もう泣いてもいいですか?

もう泣いてもいいですか?【43話】ネタバレ




 

こんにちは、ピッコです。

「もう泣いてもいいですか?」を紹介させていただきます。

ネタバレ満載の紹介となっております。

漫画のネタバレを読みたくない方は、ブラウザバックを推奨しております。

又、登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

【もう泣いてもいいですか?】まとめ こんにちは、ピッコです。 「もう泣いてもいいですか?」を紹介させていただきます。 ネタバレ満載の紹介とな...

 




 

43話 ネタバレ

登場人物に違いが生じる場合がございますので、あらかじめお詫びさせていただきます。

  • 謎の少女

クロイスは机の上に高く積み上げられた書類から、ゆっくりと目を上げた。

季節は夏。開け放たれた窓からは、昼間の熱気を残したぬるい風が吹き込んでくる。こんな夜には、草むらから響く虫の鳴き声もひときわ賑やかだ。

「……静かだな」

昨日までの喧騒とはまるで違う静けさを肌で感じながら、クロイスはぽつりとつぶやいた。

椅子から立ち上がると、彼はそのままバルコニーへと出た。
彼の執務室は敷地内でもかなりの高層に位置している。バルコニーに立つと、建物の屋根越しではあるものの、遠くに学園の敷地が見渡せた。

普段ならこの時間であっても、学園のあちこちにまだ灯りがともっているはずだった。
しかし今夜は、どこを見渡しても明かりひとつ見えない。まるで学園そのものが闇の中に消えてしまったかのように、深い黒だけが広がっていた。

「ふぅ……」

夏休みが始まって、まだようやく一日目。それなのに、どうしてこの静けさがこれほどまでに長く感じられるのだろうか。

「五週間、だったな」

アイリン、アーセル、そしてルースカ。三人が五週間の休みをきっちり分け合い、イビと過ごす予定だと聞いている。そのスケジュールを思い出しかけたクロイスは、自分でも気づかないうちに不満げな声を漏らしていた。

「せめて一週間くらいは、護衛として一緒にいられてもよかったんじゃないか……」

やはり、どう考えてもそのほうがよかったはずだ。
共に過ごしながら英才院での生活を聞いてやり、他の子どもではなかなか経験できないような思い出を作ってあげる――それも悪くない選択だったはずだ。

「そうか……そうしてあげればよかったんだな」

そう納得したクロイスはすぐさま机へと戻り、テリンス家へ送るための手紙を急いで書き始めたのだった。

【こんにちは、院長先生。イビーです!
久しぶりのお手紙になってしまってごめんなさい。もっと頻繁に書こうと思っていたんですけど、毎日楽しくて、夜になるとすぐ眠ってしまって……。
でも、仕方なかったんです。アイリンのお家には、楽しいことがすっごくたくさんあるんです!

前のお手紙でもお話ししたとおり、私は今、アイリンのお家に泊まっています。
ここの皆さんは、みんな私にとても親切にしてくださいます。ここでは誰も、孤児院の子だからって嫌ったりしません。

毎朝、アンバーさんとビキさん、シンディさんがお部屋に新しい服を持ってきてくれるんです。全部、アイリンが子どもの頃に着ていたお洋服なんですよ。
聞いたら、南部の人は成長が早いから、子どもの頃の服はすぐ着られなくなっちゃうことが多いそうです。それに、もうテリンス家には小さな子どもが生まれる予定もないからって、全部私がもらっていいことになりました!
穴が開いている服も破れている服もなくて、どれも新品みたいにきれいなんです。服がみんなきれいだって言ったら、アイリンは『テリンス家の侍女たちがお手入れ上手だからよ』と言っていました。どんなにお金持ちでも、孤児院みたいになんでも使い捨てにはしないんですね。

本当にたくさんいただいたので、私が着る分を残して、残りは孤児院へ送るつもりです。友達にも分けてあげてください。
それから、アイリンは子どもの頃、私と体型が似ていたみたいなんです! 腕の長さも、首も、脚も、私が着るとびっくりするくらいぴったりなんですよ。本当に不思議ですよね?

