい記載事項よりも先に、そして何よりも大きく、その美しい名前が彼の青い瞳に飛び込んできた。

――エキネシア・ロアズ

淡い桃色の花の名。観賞用としても人々に広く愛され、同時に、どれほど荒れた過酷な土地であってもたくましく根を張り、美しく咲き誇る気高き花。

その名前を目にした瞬間、ユリエンの心の最も深い場所へ、消えない烙印のようにその文字が刻み込まれた。

かつての地獄の中で、ずっと知りたかった名前。けれど、彼女の尊厳を守るために、知るべきではないと自らあえて遠ざけ続けてきた名前。だからこそ、いつか彼女がすべてを取り戻して檻から出てきたとき、彼女自身の口から誇らしく名乗ってくれるのを、地下牢の前でずっと聞き焦がれていた名前だった。

(……そうして、私はあの日々を待ち続けていた。だが、最後は彼女の腕の中で血を流して息を引き取り、もう永遠にその名を知ることはできないと絶望していた――そんな、愛おしい名前だったのだな)

「エキネシア……」

静かに、誰にも聞こえないほどの声でその名を呟いた。その名前を口の中でそっと転がすだけで、彼の心臓の鼓動がわずかに速くなる。名前があった。本当に、彼女はここに存在していたのだ。彼の記憶の中にいた、あの唯一無二の女性は。

(……だが、魔剣バルデルギオーサは一体どうなったんだ?)

彼の知るあの確定した“未来”――いまや夢だと思い込もうとしていたその記憶の中で、彼女はただの可憐な令嬢ではなかった。世界を滅ぼす悪魔だったはずだ。

だが、現在の彼女からは、目に見えるような邪悪な魔気の気配は微塵も感じられない。それどころか、かつて祝賀会で初めて見たときのかすかな火種も、最期に対峙したときのおぞましい業火も、いま目の前にいる彼女の中では、すでにそれらを遥かに凌駕する圧倒的な「太陽」へと完全な覚醒を遂げていた。

魔剣は一体どこへ消えたのだろう。そして彼女は、どうして魔剣の力を借りずして、これほどまでに強大で美しい魂を宿してここに現れたのだろうか。

「変わったな……」

「え? 団長、何かおっしゃいましたか?」

「いや……別に何でもない。事務官、業務に励んでくれ」

すべてが、良い方向へと変わってしまったのだ。

頭の中は未だに解決のつかない混乱でいっぱいだったが、ユリエンは願書を事務官へと返し、確かな希望の余韻を胸に抱きながら、静かに行政室を後にした。

 



  • 1632年の死から1629年への謎の「回帰」

    魔剣に心臓を貫かれて戦死したはずの蒼天騎士団長ユリエンは、なぜか傷一つない状態で3年前の過去の公邸で目を覚まします。自身の能力は健在なものの聖剣の意思は沈黙しており、かつて凄惨な虐殺を行ったはずの「魔剣の悪魔」の動向や不穏な事件の報告も一切なく、世界は平和な日常を保っていました。

  • 士官学校の試験場で「太陽」の実在を確信

    凄惨な記憶を長い悪夢だったと思い込もうとしていた約1ヶ月後、ユリエンは士官学校の入学試験場で、ドレス姿で訓練用の剣を握る一人の少女を目撃します。万物を見抜く能力〈正眼〉で見た彼女の魂は、悪意に飲まれるどころか、周囲を圧倒するほど眩しく気高い「太陽」のような輝きを放っており、ユリエンは彼女が実在していることを確信して激しい感情に揺さぶられます。

  • 焦がれ続けた名前「エキネシア」との邂逅

    彼女が士官学校の受験生として首席合格を確信するほどの鮮やかな剣技を振るう姿に心を奪われたユリエンは、衝動的に彼女の願書を取り寄せます。そして、かつての地獄のような滅びの未来において、最期の瞬間まで決して知ることができなかった彼女の本当の名前が「エキネシア・ロアズ」であることをついに知り、深い希望の余韻とともにその名を胸に刻みます。

 

 

 

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