こんにちは、ピッコです。
「悪役令嬢の推しに選ばれました」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
32話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- ひそやかな贈り物
パーティーは盛況のうちに幕を閉じ、アンシ子爵家の屋敷は夜遅くまで明かりが消えることはなかった。
クラウディウス公爵は、宴が完全に終わる少し前にホテルへ戻ることにしたようだった。
「私たちの屋敷にお泊まりいただいてもよろしかったのですが……」
母の勧めを、公爵は丁寧に、しかしきっぱりと辞退した。
「いえ。エヴァがすでに十分お世話になっていますから」
そう言いながら、公爵は目に力を込めて妹の公女殿下を見つめる。
「ふん」
公女エヴァンジェリンは小さく鼻を鳴らすと、気まずそうに私の背中へ隠れるように下がった。
「……ともかく、こうなった以上、今日一日だけはエヴァをよろしくお願いします」
公爵はどこか諦めたような視線を妹に向けながら、私に言葉を続けた。
「明日、エヴァを迎えに参ります」
「ふん」
再び可愛らしい鼻鳴らしが聞こえる。
結局、公爵と一緒に先に馬車へ乗り込むことになった公女様は、窓越しに私を見下ろした。
「まあ、レディ・アンシも久しぶりに実家へ帰ってきたんだから。ご両親と数日くらいゆっくり過ごさないとね」
そう言うと、照れ隠しをするように視線を泳がせる。
「そのくらいは、私だって分かる人だもの」
華奢で愛らしい手がもじもじと動き、やがて私の手をぎゅっと握りしめた。
「でも、あんまり長居しちゃだめだからね。私、本気で寂しいんだから。分かった?」
「はい」
私は公女様に向かって、あふれる愛おしさを込めてにっこりと微笑んだ。
その後――。
残られたお客様を一人ひとり丁寧に見送った私は、ようやく自分の部屋へ戻ることができた。
扉を開けると、そこには思いがけない光景が待っていた。
「レディ・アンシ、遅かったですね!」
寝間着姿の公女様が、ぱっと顔を上げて私を迎えてくれたのだ。
どうやら、先ほど公爵から渡されたお土産を開けていたらしい。ベッドの上には、色とりどりのリボンや包装紙が一面に広がっていた。
「わあ、とても綺麗ですね……」
私は思わず目を丸くした。
柔らかな照明の下で、青いターコイズを一粒ずつ丁寧にあしらったブレスレットが、美しく神秘的な輝きを放っている。
「今回はお兄様もずいぶん気を遣ってくれたみたいですね。でも……」
ブレスレットをあちこちから眺めていた公女様が、ふと動きを止めて私を振り返った。
「それは何ですか?」
「あ、これですか? 公爵様がプレゼントしてくださいました」
私は両手で大事そうに抱えていた小さな贈り物の箱を、公女様へと差し出した。
「公女様へのプレゼントを買われたときに、私の分も一緒に買ってくださったそうです」
なんだか急に顔が熱くなるような気がして、私は照れ隠しに箱の角を指先でいじった。
「本当にありがたいんですけど、どうお返しすればいいのか分からなくて……」
「へえ?」
公女様の青い瞳が、きらりと不穏に輝いた。
「お兄様がレディ・アンシにプレゼントを?」
「はい、そうなんですけど……」
「わあ。あの無頓着なお兄様が、一体どうしちゃったのかしら?」
公女様はベッドから飛び降り、私のそばへ駆け寄ってきた。
「妹としてこんなこと言うのもなんだけど、うちのお兄様って、センスというものがまったく無いのよ」
「そ、そうなんですか?」
「ええ。出張のたびにお土産を買ってきてくれるのも、私がそういう習慣をつけさせただけ。自分から進んで誰かに買ってくることなんて、絶対にないんだから。それなのに……」
公女様は意味深にくすりと笑いながら、私の顔をじっと見つめた。
「レディ・アンシには、自分からちゃんとプレゼントを選んだんですね?」