最近は、マダム・クレベルからプレゼントしてもらったヘアピンを、いつもアイリンとおそろいでつけています。一緒に市場へ行ったときも、道を歩いていたおばさんが私たちを見て『かわいいお嬢さんたちね』って言ってくれました。すごく嬉しかったです!

私はあと一週間、ここにいる予定です。一週間が過ぎたら、次はアーセル様のお屋敷へ、その次はルースカ様のお屋敷へ行きます。そしてまた、アイリンのお家へ戻ってくる予定です。
アーセル様とルースカ様からもお手紙をもらいました。私が遊びに来る日を楽しみに待っているから、一緒に楽しく遊ぼうって書いてありました。

その手紙を読んだあと、アイリンが私をお絵描きのお部屋へ連れて行ってくれました。
(アイリンのお家には、お絵描きのお部屋、本を読むお部屋、音楽を聴くお部屋、それにお着替え専用のお部屋まであるんですよ! びっくりですよね!)

それから、なんと180色もある色鉛筆で一緒に絵を描いて遊びました。アイリンは『アーセル様やルースカ様のお家にはこういうものはないと思うから、ここでたくさん描いていこうね』って言ってくれました。夢中になって絵を描いていたら、アイリンが私が描いたタヌキをすごく褒めてくれたんです。……本当は犬を描いたんですけど。
そしたらアイリンは『七歳くらいなら、もともと絵は上手には描けないものよ。私も十歳になってから上手になったんだから、イビも十歳になればきっと上手に描けるわ』って言ってくれました。十歳になったら、たくさん絵を描いて院長先生にも差し上げますね。

それから……】

「……あ、紙がいっぱいになっちゃった」

夢中でペンを走らせていたイビは、いつの間にか紙の端まで文字で埋まっていることに気づき、顔を上げた。

便箋にはぎっしりと文字が詰まっている。ペンを持ったまま少し考えたイビは、途中で消していた部分にさらに何本も線を重ね、その箇所を完全に見えないように塗りつぶした。
そこには、院長先生が読んだらきっと心配してしまうような内容が書かれていたからだ。

何度も墨を重ねて完全に隠すと、イビは机の引き出しを開けた。中にはほのかに良い香りのする高級な便箋がたくさん入っている。イビはその紙にそっと顔を近づけた。アイリンの名前を口にするたび、その紙からはほんのりと甘い香りが漂うのだった。

(院長先生も、この紙を受け取ったら喜んでくださるかな)

『友達にも香りをかいでみてねって書いておこう』――そう思いながら、イビは再びペンを取り、手紙の続きを書き始めた。

アイリンの家で暮らし始めて一週間。この一週間の出来事をすべて書こうとすると、まるで終わりが見えないほど手紙は長くなっていく。
朝目を覚ましてから、夜にアイリンと一緒にベッドへ入り、枕元の魔石の明かりを灯すまで、一日中退屈する暇などなかった。

昼間に思いきり遊び回って、二人とも熱を出すほど疲れ切ってしまった日もある。その日は侍女たちに「今日は二人とも別々のベッドで昼寝してくださいね」と言われてしまった。
「一緒にいるとおしゃべりばかりして眠らないのは分かっていますからね」
普段はとても優しい侍女のお姉さんたちだが、その時ばかりは怖い顔をして二人を諭した。おかげでその日はぐっすり眠ることができたのだが。

ようやく手紙を書き終えたその時、コンコンとドアをノックする音が響いた。

「どうぞ」

「イビお嬢様!」

部屋に入ってきたのは、三人の侍女の中で一番年上のアンバーだった。

「昼食のお時間です。アイリンお嬢様もお客様のお見送りを終えられましたので、もうすぐいらっしゃいますよ。一緒に下へ参りましょう」

そう言ってアンバーが優しく手を差し出す。イビがその手をぎゅっと握りしめると、アンバーは小さく拳を握り、体を震わせながらボソッとつぶやいた。

「よし……じゃんけんに勝ったご褒美……!」

『お嬢様』――最初にそう呼ばれたときは、本当に恥ずかしかった。顔を真っ赤にして「そんなふうに呼ばなくていいです」と何度も伝えたのだが、侍女たちは微笑みながらイビを「イビお嬢様」と呼び続けたのだった。

