剣を持った花

剣を持った花【52話】ネタバレ




 

こんにちは、ピッコです。

「剣を持った花」を紹介させていただきます。

ネタバレ満載の紹介となっております。

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又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

【剣を持った花】まとめ こんにちは、ピッコです。 「剣を持った花」を紹介させていただきます。 ネタバレ満載の紹介となっております...

 




 

52話 ネタバレ

登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

  • 聖剣の目覚め

聖剣ランギオーサが目を覚ましたのは、翌日の深夜になってからだった。

ユリエンは昨日一日を費やして整理した、自分の知る未来に関する記録を寝室で読み返していた。その時、頭の中に懐かしい声が響いた。

[主よ。]

「……ランギオーサか?」

[今は、何日だ?]

「1629年4月11日だ。その間、ずっと眠っていたのか?」

[ほとんど奇跡だな。時間の変化によって混乱した記憶を整理していたのだ……二度目の経――。……二度目の出来事だというのに、やはり慣れることがないな]

「二度目?」

[時間が巻き戻った、ということだ]

ユリエンは一瞬、息を呑んだ。

現在と自分の記憶との間にある決定的な食い違い。それを説明できる理由は、それ以外にない。だから、そうだろうとは思っていた。だが、漠然とした推測を、まるで当然の事実であるかのように告げられるのとでは、受ける衝撃が違いすぎた。

彼は深く呼吸を整え、震える声を抑えながら尋ねた。

「やはり、時間は巻き戻ったのか? 三年半前に?」

[三年半? いや、十五年だろう……。ああ、そういうことか]

「十五年……?」

理解できない数字だった。ユリエンは怪訝そうに聞き返したが、聖剣はそれきり沈黙した。何かを深く考え込んでいるようだった。

ユリエンは焦燥感を覚え、別の質問を投げかけた。

「二度目というのは、どういう意味だ?」

[時間が巻き戻ったのは、今回が初めてではない。数百年前にも一度、同じことがあった。神剣カイロスの力によるものだ]

時の神カイロス――時間そのものを司る絶対的な存在。

聖剣を守護する蒼天騎士団の団長であるユリエンは、その名を聞いた瞬間、古くから伝わる聖剣の伝説を思い出した。

『人間が作り出した十本の聖剣を集めれば、神が力を貸してくれる』――。

嫌な予感が胸をよぎり、ユリエンは乾いた唾を飲み込んだ。

「もう少し、詳しく話してくれないか?」

[少し待て。私も今しがた目覚めたばかりだ。お前にどこまで話してよいものか、まだ判断がつかん]

「……それは、私に隠さなければならないことがあるという意味か?」

[隠すというよりは……]

聖剣はためらうように言葉を濁し、聞こえないほど小さな声で続けた。

[後に起こる出来事を知ることが、お前にとって良いこととは限らないからだ。……かもしれない、な。こんなケースは初めてだ。前回時間が巻き戻ったときには、私の主はすでに存在していなかったのだから]

彼が死んだ後に起きた出来事。

三年半ではなく、十五年という空白。

聖剣を集めれば神の力を借りられるという伝説と、時の神カイロス。

聖剣の言葉が、ユリエンの頭の中で不気味なほど綺麗に繋がっていく。

まさか――。

ユリエンは声を低くして呟いた。

「私が死んだ後……誰かがすべての聖剣を集め、神の力で時間を巻き戻したのか?」

[その通りだ。聖剣には、巻き戻された時間の記憶が刻まれる。ゆえに聖剣を覚醒させ、その魂と結びついた所有者は、時間を超えて記憶を保持できるのだ]

「つまり、お前を通じて、私の記憶が残っているということか」

[そうだ。他の聖剣もまた、消えた時間の記憶を持っている。だからお前が私以外の聖剣を覚醒させれば、私がいなくてもその聖剣を通じて記憶を保つことができる。逆に言えば、聖剣を覚醒させなければ――]

[覚醒していない所有者たちは、何も覚えていない。だから、もしお前が私を手放せば、お前もあの時間の記憶をすべて失うことになる]

ランギオーサの説明を聞いて、ユリエンはある疑問の答えに行き着いた。

まだ聖剣の所有者ではないディートリッヒはともかく、1632年の未来でも聖剣の所有者であり、今もなお所有者であるテレサやバロンが、時間が巻き戻ったことにまったく気づいていない理由。