「それは……私が公女様のお友達だからでは?」
「まあ、そういう理由もあるかもしれないけど」
公女様は肩をすくめた。
「でも少なくとも、お兄様がレディ・アンシのことをかなり気に入っているのは間違いないわ」
「まさか、そんなこと……」
私は冗談めかして笑い飛ばそうとした。しかし、公女様はいつになく真剣な表情で私を見つめ返してくる。
「本当よ。もしそうじゃなかったら、私があんな手紙を送ったとしても、わざわざこんな南部のパーティーに来たりなんて――」
そこまで言って、公女様は「あっ」という顔をして慌てて口を押さえた。
しかし、時すでに遅し。私は驚きに目を大きく見開いていた。
「公女様……まさか、私に内緒で公爵様へ手紙を送っていたんですか?」
公女様がセラフィナや令嬢たちの前で「アンシ子爵家でパーティーを開く」と宣言した、あの日。公女様がこっそり公爵様へ手紙を認めていた場面が、鮮鮮と脳裏によみがえる。
「公女様、公爵様はとてもお忙しい方じゃないですか!」
「どうせ仕事は全部終わってたでしょうし……」
「それでもダメです!」
私が何度も諭すように説得すると、公女様は不満そうに唇を尖らせた。
「……分かったわよ。次からはもう、勝手に手紙を送らないって約束するわ」
ようやくそう約束してくださったものの、私の胸には一つの疑問が浮かんでいた。
(もしかして公女様が……私たちのパーティーに来てほしいと、公爵様にお願いしてくださったから、あの方は来てくれたの?)
そう尋ねた瞬間、庭園での公爵様の顔がフラッシュバックした。端正な横顔にかすめていた、隠しきれない疲労の色。
『ええ……まったく関係ないとは言えませんね』
あの少し疲れたような、しかし穏やかな声。
『ですが、エヴァがどれほどせがんだとしても、私が望まないパーティーに出席することはありません』
――つまり、公爵様ご自身が「来たい」と思って、この地へ足を運んでくださったということだ。
もちろん、公爵様は不器用な照れ隠しもあって、ああいう優しい言い回しをされたのだろうけれど……。
一方、秘密をバラしてしまった公女様はすっかり慌てた様子で、金魚のように口をぱくぱくさせていた。
「えっ!? い、いや、その、だから!」
「だから本当に、公爵様に手紙を送らないでくださいって言ったじゃないですか! なのに結局……!」
本格的なお説教が始まりそうな気配を察すると、公女様は素早い動きで布団の中へ潜り込んだ。
「わ、私もう眠いです! 今日はもう寝ます! レディ・アンシもちゃんとお風呂に入って寝るんですよ、いいですね!?」
布団を頭まですっぽり被ると、ぎゅっと目を閉じ、あからさまな寝たふりを始めた。
(やれやれ……)
私は心の中で深いため息をついた。
本当に、「可愛い」というのは恐ろしい特権だ。あんなに大雑把に、全身で「お説教なんて聞きたくない!」と主張しているのに、それでもただただ愛らしく見えてしまうのだから。
「私はお風呂に入ってきますね。おやすみなさい」
私は苦笑しながら首を横に振り、部屋を立ち上がった。
ガチャリ、と静かにドアが閉まる音がした。
「……レディ・アンシ、行った?」
布団からそっと顔を出したエヴァンジェリンは、誰もいない部屋をきょろきょろと見回した。
すると、ラリテがテーブルの上に置いていった贈り物の箱が、ふと目に留まった。
エヴァンジェリンはそろそろと布団から抜け出すと、足音を忍ばせて箱の中をのぞき込む。
そこにあったのは、淡いピンク色のローズクォーツが揺れるイヤリングだった。
(これは……どう見ても、適当に選んだ品じゃないわね)
繊細な職人技の細工に加え、何よりその石の色は、ラリテの持つ淡い桃色の瞳によく似た、優しい輝きを放っていた。ラリテに一番似合うものを、じっくりと考え、吟味して選んだことが一目で分かった。
(いくらレディ・アンシが私と仲がいいからって、あの兄がここまで他人に気を遣うなんて……)
(何だか怪しいわね?)
