こんにちは、ピッコです。
「悪党おじさんと暮らしています!」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
48話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 薄氷の逃走
ネリは、仕掛けのある花瓶や机の引き出しから必死に回収した『裏切りの証拠』を胸に抱きしめ、息を乱しながら花屋を飛び出した。
頭の中に焼き付いているのは、あの小さなアイカお嬢様が残していった、信じられない内容の伝言(メモ)だ。
【お姉さんが隠していた証拠を持って、すぐに逃げてください。そして『エボソフ・ベーカリー』へ行って、ロドリゴおじさんを探してください。必ず、日が暮れる前に行かないといけません。】
いったい、なぜあの幼いお嬢様がすべてを知っているのか。なぜ自分に、これほど的確な逃げ道を指示できるのか。
アイカにその理由を問い詰める時間など、一秒たりとも残されてはいなかった。アイカが去り、ネリが店を飛び出した直後から、すでに背後には何者かの集団が自分を執拗に追ってくる、おぞましい殺気と気配が迫っていたからだ。
「はぁ、はぁ、はぁっ……!」
それからは、ただひたすらに、喉から血が噴き出しそうなほど必死に首都の路地を駆け抜けた。これが、自分の人生における最後のチャンスだと確信していた。
ネリは喉元まで込み上げる激しい呼吸を必死に飲み込み、運よく見つけた薄暗い古びた倉庫の中へ滑り込むように身を隠した。これまでの首都での過酷な暮らしのおかげで、追っ手を撒き、身を隠せる場所を見つける嗅覚だけは育まれていた。
全身から、雨のように大量の汗が流れ落ちる。
荒い息をつきながら、彼女は震える手でもう一度、アイカのメモを確認した。
「エボソフ、ベーカリー……」
アイカが指定したその場所は、ネリ自身もよく知っている店だった。いや、首都に暮らす者なら誰もが知っている、最も高名なベーカリーだ。
平民では一生かかっても口にすることすらできないほど、高価な最高級のパンを売る店。ネリも、かつて運よく一度だけその味を知っていた。今は亡きセリア様が「これは私からのプレゼントよ」と言って、小さな美しいケーキを買ってきてくれたことがあったからだ。
「……セリア様」
あんなにも優しかった人を裏切るような真似をして、私は一体、なんて馬鹿なことをしてしまったのだろう。
胸を突く激しい後悔が押し寄せたが、もう立ち止まっている暇はなかった。自分に残された唯一の道は、この不思議なメモに書かれている通りに行動することだけだ。
けれど、目的地であるエボソフ・ベーカリーへたどり着くには、まだかなりの距離を走らなければならない。あそこへ行けば、本当に私を救ってくれる解決策があるのだろうか。
――この血に塗られた証拠を、無事にあの方たちに渡せるだろうか。
――私は、生き残ることができるのだろうか。
ガタガタッ! ドン!
「ひっ……!」
突然、倉庫の外から響いた不穏な物音に、ネリは全身の血が凍りつくのを感じて息を殺した。低い男たちの怒鳴り声が近づいてくる。
奴らに見つかるわけにはいかない。ネリは奥歯をガチガチと噛み締め、必死に意識を保ちながら再び立ち上がった。幸い、この倉庫には開いている裏口がある。奴らが正面から中へ踏み込んでくる前に、あの裏口から飛び出せば、まだ僅かに望みはある。
バンッ!