それは、彼らが自らの聖剣をまだ覚醒させていないからだった。

「私は、運が良かったというわけか」

ランギオーサは常に覚醒状態にある特異な聖剣だ。主が悪事に手を染めない限り、特別な儀式を必要としない。

ユリエンの言葉を理解したランギオーサは、どこか寂しげに響く声で答えた。

[さてな。覚えていることが本当に幸運なのか、私には分からん。忘れてしまった方が、いっそ幸せかもしれないぞ]

忘れる方が幸せな記憶。

ユリエンは戸惑うように、自分の手のひらを見つめた。

ランギオーサは決意を促すように言葉を重ねる。

[忘れるのは簡単だ。私を捨てて、別の聖剣を――……別の聖剣を手に入れろ。蒼天騎士団長であるお前なら、それくらいは十分可能なはずだ]

「私に、忘れろと言うのか?」

[時間は巻き戻った。お前が覚えている出来事は、もはや起こらなかった過去だ。そして、これからも起こらないかもしれない。その重い記憶を抱え続ける必要があるのか? お前にとって、ひどく苦しい記憶なのだろう?]

ランギオーサの言う通りだった。それは思い出すたびに胸が締めつけられるような、悪夢として葬り去りたかった記憶だ。

もし聖剣が士官候補生選抜試験の前に目覚め、そう告げていたなら、ユリエンも本気で忘れる道を選んでいたかもしれない。

だが、彼は再び彼女と出会ってしまった。

彼女の姿を目にした瞬間に込み上げたあの感情は、今もなお胸の奥で熱く脈打っている。

悲惨な結末を迎えたからといって、エキネシア・ロアーズのことを綺麗さっぱり忘れてしまうなど、どうしても嫌だった。特に、彼女を見守ってきた記憶だけは失いたくなかった。

それ以外の凄惨な出来事なら、誰も知らなくても構わない。だが、誰にも真似できない彼女の独特な口調や、あのはかなくも切実だった時間までも消し去ってしまうのは、あまりにも酷すぎるのではないか。

「……あの悲劇を二度と繰り返さないためにも、私は覚えているべきだ」

[言ったはずだ。あの出来事はもう起こらない。お前が心配する必要はないのだ]

「それは、どういう意味だ?」

[魔剣の悪魔は消えた。もう二度と現れない。だからお前が気に病む必要はない。忘れてしまう方がいい]

聖剣は断言した。

確かに、今回の時間線で悪魔は現れなかった。かつて悪魔の依代だったエキネシア・ロアーズは、今や魔剣とは無関係な一人の士官学校受験生として目の前に現れたのだから。

だが、それは長い眠りについていたはずの聖剣が、知り得ることのない事実だ。

ユリエンは訝しげに、聖剣に刻まれた黄金の紋様を見つめた。

「どうしてそんなことが分かるんだ? まるで、今どこに魔剣があるのかを知っているような口ぶりじゃないか」

[……]

聖剣はぴたりと口を閉ざした。

ユリエンはしばらく待ったが、焦れを隠せずに問い詰めた。

「ランギオーサ。何を隠している? 私が死んだ後、一体何があったんだ?」

[……]

「まさか、すべての聖剣を集めて時間を巻き戻した人物というのは――」

言いかけたところで、彼は息を呑んだ。指先に思わず力がこもる。口の中が急激に乾き、ようやくその名前を絞り出した。

「……エキネシア・ロアーズなのか?」

[お前、その女の名をどこで知った……? お前はまだ、彼女の名前を知らなかったはずだ]

「彼女が、士官学校の選抜試験を受けに来たんだ」

[なんということだ……]

聖剣は深い、深いため息をついた。そして、なおも迷いを残したまま、重い口を開いた。

[正直に言うと、私はお前が彼女と再び関わることを望んでいなかった]

「どうしてだ?」

[私の主はお前だ。そしてお前は、あの時間の中で、彼女のせいで命を落としたのだから]

「そんな言い方はやめろ。あれは彼女の責任じゃない」

[ああ、そうだな。だが、結果としてはそうなった。だからこそ、私はお前が彼女に近づかない方がいいと思うのだ。彼女が嫌いだからではない。むしろ……]