エヴァンジェリンの美しい青い瞳が、疑わしそうに細められた。
少し遅れて、私は湯浴みを終えて寝室へと戻った。
(公女様は……うん、もう本当にお休みになられたみたい)
ベッドに大の字になって、ぐっすりと眠っている公女様の姿があった。枕に広がった美しい金色の髪をそっと整え、冷えないように首元まで丁寧に布団を掛け直してあげる。
一息つき、私はふと視線をドレッサーの上へと移した。
窓から差し込む一筋の月明かりを受け、バラ色の宝石がついたイヤリングが、ひっそりと、しかし気高くきらめいていた。
(今日は本当に、公爵様には大変お世話になったわ……)
わざわざ私たちの小さなパーティーに出席してくださり、グスト伯爵家の嫌がらせを未然に防いでくださった。私のファーストダンスの相手を務め、大勢の貴族たちの前で、私の両親のことまで深く気遣ってくださった。
それに――。
(もし公爵様がいらっしゃらなかったら……私はもっと長い間、庭園でグレゴリーに付きまとわれて、傷つけられていたかもしれない)
静まり返った部屋の中で、公爵様が私に掛けてくださった言葉が、何度も何度も耳の奥に蘇る。
『相手の無礼をただ我慢することだけが、大人ではありません。少なくとも、誰もレディを軽んじて扱えないようになさってください』
『レディは、そのような扱いを受けるべき方ではありません』
あの、どこまでも毅然とした、温かい声。
私は窓の外を見つめ、ふと自嘲気味に苦笑した。
(羨ましいな、セラフィナ)
昔の私は、セラフィナを羨ましいと思うことすらできなかった。ただ遠くから憧れるだけの存在で、とても自分なんかと比較できる相手ではないと諦めていたから。
でも、今は違う。もう二度と彼女に振り回される人生は送らないと決め、そのために自分なりに努力し、前を向いて歩いてきた。
それなのに――。
(それでも、どうしても敵わない人というのは……いるものなのね)
公爵様は、公女様と並んで、私の努力やありのままの能力を初めて認めてくださった人だった。そんな素晴らしい方が、いつか原作の運命のように、セラフィナを深く愛するようになるのだと思うと……胸の奥が、ほんの少しだけチクリと痛んだ。
(もうやめよう。これ以上考えるのは)
私は頭を振ると、ベッドへごろんと横になった。ぐっすり眠る公女様の隣で、なんとか雑念を消そうとそっと目を閉じる。
けれど、不思議だった。一日中パーティーのために動き回り、体は鉛のようにくたくたのはずなのに――どうしても、眠りにつくことができなかった。
・
・
・
ホテルへ戻る頃には、時計の針はいつの間にか真夜中近くを指していた。
バスルームで軽く汗を流したディートリヒは、薄手のシャツを羽織り、ウイスキーグラスを片手に窓辺へと立った。
半開きの窓から、夜風が静かに吹き込んでくる。
濡れた髪を優しく撫でるその風が、火照った肌に心地よかった。
(今夜は……星が多いな)
漆黒の夜空には、名もなき無数の星たちが瞬いている。その美しい星空を静かに見上げていると、意識せずとも、ある一人の令嬢の姿が脳裏に浮かび上がってきた。
――レディ・アンシ。
ラリテの艶やかな漆黒の髪と、その上で星のようにきらめいていた真珠の髪飾り。微笑みをたたえたまま、まっすぐに自分を見上げていた、あの淡い桃色の瞳。
『もしよろしければ、レディ・アンシ。私と一曲踊っていただけませんか』
あのとき、衝動的に彼女をダンスに誘った自分を思い返し、ディートリヒはふっと息を漏らした。
(私は……少し緊張していた、か)
これまでの人生で、戦場でも社交界でも、誰かを前にしてためらったり、胸が高鳴ったりしたことは一度もなかった。それなのに、あの瞬間の自分は明らかに「緊張」していた。そんな未知の感情を抱く自分が、少し不思議でならなかった。
じっと見つめていたラリテは、優雅な仕草でそっと彼の手に自分の手を重ね、
『喜んで』
と微笑んだ。彼女がその誘いを、驚きながらも受け入れてくれたことさえ、どこか奇跡のように思えた。
どれもこれも、いつもの冷静沈着なディートリヒらしくないことばかりだった。
