こんにちは、ピッコです。
「剣を持った花」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
57話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 秘めた恋心
神暦1629年5月10日。
蒼天騎士団の魔物討伐隊は、北部に位置する「白鴉(はくあ)峡谷」に向けて出発した。
かつてこの地で行われた討伐では、騎士団から多くの死傷者が出た苦い過去がある。その最たる原因は夜間に出現する怨霊、スペクターであった。しかし、スペクターの襲撃以前の段階でも、狂暴な魔物たちとの激戦によってすでに多くの負傷者が発生していた。それほどまでに白鴉峡谷の魔物の汚染状態は深刻を極めていたのだ。
ユリエンは回帰前の記憶をもとに、同じ悲劇を繰り返さぬよう、あらかじめ討伐隊の規模を大幅に拡大していた。
そして、あの忌まわしいスペクターについては、自分自身の手で、一人で対処するつもりだった。
本来ならスペクターの襲撃という混乱がなければ、イアン・ペレットがヴァラハ・イスラフを殺害しようとする決定的な現場を押さえることはできない。だが、いくら犯人を現行犯で捕らえるためとはいえ、罪なき騎士たちを脅かす化け物を野放しにするわけにはいかなかった。
(もしかしたら、状況が変わればあいつも別の方法で事を起こすかもしれない)
ユリエンはそう冷徹に思考を巡らせていた。
5月12日。
白鴉峡谷の麓に到着した討伐隊は、本陣となるキャンプを設営した。
ユリエンはすぐに天幕へと騎士たちを集め、作戦会議を執り行う。
偵察から戻った騎士の報告によると、峡谷内の魔物の数は予想をはるかに上回る密度だという。しかし、ユリエンが事前に戦力を増強していたおかげで、百戦錬磨の騎士たちに焦りの色はなかった。この規模であれば大きな問題にはならない。討伐は極めて順調に進むはずだった。
会議を終え、天幕を出て歩いていると、ユリエンは親友のディートリッヒと鉢合わせた。
ディートリッヒはニヤニヤと意味ありげな笑みを浮かべると、彼を手招きしてきた。
「おいおいユリエン、なかなかいい雰囲気だったぞ?」
「何の話だ」
「お前のスクワイア(エキネシア)とヴァラハだよ。二人で仲良く天幕を張ってたぞ」
「…………」
ユリエンの端正な顔がわずかに強張る。それを隠すように視線を落とし、努めて平然とした口調を装って尋ねた。
「お前から見て、あの二人はお似合いか?」
「まあ、ヴァラハの方は確実に好意を持ってると思うな……それが恋愛感情かどうかまでは分からないけどさ。エキネシアだって別に嫌ってはいないだろ? 一緒に過ごしていれば情も湧くし、そのうち自然と付き合うんじゃないか」
軽い調子で喋りながら、ディートリッヒはこっそりとユリエンの横顔をうかがった。だが、ユリエンの表情は相変わらず氷のように平静なままだ。
そのあまりの動じなさに、ディートリッヒは少し拍子抜けしたように後頭部をかいた。
「おい、お前本当にあの子に興味ないのか?」
「なぜそんなことを何度も聞く」
「だって、お前は俺の一番の友人だぞ。恋愛とか全然しそうにないし、ちゃんと誰かと付き合えるのか心配になるんだよ。お前、本当に大丈夫か?」
「まずは自分の心配をしろ。テレサ卿は、お前が余計なことを言うたびに顔をしかめているぞ」
ユリエンが冷たくあしらうと、ディートリッヒは「へへっ」と笑って胸を張った。
「それも関心の一種だろ、関心! もともと無関心よりはマシだっての」
「……無関心が一番怖いんだよ」
ユリエンの呟きに、ディートリッヒは珍しく真面目な表情を浮かべて、声を低くした。
「だから、お前はずっと様子見を続けるつもりか?」
「……」