ランギオーサは何かを遠く思い出すように言葉を切り、再び息を漏らした。

[私は、彼女は本当に立慢な人間だったと思っている。だからこそ心配なのだ。私は長い時を生き、多くの人間を見てきた。何人もの主にも仕えてきた。だが、あのような者は初めてだった。だから、お前が彼女の真実を知った時、どうなってしまうのか、私にも想像がつかないのだ]

「ラン、私は子どもじゃない」

[子どもではないからこそ心配しているのだ、主よ]

「いったい、何をそんなに心配しているんだ?」

[だいたい、私の歴代の主人たちは皆、哀れな終わりを迎えた。終わりが近づくと、皆一様に手がつけられなくなることが多かった。お前がそのように狂っていく姿を、私は見たくないのだ]

ランギオーサの言葉は、切実な警告だった。だが、ユリエンの心には反発が生まれた。

「それのどこが子ども扱いじゃないんだ? お前は私の親じゃないし、私はお前の主人だ。ランギオーサ、私を縛ろうとするな」

[お前を縛ろうとしているわけでは……]

「情報を都合よく選んで与えながら、自分の望む方向へ私を誘導する。それを縛ると言わずになんと言うんだ? それが公平なことだと思うのか?」

[……いいえ、それは違う。ごめんなさい]

聖剣は素直に謝罪した。ランギオーサが自分を深く案じるがゆえの行動だと分かっていたため、ユリエンもそれ以上は追及しなかった。彼は椅子の背もたれに深く身体を預け、静かに命じた。

「なら、今度は本当のことを教えてくれ。時間を巻き戻す方法について。……本当に、時間を巻き戻したのは彼女なのか?」

聖剣はすぐには答えなかった。長い沈黙が部屋を支配した後、諦めたような声が響いた。

[そうだ。バルデルギオーサの主人、エキネシア・ロアーズが時間を巻き戻した]

「どうやって……?」

ユリエンは、最後に見た彼女の姿を思い浮かべた。悪意に蝕まれ、絶望の中で泣き崩れていた姿。そして昨日見た、太陽のように眩しく輝いていた彼女の姿。

彼女ならいつか乗り越えるだろうと信じていた。だが、一体どれほどのことがあったのだろうか。彼女はどうやって、時間を巻き戻すという神の奇跡を成し遂げたのか。

[言葉で説明するのは……難しいな。お前に、私の記憶を共有してやろう]

「記憶を共有する? そんなことができるのか?」

[魂が繋がっているからな。直接、お前の目で見るがいい]

聖剣がそう告げた瞬間、ユリエンの手の甲に刻まれた紋様が鮮烈な光を放った。黄金色のマナが奔流となって湧き上がり、彼の身体を優しく包み込む。

それを受け入れた瞬間、彼の視界は一気に深い闇へと吸い込まれていった。

闇が訪れた。しかし、それは完全な暗闇ではなかった。

細く長い隙間から、わずかに一筋の光が差し込んでいる。身体を動かすことも、声を出すこともできない。ほどなくしてユリエンは、自分が聖剣ランギオーサの視点そのものになっていることに気づいた。これは、聖剣が刻んできた記憶の追体験だった。

突然、ガタガタと大きな音が響き、上から目も眩むような光が差し込んだ。どうやら長年、暗い箱の中に封印されていたらしい。その蓋が開けられたのだ。

「――あ、見つけた」

か細く、しかしどこまでも澄んだ少女の声だった。

疲れ果てて息を切らしながらも、抑えきれない喜びを滲ませた独り言。それはエキネシア・ロアーズの声だった。ユリエンにとっては、初めて耳にする彼女の生の声。

「ここにあったのね。やっと……」

言葉を重ねるほどに、彼女の声は震えていった。ぽたり、と一粒の涙が箱の中へ落ちる。

光に目が慣れるにつれ、視界が鮮明になっていく。ユリエンは、自分(聖剣)へと必死に手を伸ばす彼女の姿を真正面から見た。

その姿に、ユリエンは息を詰まらせた。

顔は汗と埃で汚れ、革の服はボロボロに擦り切れている。そしてその全身には、まるで浴びたかのように血がこびりついていた。それが彼女自身の血なのか、他人の血なのかすら分からない。差し出された剥き出しの手や腕には、無数の傷跡が刻まれていた。火傷の痕、何かに激しく噛みちぎられたような痕、深く切り裂かれた傷。