その後も、彼は気づけばずっとラリテのことを目で追っていた。
彼女をエスコートしてダンスホールへと向かう時も、ステップを踏み損ねてよろけた彼女を、とっさに腕の中に抱き留めた時も。
ラリテの身体はあまりにも軽く、そして柔らかくて――その時の確かな感触が、今でも手のひらに鮮明に残っているような気がした。
「……」
ウイスキーグラスを持つ手に、自然と力がこもる。
いつものディートリヒなら、他人の男女の揉め事……ましてやラリテとグレゴリーの間に割って入るような真似はしなかっただろう。あれは本来、当事者間の個人的な問題だ。
それでも彼は、自らの意志でラリテの後を追った。
『機会を逃したのは、むしろグスト伯爵家のご子息ではありませんか。レディ・アンシの婚約者になれる機会は、すでに失われたはずです』
『それなのに、なぜ今さらレディ・アンシに執着なさるのです?』
『……見苦しい』
ラリテのためにグレゴリーを冷徹に問い詰めたことは、公爵としての立場を考えても、決して軽い行動ではなかった。
なぜ、あそこまで感情的になってしまったのだろう。ディートリヒは、自分の行動の理由を暗闇の中で探り出そうとした。
ただ、一つだけはっきりしていることがある。
ラリテの周りをあの男がうろついているのを見た瞬間、胸の奥から湧き上がってきたのは、激しい「不快感」だった。
だが、その黒い不快感も、ラリテの純真な笑顔を目にした瞬間、嘘のようにきれいに消え去ってしまったのだ。
『では、ご一緒にお嬢様を探しに行きませんか?』
『その……私もお嬢様を探しに来たんです。二人で探したほうが早く見つかると思って……』
自分を追ってきた男がディートリヒだとは夢にも思っていないような、あの慌てた様子。そんなラリテを見て、彼は不覚にも「意外と可愛らしい人だ」と思ってしまった。
だから、きっとそうだったのだ。
『たまに出張へ行くたびに、エヴァが「お土産を買ってきて」って歌うように頼んでくるんです。それで、エヴァのネックレスを買うついでに一緒に買ったんですが……どうかお気に召していただければ嬉しいです』
本来なら、エヴァンジェリンを通して体裁よく渡すつもりだった贈り物を、ラリテ本人へ思わず直接差し出してしまった。その理由は――。
『本当にありがとうございます。大切にします』
突然のプレゼントにどうしていいかわからない様子でありながら、雨露に濡れた月明かりよりも眩しい笑顔を浮かべた、彼女のあの表情。その笑顔が、不思議なほど彼の脳裏に焼き付いて離れなかったからだ。
「本当に不思議だ……」
ディートリヒは、夜の静寂に向かって小さく笑みを漏らした。
幼い頃に過酷な家門を継いで以来、毎日、幼い妹をどう守るか、家門をどう治め、どう発展させるか――そんな義務と責任のことばかりを考えて生きてきた。
誰か一人の女性のことを、こんなふうに私的な感情で考えるようになったのは、人生で初めてのことだった。
きっと、そうなのだ。そして、その初めての気持ちは……決して、悪くなかった。
・
・
・
翌朝。
ディートリヒは朝早くから、エヴァンジェリンを迎えにアンシ子爵邸を訪れた。
「もうこんなに早く来たの? お兄様って朝寝坊とかしないわけ?」
まだ眠そうなエヴァンジェリンはぶつぶつと文句を言いながらも、兄の後ろをおとなしくついていった。
「また帝都でお会いしましょう、レディ・アンシ」
「お気をつけて。すぐにまたお会いしましょうね」
ラリテは、名残惜しそうに何度も振り返るエヴァンジェリンを、姉のように優しくなだめていた。
妹の様子を少しあきれたように見ていたディートリヒは、やがてラリテの前に立つと、丁寧に頭を下げた。
「これまで妹の面倒を見てくださり、本当にありがとうございました」
「そんな、とんでもありません! むしろ、公女様のおかげで私のほうがとても楽しい時間を過ごさせていただきました」
そう言ってにっこりと笑うラリテ。しかし、彼女の耳元には――何もついていなかった。
それを見た瞬間、ディートリヒは胸の奥がわずかに沈むのを感じた。
(この、割り切れない気持ちは一体何なんだ……?)