「まずは、な。お前は最低でもテレサと肩を並べるくらいの騎士になってから、告白するなり何なりしろよ。お前がマスター(達人)になった後なら、その次は間違いなく騎士長候補だ。今はまだ見習い騎士の立場だし、夢物語に聞こえるかもしれないけどな……」
「夢物語じゃない」
ユリエンは真っ直ぐに親友を見つめ、遮るように言った。
「お前は必ず騎士長になる」
「……へっ、そう言ってくれるだけでもありがたいよ、この野郎」
照れ隠しのように乱暴に笑ったディートリッヒは、ひらひらと手を振りながら自分の天幕へと戻っていった。
ユリエンは静かにその背中を見つめていた。彼は知っている。ディートリッヒが後にレミング騎士団の騎士長になることを。
――そして、その無残な最期までも。
噴水広場の天使像に吊るされた、ディートリッヒとテレサの冷たくなった亡骸。
最悪の光景が脳裏に鮮明によみがえり、ユリエンの胸の奥は鉛を呑んだように重く沈んだ。彼は目を閉じ、静かに首を横に振った。
(レミング騎士団の騎士長になる未来は実現するとしても、その死だけは決して実現させない)
エキネシア・ロアーズが、それを可能にしたのだ。
今の世界は、彼女が血を吐きながら勝ち取った世界。破滅は彼女の望むところではなかったが、この救済の未来は、確かに彼女自身の意志によって生み出されたものだった。
エキネシア。
ユリエンは自陣の天幕へ向かって歩きながら、彼女の太陽のような魂を思い浮かべた。眩しく、力強く、気高い魂。
彼は彼女のそばにいたかった。今度こそ、彼女を支えられる存在になりたかった。
だが現実の彼女は、自分を見るたびに過酷な過去を思い出し、拒絶するように不快そうな顔をする。ユリエンという存在そのものが、彼女の心に重い負荷を与えているのだ。
それでも、彼は彼女を助けたかった。
スクワイアとして生きる彼女を近くで見守り、その些細な変化に一喜一憂しながら、いつか彼女も少しずつ自分を受け入れてくれるのではないか――そんな淡い希望を捨てきれずにいた。
「未練がましいな」
【何のことです?】
脳内で響いた聖剣バルデルギオーサの疑問に答える代わりに、ユリエンは足を止めた。
彼の天幕のすぐ隣には、彼女の天幕があった。薄い布越しに、彼女の微かな気配が伝わってくる。ユリエンはしばらくその天幕をじっと見つめていたが、やがて諦めたように視線を逸らし、自身の天幕へと足を踏み入れた。
灯りもつけず、ただ闇が広がる天幕の中で、ユリエンは簡易ベッドに腰を下ろした。
視線は自然と、彼女のいる方角へと向く。厚い布地で遮られ、何も見えないはずなのに、膝の上で組んだ手からは力なく体温が抜けていくようだった。
彼は心のどこかで、消え去った過去の真実を知る自分だけが、彼女の傍にいる資格を持っているのだと思い上がっていた。
だが、もし自分ではなく別の誰かが彼女の隣に立ち、それによって彼女が孤独や苦しみから救われるのだとしたら――。
自分を見て不快そうにする彼女に、無理に近づく必要などないのではないか。
エキネシアが今最も望んでいるのは、血塗られた過去を完全に捨て去り、新しい人生を穏やかに歩むことなのかもしれない。
ディートリッヒの言う通り、ヴァラハは誠実で温かい男だ。もし彼女がヴァラハに心を開くなら、二人は恋人となり、彼女は本当の幸せを掴むこともできるだろう。
それこそが、彼女にとっての最良の結末なのかもしれない。
実際、ヴァラハと彼女は急速に距離を縮めていた。二人が並んで歩く姿を思い出せば、お似合いだと思えなくもなかった。
「……っ」
それなのに、なぜだろう。どろりとした悍ましい感情が腹の底から鎌首をもたげ、全身の血管を駆け巡っていくような感覚がした。
灯り一つない暗闇の中で、ユリエンはヴァラハに向かって微笑む彼女の姿を想像した。