正面の重い扉が蹴り開けられた瞬間、ネリは身体に残された最後の力を振り絞り、裏口に向かって弾かれたように走り出した。
「おい、いたぞ! 追え!」
ドアノブを掴み、外へ飛び出した瞬間、背後から荒々しい叫び声が鼓膜を刺した。ネリは裏口の扉を力いっぱい閉めて鍵をかけると、目の前に広がる賑やかな人混みの中へと素早く身を隠した。
幸いなことに、その日はいつもより路地に人通りが多かった。もしこれが、深夜のように人影もまばらな時間帯だったなら、逃げ切ることなど到底不可能だっただろう。そもそも、ここまでたどり着く前に確実に捕まっていたはずだ。
「はぁ、はぁ……っ」
もしも、アイカのメモに『日没前に来い』という切迫した指示がなければ、ネリはこれほど無茶な強行突破はせず、どこか安全な物陰でじっと夜を待っていただろう。
まさかアイカが、追っ手がこの時間に行動を起こすことまで予知していたわけではないだろうけれど……いや、考えれば考えるほど、あの七歳の少女が「どこまで」知っているのか分からなくなり、背筋が寒くなった。
……いや、そんなはずはない。
あんな小さな子が知っていることなど、せいぜい花屋に買いにきて覚えた、新しい花の名前くらいのはずだ。自分が持っている証拠の本当の恐ろしさも分からないだろうし、ましてや子どもにこの大人の陰謀の「証拠」を説明できるはずがない。
自分は決して、自分で稼いで店を開いたわけではない。けれど、それでも何年もこの過酷な首都の裏社会を生き抜いてきた自負がある。少なくとも、七歳の小さな子どもに簡単に出し抜かれるほど、自分は愚かではないつもりだった。
「それならやっぱり……バリエット公爵家の『誰か』が、ずっと私を見張っていたのね」
バリエット家。
かつて優しいセリア様や愛らしいアイカお嬢様に会った時は、世間でどれほど恐ろしい噂を耳にしても、あの公爵家を怖いと思ったことは一度もなかった。
しかし――今は、心の底から恐ろしかった。
もしかすると自分に裏切りを依頼してきたあの不気味な黒幕たちよりも、バリエット家の方が、遥かに底知れない怪物のように思えた。
それでも、あちらに捕まるくらいなら、バリエット家にすべてを委ねる方がまだマシだということだけは確かだった。
ネリは引き千切れそうな足を必死に動かし、ついにエボソフ・ベーカリーのある大きな交差点へと差し掛かった。
『お願い、もう少しだけ……私の身体、動いて……!』
ネリは痛む歯を食いしばった。わざと進路を複雑に変え、最も人通りの多い市場の真ん中へと紛れ込んでいく。追っ手がまだすぐ後ろまで迫っているのか、振り返って確かめる余裕すらすでに無かった。振り返ったその瞬間に、捕まるかもしれない。
逃げると決めた以上、あの男たちに捕まることは、すなわち凄惨な「死」を意味していた。たとえ逃げる途中で捕まったとしても、それは運命が少し早まるだけのこと。
どうせ周囲の平民たちは、自分が捕まったとしても「泥棒が警備兵に捕まったのだろう」程度にしか思わず、気にも留めないだろう。もともと、自分には失うものなど何もなかった。たとえここで命を落とすことになっても、アイカに再び与えられたこの一筋の機会だけは、絶対に無駄にしたくなかった。
『あそこだ……!』
ネリの霞む視線が、ついに通りの向こうにある『エボソフ・ベーカリー』の格式高い建物を捉えた。
どうか追手に見つからないでくれ――その一心で、最後の力を振り絞って扉の金色の取っ手へ手を伸ばした、その瞬間だった。
ズブリ――。
肉を裂き、骨を穿つ、冷たくて鋭い激痛がネリの背中の奥深くを容赦なく貫いた。
衝撃で、ネリの身体が不自然に弓なりに反り返る。
「うっ、あ……っ!」
視界がぐらりと上下に揺れた。前へ走っていた足が完全にもつれ、身体のバランスが崩壊する。
エボソフ・ベーカリーの美しい扉を目の前にして、彼女の身体は、冷たい地面へとそのまま生々しく崩れ落ちた。
ドサッ……!
『短剣……? 毒でも、塗られていたのかしら……』
急速に視界が暗くぼやけていく。
これを、あのロドリゴという人に、早く届けなければならないのに。
あと、ほんの少しだけ手を伸ばせば、あの温かい光が漏れる扉に届きそうだった。
霞んでいく意識の境界線で、エボソフ・ベーカリーの重厚な扉が内側から静かに開くのが見えた気がした。
全身を内側から焼き尽くすような凄まじい激痛の中、ネリはついに、深い闇の底へと意識を失った。
・
・
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私は馬車の座席で、こっそりとカッセル叔父様の様子をうかがった。
『お前に一つだけ聞く』
その低く冷徹な言葉に、私は思わずビクッと背筋を跳ね上げた。
今ではもう、叔父様の声のトーンや眉間のシワの寄り方だけで、その機嫌や感情の状態をかなり正確に察することができる。
うん――今の叔父様は、間違いなく「真っ赤な非常警報」状態だ!
