こんにちは、ピッコです。
「抱かれるたびに泣くくせに」を紹介させていただきます。
ネタバレ満載の紹介となっております。
漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。
又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
27話 ネタバレ
登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。
- 美しき人形の消えた部屋
大公邸の正門が、重々しい音を立ててゆっくりと開いた。
エーリッヒは険しい表情のままロビーを横切った。今の彼には、周囲の景色など何一つ目に入らない。皇帝から呼び出しを受けたという連絡はあったが、それよりも今すぐ確かめなければならないことがあった。
衣装店で耳にした話――母の巧妙な嘘が本当なのかどうかを。
「アルフォンス!」
エーリッヒは怒鳴るように執事を呼んだ。嵐のような勢いで戻ってきた主人の声に、アルフォンスは慌てて駆け寄る。
「お帰りなさいませ、殿下」
「母上はどこだ?」
「応接室にいらっしゃいます」
アルフォンスの返事を聞くや否や、エーリッヒは階段を駆け上がった。ロビーにいた使用人たちは、不安そうに顔を見合わせる。何が起きたのかは分からない。だが、大変なことが起ころうとしているのは明らかだった。大公が夫人の応接室へ向かう背中からは、凍りつくような殺気が漂っていた。
バンッ!
扉が勢いよく開くと、ヘレナは驚いて立ち上がった。彼女は眉を大きくひそめながら、ぎこちない笑みを浮かべた。
「まあ、エーリッヒ。もう帰ってきたのね」
「なぜ、あんなことをしたのですか?」
エーリッヒは母の挨拶には答えず、冷たく問い詰めた。その鋭い口調に、ヘレナはびくりと肩を震わせ、落ち着きなく視線を泳がせる。
「な、何のことについて言っているの?」
ヘレナには、エーリッヒが何について問いただしているのか分からなかった。だからこそ、心臓は激しく脈打つ。後ろめたいことが、あまりにも多すぎたからだ。
クレセンティアにわざと傷んだスープを食べさせたこと。
粗末なお守りを無理やり身につけさせたこと。
毎朝、彼女のシーツを取り替えさせていたこと。
そして――大公妃の衣服を制限していたこと。
「大公妃には新しいドレスなど必要ない、と。何のためらいもなく嘘をついていたそうですね」
エーリッヒは目を細め、ヘレナを鋭く見据えた。母へ向けるその瞳には、燃え上がるような憎しみが宿っていた。
「母上が衣装店の店主に話していたことは、すべて聞きました」
エーリッヒはヘレナを射抜くような視線で睨みつける。
「大公妃にカタログを送っても、『目も通さず捨ててしまう』とおっしゃっていましたね。身分が上がって贅沢を覚えてしまうから、送らないでほしい――そうおっしゃっていましたよね」
エーリッヒの追及に、ヘレナの顔はみるみる青ざめた。
「そ、それをどうしてあなたが……」
「これまでティアがレギナから持ってきた服しか着ていなかったのは、母上のせいだったのですか?」
エーリッヒは歯を食いしばりながら問い詰めた。
ヘレナはこれまで、クレセンティアがレギナのドレスしか着ようとしないのだと彼に訴えていた。それが、エーリッヒや帝国を軽んじる態度なのだと。エーリッヒはクレセンティアの意思を尊重しつつも、どこか寂しさを感じていた。彼女が、完全に自分の伴侶になることをためらっているように見えたからだ。
それがすべて、ヘレナの仕組んだことだったとは。
「答えてください」
「全部、あなたのためだったのよ!」
追い詰められたヘレナは、半ばやけになったように叫んだ。顔をしかめながら、必死に言葉を続ける。