そんな小さな感情に囚われる自分自身が、またしても不思議でならなかった。
もちろん、頭では理解している。あのイヤリングをいつ身につけるか、あるいは身につけないか――それは贈り物を受け取った本人の自由なのだから。それでも、ほんの少しの期待が裏切られたような寂しさが残った。
「もう、何してるのお兄様! 早く行こうよ!」
先に歩いていたエヴァンジェリンが、馬車に乗り込もうとしながら不満そうな声を上げた。ディートリヒは複雑な重荷を胸に抱えたまま、妹の後を追った。
そして――ついに馬車が出発した。
「レディ・アンシ! あまり遅く来ちゃだめですよ! お手紙も必ず送ってくださいね!」
エヴァンジェリンは馬車の窓から身を乗り出すようにして顔を出し、大きく手を振った。
「はい、必ずお手紙を書きますね!」
ラリテも小さくなる馬車に向かって、笑顔で手を振り返していた。
馬車がしばらく走り、アンシ家の屋敷が完全に視界から消えた頃。
エヴァンジェリンがくるりと座席を直して、兄を振り返った。
「お兄様、今回はちょっと意外だったよ。あの人付き合いが苦手なお兄様が、わざわざアンシ子爵家のパーティーに参加するなんてね」
図星を突かれたディートリヒは、外の景色を眺めたままぶっきらぼうに答えた。
「……お前の頼みを聞いただけだ」
「うん、それはありがたいけど」
エヴァンジェリンの声には、明らかなからかいの響きが混じっていた。
「変な噂になるのが嫌だって言って、今まで令嬢たちにはいつも冷たい壁を作ってたじゃない?」
「それは……お前の友達だからだ」
だが、その返事はディートリヒ自身が聞いても、ひどく苦しい言い訳に聞こえた。
エヴァンジェリンは意味ありげに目を細め、にやりと意地悪く笑った。
「へぇ? うちのお兄様って、私にそんなに甘い人だったかしら?」
「……」
ここで何を言っても、妹の格好の餌食になるだけだと悟ったディートリヒは、それ以上口を開くのをやめた。
ディートリヒは黙って口をつぐむ道を選んだが、エヴァンジェリンには兄の沈黙をこじ開ける天才的な才能があった。
「せっかくだし、これからも社交界の行事があったら、レディ・アンシのパートナーになってあげてよ」
「またか?」
ディートリヒは思わず、少し強い口調で聞き返した。
「そうよ。私の大切な友達が、他の有象無象に見下されるところなんて、私は絶対に観たくないもの」
エヴァンジェリンは肩をすくめながら馬車のフカフカした座席にもたれかかると、目を細めてじっと兄を観察した。
「どうして? 嫌なの?」
「……」
珍しく、ディートリヒは返す言葉を完全に失っていた。
その兄の反応を見て、エヴァンジェリンは内心で少し驚いていた。
(お兄様って、本当に嫌なことは絶対に引き受けない人なのに……)
世間では、エヴァンジェリンこそが頑固で我が儘放題だと思われている。だが実際には、その妥協のない苛烈な性格は、クラウディウス公爵家に代々受け継がれてきた血筋のようなものだった。ディートリヒは彼女よりもはるかに社交性が高く、普段なら「それは少し難しいですね」と、相手の気分を害さないように柔らかく断る術に長けている。
しかし、今のディートリヒは「嫌だ」とはっきり拒絶しなかった。
むしろ――。
「……嫌だとは、言っていない」
ぶっきらぼうな口調のまま、そう静かに返したのだ。
エヴァンジェリンは目を丸くした。
「えっ、本当?」
「……ああ」