頭の中で、最高レベルの危険信号がピカピカとけたたましく点滅していた。
この恐ろしい追及の危機をなんとか回避しようと、私はお尻を浮かせ、そっと座席から立ち上がった。
「う、うん。叔父さん、それじゃあ私、先におじい様にちゃんと家出のことを謝ってこようかなって……」
そう言って、一刻も早くこの場から逃げ出そうと馬車の扉へ向かおうとした、まさにその瞬間。
叔父様の長い脚がスッと容赦なく伸びてきて、ドンッ! と大きな音を立てて扉への動線を完全に塞いだ。
「――後で降りてから話せと言っている」
有無を言わせない、圧倒的な王者のような叔父様の言葉に、私はうぐっと唇を噛み締めた。
「うぅ……」
どうしよう。まさか、今日この場で全部、叔父さんに話さなきゃいけないの?
亡きお母様(ロゼティア)との大切な約束は、何としてでも守りたかった。叔父様から「どうして未来を知っているのか」と聞かれたら、ただ「自分で偶然見たからだ」と言い張るつもりであんなメモを大量に残したけれど……。
なぜだか目の前にいる叔父様の漆黒の瞳は、そんな子供騙しの嘘で簡単にごまかせそうな目ではなかった。
「……ネリお姉さんは、降りたくないって……」
「……」
恐る恐る叔父様を見上げると、叔父様はただ冷徹に私を見下ろしているだけで、それ以上は何も尋ねようとはしなかった。それが逆につらい。
どうしよう、どうしよう!
実は今回の計画、私自身もまったく精神的な余裕がなかったのだ。自分の予知能力で、公爵家の将来の破滅に関わる破片をいくつも同時に処理しなければならなかったし、準備しなければならない裏工作も多すぎた。途中で予知が変わって計画を変更せざるを得ないこともあった。
いっそ、このまま全部放り出して遠くへ逃げ出せたら、と考えたことだって一度や二度ではなかったのだ。
でも、いざこうして叔父様が真剣な表情で私と正面から向き合ってくると、罪悪感と怖さで、ここからただ逃げ出したいという気持ちしか湧いてこなかった。
もぞもぞ、と逃げ道を完全に塞がれた私は、諦めて再び椅子に腰を下ろし、小さな指先をいじりながら落ち着かない様子で視線を彷徨わせた。
「アイカ・デ・バリエット」
びくっ! と、私の小さな身体が本日一番の大きさで跳ね上がった。
叔父様が、私の名前を呼んだ。それも、おぞましいほど静かなフルネームで!
叔父様! 今日はただ、いつもみたいに「ピーナッツ(落花生)」って呼んでくれてもよかったのに……!