「こんなにかわいいお洋服を着ているんですもの、お嬢様ですよ」
「こんなにお上品なんですから、お嬢様です」
「こんなにかわいいんですもの、お嬢様に決まっています!」

結局、折れたのはイビのほうだった。

(でも……ちょっとだけ、嬉しいな)

最初は恥ずかしさしかなかったものの、今ではそう呼ばれるたびに、自然と頬がゆるんでしまうイビだった。

食堂へ入ると、先に席についていたアイリンがぱっと顔を輝かせて手を振った。

「今日のお昼は、イビの大好きな鶏の唐揚げだよ!」

「わあ!」

その言葉を聞いた瞬間、イビは嬉しさのあまりぴょんぴょん跳ねながら自分の席へと駆け寄った。

「ふふ、そんなに楽しみなの?」

「はい! 南部のフライドチキン、本当においしいです!」

鶏肉を油で揚げるだけならどこも同じように思えるが、南部のフライドチキンはまったくの別物だった。衣はサクサクと香ばしく、上からかかった甘辛いソースは絶品で、毎日食べても飽きないと思えるほどのおいしさだった。

運ばれてくる料理を楽しみに待ちながら座っていたイビは、ふと向かいに座るアイリンの顔に疲労の色が浮かんでいることに気づいた。

「今日はたくさんお疲れですか?」

「ん? ああ……一度に五人もお客様が押しかけてきてね。みんな秋の舞踏会の話ばかりするから、耳が痛くなっちゃった」

「秋の舞踏会ですか?」

「そう。これからあちこちで秋の舞踏会が開かれる時期になるの。そうだ、イビは英才院の規則が書かれた本は読んだ?」

イビはコクコクとうなずき、頭の中の記憶をたどった。

秋の舞踏会は、三大英才院の公式行事の中で最も大きく華やかな催しだ。一般的な学校なら新年祭が最大の行事となるが、その時期の英才院はちょうど冬休みに入ってしまう。そのため、学生たちが在学中に迎える最大の祭典といえば、この秋の舞踏会なのだった。

(それに……この舞踏会には、後見人も一緒に参加するって書いてあったな)

あとになって知ったことだが、この舞踏会に同伴者として出席したいがために、わざわざ学生の後見人になりたがる貴族も多いらしい。

「今年は皇帝陛下もお越しになるそうだから、本当に大騒ぎになりそうね」

アイリンは今からその混雑ぶりが目に浮かぶようで、うーんと額を押さえた。

「陛下もいらっしゃるんですか? でも……学園の行事なのに、私一人のために皇帝陛下まで動かれるのかな……」

心配そうにつぶやくイビに、アイリンは「気にしすぎよ」というように肩をすくめた。

「来られなかったら、そのほうが問題よ。皇帝陛下からの手紙、読まなかったの? 夏休みのうちに一週間ほど時間を作って、別荘へ遊びに行かないかって書いてあったでしょう?」

アイリンは、帰宅して二日目に届いた皇帝からの書簡を思い出していた。親しげな文面で書かれてはいたが、要するに言いたいことは一つだった。
――『私がもらった三週間のうち、一週間を譲ってほしい』。

相手が普通の貴族なら、
「あら、何を言っているのかしら? 手が滑って手紙にのりをべったりつけちゃったわ、ほほほ」
などと言って、手紙が届いたこと自体を揉み消してしまっても問題はない。

だが、相手は帝国を統治する皇帝その人だった。いくらテリンス公爵家が大貴族であっても、国の頂点に立つ人物の打診を無碍にするわけにはいかなかった。

イビを見るたびに自然と目元を和ませる皇帝。しかしその裏では、継承戦争が終わったあとも数え切れないほどの政敵とその一族を容赦なく粛清し、歴代皇帝の中で最も多くの血を流して皇位に就いた冷徹な人物でもある。その事実を忘れるわけにはいかなかった。