彼女が心から笑う姿を、自分は一度も見たことがない。だからこそ、あの日騎士団本部の前で、自分を待っていた彼女が一瞬だけ見せた、あの柔らかな安堵の表情を思い浮かべた。
もし、彼女が自分ではない誰かにあの笑顔を向け、その人に手を差し伸べ、肩を並べて歩んでいくのだとしたら。
胸の奥で、今まで経験したことのない激しい衝動が渦巻いた。
誰だって、彼女の気高さを知れば惹かれる。ヴァラハでも、他の誰であっても。あれほど眩しく魅力的な存在なのだから、誰かがエキネシアに心を奪われるのは当然のことだった。
だが、それでも。
彼女が自分以外の男に微笑みかける姿など、死んでも見たいとは思えなかった。
(私の腕の中で、私に向かって笑っていてほしい。彼女を幸せにするのは私でありたい。彼女は……私だけのものであってほしい)
狂おしいほどの独占欲が胸を締めつける。指先が微かに震えた。
【さっきからどうしたのです?】
聖剣が不審そうに問いかけてきたが、ユリエンは答えられなかった。額にかかった前髪を乱暴にかき上げ、深く、重い息を吐き出す。
胸の奥は、まるで飢えた獣のような熱で満たされていた。本能じみた泥臭い感情が、強固なはずの理性を容赦なく押し流そうとしている。
――私が誰よりも彼女を理解している。
――誰よりも彼女のために尽くせる。
――彼女のためなら、この命すら惜しくない。
彼女がどれほど強く、どれほど深く傷ついてきたか。それを知りもしない者が、どうして彼女を本当に幸せにできるというのだ。
だからこそ……あの太陽のような存在は、私の隣にいるべきではないのか。
あまりにも身勝手で、あまりにも理不尽な傲慢。
理性はそれを「狂気だ」と激しく警告している。だが、一度暴れ出した欲望はもう止まらなかった。絡み合い、濁り合い、制御を失っていく感情。
これは何なのだろう。こんな怪物のような醜い感情が、いったいいつから自分の中に潜んでいたのだろうか。
喉の奥が、砂漠のようにひび割れて乾いていた。ユリエンは掠れた声でぽつりと呟いた。
「彼女のことを考えれば考えるほど……おかしくなりそうだ」
ふと、以前ディトリヒにからかわれた言葉が脳裏をよぎる。
『好きな女性の近くに男がいるのが嫌になるとか、あまり親しくされると気に入らないとか、そういうもんだよ』
あの時はその意味が全く理解できなかった。むしろ正気を失った発言だとすら思っていた。
だが、今なら痛いほど分かる。
ディートリッヒは『恋というのはそういう病気みたいなものだ』と笑っていた。
ならば、今の自分は――正気なのだろうか。
「私は……彼女を愛しているのか?」
その呟きに、聖剣バルデルギオーサが「なっ……」と妙な声を上げた。驚きと呆れが入り混じった、何とも形容しがたい声だった。
聖剣はしばらく沈黙した後、信じられないというように問い返してきた。
【まさかお前、今になってようやくそこに気づいたのですか?】
「……どうしてそこまで確信できるんだ」
【お前自身が完全に変わってしまったからですよ】
ユリエンは目を伏せ、自分の手のひらを見つめた。暗闇の中で、聖剣の契約者たる黄金色の紋様が、彼の動揺に呼応するようにかすかに明滅している。
【私は剣ですから、人間の細やかな感情そのものはよく分かりません。ですが、これまで数え切れないほどの人間を見てきた経験から言わせてもらいます】
聖剣は深いため息をついた。
【人間はそう簡単には変わりません。ましてや自分のためではなく、誰か他人のために変わるとなればなおさらだ。私が見てきた長い歴史の中で、人が他人のために本質から変わる理由は――『愛』しかありませんでしたよ】
「変わった……私が?」
【そうだ。なぜ私が『あの娘とは深く関わるな』とお前に何度も警告したと思っているのです?】
聖剣の声には、深い呆れと諦めが混じっていた。