そこから、馬車の中に気まずい沈黙が流れた。
ディートリヒは無言のまま、じっとエヴァンジェリンを見つめている。何かを言いたげな、迷うような表情をしているのに、なかなか次の言葉を口にしようとはしなかった。
結局、しびれを切らしたエヴァンジェリンが眉をひそめた。
「お兄様、私の顔に何かついてる? さっきからずっと私のことばかり見てるけど」
ディートリヒは肩をぴくりと震わせた。そして、しばらくの躊躇いの後――。
「……もしかして」
たった一つの質問をするだけなのに、どうしてこんなにも言い出しづらいのか。ディートリヒはわずかに眉をひそめながら続けた。
「レディ・アンシは、あのイヤリングが……あまり気に入らなかったのだろうか?」
その瞬間、エヴァンジェリンは獲物を見つけた獣のように、その青い瞳を爛々と輝かせた。
「えっ? どうしてそんなこと聞くの?」
「ただ……もし好みに合わないものを贈ってしまったのなら、それも失礼だと思ってな……」
「ふーん。じゃあ、レディ・アンシが今日、あのイヤリングをつけていなかったことが気になってたんだ?」
「……」
完璧な図星だった。ディートリヒがここまで動揺し、無口になるのは極めて珍しいことだった。
そんな兄をあきれたように、しかしどこか嬉しそうに見つめたエヴァンジェリンは、小さく首を振りながら言った。
「気に入っていたみたいだけど?」
「……そうなのか?」
ディートリヒは、はっとしたように目を丸くして妹を見た。
「うん。でもね、あのお兄様が贈ったイヤリング、普段着に合わせるには少し高価すぎるものだから。もったいなくて使えないのよ、きっと」
そう答えたエヴァンジェリンは、さりげなく探るように尋ねた。
「お兄様、今回は結構お金を使ったでしょ?」
聞けば、エヴァンジェリンとラリテへの贈り物を買ったという宝飾店は、アンシ子爵領でも一番人気の、格式高い店だったという。当然、値段も平民や並の貴族には手が出ないほど高価だったはずだ。
「うちの小姫様にいつも良くしてくれているんだ。そのくらい、公爵家として当然の投資だろう」
「誰が“小姫様”よ!」
そう言い返したものの、エヴァンジェリンは心の中で小さくため息をついた。
(まあ、今さらこれ以上お兄様を問い詰めても、意味はなさそうね)
人というものは、自分自身の本当の感情に、一番最後になって気づくこともある。ましてや、ディートリヒのように幼い頃から家門の当主として、鉄の自制心を持って生きてきた男なら、なおさら自分の恋心など認めがたいに違いない。
(私が余計な口を挟むより、お兄様自身で気づいてもらったほうが面白いよね)
そう思ったエヴァンジェリンは、思わず吹き出しそうになるのを必死にこらえた。そして、何食わぬ顔でさりげなく話題を変えた。
「そういえばね、お兄様。アンシ子爵夫人が、レディ・アンシと仲良くしてくれてありがとうって言ってたよ」
「アンシ子爵夫人が?」
「うん。『エヴァという良い友達ができて、娘も嬉しそうです』って。それから……」
エヴァンジェリンはそっとディートリヒの様子をうかがいながら、悪戯っぽく続けた。
「お兄様のことも、私に感謝してるって言ってたよ?」
「誰がだ」
「レディ・アンシが」
「……」
事実を突かれ、ディートリヒは返す言葉がなかった。
エヴァンジェリンは少し目を伏せ、いつになくしっとりとしたトーンで言葉を続けた。
