こんにちは、ピッコです。
「ヤンデレを演技していたら本物に執着されました」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
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又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
58話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 夕暮れの物置と、重なる鼓動
翌日。
私は動きやすいシャツにズボンを合わせ、頭にはラテルから借りたキャスケットを目深にかぶった。
本を何冊か買いに行くだけなのだから、楽な服装が一番だ。ましてや仰々しいドレスなんて、私の性分にはこれっぽっちも合いはしない。
「楽しんでおいで」
しばらく私とレシウスに子どもたちを預けて外出していたラテルが、散らばったおもちゃを片づけながらニヤニヤと送り出してくれた。
(遊びじゃない。これは教育、いわば実地練習なんだけど……)
レシウスに「初めてのデート」の作法を教えるための研修のようなもの。そう自分に言い聞かせる。
「お待たせしました。長くお待ちになりましたか?」
普段着に着替えたレシウスが、長い脚を滑らせるように階段を下りてきた。
(わあ……)
思わず息を呑む。着ているものがシンプルだからこそ、素材の良さが狂わしいほど引き立っていた。引き締まった体躯には白いシャツがよく馴染み、すらりと伸びた長い脚には黒いパンツが完璧なシルエットを描いている。少し伸びた前髪が邪魔だったのか、髪は後ろへすっきりとかき上げられていた。
「……変でしょうか?」
私があまりに見とれていたせいか、レシウスは不安そうにシャツのボタンを一つ外し、あらわになった白い首元をそわそわとさすった。
「いいえ。そんなことありません」
『ちょっと、あなたは鏡を見たことがないの!?』と心の中で叫びそうになる。額があらわになったことで、普段より少しきつく鋭い印象にはなっていたが、恐ろしいほどに格好よく似合っていた。
「では、行きましょうか」
「はい」
安心したように優しく目を細めたレシウスが、先回りして扉を開けた。その無駄のない自然なエスコートは、どこをどう見てもぎこちなさがない。基本的なマナーは文句なしの満点だった。
(もしかして、教えなくても本能で分かっているの……?)
余計なお節介をしてしまったのだろうかと、急に気恥ずかしくなって頬をかいた。昨夜の『私のものになっていただけませんか』という告白だって、礼儀作法としては不合格だが、あんな熱烈な瞳で迫られたら、どんな女性だって心を奪われてしまうに違いない。
そう思うと、じわじわと顔が熱くなった。
「おっと! お嬢様、お気をつけください!」
その時、御者の操る馬車が、荒い鼻息を立てながら猛スピードで私に向かって突っ込んできた。興奮しているのが一目で分かる危険な状態だった。
「こちらへ……」
「危ない!」
レシウスが私を内側へ引き寄せようと手を伸ばしたが、私の身体のほうが速かった。すぐさま長年の護衛モードへと切り替わり、レシウスの前に立ちはだかって身構える。
(へへっ、魔物(暴走馬)が現れたなら、私の出番――)
「おおっ! 従者の方はずいぶん腕が立つようですな、お嬢様!」
興奮する馬をすれすれで御した御者が、レシウスを全身でかばう私の鋭い眼光にたじろぎ、慌てて後ずさった。
『ふぅ、危なかった……って、あっ』
我に返り、冷や汗が流れた。
長い髪をキャスケットの中に隠し、目深に帽子をかぶった今の私は、周囲から見れば「名家の若様(レシウス)」に付き従う「優秀な従者」にしか見えなかったのだ。
私は気まずそうに立ち尽くすレシウスの前で、照れくささに身を縮めながら、ゆっくりと構えていた腕を下ろした。
(そういえば、これは礼儀作法では男性が女性に対してするべき行動だった……!)
男として過ごしてきた時間が長すぎた弊害だろうか。淑女として守られるべき立場の私が、つい本能でレシウスをエスコートしてしまっていた。
「……それは、本来私がするべきことではありませんでしたか」
細い路地の階段に差し掛かった時、前を歩いていた私は再び頬をかいた。そうだ。階段では男性が女性の前を歩き、足元を守るのが鉄則の礼儀作法だ。
(でも、今の私は男装してるわけじゃないんだから!)