【人は恋に落ちると急激に変わる。どれほど強靭な理性を持つ者であってもな。それがどれほど恐ろしい力なのか、お前はまだ理解していない。正義のために生きていた清廉な人間を、一夜にして復讐に取り憑かれた殺人者へ変えてしまうことすらある。それほどまでに、人の心を根底から支配する感情なのだ】
「……」
【見なさい。お前はもう変わっているし、今も変わり続けている。その理由はすべて彼女だ。お前、以前私に何と言いました? 『変わるのは当然だ』『あの娘を見ても変わらない方がおかしい』と、自分の口で言っていたではないですか。まったく……それが愛でなくて何だというんだ、この愚か者が】
聖剣は呆れ果てたように吐き捨てた。
ユリエンは震える手で額を押さえた。心の中で、混沌とした感情が激しく激突している。この禍々しいまでの執着と独占欲が、本当にただ一言――“愛”という美しい言葉で片付けられるのだろうか。
【だから私は、お前があの娘に深入りしないよう止めたかった。……もちろん、一度たりとも成功したことはないし、今回も完全に失敗しましたがね。だが、誰にも止められないからこそ、それほどまでに強い感情なのです】
ユリエンはしばらく黙り込み、やがて掠れた声で低く問いかけた。
「……彼女を独占したいと、我が物にしたいと思うのも……愛なのか?」
【人間というのは、愛する相手を独占したいと思う生き物でしょう。……まあ、脳内で考えるだけなら自由です。正義に反する犯罪だけはするなよ。私はできれば、お前が天寿を全うするまで私の主でいてほしいんだからな】
聖剣の後半の忠告は、今のユリエンの耳にはほとんど入っていなかった。
この醜い欲望までもが、愛。
自分は本当に彼女を愛しているのだと――長い間、胸の奥で名前の分からなかったどす黒い感情が、ようやく確かな輪郭を持った。
その瞬間、胸のつかえが少しだけ取れたような気がして、呼吸がわずかに楽になった。
だが、冷静になって振り返ってみれば、気づくのがあまりにも遅すぎた。
もし本当に純粋に彼女を敬愛し、彼女の幸せだけを願っていたのなら、彼女が自分を見るたびに苦しそうな顔をする時点で、静かに身を引くべきだったのだ。
しかし、彼にはそれができなかった。
『もう決めたことだから』と自分に言い訳をしながら、スクワイアの任を辞退せず、彼女のそばを離れようとしなかった。彼女を見つめ続け、ヴァラハを教育係に選んだ過去の自分を激しく後悔した。彼女が少しずつ世界に心を開いていると知れば、鏡の前で不器用な笑顔の練習までした。
そして――いつか彼女が、自分を見て微笑んでくれる日を、心の底から渇望していた。
「はぁ……」
己の滑稽さに自嘲するような笑いが漏れた、その瞬間だった。
天幕の入口から、カサリと微かな物音が聞こえた。
入口の布が静かに揺れ、誰かが遠慮がちに中へと入ってくる。
――エキネシア・ロアーズ。
ユリエンの身体が、氷結したようにぴたりと固まった。
彼女の方も、暗闇の天幕の中に誰かがいるとは思っていなかったのか、その場で足を止める。
濃密な暗闇の中、お互いの存在を察知した二人は、完全に言葉を失った。
【……絶妙なタイミングで来ましたね】
沈黙を破ったのは、聖剣の心底呆れたような脳内での声だった。
その言葉でようやく我に返ったユリエンは、慌てて手元を探り、ランタンに火を灯した。
小さな火花が散り、揺れる橙色の光が狭い天幕の中をじんわりと照らし出す。
光に浮かび上がったエキネシアの顔は少し青白かったが、暖かな灯火を浴びたせいか、どこか頬が微かに赤く染まっているようにも見えた。
「エキネシア生徒……」
ゆらめく灯りと、壁に伸びる濃い影の中。
たった今、自分が彼女への歪んだ想いを自覚した直後に、その本人が目の前に立っている。それはあまりにも現実味のない、奇妙な光景だった。
さっきまで考えていた狂おしい欲望を思い返し、ユリエンは一瞬、これが自分の生み出した幻ではないかとすら疑った。