その痛々しい手がランギオーサに触れようとした瞬間――静電気が激しく弾けるような衝撃が走り、エキネシアは反射的に手を引っ込めた。

聖剣ランギオーサは、主であるユリエン以外の者に拒絶反応を示す。

彼女は何度も諦めずに手を伸ばしたが、やはり拒絶され、触れることすらできなかった。

エキネシアの表情が絶望に曇る。彼女はゆっくりと立ち上がった。自分がなぜこの白い剣を手に取ることができないのか、その残酷な理由を理解したようだった。

彼女の目に涙が溜まり、やがて大粒の涙となって溢れ落ちた。

エキネシアは箱を愛おしそうに抱きしめるようにしてその場に座り込み、声を殺して泣いた。小さな肩を激しく震わせ、嗚咽する。箱を握る指先は、血の気が引いて白くなるほど力がこもっていた。頬の血汚れが、涙によって静かに洗い流されていく。唇を噛み締め、その隙間から漏れ出す泣き声は、聞いているこちらの胸を狂おしいほどに締めつけた。

呼吸をすることすら忘れ、ユリエンはただ泣き続ける彼女を、魂の底から見つめていた。

ようやく泣き止んだ彼女は、頭に巻いていたスカーフを静かにほどいた。その下から、隠されていた短い桃色の髪がさらりとこぼれ落ちる。彼女はその布で両手を幾重にも包み込み、拒絶の痛みに耐えながら、ようやくランギオーサを手に取った。

その時、初めて周囲の光景が視界に入った。

そこは、かすかな松明に照らされた不気味な洞窟だった。中央には禍々しい祭壇があり、その上には解体された人間の凄惨な死体が転がっている。神官の法衣をまとった者たちや、武装した人間たちが、辺り一面に物言わぬ屍となって転がっていた。

ここがどんな場所であったか、察しはついた。人身供犠を行う邪教集団の礼拝所だ。

魔剣の悪魔は騎士の主人を殺すことには執着したが、主人を失った騎士(アジェカ)たちには興味を示さなかった。悪魔は主を失った者たちをゴミのように放置し、新たな獲物を求めて立ち去ったのだろう。

所属する国を持たないアジェカを、廃人同然の状態で拉致し、利用しようとする悪徒は後を絶たない。蒼天騎士団の庇護すら失われた暗黒の時代、騎士たちは略奪者たちの間を流浪するしかなかったのだ。

そんな思考を巡らせていると、エキネシアがランギオーサを両腕でそっと抱き上げた。

涙の跡が残る顔で、彼女はぼんやりと白い剣身を見つめている。何を考えているのか分からない、虚ろで、今にも風に吹かれて消えてしまいそうなほど弱々しい瞳。

その乾き切った唇から、小さな呟きが漏れた。

「ユリエン……」

それは、彼の名前だった。

まさかこの状況で自分の名前を呼ばれるとは思いもしなかった。ユリエンは雷に打たれたような衝撃を受け、魂が激しく震えた。

彼女は指先で剣身をなぞった。直接触れられないため、刃のわずかに上を、愛おしそうにそっと滑らせるように。ようやく止まったはずの涙が、再びその瞳から溢れ出す。彼女は俯いたまま、静かに囁いた。

「あなたが私を信じてくれた選択は、間違っていなかったということを……必ず、証明してみせるから……必ず……」

もう嗚咽はなかった。ただ、声もなく流れ落ちる涙だけが、ぽたぽたと白い刃の上に落ちていく。彼女の手は届かなくても、その涙だけは確かに聖剣へと届き、刃を伝って流れていった。

「だから……」

その先の言葉は唇の中でかき消され、聞き取ることはできなかった。しかし、彼女の紫色の瞳に、少しずつ、しかし確実に冷徹な光が戻っていくのをユリエンは見届けていた。焦点の定まらなかった瞳が、消えかけていた炎に再び薪をくべるように、ぞっとするほど強い意志を宿していく。

彼女はランギオーサを布で包んだまま胸に強く抱き寄せ、前を見据えて力強く一歩を踏み出した。

肺もなく呼吸の必要もないはずの視界の中で、ユリエンは息が詰まるほどの圧倒的な感情に襲われていた。全身に鳥肌が立ち、どうしようもない切なさと熱い何かが胸に込み上げる。