「う、うん……?」
私も思わず本能的な恐怖から背筋をぴんと伸ばし、両手を膝の上に揃えて行儀よく座り直した。叔父様を模した人形を脇に置いたまま、太ももの上で握りしめた小さな拳にぎゅっと力が入る。
叔父様は無言で上着のポケットを探り、ガサゴソと何かを取り出すと、それを私の目の前に差し出した。
半分ほどにきれいに折りたたまれたそれらを見た瞬間、私はそれが何なのか瞬時に理解した。
――私が屋敷のあちこちに隠して残した、すべての警告のメモだ。
「……叔父さん」
さっきは私の問いかけにまともに返事もしなかったのに、叔父様は私が残したメモを、なんと一枚残らず全部回収して持っていたのだ。一つも漏れなく。
叔父様にこれから酷く叱られる覚悟をしている最中だったけれど、私の心には、叔父様が私の必死の警告を一枚も見落とさずに受け取ってくれていたことへの、深い安堵感が広がっていた。そして、私の予知した未来の出来事が、すべて裏で正確に的中していたことへの証明でもあった。
「これらはすべて、お前が自分で書いたものだな?」
私は胸にグッと力を入れた。
「う、うん。私が書いたの、叔父さん」
「……お前が、実際にその目で『見て』書いたというのか?」
私は言葉を返す代わりに、こくりと神妙に頷いた。
それを聞いた叔父様の溜息は、先ほどよりもさらに深く、重いものになった。
「実際に見た……。ならなおさらだ、チビ助。どうしてそれを叔父さんに、前もって直接言葉で話してくれなかった。これがどれほど、お前の身を危険に晒すことか分かっているのか?」
「う、うん。分かってるの。でも叔父さん、それは……」
「それは、何だ?」
「……」
何も言えずに黙り込む私を見て、叔父様はふっと温度のない笑みを漏らした。
「言いたくないなら構わない。だが、ゼンダとジェラードの二人は、今日までお前をまともに守ることもできなかった無能だ。明日にも、まともな護衛と侍女に総入れ替えするからそのつもりでいろ。もう下がっていい」
叔父様の口から、予想を遥かに超える冷ややかで残酷な声が発せられ、私は思わず息を呑んだ。
激しく叱られるよりも、その静かな宣告の方がずっとずっと怖かった。それは以前、冷酷なロンドお祖父様と初めて対峙したときのあの拒絶の声に酷似していた。
しかも、大好きなゼンダとジェラードをクビにして叱るというの?
そんなの、絶対に嫌だ!
私は慌てて、座席から身を乗り出して叔父様の太い腕にしがみついた。
「だ、だめ! ゼンダとジェラードは何も悪くないの、叔父さん! ゼンダもジェラードも、私の計画なんて何も、本当に何も知らなかったんだから!」
「お前がこれほどの不穏な動きを知っていることを、なぜあの者たちが察知していない。お前の命を守り、傍で世話をするのが仕事の者たちだろう」
『アイカ』
その時、脳内にセリアの落ち着いた声が響いた。私は息をひそめて、セリアの次なる言葉を待った。
『お前が自分の目で(物理的に)見て書いたわけじゃないってことは、もうカッセルも完全に百も承知で見抜いているみたいよ』
『……!』
やっぱり。叔父様は、私が本当に現場を目撃したのかどうかを確かめるために聞いたわけではなかったのだ。私の嘘なんて、最初からお見通しだったんだ。目の前が真っ暗になるような絶望感が押し寄せる。
『いっそ、未来が見えるという驚異の能力を持っていると本当の嘘(真実)を伝えて、全面的に助けてもらうのはどうかしら? お前のあの叔父様なら、私の鑑識眼から見ても信頼に足る男だと思うわ。まあ、初見でどこまで信じてくれるかは分からないけれどね』
『……セリア』
『私たちバリエットの血族を守ろうとしてくれているお前の必死な気持ちは、誰よりも分かっているから、私はお前がすべてを話しても一向に構わないわ。たぶん、精霊のレフスも大丈夫だと言ってくれるはずよ。私たちにとって、今のアイカ、お前以上に大切な宝物なんて存在しないのだから。これまでもずっと――お前が私たちを支えてくれたんだもの』
だから、もうあの男に話しても大丈夫よ。
セリアはもう一度、私の心を包み込むように優しく言ってくれた。気のせいか、耳の奥でかすかに「ぷるるっ!」と愛らしく鳴く、神獣エクスの声まで聞こえた気がした。