彼女がわざわざ、夜に自分の天幕を訪ねてくる理由など一つも思いつかない。ほんの数秒の間に様々な可能性が頭をよぎったが、どれも現実離れしたものばかりだった。
――例えば、彼女が失われた過去の記憶について、自分に話しに来てくれたのではないか、とか。
一瞬だけ、そんな都合のいい妄想までしてしまった自分に驚き、ユリエンは慌てて視線を逸らした。
だが結局、彼は意を決して再び彼女の瞳を見つめた。
「……どうした?」
エキネシアは深く息を吸い込むと、両手で大切そうに抱えていたものを真っ直ぐ差し出してきた。
「これを、お返ししようと思って……。遅くなってしまって、すみません」
返す? 何を――。
ユリエンは彼女の細い手元に目を向け、数拍遅れてそれが何であるかに気づいた。
それは、あの日騎士団本部の前で、雨に濡れる彼女の肩に掛けてやった自身の黒いマントだった。
彼は無意識に手を伸ばし、それを受け取った。
(……返しに来ただけか。それすら、もうとうに失くしたものだと思っていたのに)
やはり、先ほど頭をよぎった期待はすべて、ただの哀れな妄想に過ぎなかった。ユリエンは丁寧に畳まれた黒いマントを見つめた。本来ならわざわざ返しに来る必要などない、ただの布切れだ。それでも、これを口実にもう一度彼女の顔を見ることができたのだから、悪くはない。
だが――ユリエンはふと気づく。
エキネシアはマントを返し終えたというのに、まだ立ち去ろうとせず、そこに佇んでいた。いつもなら用が済めばすぐに背を向ける彼女が、まだそこにいる。
何か、自分に言いたいことがあるのだろうか。
胸の奥で、消えかけていた微かな期待が再び小さく灯った。もしかすると、マントはただの口実で、本当は別の用件があるのかもしれない。ほんの短い会話でも構わない。些細な質問でもいい。少しでも長く、彼女と同じ時間を共有したかった。
つい先ほどまで『諦めて身を引くべきだ』と考えていたくせに、本人が目の前に現れただけで、もう新しい期待を抱いている。ユリエンは自分自身の浅ましさに呆れながら、視線を伏せた。緊張で肌が張りつめる。何度か言葉を選びかけては飲み込み、迷った末に、ようやく静かに尋ねた。
「……本当に、これを返しに来ただけなのか?」
「……はい」
エキネシアの返事は短く、素っ気なかった。
その瞬間、胸の中で膨らんでいた淡い期待が、音を立ててしぼんでいく。自分はいったい何を期待していたのだろう。その情けなさに苦笑しかけた、まさにその時だった。
エキネシアが、何かを思い出したように慌てて言葉を続けた。
「あ、それと……前にいただいた薬と生姜茶……ありがとうございました」
「……あれは、役に立ったのか?」
「はい。とても助かりました」
ユリエンは思わず顔を上げた。
彼女の表情が、微かに柔らかく緩んでいた。
ほんの些細なことかもしれない。けれど、自分のした行動が、確かに彼女の役に立ったのだ。その事実だけで、ユリエンの心は十分すぎるほど満たされた。
先ほどまで濁っていた気持ちが、一気に嘘のように軽くなる。気づけば、自然と口元が緩んでいた。
鏡の前で何度も練習した、あの不自然な笑顔ではない。作ろうとしなくても、胸の奥から勝手に溢れ出てくる本物の笑みだった。彼女の前では、驚くほど自然に笑うことができた。無理に作る必要などなかったのだ。ただ、心のままにしていればよかった。
エキネシアはそのユリエンの笑顔に、一瞬だけ吸い込まれたように見入っていたが、はっと我に返ったように素早く視線を逸らした。
「失礼します、団長。では私はこれで」
「エキネシア生徒、少し待ってくれ」
ユリエンは思わず、彼女の後ろ姿を呼び止めていた。思わず肩に手を伸ばしかけたが、彼女が足を止めて振り返ったのを見て、慌てて手を引っ込める。