自分に言い聞かせ、今度こそ完璧に淑女として振る舞おうとした。なのに。
「どうぞ、おつかまりください」
「……」
階段の最後の段に差し掛かった瞬間、またしても私の右手が自然とレシウスへ差し出されてしまった。習慣というのは、本当に恐ろしい。
(うわっ! これも男性が女性にするエスコートじゃないの!)
またやってしまった、と脳内で頭を抱えながら、私は差し出した手の形のままぴたりと固まった。
レシウスは私の差し出した掌をじっと見つめ、やがて困ったように、けれど愛おしそうに柔らかく笑った。そして、私の手をそっと取り、まるでおしとやかな令嬢のように小さくうなずいてみせたのだ。
「お嬢様……」
エスコート(逆だが)されながら距離が縮まる中、彼は私の耳元でそっと囁いた。その緑色の瞳は、いたずらっぽいきらめきを帯びている。
「これが私にとって本当に初めてのデートだったなら、きっと今の私はエスコートに大失敗して、あなたに愛想を尽かされていたのでしょうね?」
「……た、たぶん、そうでしょうね」
胸が痛み、私は申し訳なさから思わず彼から目をそらした。
「ですが、私はここから挽回してみせます」
「……?」
「礼儀作法も大切ですが、それ以上に大切なのは、相手の心をつかむことではありませんか?」
そう言うと、彼は重ねていた私の手を、力強く、けれど優しく大きな掌で完全に包み込んだ。伝わってくる彼の体温が、驚くほど温かい。
「行きましょうか」
腕を差し出す形式的なエスコートではなく、ただ真っ直ぐに私の手を握り締めたレシウスは、爽やかに微笑んだ。
「今日は、私のやり方でいきます」
(な、何これ……!)
隙間なく繋がれた手の熱が全身へ伝染し、耳の先まで赤くなっていく。
この人は、きっと本能で理解しているのだ。礼儀作法など超越した、女の子を惹きつける確信犯的な方法を。
手入れの行き届いた石畳の街並みを、私たちは手を繋いだまま歩き始めた。
お目当ての書店に着くと、ようやく彼は名残惜しそうに私の手を離した。
「いらっしゃいませ!」
愛想のいい店主に迎えられ、私はさっそく本題を切り出した。
「恋愛関係の本は、どの棚にありますか?」
「恋愛書でございますか? あちらの棚になります」
レシウスが恋愛のイロハを学べそうな健全な本を、私が選んであげるつもりだった。店主に促されて店内を見回していると、一番目立つ特設棚に平積みされている本が目に飛び込んできた。
『夢の世界』 著者:ローズ
ずいぶん人気があるようで、残りの冊数はかなり減っている。
(うーん、後で一冊買ってみようかな?)
だが、その興味は隣に並べられていた別の本によって一瞬で消し飛んだ。そこに書かれていたのは、とんでもないタイトルだったからだ。
『狂った公爵は敵国の皇子を塔に監禁する』
……内容は一体何なんだ。私は混乱する頭を冷やそうと、思わず被っていたキャスケットをがばっと脱ぎ捨てた。
(これ、どう見ても私のことじゃない!?)
その頃、ハイレン帝国の帝都。
マルトス公爵は、偶然手に入れたベルウェン公爵宛ての手紙に記されていた本を血眼になって探していた。
『レマンの伝説譚』。
あまりにも流通数が少なく入手困難なため、彼はわざわざ素性を隠し、帝都の街外れにある寂れた小さな書店へと足を運んでいた。普段なら部下に命じて買いに行かせるところだが、今日に限っては、なぜか自分の足で赴かなければならないという奇妙な胸騒ぎがしていたのだ。
カラン、とドアベルを鳴らして店に一歩踏み入れたマルトス公爵は、その場に凍りついた。
(そこにいらっしゃるのは……陛下ではないか?)