私は、意を決した。
そうだ、もう叔父様にすべてを話そう。誰よりも、カッセル叔父様なら命を懸けて信頼できる。お母様にはもう二度と確認できないけれど、叔父様なら、私のこの異常な運命を受け入れてくれるかもしれない。
「……叔父さん」
私はごくりと乾いた唾を飲み込み、叔父様の衣服にしがみついたまま、涙を溜めて顔を上げた。
「――話してごらん」
先ほどまで怒りを必死に抑えていたはずの叔父様は、いつの間にか、信じられないほど穏やかで深い眼差しを私に向けていた。私の拙い嘘は、もう全部綺麗に見抜かれているのだと確信した。
「私、実はね……」
「うん」
緊張で口の中がカラカラに乾いて張り付く。それでも私はぎゅっと目を閉じ、意を決して言葉を絞り出した。
「……私、未来に起こることが『見える』の。だから、全部事前に分かったの。このままだと、大好きな叔父さんとお祖父様が、悪い人たちのせいでとっても危険な目に遭う気がして……。だから、助けたかったの。絶対に、二人を死なせたくなかったの」
「……何だと?」
カッセル叔父様が、わずかに目を見開いた。
「本当に、未来に起こることが映像で見えるの。このことは、亡くなったお母様しか知らない、私だけの特別な呪い(ちから)なの。お母様と『誰にも言っちゃダメだよ』って秘密にする約束をしていたから、だから叔父さんにはずっと言えなかったの……嘘じゃないの。勝手なことして、ごめんなさい、叔父さん……!」
結局、私は一番の重荷だった自分の秘密を、カッセル叔父様の前ですべて打ち明けてしまったのだった。
・
・
・
痛い。
熱い。
身体が、引き裂かれて死にそうだ……。
深い闇から意識を取り戻した瞬間、ネリの脳裏に真っ先に浮かんだのはその圧倒的な苦悶だった。
なぜか自分はベッドにうつ伏せの状態で寝かされており、背中はまるで本物の業火で焼かれているかのように異常に熱い。しかも、誰かがその傷口を鋭いナイフで無理やりえぐり回しているかのような、凄まじい激痛が絶え間なく走っている。
だが、その狂いそうなほどの激痛のおかげで、かえって混濁していた意識は急速に覚醒していった。
『……結局、あの男たちに捕まってしまったのね』
ネリは閉じたままの目を、さらに強く悲望を込めて閉じた。少しでも身体を動かそうとしただけで、全身を焼くような苦痛がいっそう跳ね上がる。いっそ、このまま気を失って死んでいた方が何倍もマシだと思えるほどだった。
結局、最後はいつもこうだ。最後の最後まで、大切な人の期待を裏切り、情けない行動をして捕まってしまった自分が、情けなくて涙が出そうになる。痛みに耐えながらさらに枕に顔を伏せると、突如、頭上からひどくぶっきらぼうで野太い男の声が聞こえてきた。
「おい、かなり痛がっているようだが? 医者殿、本当にちゃんと治療しているんだろうな?」
「まったく、人聞きが悪い! もう何時間もぶっ続けで高度な魔法治療をしているんですよ!? 今まさに治している最中なんです! 希少な軍用毒の解毒なんて、そんな簡単に終わるものだと思っているんですか!」
「だが、起き上がる気配がないからそう見えるんだろう。もっとしっかり診てみろ、ほら早く。こいつが目を覚ましたら、私には公爵閣下に関して聞きたいことが山ほどあるんだからな」
完全に意識がはっきりすると、その二人の緊迫した会話の内容が鮮明に聞こえてきた。
――え? まさか、あの追っ手たちには捕まっていないの……?
ネリは残された全ての力を振り絞り、横に向かってゆっくりと顔を巡らせた。
「おや、気がついたかね?」
最初に視界に入ったのは、丸縁眼鏡をかけた、いかにも偏屈そうな老医者の顔だった。そしてそのすぐ後ろには、信じられないほど頑強で大柄な男が立っていた。
「おっ、ようやく目が覚めたか!」
後ろで腕を組みながら辛抱強く待っていたその大柄な男――『エボソフ・ベーカリー』の真のオーナーであり、裏の顔を持つロドリゴが、ゆっくりとネリのベッド脇へ歩み寄ってきた。
「うっ……あ、っ」
ネリは慌てて起き上がろうとしたが、そのまま成すすべなくベッドに崩れ落ちた。動いた瞬間、まるで誰かに背中を鋭利な斧で叩き割られたかのような、凄まじい衝撃が走ったのだ。