呼び止めたはいいものの、次に何を話すべきかまでは考えていなかった。ただ、もう少しだけ、彼女と一緒にいたかった。焦る頭で必死に話題を探し、ようやく絞り出すように口を開く。
「君は……魔物と戦ったことがあるか?」
「ない、とは言い切れません」
どこか曖昧な返答だった。ユリエンは小さく息を吐いた。
聖騎士としての記憶の中にいるエキネシアは、時が経つほど魔物への対処に見事な冴えを見せていた。だが、歴史の表舞台を見る限り、今の彼女が正規の対魔物教育を受けた形跡はどこにもない。
「そうか」
彼はしばらく考え込み、静かに言葉を続けた。
「近いうちに、魔物について学ぶ機会があれば、積極的に参加した方がいい」
エキネシアは不思議そうな顔をして小首をかしげた。
「何か、理由があるんですか?」
「……ただの助言だ」
本当の理由は、口が裂けても言えなかった。
彼女がこれから先、数え切れないほどの過酷な危機に立ち向かうことになるということを。そして、その知識がいつか彼女自身の命を救うかもしれないということを。
ユリエンは彼女の戦い方を見れば分かった。彼女の魔物への対処法は、教本や安全な講義で学んだものではなく、すべて血の滲むような実戦の中で、身を以て掴み取ったものだ。そして、実戦で得る知識には、たいてい深い傷が伴う。
「魔物には特殊な性質を持つものが多い。人間を相手にするのとは勝手が違うんだ。そうした知識は、これまでに学んだことはあるか?」
「……多少なら」
学んだことなどないはずだ。だが、彼女はそう答えるしかなかったのだろう。ユリエンは胸の奥に湧き上がる不安をどうにか押し殺した。そして、話題を切り替えるように、これからの討伐隊の予定について簡単に説明した。
だが、会話の最後になって、どうしても抑えきれない本音がポロリと漏れてしまう。
「君の剣の腕は疑っていない。だが……魔物というものは、常に予測できない動きをする存在だ。できるだけ……私の近くを離れないでほしい」
それは上官としての命令ではなく、一人の男としての、懇願に近い願いだった。
エキネシアは少し驚いたように、ぱちくりと目を瞬かせた。彼女はジェニスの剣士であり、現在の段階でも普通の騎士よりはるかに強い。だからといって、決して無敵ではないのだ。ユリエンは、もう二度と彼女が傷つき、血を流す姿など見たくなかった。
エキネシアが振り返り、まっすぐに彼を見つめて尋ねた。
「私の剣を疑っていない、とおっしゃるのですか? 私が剣を使うところを、ご覧になったことがあるのですか?」
彼女の透き通る瞳が、微かな不安に揺れていた。
しまっ、た。とユリエンは内心で激しく動揺した。彼女の実力を知っているなど、今の時点では知らないふりをしていなければならなかったのに。ユリエンは内心で自身の軽率さを責めながら、とっさに頭を回転させて言い訳を紡いだ。
「君が生徒選抜試験を受けた時、遠くから直接見ていたんだ。それに、今回の順位戦の結果もすべて報告を受けて知っている。君は……非常に優秀だ」
これで納得してくれただろうか。彼は落ち着かない気持ちで、じっと彼女の様子をうかがった。
エキネシアはしばらくの間、沈黙を守っていたが、やがて静かに頭を下げた。
「高く評価していただき、ありがとうございます」
「それでも、気をつけてくれ。魔物は人間とは違う」
「はい。気をつけます」
どうやら、うまくごまかせたらしい。ユリエンはようやく胸の奥で安堵の息を漏らした。
ユリエンは再び彼女と目を合わせた。視線が重なった瞬間、自身の胸の鼓動が急激に速くなるのがはっきりと分かった。
ランタンの炎の光を受けて、ほんのりと赤みを帯びた彼女の頬。吸い込まれそうなほど淡く美しい瞳。陶器のように白い肌。
見つめているうちに、どうしてもその肌に触れたいという衝動がせり上がり、彼は自制するために一歩、後ろへと下がった。