こんな偶然があるだろうか。広大な帝都に数え切れないほど存在する書店の中で、自分が立ち寄った場違いな一軒に、休暇中のはずの若き皇帝がいた。
しかも、その傍らには――。
(……ベルウェン公爵!?)
いや、違う。マルトス公爵は目を細めた。ベルウェン公爵と驚くほどよく似た、しかし決定的に性別の違う――。
その女性の容姿は、彼が忌々しく思っているベルウェン公爵に生き写しだった。
(ははっ。これは神の悪戯か、それとも……)
マルトス公爵の脳裏に、数日前に商人たちから流れてきたある噂が蘇る。
『噂に過ぎませんが、最近帝都の裏で、ベルウェン公爵の隠された異母姉を名乗る女性が現れたそうです』
商業界の利権をほぼ掌握しているマルトス公爵の耳に届かぬ情報などない。商人たちの情報網は、公的な情報部よりも時に迅速だった。
「なるほど、あの女がベルウェン公爵の……」
顔を見る限り、血縁者であることは疑いようがない。本当に隠された異母姉なのだろう。
マルトス公爵は書店の汚れた窓の外から、店内の二人の様子をじっと観察した。
「公爵め、底なしの野心家だな」
並べられた本を熱心に眺めるその女性を、それはそれは愛おしそうに、蕩けるような目で見つめる皇帝レシウス。誰が見ても、彼が相手の女性に狂おしいほど夢中になっているのは明白だった。
(公爵本人は皇女ロザリンと結婚し、その異母姉は皇帝の妃にして、皇室の血筋を丸ごと乗っ取る算段か)
マルトス公爵は不快そうに自身の顎をさすり、黒い思案を巡らせた。
「ただでさえベルウェン公爵の存在が目障りだというのに、今度は皇室の最高権力まで完全に掌握するつもりか。ふむ……これ以上の独走は、見過ごすわけにはいかんな」
ハイレン帝国・皇女宮。
「皇女殿下、お暇でしたら刺繍などいかがでしょう?」
「そうですわね。心を込めて刺繍したハンカチをベルウェン公爵様に贈られたら、きっとお喜びになりますよ」
ロザリンは、自分を監視する侍女たちの鬱陶しい視線を浴びながら、重い足取りでソファに深く腰掛けた。
『そうだ! もう絶対に行かない! 二度とあんな秘密通路使うもんですか!』
この前、休暇中の「お義姉様(主人公)」に会いに行くために、宮殿の隠し通路を何度も使っていたことがついに周囲に露見してしまったのだ。それ以来、侍女たちはロザリンにぴったりと張り付き、片時も離れず見張るようになっていた。
「お疲れでございましょう。お部屋へお戻りになりますか?」
「……ええ」
聞こえはいい提案だが、実質的な軟禁だ。
現在、皇后が不在の帝国において最も身分の高い女性はロザリンだった。だが、帝国一身分が高いからといって何になるというのだ。屋敷の敷地外へさえ自由に出られないというのに。
(お姉ちゃんはそんな刺繍ハンカチより、美味しいケーキのほうがよっぽど喜ぶわよ……)
ロザリンは侍女たちが恭しく置いていった裁縫道具を見つめながら、盛大にため息をついた。
(ああ、もう! 本当に最悪!)
しばらくは外へ出られそうになかった。数年前、病弱だったはずのロザリンが野生児のように宮殿を走り回っていた前科を、侍女たちはしっかりと記憶している。彼女たちは熱心に仕事をこなすふりをしながら、窓越しにロザリンの動向を厳しく見張っていた。
(早くお姉ちゃんのところへ行かなきゃいけないのに……)
ロザリンは、かつてルーウィン(主人公)から受け取った手紙をこっそり取り出した。そこに並ぶ、見慣れない「ハングル」で書かれた文字をなぞる。
(だって、まだお姉ちゃんの黒魔法は解けていないはずじゃない)
「ものすごく大変なことになって、収拾がつかなくなっているんじゃないかしら……。それに、レシウスも休暇中だなんて」
まさか、あの二人が今一緒にいるなんてことは――。
いや、そんな恐ろしいはずはなかった。
私は今、ラテルが貸してくれた孤児院の隣にある小さな離れで、レシウスと静かに本を読んでいた。
部屋というよりは、ほとんど物置のように使われている狭い離れだ。
「ふむ……」
軽く咳払いをしたレシウスは、私が教材として渡した『恋愛指南書』を大真面目な顔で読んでいた。
そして私はといえば。
(この本、一体どこのどいつが書いたのよ! タイトルからして『イカれた公爵』って……!)