「そうですね。お屋敷には勲章もたくさん飾ってあって、面白そうです」

卒業を間近に控えたアイリンとは対照的に、イビは純粋な期待に胸を膨らませて微笑んだ。

「そういえば、アイリンの後見人はどなたなんですか?」

「私の後見人? デルシナ・カミン辺境伯様よ。『南部の虎』という異名で知られている方なんだけど、知ってる?」

イビは元気よくうなずいた。

デルシナ・カミンは還暦をとうに過ぎた女性辺境伯で、「野生の海」と呼ばれる南部デリン海峡の近くに広大な領地を持つ人物だ。そこは四つの王国が海を挟んで向かい合う要衝であり、かつては争いが絶えない地域でもあった。

先の継承戦争の折、帝国の混乱に乗じて四つの王国が「夜明けの海」を渡り侵攻を試みたことがある。しかし、彼らは帝国の領土に一歩たりとも足を踏み入れることができなかった。カミン辺境伯が夜明けの海で、文字どおり敵軍を返り討ちにして壊滅させたからだ。
皇位継承争い自体には加わらなかったものの、誰よりも帝国の国境を守ることに尽力した英雄。幼い頃から育てていた愛虎が死んだ際、その革を剥いで肩当てを作り、常に身につけていたことから「南部の虎」と畏怖を込めて呼ばれるようになったという。

「それじゃあ、その方も舞踏会に来られるんですか?」

「うん。お歳を召されたせいか、最近は華やかなものがお好きになったみたいでね。首都へお買い物にもよくいらっしゃるし、秋の舞踏会にも参加するって言ってたよ。辺境伯様がいらしたら、イビも一緒に会いに行こうね」

「わあ!」

物語に出てくるような本物の英雄に会えると聞き、イビは興奮してパチパチと手を叩いた。きっと、最高の舞踏会になるに違いなかった。

二人が食事を終えると、侍女のシンディがアイリンに声をかけた。

「アイリンお嬢様、マダム・クレベルからご連絡がありました。もしご都合がよろしければ、本日アトリエへいらしてほしいとのことです」

「そう? よかったわ。ちょうどこれからどこへ行って遊ぼうか考えていたところなの」

「勉強はどうされるのですか? 夏休みに遊んでばかりいては……」

「はいはい、聞こえない、聞こえない! イビも聞いちゃダメよ」

シンディのお説教が始まると、アイリンは自分の両耳をふさぎ、さらには後ろからイビの小さな耳も両手でふさいでみせた。その睦まじい様子にシンディも思わず吹き出し、すぐに馬車の準備へと向かった。



マダム・クレベルのアトリエは、初日に訪れた高級商店街の別館にあった。

「ここが別館よ。この先は特別なお客様しか入れないの。主にオーダーメイドを依頼される方のための場所ね」

クレベルのドレスは非常に高価だ。貴族といえども、よほどの富豪でなければ何着も仕立てるのは難しい。だからといって、ただ金遣いが荒いだけの客をクレベルがこの別館に通すわけでもなかった。

「まあ、お嬢様方、よくいらっしゃいました」

二人が足を踏み入れと、待っていたかのようにマダム・クレベルが仕立ての良いドレスの裾を揺らしながら出迎えた。そして、二人の髪に飾られたおそろいのヘアピンを目にすると、満足そうに目を細めた。

「ふふっ」

クレベルは意味深に微笑む。

「お二人がそのようにして街を歩いてくださるおかげで、この一週間でどれほど注文が増えたかご存じですか?」

「ふふん。だったら、私に広告料を払ってくれてもいいんじゃないかしら?」

「テリンス公爵家のお嬢様ですもの、さすがのお考えですわ。では広告料のかわりに、他の方には決して販売しない、お二人だけの新作アクセサリーをお贈りするというのはいかがでしょう?」

「やっぱりクレベルは商売上手ね」

そう言ってアイリンは、さりげなくクレベルへ視線を送った。クレベルもすべてを察したように、イビに見えない角度で軽くウインクしてみせる。

実は、二人が今日ここに集まった本当の理由は、イビの秋の舞踏会用の衣装を用意するためだった。
本番のドレスはもちろん、舞踏会が始まるまでの期間に着る洗練された日常着も必要になる。

(もちろん、私のお小遣いで買ってあげるわ! クレベルの宣伝にもなるんだしね!)