「レギナから持ってきた服だけでも、ドレスルームはいっぱいだったじゃない! 大公妃が贅沢ばかりする姿なんて、周りに見せるわけにはいかなかったのよ!」
「……」
「本当よ! 全部あなたのためだったの! だから、その……ザンダー家のティーパーティーにも質素な格好で参加できたのよ! あなたも覚えているでしょう?」
ヘレナの必死な弁明を聞いたエーリッヒの表情は険しく歪んだ。あまりにも身勝手な理屈だった。彼は冷たく笑った。誰のおかげで、誰がザンダー家のティーパーティーに質素な装いで出席しなければならなかったというのか。話せば話すほど、あきれるばかりだった。
冷ややかな視線でエーリッヒはヘレナを見つめた。それなら、クレセンティアがザンダー家へ行くとき、見栄えのしない宝石を身につけていた理由も、まさか――。
「まさか、宝石まで取り上げていたのですか?」
「そうするしかなかったのよ」
ヘレナは恐怖に震えながらも、何度もうなずいた。自分のしたことは間違っていなかったと、本気で思っているようだった。
「考えてみなさい。ガドゥク家や保守派が、あなたの足を引っ張ろうと必死なのに、クレセンティアが贅沢なんてしていたら……」
「『クレセンティア』ですって?」
ヘレナの言い訳を黙って聞いていたエーリッヒの目が鋭く光った。彼は獣のように歯を食いしばり、母親を厳しく問い詰めた。
「今、王女殿下をそのように呼び捨てになさったのですか? まさか、あの方を見下していたのですか?」
「ひっ……!」
ヘレナは、恐怖に満ちた息子の鋭い眼差しに怯え、身をすくませた。
エーリッヒはこれまで、彼女にとってどこまでも優しい息子だった。彼は生まれながらに背負った罪を償うかのように、自分の身を削って働いてきた。そして、その稼ぎでヘレナの贅沢な暮らしを支えてくれていた。そんな息子が今、自分を食い殺さんばかりの勢いで問い詰めている。
「私のいないところでは、ティアをあんなふうに扱っていたのですか? 本来なら、私たちなど到底及びもつかないような方に対して!」
「仕方がなかったのよ!」
ヘレナは取り乱して叫んだ。弱々しく見せようとしながら、泣き崩れる。
「あなたの言うとおり、あの方は王族でしょう! 私がきちんと威厳を示さなければ、私たちを軽く見るようになるに決まっていたじゃない! だから私は姑として――」
「ティアはどこにいるのですか?」
エーリッヒはヘレナの言葉を遮って問いかけた。もう、こんな理屈にもならない言い訳を聞いていたくはなかった。
頭がくらくらした。
エーリッヒは、クレセンティアが何不自由なく暮らせるよう、十分な環境を与えてきたと誇りに思っていた。だが、それはすべて偽りだった。クレセンティアが同じドレスを何度も着回していたことも、質素すぎる宝石しか身につけていなかったことも。すべてヘレナの仕業だった。そのうえ、徹底的に彼女を虐げていたとは。実の母親でありながら、なんという人間なのだろう。
「エーリッヒ! どこへ行くの!? エーリッヒ!」
エーリッヒはヘレナを無視して背を向けた。
彼は屋敷へ戻る途中でデイビッドから受けた報告を思い出していた。今日、クレセンティアは神殿から戻ったあと、フロリアンと会い、その後はずっと寝室で過ごす予定だという。
彼はためらうことなく主寝室へ向かい、勢いよく扉を開けた。しかし、そこで自分を待っているはずの金髪の女性の姿はなかった。
エーリッヒは呆然とした表情で部屋を見回した。
「ティア……?」
美しく整えられた寝室は、もぬけの殻だった。
『エーリッヒ・フォン・フェテレ様へ。
クレセンティアです。
あなたに最後の手紙を書きます。
今まで私が書いた手紙は捨てても構いません。でも、この手紙だけは必ず読んでください。これが、私たちの本当の最後ですから。
私はもう、あなたのそばにいることができません。