「へへっ、まだ動かない方が身のためだぞ」
眼鏡をかけた医者――マルコムが、舌打ち混じりに呆れたように言った。そして、ようやく医療器具を片付けて席から立ち上がる。
「ロドリゴ。二時間後にまた包帯を交換しなければならないから、奥のエキネにそう伝えておいてくれ。ひとまず意識は完全に戻ったし、私は地下の調剤室から追加の解毒薬を取ってこよう」
「そうか。マルコム、じゃあ今ならこいつに話しかけても問題ないな?」
「手短にな。二時間後には完全に休ませろ、いいな?」
「バリエット公爵閣下に関わる重大な件だからな、仕方ない。まあ、そのくらいは待つさ」
「お、お話……できます……っ」
ネリはかすれた声を、乾ききった喉から無理やり絞り出した。痛むのは背中だけだったが、身体の水分が枯渇しており、喉もすっかり干からびていた。
マルコム医師は冷淡に首を横に振った。
「背中の傷口が開けば、さらに毒が回って悪化する恐れがあります。できるだけ動かないことだ。完全に体内の毒が中和されるまでは、あまり話しすぎないように。では、失礼する」
マルコムはロドリゴに対して、貴族の当主相手とは思えないほどあまりにも事務的な口調でそう言い残すと、鞄を持って部屋を出て行った。
医者が去っていく短い間に、ネリは持ち前の機転で現在の状況をほぼ整理し終えていた。
ここはエボソフ伯爵家の、厳重に警備された屋敷の中だ。つまり、あの自分を殺そうとした裏切りの連中には捕まってはいないということ。
だが、意識を失う直前まで死守していた『あの証拠の布袋』が、自分の手元から消えていた。今の自分は衣服をすべて脱がされ、全身を清潔な包帯でぐるぐる巻きにされているのだから当然だ。会話の内容から察するに、エキネという女性の配下が包帯を巻いてくれたのだろう。
「はぁ……っ」
ネリは苦労して再び首を巡らせた。すると、じっと自分を観察していたロドリゴと真っ直ぐに目が合った。
がっしりとした熊のような体格に、いかつい印象を与える壮年の男。しかし、なぜかその瞳だけは鷹のように鋭く、平民のネリなど一瞬で押しつぶしてしまいそうなほどの圧倒的な威圧感を放っていた。視線がぶつかっただけで、恐怖のあまり思わず身をすくめてしまうほどに。
この恐ろしい男こそが、この巨大な権力を持つエボソフ家の主人なのだ。
「お辛いようでしたら、無理に今すぐ答えなくとも構いません。我々は容赦のない人間ですが、瀕死の病人を拷問する趣味はありませんのでね」
「だ、大丈夫です。も、もし……私が倒れる前に持っていた、あの袋は……っ」
「ああ、これのことか?」
ロドリゴは、ネリの返答を遮るように、傍らの机から見覚えのあるしわくちゃになった小さな布袋を目の前に差し出した。
ネリは、その瞬間心の底から安堵の溜息を漏らした。
「はい……! ありがとうございます……」
幸いにも、あの命懸けで守った裏切りの証拠は、敵の手には奪われていなかった。これなら、バリエット公爵家へ無事に届けることができる。
ネリは苦労して首を寝かせたまま、ロドリゴの鋭い視線を受け止めた。ロドリゴはネリのベッドの前まで来ると、先ほどまで医者が座っていた丸椅子を引き寄せ、ドカリと重々しく腰を下ろした。
「答えられると言うなら、いくつか重要な質問をさせてもらおう」
「はい」
「まず先に明確にしておくが、我がエボソフ家が追っ手を排除し、君のような素性の知れない娘をわざわざ救ったのは、君が店の前で意識を失う直前、うちの『大切な娘』の名前を必死に呼んだからだ」
娘の名前? ネリには、そんなことを叫んだ記憶は一切なかった。
覚えているのは、最後にドアノブを掴み損ねて、背中に激痛が走って倒れたことだけだ。だが、自分が自覚していない無意識の中で、あの愛らしい『アイカ』という名前を叫んでいたらしい。あるいは、敬愛する『セリア』様という名前だったか。
ネリはカラカラの唾を飲み込み、小さく頷いた。記憶は定かではなかったが、そのおかげで自分の命が繋がったのは紛れもない事実なのだから。
「君の背中に刺さった短剣には、かなり悪質な軍用毒が塗られていた。明日までに完全に我が家の医療魔法で解毒できなければ、間違いなく命を落とすと医者は言っている」