聖剣の記憶は、連続したものではなかった。断片的に切り取られた場面が、次々とユリエンの脳裏に流れ込んでくる。

エキネシアは契約者の条件を満たしていなかったため、紋章化できない騎士たちを引き連れて旅をしていた。彼女が正式に覚醒させた騎士は、バルデルギオーサの騎士だけだったようだ。他の騎士たちは、彼女に剣として振るわれることすら拒んでいるように見えた。それでも、ランギオーサはほとんどの時間を彼女のそばで過ごしていた。

彼女は時折、触れることのできない聖剣を壁に立てかけ、その前に座って、ただじっと見つめていた。彼女が何を考えていたのかは分からない。だが、彼女がどれほど過酷な歳月を重ねてきたのかは、その断片だけで痛いほど伝わってきた。

ある時、彼女は廃墟と化したロアーズ邸を訪れた。

崩壊した屋敷を見上げる彼女の顔には、絶望に押し潰されそうな色が浮かんでいた。それでも彼女は踏みとどまり、屋敷の隅々まで確認し、かつての足跡を辿った。すべてを見終えると、彼女は中央の荒れた階段にぽつんと腰を下ろし、そのまま微動だにせず夜を明かした。その表情はただ無機質で、いっそ泣いてくれた方が救われるとユリエンは思ったが、彼女は二度と涙を流さず、その日を境にロアーズ邸へ戻ることはなかった。

彼女は、ユリエンが生前に騎士叙勲の記念として建てさせた帝国南部の慰霊碑にも足を運んだ。近くを通る機会があれば、必ず立ち寄った。しかし、決して近づこうとはせず、遠く離れた場所から長い時間、ただ静かに見つめるだけだった。慰霊碑の前で祈りを捧げる民衆の姿をじっと見守り、しばらくすると、また一人で寂しげに立ち去っていく。

滅びたアジェカの地には、意図的に近づかないよう経路を避けていた。

彼女は騎士を集めるためなら、手段を選ばなかった。傭兵に近い立場の彼女が、正規の手段で騎士を譲り受けることなど不可能な世界だ。情報を得るため、彼女が裏社会の組織幹部の前で膝を屈する姿もあった。泥にまみれた長靴で頭を踏みつけられても、彼女は眉一つ動かさなかった。

しかし、その男たちが蒼天騎士団を、そしてユリエンの名を侮辱した瞬間だけは違った。彼女の目に苛烈な狂気が宿る。

「運が良ければ取引してやったんだがな、貧乏小娘が。あいつはお前ごときが口を利ける相手じゃねえんだよ」

組織全体を敵に回す凄惨な戦闘の末、彼女は幹部の首根っこを掴み、冷酷にその命を奪った。

商人に騙され、死を意味するほどの危険な魔物領域への任務を押し付けられたこともあった。人間相手の戦いでは無傷だった彼女も、予測不能な酸を吐く魔物との死闘では全身傷だらけになった。それでも任務を一人で完遂し、約束通り商人のもとへ戻った。

だが、商人は約束を反故にし、彼女に劇薬の毒を盛った。

毒を一口飲んだ瞬間に異変に気づき吐き出したものの、身体は大きくよろめいた。凄まじい致死量の毒が彼女の肉体を蝕む。しかし、彼女はその状態のまま商人の屋敷を文字通り壊滅させ、幽閉されていた騎士を救い出した。

その後、看病してくれる者もいない荒野で、意識を朦朧とさせながら一人で毒の後遺症の激痛に耐え抜いた。マナによる驚異的な身体能力の底上げがなければ、確実に死んでいた。

またある時は、騎士の一人が取り込まれた空間の『裂け目』へと自ら飛び込んだ。内部は想像を絶する地獄だった。満身創痍になりながらも全ての魔物を屠ったが、直後に裂け目が崩壊を始める。脱出不可能な中、裂け目が完全に消滅するまでの数週間、食料もない閉ざされた空間で、彼女は魔物の肉を喰らい、その忌まわしい血を飲みながら生き延びた。

死の淵を何度も彷徨いながら、彼女が到達した境地。

ユリエンは、その時初めて彼女の真の実力を知った。

――ゼニス(Zenith)。

剣の達人を超え、剣の極致に至った者。一世紀に一人現れるかどうかという伝説の領域。どこの国へ行っても至高の権力でもてなされる実力を持ちながら、彼女は名誉も栄光も一切求めず、ただ泥をすすりながら騎士たちを集め続けた。