アイリンは心の中でぎゅっと拳を握りしめた。こういうプレゼントは、サプライズで渡してこそ価値がある。だからイビに感づかれてはならないのだ。

(どうせ皇帝陛下もイビに服や宝石をたくさん贈るんでしょうけど……でも、一番最初のプレゼントが一番印象に残るに決まってるわ!)

皇帝の立場を考えれば一歩譲るべきかもしれないが、アイリンにそんな気は毛頭なかった。

(私には一週間しかないんだから!)

イビがアーセルやルースカの屋敷へ行っている間、最後の一週間は二学期の予習もしつつ、家でゆったり過ごそうという計画は皇帝の介入によって崩れ去ってしまったのだ。

(だから、これくらいの贅沢はさせてもらわないとね)

ささやかな対抗心を燃やすアイリンは、前もって準備していた作り話をスラスラと口にした。

「イビ、私、新しい服の採寸をし直すから、ここで少し待っていてくれる?」

「うん、分かった!」

素直にうなずくイビを確認すると、アイリンとクレベルは奥の作業部屋へと入り、重厚な扉を閉めた。

工房に取り残されたイビは、退屈しのぎに見学がてらあちこち歩き回った。

クレベルのアトリエには、見たこともない不思議で魅力的なものが溢れていた。天井まで届きそうな棚に整然と並べられた色とりどりの布地や革、繊細な型紙、宝石のように輝く装飾パーツ――どこを見ても興味は尽きない。

(大きくなったら、自分でお洋服を作ってみたいな……)

マレス教授が聞けば頭を抱えて倒れそうな妄想を膨らませながら、イビが夢中で棚を眺めていたその時――外の廊下から甲高い声が響いてきた。

「少し早く来ただけじゃない! なのにクレベルに会えないなんて、どういうこと!?」

鋭く苛立った少女の声。そしてその声には、イビにとっても強い聞き覚えがあった。

イビはそっとドアへ近づき、隙間から廊下の様子を覗き込んだ。
階段の前に立っていたのは、やはり見知った人物だった。

(イズリエラ……?)

伯爵令嬢である彼女がここで服を仕立てていても不思議はない。

(関わらないように、静かに戻ろう……)

そう思い、アイリンたちのいる部屋へ戻ろうと振り返った瞬間だった。

「――あなた! なんでここにいるの!?」

何かに気づいたイズリエラが身を乗り出し、信じられないものを見たというように目を見開いた。そして忌々しげに顔をゆがめると、足早にイビへと詰め寄ってきた。

一瞬逃げようかと考えたイビだったが、すぐに思い直してその場に留まった。自分は何も悪いことはしていない。逃げる理由などどこにもないのだ。

「……こんにちは」

「はっ! 『こんにちは』ですって!? よくもまあ、そんな図々しく挨拶できるわね! 私があんたのせいでどんな処分を受けたか、その自慢の頭でもう忘れたってわけ!?」

イズリエラはイビの目の前に立ちふさがり、憎しみに満ちた瞳で見下ろしてきた。しかしイビは怯むことなく、まっすぐにイズリエラを見つめ返した。

以前のように怖がる様子を一切見せないイビに、イズリエラは一瞬毒気を抜かれたように唇を噛んだ。

「ふん……殿下の愛犬だって聞いていたけど、大したことなさそうね。その寵愛がいつまで続くか見ものだわ」

嘲笑を浮かべながらイビを頭からつま先まで品定めするように見つめると、彼女は吐き捨てるように言った。

「今のうちに楽しんでおきなさい。どうせ殿下は、あんたのことなんてすぐに忘れて――」

その時、二人の背後から鈴を転がすような、聞き覚えのない声が響いた。

「イズ、そこで何をしているの?」

その声を聞いた瞬間、イズリエラはハッと表情を変えて振り向き、階段を上ってきた少女に向かって叫んだ。

「イヴ様!」

(イヴ……?)