本心では、たとえ中身のない無意味な会話であっても、このまま一晩中続けて彼女のそばにいたかった。だが、これ以上この距離にいれば、己の歪んだ欲望が漏れ出し、もっと決定的な失敗をしてしまいそうだった。
「では、天幕に戻ってゆっくり休むといい」
「ですが、団長様」
去ろうとする彼を、彼女の声が呼び止めた。心臓がドサリと落ちるかと思った。
ユリエンが言葉を失ったまま振り返ると、エキネシアは微かに唇を軽く噛んでから、不思議そうに尋ねてきた。
「どうして天幕に戻られたのに、灯りもつけずにいらしたのですか?」
答えようのない質問だった。
暗闇の中で、ずっと君のことを考えながら、
『君が私のものならよかったのに』
『君を持つ資格があるのは私だけではないか』
そんな狂気じみた独占欲に身を焦がし、ようやく自分が君を愛しているのだと気づいたばかりなのだから――灯りをつけることすら、完全に忘れていたのだ。
だが、さすがにそんな真実を口にできるわけがなかった。ユリエンが黙り込んでいると、エキネシアは申し訳なさそうに眉をひそめた。
「もしかして……私が眠ろうとしていたところを邪魔してしまいましたか?」
「……いや、眠るつもりではなかった。だから気にしなくていい」
彼を見つめる彼女の瞳には、何の特別な色も、熱い感情も見えなかった。自分の中で今なお激しく渦巻き、狂いそうなほどの欲望とは、あまりにも対照的なほどに静かだった。
ユリエンはそれ以上彼女と視線を合わせ続けることができず、静かに背を向けた。
エキネシアが天幕を出て行くその足音が完全に消えるまで、彼は二度と振り返らなかった。
翌日、本格的な魔物討伐が開始された。
ユリエンはエキネシアの卓越した実力を誰よりも信じていた。それでも、彼女を心配する気持ちだけは、どうしても理性で抑え込むことができなかった。
過保護で馬鹿げた心配だと自嘲しながらも、戦闘中、彼の意識は何度も後方に控える彼女の気配へと向かってしまっていた。
しかし、戦いが進むにつれて、ユリエンは改めて彼女の才能に深い感嘆を抱くことになる。
今の人生において、彼女は誰かの補佐(スクワイア)をする経験など一度もないはずだった。それなのに、彼女は完璧かつ一分の無駄もなく、ユリエンの動きを完璧に支援していたのだ。
これまでユリエンは、騎士団の順位に応じて入れ替わる臨時のスクワイアを何人も背後につけてきたが、エキネシアのような極上の存在は初めてだった。
背後を気にする必要が全くないほど完璧で、まるで一人で戦っているのと変わらないほどに身体が軽い。もし彼の意識が最初から彼女に向いていなければ、後ろに補佐がいることすら忘れて戦闘に没頭していただろう。
(……やはり、彼女と全力で剣を交えたい)
高潔な騎士としての純粋な欲求が、再び胸の奥で激しく燃え上がった。
男として激しく求める相手と、一人の騎士としてその実力を認め、刃を交えたいと渇望する相手が、全く同じ存在だなんて。男としても騎士としても、これほどまでに切実で狂おしい願望を抱いたのは、彼の長い人生において初めてのことだった。
だが、そのどちらの想いも、今は決して表に出すことは許されない。
彼女は今も自分を避けているうえに、自身の本当の実力を周囲に隠している。さらに彼には、いつか時が来れば、彼女へ告白しなければならないという重大な制約もあった。
手を伸ばせばすぐに届く至近距離にいる最愛の相手を前にしながら、まるで頑丈な鎖に繋がれた飢えた獣のような、猛烈なもどかしさに苛まれていた。
(参ったな……)
ユリエンは胸の内のやりきれない感情を、手にする魔剣ランギオーサへとぶつけるように叩き込んだ。
主の激しい感情に応じるようにマナが怒涛の濁流となって流れ込むと、それをさらに煽るように、脳内で魔剣の魂が震えながら邪悪に囁いた。