あなたのことを何も知らなかった頃は、もっとあなたを知りたいと思っていました。でも今は、知りすぎてしまいました。
エーリッヒ。あなたは、とても残酷な人です。
できることなら、あなたと出会う前に戻りたい。でも、それは叶いません。
だから、せめて書類の上だけでも私たちの関係を終わらせることにしました。
離婚届には、すでに私が署名してあります。あなたが空欄に署名して裁判所へ提出すれば、あなたも私も自由になれます。離婚の条件を満たせなかったので、慰謝料は放棄します。私の持参金も返していただかなくて結構です。あなたの手が少しでも触れたものだと思うと、もう受け取りたいとは思えないからです。
最後に、一つだけお願いがあります。
どうか私を探さないでください。そして、私のことは忘れて生きてください。私もそうしますから。二度と偶然であっても、あなたと会うことがありませんように。
さようなら。
追伸。
あなたからもらった一番大切なものは、そのまま置いていきます。燃やすも捨てるも、あなたの好きになさってください。
――クレセンティア・ド・ロドヴィニ
帝国暦254年2月3日』
黄金色の瞳が、太陽のように激しく揺れた。
象牙色の便箋を握る男の手の甲には、青筋が浮かび上がっていた。エーリッヒは強く唇を噛みしめ、目を閉じた。そして、もう一度手紙を読み返した。
――二度と偶然であっても、あなたと会うことがありませんように。さようなら。
「……はは」
何度読み返しても、文字が変わることはなかった。エーリッヒは苦しげに息を吐き、手紙のそばに置かれていた品へと視線を向けた。
エーリッヒは空いていた手で、彼女が残していった品を手に取った。
クレセンティアが「一番大切なもの」と言っていたのは、宝石箱の上に丁寧に置かれていた一枚のハンカチだった。
『これを、ずっと大事に持っていたのか……?』
それが自分のハンカチだと気づいたエーリッヒは、眉をひそめた。
今ではもうはっきり思い出せない、帝国博覧会の日。あのテロ事件の現場で、彼は彼女にこのハンカチを渡したのだった。その後、叙勲式の日。クレセンティアはハンカチを返そうとした。しかし彼は、それを彼女に持っているよう勧めた。
エーリッヒは震える目でハンカチを広げた。濃紺のハンカチには、銀糸で彼のイニシャルである「E」が刺繍されていた。その刺繍は、クレセンティアが自ら縫ったものだった。
『いつの間に、こんなことまで……』
エーリッヒは指先で、そのイニシャルをそっとなぞった。
これだけではなかったのだろう。クレセンティアは、彼の知らないうちに、あちこちへ自分の想いをそっと込めていたに違いない。その想いを受け止めてくれる人が、彼女のそばにはいなかった。だからこそ、彼女はあまりにも孤独だった。
「なんてことだ……」
エーリッヒがハンカチを見つめていると、背後から耳障りな声が響いた。
「逃げたですって!? 一体どういうことなの!」
慌てて駆け込んできたヘレナは、もぬけの殻となった部屋を見て狼狽した。彼女は化粧台やクローゼットの引き出しを次々と開けながら、安堵したように言った。
「よかった、盗まれた物はないのね。少しは良心があったみたい。自分の物だけ持って行ったのなら……まったく、王族ともあろう者が、こんなみっともない真似をするなんて!」
「……」
「心配しないで、エーリッヒ。この母がちゃんと大公妃の生活費を管理していたのよ。フェテレ大公家から大公妃へ渡るお金は、一銭たりとも無駄には――」
「何を管理していたんです?」
まるで別人のような冷たい表情を浮かべたエーリッヒは、その言葉に食ってかかった。彼はヘレナを壁へ押しつけ、低い声で問い詰めた。
「今まで私がティアに渡していた生活費を、母上が管理していたというのですか?」
「え、エーリッヒ……一体あなたは……」