「私ね……正直、すごく嬉しかったんだ。お兄様もそうだし、アンシ子爵夫人もそうだけど……私に向かって、そんなふうに『ありがとう』なんて言ってくれた人は、今までの人生で初めてだったから」
「……エヴァ」
エヴァンジェリンの声は、珍しく少し照れくさそうに震えていた。
「レディ・アンシと一緒にいるとね、本当にいい気分になるの。なんていうか……」
指先をもじもじと動かしていた彼女は、そっと視線を窓の外へ逸らしながら、ぽつりと呟いた。
「私も彼女の隣にいたら、これからもっと、いい人になれるような気がするの」
「……」
ディートリヒは黙って妹を見つめた。
社交界では数々の悪い噂に悩まされ、高慢で冷酷だという悪評まで立てられていた、可哀想な我が妹。
だが――『まだ幼いだけで、本当は誰よりも純粋で優しい子なんだ』。
そんな妹が、たった数句の真摯な褒め言葉で頬を赤らめている姿が、ディートリヒには何ともいじらしく、愛おしく思えた。
しばらくの沈黙の後、ディートリヒが静かに口を開いた。
「エヴァ。お前は今でも、十分いい子だ」
「……お兄様?」
思いがけない素直な肯定に、エヴァンジェリンは目をぱちぱちと瞬かせた。
ディートリヒは少し照れくさそうに、視線を落として続けた。
「もちろん、頑固だし、いたずら好きだし、人の話はなかなか聞かないし、口答えばかりするがな」
「ちょっと! そこで急にそんな余計なこと言う!? 今、せっかく感動しかけてたのに!」
兄の言葉を真剣に聞いていたエヴァンジェリンは、一瞬で頬を膨らませてむくれた。
「それでも……」
ふくれっ面の妹を見つめながら、ディートリヒの唇に、この上なく優しい笑みが浮かんだ。
「レディ・アンシも、私も。お前のことを、とても大切に思っている」
「……」
その真っ直ぐな言葉に、エヴァンジェリンは今度こそ静かになった。
ディートリヒは包み込むような口調で続けた。
「レディ・アンシと出会ってから、お前はずっと楽しそうに過ごしている。……兄として、これほど嬉しいことはない」
「……もう、分かったから」
これ以上の照れくささに耐えきれなくなったように、エヴァンジェリンはわざと大きくフンと横を向き、窓の外の景色へと視線を固定した。
兄妹の間には、言葉はなくとも、確かに通じ合う穏やかで心地よい沈黙が流れていた。
馬車は、柔らかな木漏れ日を浴びながら、二人の大切な人が待つ帝都へと向かって、まっすぐに走り続けた。
-
ラリテの隠された真実と切ない恋心
パーティー後、ラリテは公女が兄(公爵)を呼び寄せる手紙を裏で送っていた事実を知る。お説教から逃げる公女の愛らしさに呆れつつも、公爵がラリテのために真剣に選んだイヤリングを宝物のように見つめ、いつか彼が原作通りセラフィナと結ばれる未来を想って切ない夜を過ごす。
-
ディートリヒ公爵の初めての「緊張」と「不快感」
ホテルへ戻った公爵は、ラリテとのダンスで人生初の「緊張」を味わったこと、そして彼女の元婚約者に抱いた「不快感」を振り返っていた。無自覚ながらもラリテへの特別な感情が芽生えており、彼女の笑顔が脳裏から離れなくなっている。
-
不器用な兄とすべてを察する妹の馬車内心理戦
翌朝、帝都へ向かう馬車の中で、公爵はラリテがイヤリングをつけていなかったことを気にする素振りを見せ、妹の公女にあっさりと図星を突かれる。すべてを察した公女は兄の恋心を面白がりつつ、ラリテが自分たちを変えてくれた大切な存在であることを兄妹で確かめ合う。