決して折れず、諦めなかった。だが、その心は無傷ではいられなかった。

限界まで身体を酷使して気絶するように眠るか、凄惨な悪夢にうなされて飛び起きるか。魔剣の殺意に呑まれ、意図せず人を手にかけてしまった夜には、血に染まった己の右手を狂ったように刃で切り裂く自傷行為に走ることさえあった。

――そして、時は流れ、1644年。

エキネシア・ロアーズは、あの日以来初めてアジェカの地へ足を踏み入れた。

十本の聖剣を携え、神剣カイロスの騎士と対面する。

「誰も死ななかった過去へ、私を送り返して」

「救いたいのか……お前が殺してしまった人々を」

「今の私は、生きているのと変わらない。今の私は……もう、幸せになれるはずがないから。安らかに眠ることさえできなくて……」

かすれた声で途切れ途切れに紡がれる彼女の悲痛な願いが、ユリエンの胸に深く、深く突き刺さる。

長い、あまりにも長い地獄の果てに、彼女はついに奇跡へと辿り着いたのだ。

神剣が彼女の願いを受け入れ、世界が、時間が大きく反転していく――。

ユリエンは、がばりと目を開けた。

朝だった。昇り始めたばかりの柔らかな陽光が窓から差し込み、静かな寝室を淡く照らしている。

彼は椅子に座ったまま、激しく脈打つ胸元を強く押さえ、深くうつむいた。呼吸が荒く乱れている。

「っ……、はぁ、はぁ……」

[一晩であまりにも膨大な記憶を見たからな。少し目眩がするだろう。大丈夫か?]

ランギオーサが静かに、そしてどこか気まずそうに問いかけてきた。ユリエンは割れるように痛む頭を押さえた。焦点の定まらない目が宙をさまよう。

自分が今、こうして生きて、穏やかな朝を迎えていること。

それ自体が、エキネシアが血を吐きながら成し遂げた奇跡の結果だった。そして、その奇跡を掴み取るために、彼女がどれほどの地獄を一人でくぐり抜けてきたのかを知ってしまった。

頭がおかしくなりそうだった。胸の奥が物理的にえぐられるように痛む。世界が一度粉々に砕け散り、無理やり目の前で再構築されたかのような錯覚。

彼は深く椅子にもたれ込み、ゆっくりと頭を後ろへ傾けた。その時になって初めて、自分の頬を温かい涙がとめどなく伝っていることに気づいた。だが、拭おうとはしなかった。ただ、片手で目元を覆った。

エキネシア。

ああ、本当に私は――君をどうすればいいのか分からない。

彼女はユリエンがこれまで出会った誰よりも強く、気高い人間だった。だが、決して神ではなかった。癒えることのない無数の傷が、彼女の心には今も深く刻み込まれているはずだ。

だが、ユリエンはあえてその傷の深さを測ろうとはしなかった。なぜなら、その傷の始まりはまさに「自分」だったからだ。もしあの時、自分が彼女を見出さなければ、彼女はただ平凡な伯爵家の娘として、何に怯えることもなく幸せに暮らしていただろう。

もし彼女が、この事実を……自分がすべてを知っていると知ったらどうなるだろう。消えることのない罪悪感。彼女に「自分のせいで君の人生が壊れてしまった」と告白したら、彼女は怒るだろうか。自分を憎むだろうか。もし彼女が自分を恨んだなら、自分はどうすればいい。どうすれば少しでも彼女に償うことができるのだろうか。そもそも、あの地獄を償う方法など、この世に存在するのだろうか。

彼女は自分の罪ではないにもかかわらず、すべてを元に戻すため、自分のために犠牲になったすべての人々へ頭を下げ、泥水をすすり、ついには奇跡を成し遂げた。

それにもかかわらず、この世界では誰も彼女の犠牲や努力を知らない。知ることなどできなかった。あの時間そのものが「存在しなかったこと」になってしまったのだから。聖剣を通して見た自分ですら、その壮絶な旅路の一部を垣間見たにすぎない。

その孤独で長い苦難の歳月を、一体どうやって埋め合わせればいいというのか。彼女があの地獄の末にようやく手に入れたこの平和な二度目の人生を、自分が近づくことで、再び壊してしまうのではないだろうか。

「それなのに、私はなぜ……」

なぜ、これほどまでに彼女に近づきたいと思ってしまうのだろう。

記憶を見守る間、何度も、何度も、彼女に触れたいという衝動に駆られた。

涙を拭ってあげたかった。悪夢にうなされて目覚める彼女を抱きしめてあげたかった。ひとりで耐えなくて済むように、そばで支えてあげたかった。孤独に戦わなくて済むよう、一緒にその道を歩みたかった。ただ、彼女の隣にいてあげたかった。

だが、あの過去の旅路ではそれは叶わなかった。彼はただ、冷たい剣の中から見守ることしかできなかったのだから。

では、再び始まった「今」は?