世間の人たちは、これまで私のことをそんな歪んだ目で見ていたのだろうか。間違いなく自分をモデルにして書かれたであろうその本の主人公は、とんでもない変態として描かれていた。
曰く、好きな相手の足を折り、逃げ出せないよう高い塔に閉じ込め、周囲に顔を見せないよう分厚いローブでぐるぐる巻きにして監禁する――。
(いや、なんでそんな猟奇的な発想になるの!?)
「……そんなに面白いですか?」
あまりの突飛さに夢中になって読み進めていた私に、レシウスが不思議そうに声をかけてきた。気づけばもう残るは結末だけだった。
「はい。ものすごく面白いです。内容はひどい極悪非道なものですが、妙に引き込まれますね」
刺激的すぎてページをめくる手が止められない。いつの間にか、窓から差し込む光はすっかり鮮やかなオレンジ色に染まり、夕暮れ時を迎えていた。
「っ、すみません。つい夢中になってしまいました。……何か、本を読んでいて質問はありますか?」
私は文字どおり「宿題」に直面しているレシウスを見つめた。書店で例の『イカれた公爵』を買い、その際、店主に勧められるがままに購入した初心者向けの恋愛指南書を、彼に教材として渡していたのだ。
「……もしかして」
レシウスの手元を見ると、本のページはまだ前半で止まっていた。おかしい。彼の卓越した読書速度なら、こんな薄い本、とっくに読み終えているはずなのに。
「もしかして、中身を確認されずに私に渡しましたか?」
「え?」
確かに、書店の主人に勧められた本が多すぎたうえ、帰ってきてからは足元にまとわりつく子どもたちを引き剥がすのに手いっぱいで、中身を一切確認していなかった。
「……ええ?」
教材を確認もせずに生徒に渡してしまう先生なんて、失格だ。私は戸惑いながら、誤魔化すように曖昧な声を漏らした。
「……そうですか」
レシウスは耳まで真っ赤に染め、こほん、と大仰に咳払いをして顔をそむけた。
(え、何? 内容がそんなにおかしかった?)
「し、宿題の確認をしましょうか?」
改めて本の表紙を凝視すると、そこには怪しげなタイトルが躍っていた。
『誰も教えてくれなかった男女の手引き』
世の中には貴族の健全な交際作法を解説した本など溢れている。なのに、この本はわざわざ「誰も教えてくれない内容」を扱っている。つまり、そういうことだ。
「いえ、あとで私が自分で確認しますから!」
察したレシウスが慌てて本を頭上高くに持ち上げた。
(おいおい、今の私の身長じゃ届かないと高を括っているな?)
魔法が解けて縮んだとはいえ、元ソードマスターの跳躍力を舐めてもらっては困る。
「あっ……!」
私はぴょんとその場で跳び上がり、レシウスの手から鮮やかに本をひったくった。
「そ、それを見るのはちょっと……!」
レシウスが慌てて私を止めようと手を伸ばしてきたが、時すでに遅し。本を開いた瞬間、私はその場に硬直した。
(うわあ……何これええええ!?)