「……あ」
だから、これほどまでに身体が焼き切れそうなほど痛かったのか。今もなお、背中を鋭利な刃で絶え間なくえぐられているような激痛が続いている理由が、ようやく理解できた。
「私の質問に、すべて正直に隠さず答えるなら、先ほどの医者を戻らせて解毒の治療を最後まで完璧に施してやろう。だが、もし一つでも嘘をつけば……私は君をこのまま裏路地へ叩き出す」
低く押し殺した冷徹な声。ネリは思わず身を震わせた。この男は、決して冗談や脅しで言っているようには聞こえなかった。
エボソフ伯爵家の当主であるロドリゴは、貴族社会だけでなく、裏の商人たちの間でも「絶対に敵に回してはならない怪物」としてその名が知れ渡っていた。
まず第一に、若き頃から妻を深く愛する異常なほどの愛妻家・家族思いとして有名であること。
そして第二に、あの強大なバリエット公爵家の人間ですら、軽々しく逆らうことができないほどの実力と経済力、私兵を有していることで知られていた。
特に、彼は『身内』と『それ以外』を狂気的なまでにハッキリと区別する性格で、一度彼の配下や身内と認められれば、これ以上なく頼もしい盾になってくれると言われている。彼が背後にいるだけで、首都のどんな暗い夜道も怖くない――そんな噂を耳にしたことがあるほどだ。
「……はい。すべて、お話しします」
問題は、その『身内ではない相手』に対しては、徹底して冷酷無比になれるということだ。もし自分が、ロドリゴの言う「うちの娘」の名前を口にしていなければ、自分は今頃、あの店の前で死体となって転がっていたに違いない。
「よし。では答えろ。なぜお前が、うちの娘の名前を知っており、あの状況で呼んだ?」
ネリは、自らの人生のすべてを賭けるように、深く覚悟を決めて頷いた。
「バリエット公爵家のアイカお嬢様に、お姉さんの命が危ないから、今すぐここへ来るようにと……事前に伝言(メモ)で行き先を指示されていたのです。私がなぜあの店にいて、なぜ追われていたのか、これからすべて正直にお話しします。ですが、ロドリゴ様、その前に一つだけ、命懸けのお願いがあります」
「言ってみなさい」
「これから私が話す内容を聞いたら……この布袋の中にある証拠を、すべて、今すぐバリエット公爵家へ届けてください。一つも欠かさずに、です。決して、他の誰の目にも触れさせてはなりません」
ネリは残された最後の気力を振り絞り、ロドリゴに向かって、レギア侯爵邸の内部から始まっていた恐ろしい陰謀のすべてを語り始めた。
――今、あの愛らしいアイカお嬢様のすぐ身背後に、恐ろしい死の危険が迫っているということを。
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ネリの死闘とエボソフ家による救出
アイカのメモに従い裏切り者らの追跡を必死に逃れたネリは、目的地『エボソフ・ベーカリー』の目前で背中を毒刃で刺され倒れ込む。しかし、朦朧とする意識の中で「アイカ」の名を叫んだことで、ベーカリーの裏の顔であるエボソフ伯爵家当主ロドリゴに救われ、命懸けで守り抜いた『裏切りの証拠』を奪われずに済んだ。
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アイカの決意と叔父への「予知能力」の告白
嘘が通用しない叔父カッセルから冷徹な追及を受け、大好きな侍女や護衛の更迭を宣告されたアイカは、セリアの助言もあって全てを話す決意をする。カッセルが自分を命懸けで守ってくれると信じ、お母様との約束を破って「自分には未来に起こることが映像で見える呪い(ちから)がある」という真実を涙ながらに告白した。
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ロドリゴの尋問と明かされる公爵家の危機
目を覚ましたネリに対し、ロドリゴは治療の継続と引き換えに「なぜ娘(アイカ)の名を知っているのか」と冷酷に尋問する。ネリはアイカから事前に逃げ道のメモを指示されていた事実を明かし、自分が持ち帰った証拠の布袋をバリエット公爵家へ直ちに届けるよう懇願して、アイカの背後に迫る恐ろしい陰謀の全貌を語り始めた。