彼女は今、彼が手を伸ばせば届く場所にいる。

彼女がどんな目的で再び士官候補生になろうとしているのかは分からない。だが今なら、望めばいつでも彼女に近づくことができる。

もし近づいたら。もし彼が彼女に接触したら。

今の彼女にとって、ユリエンという存在は一体何なのだろうか。彼の存在そのものが、彼女にあの悪夢を思い出させる媒介になってしまうのではないか。ようやくすべてを取り戻した彼女の前に自分が現れれば、その傷を再びえぐる結果になるのではないか。

それでも――それでも、もしかしたら。彼女が手に入れたこの二度目の人生では、すべてが変わるかもしれない。彼と彼女の関係もまた、違うものにできるのではないか。

近づきたいという痛烈な欲望。悲劇が繰り返されるのではないかという恐怖。そしてしつこく付きまとう、不合理な罪悪感。

ユリエンの心は完全に混乱していた。聖剣が何を語りかけても耳に入らないほど、彼は長い間、自らの屋敷に引きこもり思い悩んだ。バロンが心配して訪ねてきても拒絶し、休暇届を出したまま、ただ時間だけが過ぎていった。

数日後。

ユリエンは、静かに蒼天騎士団本部へ向かった。

ノックもせずに、バロンの執務室の扉を荒々しく押し開ける。

これまで規律を重んじる彼が、こんな無作法な真似をしたことは一度もなかった。バロンは羽根ペンを握ったまま、驚愕して目を見開いた。

こちらへずかずかと歩いてくるユリエンの顔はひどくやつれ、どこか危うげな雰囲気をまとっていた。だが、その空色の瞳だけは、以前とは比べものにならないほど異様な決意を秘めて深く沈んでいた。

バロンの机の前に立った彼は、不気味なほどに引き締まった、落ち着いた声で尋ねた。

「士官学校の新入生を、団長の従者(スクワイア)に任命するのに、手続き上の問題はあるか?」

「……はい?」

バロンは耳を疑った。

「従者(スクワイア)に任命するつもりだ」

従者だと?

これまで仮の従者すらまともに任命したことがなく、「面倒だから」と団員たちに順番に雑用を交代させていたあの団長が、今さら何を言い出すんだ? しかも、まだ入学すらしていない新入生だと? 選抜試験の結果すら出ていないというのに。

あまりの衝撃に、バロンは力加減を誤り、手にしていた愛用の羽根ペンを派手にへし折ってしまった。

こうして――ユリエン・ド・ハルデン・キリエの、本当の意味での二度目の人生が、静かに幕を開けた。

 



  1. 時間が巻き戻った真実と聖剣の記憶

    ユリエンは聖剣ランギオーサとの対話から、世界が15年巻き戻っていることを知ります。聖剣には消えた時間の記憶が刻まれており、聖剣を覚醒させた所有者だけが記憶を保持できるため、未覚醒のディートリッヒやテレサたちは巻き戻りに気づいていませんでした。

  2. エキネシアが成し遂げた地獄の旅路

    ユリエンが死んだ元の時間線で、エキネシア・ロアーズは誰も死ななかった過去を取り戻すため、泥水をすすり無数の傷を負いながら10本の聖剣を集め続けました。剣の極致(ゼニス)に至るほどの過酷な地獄を一人で生き抜いた彼女は、ついに神の奇跡によって時間を反転させました。

  3. ユリエンの葛藤と下した決意

    聖剣から共有されたエキネシアの壮絶な記憶を見て涙したユリエンは、彼女の人生を壊してしまったという罪悪感と、そばで支えたいという強烈な欲望の間で激しく葛藤します。悩み抜いた末、彼は彼女が受ける士官学校の選抜試験の結果を待たず、新入生となる彼女を自分の従者(スクワイア)に任命することを決意しました。

 

 

 

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