「私がいなかったら、今ごろあの王女は何もかも失っていたのよ! 落ち着いて、冷静に考えなさい……」
「そのほうが、まだよかった」
ヘレナを射殺さんばかりの目で見つめていたエーリッヒは、深いため息をついて首を振った。
「そのほうが、少しは罪悪感も軽かった」
エーリッヒはクレセンティアが何不自由なく暮らせるよう、皇族の内帑金(皇室費)に匹敵するほどの生活費を彼女へ渡していた。だから、彼女を孤独にしても、ひとりにしても、どこかで安心していた。金さえあれば、寂しくも悲しくもないだろうと。
エーリッヒは金で罪悪感を埋めることができた。金で彼女の愛情を当然のように求めることさえできた。
だが実際には、その金も、その厚意も、すべて見当違いの場所へ流れていた。肝心のクレセンティアは、エーリッヒから何ひとつ受け取っていなかった。
「母上の全財産を没収します」
エーリッヒは冷ややかに言い放った。その命令に、ヘレナは口をあんぐりと開けた。エーリッヒは冷淡な表情のまま、母を冷たく見据えた。愕然とする彼女を見るその目には、同情も慈悲もなかった。
「私、エーリッヒ・フォン・フェテレは、フェテレ家当主として、ヘレナ・フォン・フェテレを追放する」
「エーリッヒ!」
ヘレナは息子にすがりついて叫んだ。しかしエーリッヒは母を冷たく振り払い、そのまま言葉を続けた。
「今すぐエバルトへ戻ってください。外部との接触も禁止します。私が許可するまでは、屋敷の最低限の維持費だけで生活してください」
「そんな……!」
ヘレナは、まるで死刑宣告を受けたかのような悲鳴を上げた。
フェテレ家の領地であるエバルト公爵領は、帝国北部でも特に湿気が多く、荒涼とした土地だった。エバルトは真夏でさえ厚い雲に覆われ、太陽が顔を出す日はほとんどない。まして今は冬だ。厳しい寒さは言うまでもなかった。
そのため、フェテレ一族は皆、帝都ボレンで暮らしていた。エバルトの屋敷は最低限の維持しかされておらず、「氷の城」とまで呼ばれていた。しかも、その屋敷の最低限の維持費だけで暮らせというのだから、そのほとんどが建物の修繕費に消えてしまう。残る金など雀の涙ほどだ。そんな金で、まともに三食を食べられるはずがない。
要するに、帝都で贅沢な暮らしに慣れきっていたヘレナにとって、それは「死ね」と言われるのと同じだった。
「お母様が悪かったわ! お願いだから、エバルトだけは……!」
「……母上」
必死に両手をこすり合わせて懇願するヘレナを見つめながら、エーリッヒは冷たく笑った。その無情な眼差しに、ヘレナは思わず言葉を失う。エーリッヒは静かに口を開いた。
「もう結構です。見苦しい」
「エ、エーリッヒ……お願い……」
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「そこで大人しく反省していてください」
そう言い残すと、エーリッヒは廊下を警備していたリーナスたち騎士を呼び寄せた。騎士たちに連行されていくヘレナの悲鳴が、公爵邸中に虚しく響き渡った。
「お母さん! 私の帽子!」
茶色の髪をおさげに結んだ少女が、必死に叫びながらぴょんぴょん跳ねた。
薄いピンク色のリボンがついた帽子は、港から吹く風に乗ってひらひらと舞っていた。糸で吊られているかのようにあちこちへ飛ばされていた帽子は、一人の女性の足元へ落ちた。
頭にスカーフを巻いた女性は帽子を拾い、持ち主を探した。
「この帽子、あなたの?」
「はい! ユリアのです!」
帽子を受け取ってお礼を言おうとした少女と女性の目が合った。女性を見つめた少女は、ぽかんとした顔で小さくつぶやいた。
「……天使様?」
「私が天使に見えるの?」
「教会の壁画で見た天使様みたいです」
少女は頬を赤らめながら答えた。女性は目を輝かせる少女に帽子をかぶせ直し、優しく微笑んだ。