学園では聞いたことのない名前だった。しかし、あの高慢なイズリエラが「様」をつけて呼ぶほどの相手だ。一体どれほど身分の高い令嬢なのだろうか。

イビが首を傾げながら視線を向けると、階段の上に立つ少女とバッチリと目が合った。

「「え……?」」

ふたりは同時に、驚きの声を上げていた。

現れた少女は、艶やかな金髪に透き通るような緑色の瞳をしていた。年齢はイビと同じ七歳くらいだろう。華やかで上質なドレスを身にまとい、幼い少女には珍しく、両手には真っ白なレースの手袋をはめていた。

背丈はイビよりもわずかに高い程度で、小柄な体格もよく似ている。そして何より不思議なことに、顔のパーツ自体は明らかに違うにもかかわらず、全体の雰囲気がまるで双子のようにイビと酷似していたのだ。

(私に……似てる?)

イビが呆然とその姿を見つめていると、「イヴ」と呼ばれた少女はすたすたと近づいてきて、失礼なほどジロジロとイビを観察し始めた。

「この子……私と少し似ているわね。そう思わない?」

そう言ったかと思うと、イヴは不意に手を伸ばし、侍女たちが綺麗に結んでくれたイビの髪をぐいっと引っ張ったのだった。

「……っ!」

痛みに驚いたイビが思わずその手を振り払おうとした瞬間――イズリエラが割り込んできた。

「イヴ様! こんな卑しい者に触れてはいけません!」

イズリエラはイビの髪を掴むと、そのまま乱暴に突き飛ばした。

「え? イズの知り合いなの?」

「はい……! どうか先に中へお入りください!」

イズリエラは焦ったように周囲を気にしながら、イヴの背中を押して隣の個室へと連れ込んでしまった。

バタン!

激しい音を立てて扉が閉まり、静まり返った廊下には、髪を乱されて呆然と立ち尽くすイビと、青ざめて駆け寄ってくるアトリエの店員たちだけが残された。

「お、大丈夫ですか!?」

「はい、大丈夫です……。でも、髪がぐちゃぐちゃになっちゃいました」

「大丈夫ですよ、すぐ結び直してあげますからね! 誰か、櫛とリボンを持ってきて! さあ、中へ入りましょう」

イズリエラがイビに対して明確な悪意を向けていると察した店員たちは、慌ててイビを保護し、アイリンとクレベルがいる奥の部屋へと連れて行った。二人さえいれば、いくら伯爵令嬢といえども手出しはできないからだ。

あたたかいお茶を出され、手際よく髪を整え直してもらいながら、イビの頭の中は先ほど出会った少女のことでいっぱいだった。

(あの女の子……一体、誰なんだろう……?)

窓から差し込む夏の光の中で、イビはどこか自分に似ていた「イヴ」という少女の緑色の瞳を、いつまでも思い出していたのだった。

 



 

  • クロイスとイビの夏休みの動向
    クロイスは静まり返った学園でイビと過ごせなかったことを後悔し、同行を求める手紙を出します。一方、イビはテリンス家でアイリンたちに温かく迎えられ、お下がりの服や色鉛筆で楽しい日々を過ごしながら感謝の手紙を書いています。
  • 舞踏会に向けた期待と背景
    秋に開催される最大行事「秋の舞踏会」に向け、皇帝からの滞在要請や「南部の虎」と呼ばれる英雄デルシナ・カミン辺境伯の参加など、華やかな行事への期待が高まっています。
  • アトリエでの対立と謎の少女の登場
    舞踏会の準備で訪れたアトリエで、イビはかつて因縁のあったイズリエラと再会して嫌がらせを受けます。さらに、その場に現れた自身と雰囲気が酷似している謎の少女「イヴ」と出会うことになります。

 

【もう泣いてもいいですか?】まとめ こんにちは、ピッコです。 「もう泣いてもいいですか?」を紹介させていただきます。 ネタバレ満載の紹介とな...