目に飛び込んできたのは、非常に艶っぽく、直視できないほど刺激的な大人の挿絵(官能絵)だった。レシウスが読んでいた前半はまだ文章が多かったが、後半のページはほぼ全面がその手の挿絵で埋め尽くされている。どうりでページが進まないわけだ。ピュアな彼は、著者の高尚な経歴や言い訳がましい序文ばかりを必死に読んで理性を保っていたのだろう。
「……だから、見ない方互いがいいと申し上げたではありませんか」
顔だけでなく耳の裏まで真っ赤にしたレシウスが、私の手から本を取り返そうと身を乗り出してきた。
その時、バタン! と激しい音を立てて離れの扉が開き、息を切らしたラテルが飛び込んできた。
「大変!!」
「大変って、一体何があったの?」
「税務管理局の、抜き打ち査察が来たんだって!」
激しく動揺したラテルが私を捕まえようと手を伸ばし、対するレシウスは、ラテルに触れさせまいとするように、瞬時に私を自分の腕の中へと引き寄せた。
(相変わらず戦闘反射の反応、早すぎじゃない!?)
「税務局の人間が? それがどうして大問題なんだ?」
「ははっ、大問題に決まってるでしょ!」
ラテルは自身の乱れた前髪を払いながら焦燥を募らせる。
「この孤児院には、公的な大人の責任者がいないの。だから今までは“存在しない場所”として見逃されてきたんだけど……」
「納めるべき税金が滞納されているということですか?」
レシウスの冷静な問いに、ラテルは激しくうなずいた。大人の管理者がいるとバレれば、容赦なく莫大な過去の税金を取り立てられ、孤児院が潰されてしまうのだ。
(いや、その税金を徴収している総責任者であるハイレン帝国の皇帝本人が、今お前の目の前で私を抱きしめてるんだけどね……)
「おかしいですね」
「変だな」
私とレシウスは、同時に眉をひそめて呟いた。
「そもそも、孤児院のような慈善施設は法的に課税対象外のはずですが?」
「とにかく、二人ともこっちに隠れて!」
ラテルは物置として使っているさらに奥の狭い小部屋の扉を開け、私たちを押し込んだ。
そこは、使わなくなった古い雑貨や壊れた家具が乱雑にしまわれている、足の踏み場もないほど狭い倉庫だった。なぜか大きな仕事用の革製ソファが中央に置かれているせいで、空間は完全に圧迫されている。
「ちょっと待って……!」
ラテルが外から勢いよく扉を閉めたため、閉ざされた暗闇の中で、私はレシウスの強固な体躯と完全に密着する形になった。
「あ、座ったほうがよさそうですね」
長身のレシウスが、一人で立つことすら困難な極小空間で気まずそうに首をすくめた。促されるまま、私はソファの肘掛けに腰掛けた。しかし狭すぎるがゆえに、私の身体は自然と、彼の逞しい太ももの上にすっぽりと乗る形になってしまった。
「……」
戸の隙間から細く差し込む夕日の光の中に、緊張でソファの端をぎゅっと白くなるまで握り締めている彼の大きな指先が見えた。
「はは……すぐに終わりますよ」
「……はい」
レシウスの返事は、熱のこもった、微かな吐息混じりのものだった。低くかすれたその声が、静寂の中で妙に色っぽく鼓膜を震わせる。
(ちょ、ちょっと待って……私、今この状況で何を考えてるのよ!)
「大人なんていません!」
玄関の階段をドタドタと上がってくる税務局の役人たちを、ラテルが必死に遮ろうとしている声が響く。離れの物置の扉は完全には閉まりきっておらず、わずかな隙間から外の様子が筒抜けだった。
「こちらで隅々まで調べる。ガキは下がっていろ!」
「これが不当な強制捜査でなくて何だと言うんですか!」
白い制服を着た大柄な役人が、邪魔なラテルを乱暴に突き飛ばした。
(子ども相手になんて真似を……!)
激しい怒りが湧き起こり、私が思わず飛び出そうと身じろぎした瞬間、後ろから私をホールドしていたレシウスが「うっ……」と短く低い声を漏らした。太ももを通じて、彼の身体が一瞬で鉄のように硬直したのが伝わってくる。
(あ、ごめん、密着してるの忘れてた)
「ところで、あっちの離れは何だ?」
「ただの古い物置です!」
役人の足音が、私たちが潜む離れへとゆっくりと近づいてくる。床を鳴らす靴の音が、刻一刻と近づいてきた。
(……え?)