「ありがとう。あなたも天使みたいね」
「えへへ、はい……」
少女が照れくさそうに返事をしたその時、後ろから慌てた女性の声が聞こえてきた。
「ユリア! ユリア!」
「あっ、お母さん!」
「早く行きなさい。お母さんが探しているわ」
母親を見つけた少女は、くるりと振り返った。小走りで駆け出した少女だったが、何かを思い出したように振り返り、女性へ向かって手を大きく振った。
「ありがとうございました!」
「元気でね」
クレセンティアは少女に優しく微笑み、手を振り返した。
カロラ海を渡る間ずっと張り詰めていた心は、陸地に足を踏み入れた瞬間、不思議と安らいでいた。レギナで暮らしていた頃は気づかなかった。この故郷の空気には、どこか温かく、懐かしい香りがあることを。
真冬でもどこかぬくもりを感じる風、つぼみをつけた街路樹、穏やかに母親と手をつないで歩く少女――。そんな何気ない日常の風景が、クレセンティアの心を優しく温めてくれた。
「お、お嬢様……ティア様、こちらにいらっしゃったのですね」
クレセンティアを見つけたヒルダは、ほっとした表情を浮かべた。そして、クレセンティアに小さな切符を二枚手渡した。
「チェカレリまで行く馬車の切符を買ってきました」
「ありがとう、ヒルダ」
クレセンティアは穏やかに微笑み、切符を受け取った。
王朝が変わっても、レギナでは昔ながらの保守的な暮らしが続いていた。そのため、帝国とは違い、人々は自動車よりも馬車を利用することを好んでいた。
クレセンティアは港前の通りを見渡した。車はほとんど見当たらず、のどかな風景が広がっていた。
「お腹が空いたでしょう? 馬車に乗る前に何か食べましょう」
「そうね」
クレセンティアはヒルダの提案に素直にうなずいた。遠くに見える王宮の屋根を見つけた彼女は、頭に巻いたスカーフにそっと触れた。
「チェカレリに着くまでは気をつけないと」
クレセンティアは、シェラの墓があり、なおかつエーリッヒが捜索対象から外すよう指示していたチェカレリを目的地に選んだ。チェカレリは港から馬車で約二時間ほどの場所にある田舎町だった。人里離れた土地だけに、身を隠すにはうってつけの場所だった。
クレセンティアは高鳴る胸にそっと手を当てた。レギナの地を踏んでいることも、エーリッヒのもとを離れたことも、まだ現実味がなかった。今にも彼が突然現れて、自分を連れ戻してしまうような気がした。
ペテレ大公邸を抜け出すのは、思っていたよりずっと簡単だった。
クレセンティアはヒルダが用意してくれたメイド服に着替え、ボンネットで髪をしっかり隠した。そしてヒルダの付き添いのメイドを装い、何事もなく屋敷を出ることができた。こんなにもあっさり抜け出せるなんて、これまで必死にもがき続けてきた日々が、むなしく思えた。
屋敷の外へ出ると、クレセンティアは普段着に着替え、スカーフで髪を包み隠した。厳しい寒さのおかげで、頭をしっかり覆っていても不審に思う者はいなかった。
エーリッヒが屋敷へ戻るのは日が暮れてからだ。彼がクレセンティアの失踪に気づく頃には、すでに手遅れだろう。彼が手紙を読み終える頃には、彼女はもうカロラ海を渡っているはずだった。
『どうせ、あなたは私を探さない』
クレセンティアは苦笑した。エーリッヒは彼女を愛しても、大切にしてもいなかった。その事実を認めて去ることにしたというのに、心は少しも軽くならなかった。
失うものはもう何もない。すべてを失ったのだから、これ以上何を恐れる必要があるというのだろう。
エーリッヒはクレセンティアが勝手に姿を消したと知れば、腹を立てるだろう。でも、それでどうしたというの? それで終わりだ。