【ククク、今ならもしかして『火葬』を……いや、魔物相手なら火葬で消し炭にしても問題ないな! 主よ、この機会にすべてを一掃してしまえ!】
魔物の生息地へ向かって容赦なく進撃を続けていたユリエンだったが、正午が近づく頃、一度討伐隊の進軍を停止させた。
騎士たちに食事と休息の時間を与え、ユリエンは一人、静かに空を見上げた。
混乱する自身の心情とは裏腹に、回帰前と同じ悲惨な惨事は確実に防がなければならない。
記憶が確かならば、不気味な怨霊スペクターが現れるのは「今夜」だった。そして、日が暮れる頃から徐々に雨が降り始め、夜が更ける頃には世界を塗りつぶすほどの激しい豪雨になった記憶がある。
重い泥色の雲に覆われ始めた空を見る限り、今回も予想通り天候は崩れるだろう。
スペクターをキャンプ付近に絶対に近づけないつもりではあるが、万が一の奇襲に備えて、今のうちに討伐隊員たちの体力を最大限に温存しておく必要があった。
(……一度、キャンプへの帰還を命じなければな)
そう考えながら視線を地上へと戻した瞬間、近くにいたエキネシアとばったりと目が合った。
彼女もまた、ユリエンの動きに倣うように不穏な空を見上げており、今夜激しい豪雨になることを野生的な直感で予測したようだった。
だが、次の瞬間。
エキネシアの透き通る瞳が、信じられないものを見たかのように大きく見開かれた。
まばたきすら忘れたように固まったまぶたの下で、その瞳が激しく動揺に揺れている。彼女の全身が恐怖に打たれたように硬直したかと思うと、次の瞬間には、小刻みにガタガタと震え始めたのだ。
その異常な反応が意味することは、ユリエンの目には明らかだった。
彼女は、今のユリエンの「空を見上げ、天候を警戒して休息を命じる」という一連の行動を見て、何かに気づいたのだ。
(まさか……エキネシア、私に回帰前の記憶があることを悟ったのか? 私が、今回の魔物討伐で今夜起きる出来事をあらかじめ知っていると気づいたのか……? この時期の彼女はまだ、あの残酷な悪夢に苦しめられているはずなのに、どうして……!?)
ユリエンの胸に激しい動揺が走る。彼は自身の動揺を隠し、彼女の追及するような視線から逃れるように、すぐさま周囲の騎士たちへ大声でキャンプへの帰還命令を下した。
そして、その場に幽霊でも見たかのように呆然と立ち尽くしている彼女の元へと静かに歩み寄り、その華奢な肩をそっと叩いて、極めて穏やかな上官の声を向けた。
「エキネシア生徒。ご苦労だった。一度キャンプへ戻って、天幕でゆっくり休むといい」
彼女からの返答はなかった。
その際、ユリエンの指先に微かに触れた彼女の肌は、まるで氷のように冷たく冷え切っていた。
(……確信したのだろうか?)
底知れない不安が、ユリエンの胸を容赦なく締めつける。
(……それとも、ただ疑い始めただけなのだろうか?)
今の彼には、彼女の沈黙の真意をどうしても判断することができなかった。
だからこそ、これ以上彼女の前でどう振る舞うべきなのかも分からず、ただ冷え切った自陣の闇へと戻るしかなかった。
-
ユリエンの秘めた恋心と葛藤
白鴉峡谷への討伐中、ユリエンは親友との会話や自身の過剰な反応から、エキネシアに対して抱いていた感情が「愛」であり、激しい独占欲に満ちていることにようやく気づく。
-
マントの返却と束の間の安らぎ
エキネシアが以前借りたマントを返しにユリエンの天幕を訪れ、その短い会話の中で彼女が無事に薬を使っていたことや、彼女を案じるユリエンの不器用な優しさが交わされる。
-
高まる疑念と動揺
翌日の魔物討伐中、ユリエンが天候の急変を予見して休息を命じた際、その行動を見たエキネシアが強い動揺を見せ、ユリエン自身も彼女に「回帰前の記憶」が気づかれたのではないかと激しい不安に駆られる。