物置の扉が開き、周囲を鋭く見回すその役人の顔が見えた瞬間、私は目を見開いた。その顔には、非常によく見覚えがあったのだ。
その男は、私たちが潜む革製ソファのすぐ目の前まで歩み寄ってきた。
(マルトス公爵の派閥の下級管理職……! 行政部の翼宮で何度も見かけた顔だわ!)
『不味い、レシウスの顔を知られているかもしれない!』
「陛下、ご無礼をお許しください!」
「……え?」
私は咄嗟の判断で、後ろから抱き寄せられる体勢のまま、レシウスの顔を慌てて自分の肩口へと強く押しつけた。彼の顔を完全に隠すように、上から抱え込む。
同時に、ガタッと完全に扉が開け放たれた。
「……ごほん」
「はは、これはまた……お邪魔したようですな」
物置の奥のソファで、男女が激しく密着して睦み合っている(ように見える)光景を目にした役人たちは、一瞬で顔を赤らめて大いに動揺した。
私は肩口にうずめられたレシウスの頭を、さらに深く自分の身体へと押し込んだ。耳元で、彼のまだ落ち着かない激しい鼓動と、熱く湿った吐息がダイレクトに肌に伝わってくる。
「い、行こう。ここは関係ないようだ」
不法侵入まがいの税金徴収に来ていたはずの役人たちは、気まずそうに、コソコソと這うようにして去っていった。
あまりにもあっけない幕引きに、私は呆然と目を見開いた。税金を取り立てるという強硬な姿勢はどこへ行ったのだ。横柄極まりない連中だったが、今日ばかりはその融通の利きやすさに感謝したいくらいだった。
「はぁ……」
静まり返った空間に、安堵ではなく、どこか熱を孕んだ興奮を抑えきれないようなレシウスの荒い息遣いが聞こえた。
彼は私を腕の中に抱き寄せたまま、ソファの端に置いていた手をゆっくりと動かした。どれほど強い力で耐えていたのか、彼の手の周りの布地は、くしゃくしゃに皺が寄っていた。
しかし――。
(……待って。こんなこと、前にもあったような……?)
全身をぴんと硬直させたまま私を壊れ物を扱うように抱き締めるレシウスの、今にも爆発しそうなほど真っ赤に染まった耳をじっと見つめる。
そうだ。私は確かに、これとまったく同じ感覚を知っている。
私の黒魔法が解けた、あの瞬間の記憶。
バイウードの地、捨てられた薄暗い神殿、そして――。
思い出せそうでどうしても霧の彼方に消えてしまう、ぼんやりとした過去の残像。私は混乱に脳を支配されながら、ただ激しく明滅する記憶の欠片を追いかけようと、静かに目を細めるしかなかった。
要点は以下の3点です。
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逆エスコートと確信犯的なレシウスの魅力
デートの実地練習として出かけたものの、主人公は長年の「男装公爵」としての習性から、暴走馬からレシウスをかばったり階段で手を差し伸べたりと逆エスコートをしてしまう。しかし、レシウスはそれを優しく受け入れつつ、独自の距離感で主人公を翻弄する。
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「教育本」の悲劇とマルトス公爵の目撃
本屋で主人公が渡した恋愛本が、実は刺激的な挿絵ばかりの「大人の手引き」だったことで二人は大慌てする。さらに同じ本屋には、偶然にも公爵の手紙の謎を追う政敵マルトス公爵がおり、皇帝(レシウス)が「ベルウェン公爵に酷似した女性」に溺愛している様子を目撃して不穏な思案を巡らせる。
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狭い物置での密着と蘇る記憶の残像
孤児院に税務局の査察(マルトス公爵の部下)が入り、二人は狭い物置のソファで完全に密着して隠れる。顔を隠すためレシウスを抱きしめた主人公は、そのあまりの緊張と熱量に触れたことで、かつて黒魔法が解けた「バイウードの神殿」での失われた記憶の残像を思い出しそうになり混乱する。