エーリッヒの執着や独占欲は、やがて別の誰かへ向かう。彼が執着していたのは、クレセンティアだからではないのだから。フィリピナであろうと、誰であろうと、新しい相手が現れる。そして彼はまた、その新しい相手を欺こうとするだろう。彼から逃れた今、それはもう彼女の運命ではなかった。彼女は自由になったのだ。
「まずは質屋へ寄りましょう、ヒルダ」
クレセンティアはヒルダの腕に自分の腕を絡め、明るく言った。
ヘレナが倉庫の鍵を持っていたため、最高級の宝石は持ち出せなかった。それでも、庶民として暮らすには十分すぎるほどの宝石は持ってきていた。質屋で宝石を換金すれば、少なくとも数年間は不自由なく暮らしていけるはずだった。
クレセンティアは、これからは静かに暮らしていきたかった。
そして、いつか人々に忘れられる存在になりたかった。
「ああ、昔、没落した王朝の王女がいたらしい」
そんなふうに、何気ない会話の話題として軽く語られるだけでいい。誰にも消息を知られない、過去の人として。
コンコン。
執事は険しい表情で扉をノックした。中から返事が返ってくるのを待つ間にも、彼の指先は冷たく凍えていくようだった。
「入れ」
静寂の中、低く沈んだ声が響いた。主人の許可が下りると、執事は息を整えて扉を開けた。
(今日も徹夜されたのですか……)
執務室へ入ったアントンは、主人の顔を見るなり眉をひそめた。大公妃が姿を消して以来、大公は眠っていなかった。ただ執務室にこもって仕事を続けているだけではない。夜になると寝室へは戻っていた。しかしアルフォンスの話によれば、ベッドで眠っているわけではないという。
彼は大公妃のドレスルームに閉じこもり、朝になるまで出てこなかった。そこで何をしているのかは、誰にも分からない。もちろん、誰もあえて尋ねようとはしなかった。
大公妃が姿を消して以来、使用人たちは大公の機嫌をうかがいながら過ごしていた。フロリアンも、さらには皇帝でさえも、彼の様子に気を配っていた。エーリッヒがクレセンティアに異常なまでに執着していることを、皆が知っていたからだ。
しかし人々の心配とは裏腹に、彼は怒りを爆発させることはなかった。したことといえば、公爵夫人をエバルトの「氷の城」へ追放したくらいだった。
エーリッヒは落ち着いていた。クレセンティアが没落していた頃と比べれば、むしろ穏やかに見えるほどだった。
だが、それはあくまで表面だけだった。
エーリッヒは、少しずつ確実に壊れていっていた。
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ヘレナの悪行の露見と「氷の城」への追放
エーリッヒは衣装店での噂から、ヘレナがティア(クレセンティア)の衣服や宝石を制限し、生活費を搾取して徹底的に虐げていた事実を突き止める。「全てはあなたのため」と言い訳する実母の全財産を没収し、エーリッヒは彼女を極寒の荒涼たる領地エバルトの「氷の城」へ一生涯の追放に処した。
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クレセンティアの失踪と「最後の手紙」
母の罪を知ったエーリッヒが寝室へ駆けつけるも、ティアはすでに姿を消していた。残されていたのは「残酷なあなたとは二度と会いたくない」という拒絶の言葉が綴られた離婚届兼最後の手紙と、彼女がかつて自ら銀糸でイニシャルを縫い、一番大切にしていた彼のハンカチだけであった。
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対照的な二人の「自由」と「崩壊」
ティアは侍女のヒルダと共に故郷レギナの地に降り立ち、追跡を逃れるためチェカレリへと向かい、静かで自由な余生を求めて一歩を踏み出す。一方、残されたエーリッヒは周囲には穏やかに見えながらも、夜な夜なティアのドレスルームに閉じこもり、一睡もできずに精神が確実に崩壊へと向かっていた。